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第3話:白い神殿、選ばれたのは私?
しおりを挟む最初に感じたのは、冷たさだった。
雨の冷たさとは違う。もっと澄んでいて、刃物みたいに輪郭のある冷気。肌を刺すのに、妙に気持ちがいい。
次に、匂い。
甘い花の香り――それが一瞬遅れて、鉄の匂いに変わる。血の匂いに似ているのに、血じゃない。金属の、古い祈りの匂い。
リリアーナはゆっくり瞼を開けた。
白い天井。
白い柱。
白い床に、白い光。
どこまでも白くて、目が痛くなるほどの白。
「……え」
声が、やけに遠くに聞こえた。
喉が乾いている。舌が重い。身体がふわふわして、ちゃんと自分のものじゃないみたいだ。
起き上がろうとした瞬間、背中に冷たい石の感触が走った。
床だ。石の床に寝かされている。
そして、見えた。
床一面を覆う巨大な魔法陣。
円がいくつも重なり、複雑な線が絡み合い、文字みたいな記号がびっしり刻まれている。薄い金色の光が脈打っていて、まるで床そのものが呼吸しているみたいだった。
「……なに、ここ」
自分の声が震えているのが分かる。
恐怖が遅れて、じわじわと染みてくる。
馬車は? 雨は? あの横転は? 私は……。
思い出した瞬間、心臓が跳ねた。
宙に投げ出される感覚。指輪の熱。母の声。宝石のひび。光。落下する光。
――死んだ?
脳がそう結論を出しかけた時、周囲から衣擦れの音がした。
白いローブの人影が、静かに近づいてくる。
その動きは慌てていない。むしろ、予定通りの手順をこなしているみたいに落ち着いている。
リリアーナは反射的に身を起こし、後ずさろうとした。
でも、床が冷たくて滑る。足に力が入らない。
「待って、来ないで……!」
声が裏返った。
情けないほど、恐怖が素直に出る。
白いローブの女性は、足を止めた。
そして、その場で静かに膝をついた。深い礼。祈りの姿勢。
それが、余計に怖かった。
敬意を向けられる場面じゃない。私、何もしてない。何も分からない。
「花嫁の召喚が成功しました」
澄んだ声だった。
冷たい水を器に注ぐみたいな、余計な揺れがない声。
女性は顔を上げた。
銀に近い白金の髪をきっちり結い、瞳は淡い紫。肌は陶器みたいに滑らかで、笑っていないのに優しそうに見える――でも、その優しさは感情というより“形式”に見えた。
「……はなよめ?」
リリアーナは、言葉を繰り返すしかできなかった。
「あなたは、選ばれました。ここは神殿。世界《エルディア》の聖域です」
女性は名乗る。
「私はセラフィナ・ルミナス。花嫁召喚を司る神殿の最高神官です」
最高神官。
花嫁召喚。
世界《エルディア》。
聞いたことのない単語の連続に、頭が追いつかない。
なのに、セラフィナは当然のように言い切る。まるで、今日の天気の話みたいに。
リリアーナは息を吸って、吐いた。
息が白くならない。ここは寒いのに、冬じゃない。空気の質が違う。
「……あの、すみません。これ、夢ですか? 私、たぶん、事故に……」
「事故」
セラフィナは小さく頷いた。
「あなたの世界での、馬車の事故ですね」
ぞくり、と背筋が冷えた。
“あなたの世界”。
今の言い方、完全に、ここが別の世界だって前提だ。
「……私の、世界……?」
「はい。あなたが元いた場所は、ここでは『向こう側』と呼ばれます」
リリアーナは自分の腕を抱いた。
肌が鳥肌になる。
心臓が早鐘みたいに鳴っている。
「待って。待ってください。意味が分からない。私は、帰らないと……家が……!」
父が。屋敷が。使用人が。
婚約破棄の後始末が。
現実が、置き去りになってしまう。
「帰りたいんです。お願いします、帰して……!」
言葉が必死になる。
涙が出そうになって、リリアーナは唇を噛んだ。ここで泣いたら、また“弱い私”になる。
でも、泣きたい。怖い。
セラフィナは、ほんの少しだけ眉を動かした。
同情ではなく、確認するみたいな動き。
「理解は難しいでしょう。ですが、まず――あなたの召喚は偶然ではありません」
「偶然じゃない……?」
「神器が、あなたを選びました」
神器。
その言葉に、リリアーナの左手が勝手に動く。
人差し指。指輪があった場所。
――ない。
指輪がない。
代わりに、指先に、微かな痺れが残っている。
「……指輪、どこ……!」
リリアーナは自分の指を見つめた。確かにあった。母の形見。割れたはず。砕けたはず。
でも、ここには欠片すらない。
セラフィナは静かに手を上げた。
白いローブの袖が落ち、細い手首が見える。指先が空をなぞるように動く。
すると、魔法陣の中心――リリアーナの胸の上あたりから、光がふわりと浮かび上がった。
「……っ」
リリアーナは息を呑む。
それは、小さな欠片だった。
宝石の核みたいに澄んでいて、透明なのに淡く光を抱いている。
砕けた指輪の“中心”だけが残ったような――そんな形。
欠片は宙に浮き、ゆっくり回転する。
まるで生き物みたいに。
「あなたの指輪は、器でした。門であり、鍵でした。砕けたことで、本来の役割を果たしました」
「……器? 鍵? 待って、母の形見なんです。そんな、変な……!」
反論しようとした瞬間、欠片がリリアーナの方へ滑るように近づいた。
「来ないで……!」
リリアーナは手を引っ込めようとする。
でも身体が動かない。床に縫い付けられたみたいに。
欠片は、彼女の手首の上で止まった。
そして――熱が走る。
「っ、あつ……!」
痛いほど熱いのに、火傷みたいな痛みじゃない。
血液が光に変わって流れ込むみたいな、内側から燃える熱。
リリアーナは手首を押さえた。
光が皮膚の下に潜り込む。
淡い線が浮かび上がる。
模様。紋章。
細い線が絡み合い、輪の形を作り、最後に一本の線がどこかを指し示すように伸びる。
それは、さっき意識が落ちる直前に見た形と同じだった。
「……なに、これ……」
声が震える。
怖い。
でも、目が離せない。
セラフィナが告げる。
「花嫁の紋章です。神器があなたを認めた証」
「はなよめ……って、誰の?」
絞り出すように問う。
そうだ。花嫁なら、相手がいる。
嫌な予感が胸の奥で膨らむ。
私はまた、誰かに決められる。婚約破棄で叩き落とされたばかりなのに、今度は“花嫁”として囲われる?
セラフィナは一拍置いて言う。
「皇帝陛下の」
「……は?」
声が間抜けに抜けた。
皇帝? 陛下?
なんでいきなり国家レベルの話になるの。
「この世界を統べる皇帝、カイゼル・ヴァルディオス。その花嫁に、あなたは選ばれました」
世界が、ぐらっと揺れた。
それは床が揺れたんじゃなくて、リリアーナの価値観が揺れた。
「……無理。無理無理無理。私、ただの令嬢で……ていうか、私は結婚なんて……!」
言いながら、胸が苦しくなる。
結婚が嫌なんじゃない。
“自分の意思がない”ことが、嫌だ。
セラフィナは首を横に振らない。
肯定も否定もしない。
ただ、事実を置くように言う。
「あなたの意思は重要です。拒否することも可能です」
リリアーナは一瞬、希望に縋った。
「じゃあ――!」
「しかし」
セラフィナの声が、少しだけ低くなる。
「拒否しても道は閉じません。召喚の門は、一度開けば完全には閉じられない。あなたが帰ろうとすれば、帰る道は――作れます」
「……なら、帰らせて……!」
「ですが、世界が歪みます」
リリアーナは、言葉を失った。
「……歪む?」
「二つの世界が、あなたを中心に引き合う。境界が薄くなり、干渉が起きる。人の心も、土地も、運命も。結果として、多くが壊れます」
セラフィナの瞳は揺れない。
感情を乗せないぶん、その言葉は重かった。
脅しじゃない。淡々とした“説明”。それが一番怖い。
リリアーナは喉を鳴らした。
冷たい空気が肺に入るのに、息が苦しい。
「……それって、私が、ここにいるだけで……?」
「はい。あなたは今、境界の楔です。選ばれた、ということはそういうこと」
楔。
聞いたことのある言葉なのに、意味が遠い。
自分が“道具”みたいに扱われている感覚がして、吐き気がした。
「……私、そんなの、望んでない」
声が小さくなる。
望んでない。
婚約だって、望んでいたか分からない。
でも少なくとも、選ぶ権利は欲しかった。
セラフィナは膝をついたまま、静かに言う。
「望んでいないのは理解しています。ですが、神器は感情では動きません。条件で動きます」
「条件……?」
リリアーナは自分の手首を見た。
淡い紋章が、呼吸するみたいに薄く光っている。
「私が、何の条件を満たしたっていうの」
セラフィナは少しだけ目を細めた。
まるで、正しい質問が出たことを評価するみたいに。
「あなたは、壊されても立とうとしました」
「……え」
「舞踏会で、あなたは折れなかった。涙を見せず、背筋を守った。あれは“誇り”です。神器は誇りを好みます」
リリアーナは、胸の奥がちくりと痛んだ。
誇り。
あの時の自分は、誇りで立っていたのか。
ただ、泣けなかっただけじゃないのか。
怖くて、声が出なかっただけじゃないのか。
「それだけで、こんな……」
「それだけではありません」
セラフィナは続ける。
「あなたは『選ぶ』資質を持っています。選ばれるだけの人ではなく、選び返す人」
選び返す。
その言葉が、心臓の奥で小さく鳴った。
でもすぐに恐怖が覆いかぶさる。
「……でも私、今、何も分からない。皇帝って誰。ここはどこ。なんで私が。私の家は……!」
言葉が溢れる。
恐怖に飲み込まれそうになると、人は質問を連打する。
現実にしがみつくために。
セラフィナは、ひとつずつ答えるように頷いた。
「この神殿は聖域。あなたの安全は保証します」
「保証って、どういう……」
「外には争いがあります。皇帝は世界を統べていますが、世界はひとつではない。敵も、反乱も、異種族も存在します」
「待って、異種族……?」
「はい。人間以外も生きています。あなたの世界より、多様です」
リリアーナは額に手を当てた。
情報量が多すぎて、頭が熱くなる。
でも、止めたら溺れる。だから聞くしかない。
「じゃあ、私は……ここで……花嫁って……?」
セラフィナは静かに答えた。
「花嫁とは、政治的な飾りではありません。神器が選んだ花嫁は、皇帝の呪いと世界の均衡に関わります」
「呪い……?」
「詳細は、皇帝の許可が必要です」
そこで初めて、セラフィナの声に“ほんの少し”だけ躊躇いが混じった。
その僅かな揺れが、リリアーナの恐怖を増幅させる。
皇帝は、そんなに恐ろしい存在なのか。
神殿の最高神官ですら、勝手に話せないほどに。
「……その皇帝は、私を望んでるの?」
リリアーナは自分でも驚くほど、核心を突いた質問をした。
だってそれが、いちばん残酷だ。
選ばれたのに、望まれていない。
そんなの、また婚約破棄と同じだ。
セラフィナは、はっきりと言った。
「望んでいません」
胸が、ぎゅっと潰れた。
「……そう、なんだ」
「皇帝は、花嫁という制度を嫌悪しています。過去に、多くを失ったから」
失った。
その言葉が、さっきの鉄の匂いと重なった気がした。
血じゃないけど、血に似た匂い。
リリアーナは視線を落とす。
手首の紋章が、淡く光る。
「……じゃあ、私は何。誰にも望まれないのに、選ばれて、ここに投げ込まれて」
声が震える。
悔しさが混ざる。
泣きたくなるのを、歯で抑える。
セラフィナは答えを急がなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
神殿のどこかで、水が滴る音だけが響く。
白い空間に、その音がやけに鮮明だった。
やがてセラフィナは言う。
「あなたは、あなた自身です」
「……は?」
「望まれていないから価値がない、ではない。選ばれたから価値がある、でもない。あなたは、あなたが決めるべきです」
その言い方は、冷たいのに優しかった。
慰めじゃない。甘やかしでもない。
現実を、そのまま置く感じ。
リリアーナは唇を噛んで、顔を上げた。
涙が出そうで、出なかった。
代わりに、胸の奥に残ったのは、意地みたいな熱。
「……私、会わせてください」
声が自分でも驚くほど真っ直ぐだった。
セラフィナが目を瞬かせる。
「皇帝に?」
「はい。私を望んでいないなら、なおさら。勝手に決められて、勝手に捨てられるのは、もう嫌なんです」
舞踏会の光景が脳裏に走る。
壇上で笑うエドワード。
涙のマリエッタ。
針みたいな視線。
同じことを、異世界で繰り返すつもりはない。
ここが牢獄なら、せめて自分で扉の形を確かめたい。
セラフィナは、静かに頷いた。
「分かりました。ですが心してください。皇帝は――優しくありません」
「優しさなんて、最初から期待してません」
言い切った瞬間、心臓が痛んだ。
期待してない、なんて言いながら、本当は少しだけ期待してしまう自分がいる。
それが怖い。
だから先に切り捨てる。
セラフィナは立ち上がり、手を差し出した。
「立てますか、リリアーナ・アルフェン」
名前を呼ばれた。
ここで初めて、自分が自分として扱われた気がした。
リリアーナは頷いて、差し出された手を取る。
その手は冷たい。
でも、握力はしっかりしている。
立ち上がると、神殿の白さがさらに広がって見えた。
天井は高く、柱は遠く、床の魔法陣は果てしない。
そして、どこかで鐘の音が鳴った。
低く、深く、胸の骨に響く音。
セラフィナが言う。
「門が開きました。あなたが目覚めたことは、皇帝の元にも届きます」
「……私、どうなるの」
リリアーナの声が小さくなる。
怖い。
でも、逃げるより怖いことは――もうない。
セラフィナは淡々と、しかし確かに言った。
「あなたは、選ばれました。だから次は――あなたが選ぶ番です」
リリアーナは手首の紋章を見た。
淡い光が、まるで「ここだ」と指し示している。
白い神殿の空気は冷たい。
でも胸の奥には、小さな熱が灯っていた。
それは恐怖の火種で、同時に――意志の火種だった。
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