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第2話:雨の馬車、指輪のひび
しおりを挟む馬車の扉が閉まった瞬間、舞踏会の熱が、嘘みたいに遠ざかった。
シャンデリアの光も、笑い声も、甘い香水も――全部、厚い布で覆われたみたいに鈍くなる。残ったのは、車輪の軋む音と、心臓の音だけ。
リリアーナは背筋を伸ばしたまま、膝の上で両手を重ねた。
指先が震えているのを、袖の影に隠す。見せる相手なんていないのに、癖みたいに。
馬車の中は暗かった。
窓の外の灯りが、ゆらゆらと流れていく。王都の光はいつも優しいはずなのに、今夜は全部、背中を向けた他人の顔に見える。
「……」
声が出ない。
出したら、何かが壊れる気がした。
“婚約破棄”。
たった四文字が、頭の中で何度も反響する。
あの瞬間の空気の冷え方、視線の針、マリエッタの涙。エドワードのあまりに整った笑顔。思い出すたび、胃の奥がきゅっと縮む。
リリアーナは唇を噛んだ。
強く噛みすぎて、鉄の味がした。
――なんで、言い返せなかったの。
違うって言えばよかった。
証拠を見せろって言えばよかった。
その場で叫べばよかった。
でも、叫べなかった。
叫んだところで、誰も聞かないと分かったから。
あの場所で、リリアーナは“人”じゃなくて“物語の悪役”として立たされていた。悪役がどれだけ言い訳をしても、観客は拍手しない。石を投げるだけだ。
右手が勝手にぎゅっと握られる。
爪が掌に食い込んで痛い。
隣に座るはずだった人は、いない。
当たり前みたいに、いない。
「……エドワード様」
声にした瞬間、胸の奥で何かがひりついた。
呼んだところで、返事なんてない。
馬車が曲がる。
車体がぐらりと揺れ、リリアーナの肩が壁にぶつかる。
その拍子に、左手の人差し指に嵌めた指輪が、月明かりを拾って淡く光った。
母の形見。
古い宝石。
由来も分からないのに、なぜか手放せなかったもの。
リリアーナは指輪をそっと撫でた。
冷たくて、硬くて、確かなもの。
「お母様……私、どうしたらいいの」
返事はない。
でも指輪は、いつもより少しだけ温度がある気がした。
そのとき、窓にぽつり、と音が落ちた。
雨。
次の瞬間には、ばらばらばら、と強い音に変わる。
雨が馬車の窓を叩く。まるで、無数の手が外側から扉を叩いているみたいに。
リリアーナは目を閉じた。
雨音が、舞踏会で浴びた嘲笑と似ている。
拍手に似ている。
おめでとう、って祝っているみたいで、吐き気がした。
「……うるさい」
自分の声が、思ったより細かった。
その細さが悔しくて、リリアーナは喉の奥で息を殺した。
馬車は王都の中心を離れ、道が少し荒くなる。
車輪が水たまりを跳ねる。泥水の匂いが微かに入ってきた。
町外れの道――屋敷へ続く道だ。
いつもなら、ここまで来ると少し安心する。
だけど今夜は、屋敷に帰っても“居場所”がある気がしなかった。
帰れば父が困る。家が終わる。使用人たちの暮らしが崩れる。
全部、自分が悪いみたいに言われる。
そんな未来が、雨の向こうで待っている気がした。
リリアーナは膝の上で指を絡める。
震えを止めようとして、逆に震えが増える。
「……私が、悪いの?」
誰に問いかけたのかも分からない。
雨に。暗闇に。自分自身に。
答えは返らない。
代わりに、馬車の外で――叫び声が上がった。
「うわっ、危ねぇっ!」
御者の声。
次いで、馬のいななき。
馬車が急に減速し、前へ引っ張られるような衝撃が来た。
「きゃっ……!」
リリアーナの身体が前に投げ出される。
壁に手をつく。指輪が当たって、骨の奥に響く痛み。
外から、何かがぶつかる鈍い音。水を裂く音。馬が暴れる音。
「どうしたの……!」
返事はない。
御者が必死に馬をなだめる声だけが聞こえる。
「落ち着け! 落ち着けって! くそ、何だよ、今の……!」
雨のカーテンの向こうで、影が動いた気がした。
黒い何か。人の形じゃない。
でも、見間違いだと脳が言い聞かせる。
こんな夜に、こんな道で、そんなものがいるわけがない。
次の瞬間、馬車が横から突き上げられた。
ぐしゃん――。
木が軋む音。鉄が悲鳴を上げる音。
世界が横に倒れる。
「――っ!」
リリアーナの身体が宙に浮く。
床が壁になり、壁が天井になる。
目の前の闇が回転し、何が上で何が下か分からなくなる。
耳が詰まる。
肺の空気が一気に抜ける。
痛みが来る前に、恐怖が来た。
死ぬ、という理解だけが異様に冷静に頭に座る。
――私、ここで終わるの?
舞踏会で笑われて、濡れ鼠みたいに帰って、
そのまま誰にも救われずに――?
嫌だ、と叫びたかった。
でも声が出ない。
口を開けた瞬間、喉に冷たい空気が流れ込み、咳き込みそうになる。
馬車の扉が外れる音がした。
雨が一気に吹き込む。冷たい水滴が頬を叩く。
宙に投げ出される感覚。
身体がふわりと浮いて、次に強く落ちる――その直前。
左手の人差し指が、熱を持った。
「……え」
指輪が、まるで生きているみたいに熱い。
熱が指先から腕へ、腕から胸へ走る。
心臓の鼓動と重なって、熱が脈打つ。
痛い。熱い。
でもそれ以上に、懐かしい。
幼い頃、母がその指輪を外して、リリアーナの手にそっと乗せた日のことが、唐突に蘇る。
窓辺の陽だまり。
母の指の温度。
微笑み。
「これはね、あなたの道しるべになるの」
意味が分からなくて、ただ宝石の光に見とれていた。
あのときの母の声が、雨音の隙間から聞こえた。
『……行きなさい』
はっきりと。
優しくて、でも逆らえない強さで。
「お母様……?」
次の瞬間、指輪の宝石にひびが入った。
ぱき、という乾いた音。
雨の音より小さいのに、リリアーナの世界の中心で鳴った。
「やだ、待って――!」
指輪が砕ける。
宝石が割れて、光があふれる。
眩しい、というより、白い。
視界が白に塗りつぶされ、雨も闇も消える。
冷たさも痛みも、遠ざかる。
リリアーナは落ちるはずだった。
地面に叩きつけられて、骨が折れて、血が出て、そういう現実が来るはずだった。
なのに、来ない。
代わりに、光の中へ落ちていく。
光が床になり、壁になり、天井になる。
さっきまで回転していた世界が、今度は“まっすぐ”に沈んでいく。
――これ、なに。
恐怖より先に、困惑が来た。
理解できないものに触れたときの、脳が遅れて追いつこうとする感覚。
リリアーナは必死に手を伸ばした。
何かを掴みたかった。
馬車でも、雨でも、自分の過去でもいい。
せめて、知っているものを。
でも指先は、何も掴めない。
掴めるのは、白い光だけ。
柔らかいのに硬い、熱いのに冷たい、矛盾だらけの感触。
遠くで、御者の声が聞こえた気がした。
「お嬢様――! お嬢様ぁっ!」
でもすぐに、音は水の底みたいに歪んで、消えていった。
リリアーナの胸に、最後の感情が落ちる。
怒りでも、悲しみでもない。
小さな、やりきれない問い。
――私、どこへ行くの。
答えは、また母の声だった。
『大丈夫。あなたは、選べるから』
それは幻聴だったのか、記憶だったのか、祈りだったのか。
分からない。
ただ、その言葉だけが、心臓の奥に小さな灯りを残した。
光がさらに強くなる。
白が、金色に変わり、金が、透明に溶けていく。
リリアーナの意識も、そこに溶けていく。
怖い。
でも、なぜか――完全に絶望ではなかった。
舞踏会で割れた笑顔の破片が、雨に洗われていくみたいに、胸の痛みが少しずつ遠のく。
代わりに、深いところで何かが“始まる”予感がした。
最後に見えたのは、砕けた指輪の欠片が空中に浮かび、星屑みたいに散っていく光景だった。
そして、その光の中心に――見知らぬ紋様が、一瞬だけ浮かんだ。
指し示すような線。
門のような輪。
誰かの名前みたいに、胸に残る形。
リリアーナは“死”ではなく、
“落下する光”に抱かれて、静かに目を閉じた。
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