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第13話:債権買収――首を絞める静かな手
しおりを挟む紙は、燃える。
燃えれば灰になるのに、燃える前の紙には人を殺す力がある。
契約書。領収書。手形。債券。
火をつけなくても、紙一枚で人の首が締まる。
私はそれを知っている。前世で何度も、紙に殺されかけた。
書斎の机の上に、カイが静かに書類を並べた。
厚みのある封筒。薄い報告紙。銀行の印。商会の印。
インクの匂いが、蝋燭の匂いに混ざって鼻の奥を刺す。
「お嬢様、追加報告です」
カイの声は淡々としている。
淡々としているからこそ、重い。
彼は余計な言葉を切り落とし、要点だけを置いていく。
要点は刃だ。
「アイゼンシュタイン侯爵家の資金繰りが悪化しています」
私はペンを止めた。
外は夜。窓の向こうは黒。
黒の中に、王都の灯りが小さく瞬く。
その灯りが、今夜はやけに遠い。
「物流遮断のせい?」
私が言うと、カイは頷いた。
「はい。港と陸路への圧力で流通を滞らせた結果、侯爵家の関連業者も売上が落ちています。さらに、迂回路対策のために賄賂と口止めが増え、支出が膨らんだ」
自分で首を絞めている。
強者のやり方は、時に強者自身を鈍くする。
握りつぶすつもりが、自分の指も折れていく。
「軍需は?」
「契約は継続していますが、納期が伸びています。流通が詰まれば、鉄も動きません。結果、違約金が発生し始めています」
私は息を吐いた。
鉄の侯爵は剣で儲ける。
でも剣は、鞘がなければ折れる。
流通という鞘が揺れれば、剣も揺れる。
カイが紙を一枚差し出す。
そこには数字が並んでいた。
利払い。借入。担保。短期手形。
紙の上の黒が、じっとこちらを見ているみたいだった。
「ここ半年で、短期の借入が急増しています。資金繰りで回している。……そして今、利率が上がっている」
「市場が侯爵家を疑い始めた」
「はい。債権が、割引で出回っています」
割引。
つまり“安く売られている”。
つまり“怖がられている”。
私は指先で報告紙の端を押さえた。
紙が少しだけ反った。
その反りが、喉に引っかかる魚の骨みたいに嫌な感触だ。
「……買える?」
私の声が低くなった。
低い声は、覚悟の声だ。
カイが即答する。
「買えます。銀行を通じて、名義を分けて」
「目立たずに?」
「可能です。複数の金融商会、信託名義、地方銀行。ひとつの手が見えない形で」
前世の稟議の抜け道が、ここでも生きる。
表の承認を通さず、分割して、別名義にして、誰も“全体像”を掴めないようにする。
嫌になるほど慣れている。
慣れているから、怖い。
「やる」
私は言った。
躊躇はなかった。
躊躇したら、侯爵が息を吹き返す。
息を吹き返したら、民がまた飢える。
カイは頷き、もう一枚の紙を置く。
「購入対象の優先順位です。担保の薄いものからではなく、担保が強いものを先に。特に——」
彼は指で一行を示した。
「鉱山権益に紐づく債権」
私は目を細めた。
鉱山。
鉄の源。
私はもう水路を握り始めている。次は源泉だ。
「紙切れが命綱になる」
私が呟くと、カイの口元が僅かに動いた。
「紙は軽い。ですが、縛る力は重い」
「……首を絞めるには十分ね」
カイは否定しない。
否定できない。
これは首を絞める手だ。静かな手だ。
血は出ない。叫びもない。
ただ、空気が薄くなる。
私はペンを取り、指示を書く。
いくつもの名義。いくつもの銀行。いくつもの窓口。
購入額の上限。時間の分散。
誰かが気づく前に、囲い込む。
書いている間、胸の奥が冷たくなる。
冷たさは、罪悪感に似ている。
でも私はそれを、手の動きで押しつぶした。
止まると、考えてしまう。
考えると、弱くなる。
「お嬢様」
カイがふと、声の温度を少しだけ落とした。
「この手を使えば、侯爵家は——」
「逃げられなくなる」
私は先に言った。
逃げられない。
期限と担保と利率。
息をする場所が狭くなる。
追い詰められた獣は噛みつく。
それでも、噛みつかせるしかない。
「……承知しました。動きます」
カイが書斎を出ていく。
扉が閉まる音が小さく響き、残るのは紙の匂いと蝋燭の匂い。
そして、自分の心臓の音。
私は椅子に深く沈んだ。
身体が重い。
決断は軽いのに、決断した後の身体は重い。
それが不思議で、嫌だった。
夜が深くなる。
蝋燭が短くなる。
机の上の紙が、闇の中で白く浮かぶ。
その白が、ふと、前世の蛍光灯の白に似ていると思った。
私は立ち上がり、窓辺に寄った。
カーテンを少しだけ開ける。
月光が差し込む。白い光。
冷たい白。
優しくない白。
月は、何も言わずにそこにある。
蛍光灯も、何も言わずに白かった。
深夜のオフィス。コピー機の熱。冷めたコーヒーの苦味。
机の上の契約書。
“明朝まで”の一言。
締切。締切。締切。
私の喉が、きゅっと鳴った。
胸の奥が、鈍く痛む。
痛みは、疲労じゃない。
罪だ。
「私……結局同じことしてる?」
声が窓ガラスに当たって、返ってくる。
自分の声が、知らない人の声みたいに冷える。
前世、私は締切に追われていた。
締切を押しつけられて、走って、息が切れて、泣きそうになって、それでも笑った。
上司は言った。
「やれ」
「できるだろ」
「間に合わせろ」
その言葉で、私は何度も削れた。
今の私は?
侯爵家の債権を買う。
割引で買う。
紙切れを握って、息を細くする。
期限を作って、担保を押さえて、逃げ道を塞いで――
締切を押しつける側になった。
胸が、痛いほど刺さる。
釘じゃない。
針だ。細い針が、何本もゆっくり刺さる痛み。
一本では耐えられる。
でも何本も刺さると、呼吸が難しい。
私は窓枠を握った。
指先が冷えて、白くなる。
月光が、その白さを際立たせる。
――嫌だ。
こういう自分は嫌だ。
でも、嫌だからやらないと、国が割れる。
民が飢える。
投げられる石が増える。
燃える屋敷が増える。
守るため。
私は喉の奥でその言葉を噛み砕いた。
苦い。
苦いのに、飲み込む。
守るためだ、と。
それでも痛みは消えない。
痛みが消えないから、私はまだ人間でいられる。
痛みが消えたら、ただの“支配者”になる。
支配者になるのは簡単だ。痛みを捨てればいい。
でも痛みを捨てたら、守る意味がなくなる。
窓の外の王都は静かだった。
今日、穀物を出したからだ。
パンの列が落ち着いたからだ。
静けさは、今だけの猶予。
私は深く息を吸い、月光を肺に入れた。
冷たい。
でも冷たさは目を覚ます。
「……震えてる暇はない」
自分に言う。
声は小さい。
でも心の底に届く声。
私はカーテンを閉めた。
白い光を遮断する。
白は思い出を呼ぶ。
思い出は痛みを呼ぶ。
痛みは必要だ。
でも今は、手を動かさなきゃいけない。
机に戻り、紙を引き寄せる。
ペンを取る。
インク壺に浸す。
黒が、ペン先に絡む。
紙切れの債権が、命綱になる。
命綱は、時に首を締める。
でも首を締めるのは、殺すためじゃない。
暴れる獣を止めるためだ。
燃える前に止めるためだ。
守るためだ。
私は震えを飲み込み、文字を書き足した。
静かな手で。
息を絞る静かな手で。
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