異世界花嫁物語〜婚約破棄された私が異世界で選ばれし花嫁になるまで〜

タマ マコト

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第1話:ガラスの夜、笑顔が割れる

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 王都の夜は、いつだって上品に光っている。
 石畳を濡らす噴水の水音、馬車の車輪が擦る低い音、甘い香水と焼き菓子の匂い。全部が「幸福そうなふり」をするための背景みたいで、眩しすぎて目が痛くなる。

 リリアーナ・アルフェンは鏡の前で、ゆっくりと息を吐いた。
 淡い銀髪を結い上げた指先が少し震える。今日は――舞踏会。婚約者であるエドワード・ルークレインと、正式に並んで挨拶をする夜。

「お嬢様、結い目、少しだけ整えますね」

 侍女のマーヤが髪飾りを直す。小さな金具が触れるたび、ちり、と静かな音が鳴った。
 その音が妙に心臓に似ていて、リリアーナは自分の胸を押さえたくなる。

「……マーヤ。変じゃない?」

「変なわけないです。むしろ、今日の主役ですよ。ほら、指輪も」

 マーヤが視線を落とす。
 リリアーナの左手人差し指には、母の形見の指輪が嵌っていた。古い宝石。どこの工房のものかも分からない。だけど、子どもの頃から手のひらの中で何度も撫でたせいか、指に馴染みすぎて、外すと落ち着かない。

「お母様の……」

「きっと見てますよ。お嬢様がちゃんと、前に進むところ」

 その言葉に、喉の奥がきゅっと狭くなった。
 前に進む。――そう、前に。
 置いていかれないために。捨てられないために。今日の舞踏会は、そんな意味を背負っている気がして、リリアーナは笑う練習をした。

 上品に。柔らかく。
 誰にも「不安」を見せない笑顔。

「……うん。行こう」

 馬車に揺られて会場へ向かう途中、王都の街並みが窓の外を流れていく。灯りが川みたいに続いて、遠くの宮殿が星座の中心みたいに輝く。

 ――大丈夫。
 今日を越えれば、私は「ルークレイン家の婚約者」として、安定した立場になる。
 父の苦しい財政も、少しは救われる。
 私自身も、誰かに必要とされる。

 そう信じていた。

 会場に着くと、音が一気に押し寄せた。
 弦楽器の華やかな旋律、シャンデリアの光が揺れるざわめき、笑い声。
 リリアーナの肌を、熱と香りが撫でていく。

「アルフェン令嬢、ごきげんよう」

「ええ、ごきげんよう」

 挨拶は笑顔で返す。
 でも、返しながら気づく。いつもより視線が刺さる。値踏みの目。興味の目。噂を確かめるみたいな目。

 リリアーナは知らないふりをした。
 貴族社会はそういうものだ。誰かが少しでも崩れたら、みんなで手を叩いて喜ぶ。だから崩れない。今日だけは。

 やがて、エドワードが現れた。
 金色の髪に、整った顔立ち。社交の場で映える笑顔。彼が歩くだけで空気が明るくなる――そんなタイプの男だ。

「リリアーナ。今日は綺麗だね」

「……ありがとうございます、エドワード様」

 言葉は丁寧に。
 でも、その瞬間、リリアーナの胸に小さな棘が刺さる。

 エドワードの視線が、彼女ではなく――背後へ滑ったから。

「エドワード様っ」

 鈴のように甘い声。
 淡いピンクのドレスを揺らし、マリエッタ・ルークレインが近づいてくる。
 リリアーナは一瞬、息を忘れた。

 マリエッタは、最近ルークレイン家で頻繁に名前を聞く令嬢だ。
 “遠縁”だと紹介された。
 “面倒を見る”とエドワードが言っていた。

 マリエッタは、リリアーナに向けて眩しい笑顔を見せる。
 その笑顔が、なぜか冷たく見えた。氷砂糖みたいに甘くて、舌を切る。

「リリアーナ様、ごきげんよう。今日も本当に、お美しい……」

「……ごきげんよう、マリエッタ様」

「エドワード様、先ほどの挨拶のお相手、まだ残ってますよね? ご案内しますっ」

 マリエッタは当然のようにエドワードの腕に触れた。
 ほんの一瞬、指先が彼の袖を撫でる。甘えるように。確信を持って。

「……ああ、そうだね。ありがとう」

 エドワードはすぐに頷いた。
 リリアーナの隣にいるはずの男が、彼女に背を向ける。

「リリアーナ、少し待っていて。すぐ戻るから」

「……はい」

 リリアーナは笑顔を崩さないまま頷いた。
 崩さないまま、というより――崩し方を忘れた。
 背中が遠ざかるのを見ながら、自分の足元が薄いガラスの上にあるみたいに感じた。

 会場は華やかで、皆が楽しそうで、置いていかれるのは自分だけ。
 胸がじわじわと冷えていく。

 ――待って。
 私は待つ。
 婚約者なのだから。

 そう自分に言い聞かせていると、乾杯の合図が鳴った。
 グラスが触れ合う高い音が、夜空に細いひびを入れるみたいに響く。

 司会の貴族が笑顔で壇上に立ち、挨拶を始める。
 その途中で、エドワードが壇上へ上がった。

 リリアーナは、胸がざわついた。
 何かの発表? 婚約の正式なお披露目?
 そうだ、きっと――。

「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」

 エドワードの声は通る。
 優雅で、聞き心地がよくて、誰もが耳を傾ける声。

「ここでひとつ、私からご報告があります」

 会場が静まり返る。
 リリアーナは息を吸って、背筋を伸ばした。
 私の番だ。私たちの番だ。

 エドワードは微笑んだ。
 いつもの、完璧な笑み。

「――私は本日をもって、リリアーナ・アルフェンとの婚約を破棄します」

 音が消えた。
 旋律も、笑い声も、グラスのきらめきも。
 まるで世界が一瞬、息を止めたみたいに。

「……え?」

 声にならない声が、リリアーナの喉から漏れた。
 周囲の視線が一斉にこちらへ向く。
 針が何百本も刺さるみたいな感覚。

 エドワードは続ける。
 笑顔のまま。まるで正しいことをしているように。

「理由は明白です。アルフェン家による不正、横領、そして……私への裏切りの証拠が揃いました」

 ざわ……と波が起きる。
 言葉が耳に刺さって、頭の中で反響する。

 横領。裏切り。証拠。

 何それ。
 私、何も知らない。
 そんなこと、してない。

 リリアーナは足元がぐらつくのを必死でこらえた。
 今ここで倒れたら、終わる。
 ここで崩れたら、「やっぱり」と笑われる。

「待ってください……エドワード様。私、何のことか……」

 言いかけた瞬間だった。

「違うんです……っ」

 マリエッタが壇上の少し下、目立つ位置で泣き崩れた。
 まるで舞台の中心に立つように。
 彼女の涙は、磨かれた宝石みたいに光って見えた。

「リリアーナ様がそんなことをするはずないって、私、ずっと信じてて……でも、でも……」

 嗚咽が上手すぎる。
 息が詰まるタイミングまで計算されたみたいに。

 会場の空気が、マリエッタに傾く。
 同情が集まる。彼女の肩を抱く夫人が現れ、「可哀想に」と囁く。
 誰もリリアーナに「大丈夫?」とは聞かない。

 リリアーナは、ようやく気づいた。
 これは「二人の話し合い」じゃない。
 公開処刑だ。

「マリエッタ様……?」

 リリアーナが名前を呼ぶと、マリエッタは顔を上げた。
 涙で濡れた瞳が、リリアーナを映す。
 その奥に、ほんの一瞬だけ――勝者の光が走った。

 リリアーナの背中に、冷たいものがぞわっと走る。

 エドワードは手を上げ、同情の波をさらに煽るように言った。

「マリエッタは何も悪くない。むしろ、彼女は最後まで君を庇っていた。だが……事実は変わらない」

 事実?
 何が事実?

「証拠はどこに……」

「こちらだ」

 エドワードが側近に目配せすると、封筒が運ばれてきた。
 会場の前で開かれる紙。読み上げられる文面。
 リリアーナの名前。アルフェン家の印。
 見覚えのない書体。見覚えのない文章。

 なのに、会場は一気に納得の空気になる。
 「ほらね」「やっぱり」
 そんな言葉が、香水の匂いの隙間から漂ってくる。

 リリアーナは唇を噛んだ。
 痛みで現実にしがみつく。
 でも、頭の中は真っ白だ。

 私が書いてない。
 家もそんなことをしてない。
 なのに、証拠がある。
 世界が私を嘘つきにする。

「リリアーナ・アルフェン」

 エドワードが、名前を呼ぶ。
 あまりに丁寧で、あまりに優しい声だった。
 だから余計に残酷だった。

「君には失望した。婚約者として、そして……人として」

 その言葉が、胸の奥に落ちた。
 氷の塊みたいに。
 溶けないまま、重く沈む。

 リリアーナは何か言おうとした。
 違う、と。
 証拠を見せて、と。
 ちゃんと調べて、と。

 でも、声が出なかった。
 出したところで、届かないと理解してしまった。

 会場の空気が、「もう終わり」に向かっている。
 ここにいる誰もが、結末を楽しみにしている。
 悲劇の終幕を、拍手しながら待っている。

 リリアーナは、背筋だけは折らないようにした。
 笑顔は、もう作れなかった。
 でも涙は見せない。
 泣いたら、負ける。――何に負けるかは分からないのに、体がそう命じた。

 彼女は一礼した。
 喉の奥が焼けるように痛む。

「……承知しました」

 それだけ言えた自分が、どこか他人みたいだった。

 会場を去る途中、背後からさざめきが追いかけてくる。
 小さな笑い声。囁き。言葉の欠片。

「横領の証拠が……」
「裏切りの手紙、って……」
「アルフェン家も終わりね」
「婚約破棄って、あんなに堂々と……」

 それらが、リリアーナの耳に針みたいに刺さる。
 横領。裏切り。証拠。手紙。

 ――“自分が知らない罪”で、私は裁かれた。

 その事実が、ようやく形になって胸を締めつけた。
 知らない。
 何もしていない。
 でも、世界はもう「やったこと」にして動いている。

 外へ出ると夜風が冷たく頬を撫でた。
 会場の熱が嘘みたいに遠のく。
 石畳は濡れていないのに、足元が滑る感覚がする。

 馬車が待っていた。
 御者が扉を開け、いつもと同じ声で言う。

「お帰りになりますか、リリアーナ様」

 リリアーナは頷いた。
 頷いたはずなのに、首の動きが遅い。
 まるで重い鎖をつけられたみたいだった。

 馬車に乗り込む直前、ふと左手を見る。
 母の形見の指輪が、シャンデリアの残光を受けて淡く光っていた。

 ――お母様。
 私、ちゃんと前に進めてる?

 答えはない。
 代わりに、指輪だけが静かに冷たく、指に重かった。

 馬車が動き出す。
 王都の灯りが窓の外で流れていく。
 さっきまで輝いて見えた光が、今は全部、遠い他人の幸せみたいだった。

 リリアーナは背中を丸めない。
 でも、胸の奥で何かが音を立てて割れていく。

 ガラスが砕けるみたいに、静かに。
 誰にも聞こえない音で。
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