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第4話:皇帝カイゼル、冷たい金の瞳
しおりを挟む白い神殿の扉を出た瞬間、空気が変わった。
同じ“冷たさ”でも、質が違う。神殿の冷気が澄んだ刃だとしたら、城の空気は重い鉄。吸い込むたびに肺が鈍く痛む。
リリアーナは深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
吐いた息が白くならないのに、喉の奥が凍るみたいに冷える。
「歩けますか」
背後から、淡々とした声。
セラフィナではない。男の声だ。
振り向くと、黒い鎧の護衛が二人立っていた。顔は見えない。兜の影が深い。
その佇まいが、護衛というより“監視”に近かった。
「……はい」
リリアーナは頷いた。
足はまだ少しふらつく。けれど、歩けないと言ったら運ばれる。運ばれるのは嫌だ。自分の脚で立っていたい。
セラフィナが一歩前に出る。
「皇帝陛下への謁見です。礼儀は守りなさい。ですが、恐れすぎる必要はありません」
恐れすぎる必要はない。
言い方がもう、恐れる必要がある前提なのが怖い。
「……皇帝って、本当に、私を望んでないんですよね」
リリアーナが呟くと、セラフィナは一瞬だけ視線を逸らした。
「望んでいない。ええ。それでも会うべきです。あなた自身のために」
その言葉の“あなた自身”が、さっきよりも少しだけ重く響いた。
リリアーナは手首の紋章に視線を落とす。淡い光が、薄皮の下で脈打っている。まるで心臓がもう一つ増えたみたいに。
「行きます」
言い切って、歩き出した。
城の廊下は長かった。
白と金の神殿とは違って、ここは黒と灰の世界だ。黒い石、黒い柱、天井の高さ。灯りはあるのに、影が濃い。
歩くたび、靴音が硬く響き、余韻が遅れて追いかけてくる。
壁には絵画が掛かっていた。
戦場。燃える森。竜の骨。血の海。
美しいはずの筆致が、どれも“勝利”の匂いじゃない。生き残った側の冷たさがある。
「……この城、怖い」
思わず零れると、護衛の一人が首だけを動かした。
「城は城だ。怖いのは、城じゃない」
「……なに、それ」
返ってきた言葉が妙に刺さる。
怖いのは、城じゃない。
じゃあ、皇帝? この国? 自分の運命?
廊下を抜けるたび、扉が増える。
扉の前には必ず兵が立ち、リリアーナを無言で通す。
その“通される”感覚が、舞踏会の公開処刑に似ていて、胃がきゅっと縮む。
――また私は、観客の前に立たされるのか。
だが今回は、ひとりじゃない。
隣にはセラフィナがいる。
背後には護衛がいる。
それでも孤独は消えない。孤独は自分の中にいる。
やがて、巨大な扉の前に辿り着いた。
扉は黒い。黒曜石みたいに艶があり、金の紋章が刻まれている。
その紋章は、リリアーナの手首の紋章に似ていた。輪と線。門と矢印。
扉の前の兵が、槍を床に打ち鳴らす。
どん、と低い音が腹に響く。
「花嫁召喚の者、謁見を求めます」
兵の声が高く響く。
次の瞬間、扉が開いた。
黒い玉座の間。
広い。広すぎる。
天井が遠く、灯りが少なく、闇が多い。
床は磨かれた黒石で、反射するのは人影じゃなく、ぼんやりとした影だけ。
遠くに、玉座があった。
黒い玉座。
背が高く、棘みたいな装飾。
その玉座に――男が座っている。
リリアーナは、息を止めた。
黒曜の髪。
光を吸い込むみたいに暗く、動くたびに墨の流れみたいに揺れる。
そして、金の瞳。
ただ見られただけで、胸の奥が締め付けられる。
視線が重い。刃物みたいに鋭いのに、どこか獣の目にも似ている。
息をしているだけで空気が重くなる――そんな男がいる、という事実が、身体にのしかかる。
これが、皇帝カイゼル・ヴァルディオス。
セラフィナが一歩前に出て、深く跪いた。
「皇帝陛下。花嫁召喚は成功いたしました。神器が選んだ者――リリアーナ・アルフェンです」
リリアーナも膝を折ろうとして、動きが止まった。
跪く。
この場に相応しい礼だ。頭では分かっている。
でも、跪いた瞬間に何かが終わる気がした。
“また”自分を差し出すことになる気がした。
リリアーナは、ぎこちなく礼をした。
完全な跪礼ではなく、膝を軽く曲げる程度。
それでも足が震える。膝が笑う。
カイゼルは、しばらく何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、剣のように首元に当てられているみたいだった。
やがて、低い声が響いた。
怒鳴っていないのに、音が空間を支配する声。
「……セラフィナ」
「はい、陛下」
「またやったのか。神殿は」
セラフィナは表情を変えない。
「神器が求めた結果です」
カイゼルの金の瞳が、ゆっくりリリアーナを捉える。
頭の先から足の先まで、無遠慮に測る視線。
貴族の値踏みと似ているのに、もっと露骨で、もっと冷たい。
「……これが花嫁?」
リリアーナは喉が鳴るのを感じた。
“これ”。
人じゃないみたいな言い方に、胸が疼く。
「名前」
命令。
問いではなく命令。
リリアーナは反射で答えた。
「リリアーナ・アルフェン、です」
「望みは」
「……え?」
カイゼルは眉ひとつ動かさず、言い直す。
「望みは何だ。ここに来た望み」
来た望み。
ない。望んで来てない。
事故で、指輪で、光で――投げ込まれた。
「私は……望んで来たわけでは……」
「なら帰れ」
切り捨て。
あまりにあっさり。
リリアーナの身体が硬直した。
帰れ? 本当に? 帰れるなら――。
でも、その言葉の温度が、優しさじゃないことは分かる。
“興味がない”切り捨てだ。
舞踏会でエドワードが言った「失望した」と同じ種類の冷たさが、骨に沁みた。
「陛下」
セラフィナが口を挟む。
「召喚の門はすでに開きました。彼女の帰還は世界に歪みを――」
「知っている」
カイゼルは短く遮る。
言葉が鋼みたいに硬い。
「だからこそ要らない」
要らない。
リリアーナは、胸の奥がぐっと押し潰されるのを感じた。
要らない。
舞踏会で言われた。
必要ない。価値がない。邪魔だ。
同じだ。世界が違っても、結局私は――。
反射で謝りかけた。
ごめんなさい、と。
迷惑かけて、と。
私が悪いんです、と。
そう言えば楽だ。
空気が静まる。皆が満足する。
自分が傷つくだけで済む。
でも、その言葉が喉で止まった。
止めたのは、舞踏会の光景。
あの針みたいな視線の中で、背筋を折らなかった自分。
悔しさで、鉄の味がするほど唇を噛んだ自分。
――私はもう、勝手に価値を決められるだけの人形じゃない。
リリアーナは拳を握った。
手首の紋章が、じわりと熱を持つ。
「……私も、要らないと言われるのは慣れてます」
自分でも驚くほど、声が出た。
震えているのに、止まらない。
玉座の間の空気が、すこしだけざわつく。
視線が集まる。玉座の左右、影の中に立つ貴族や兵たちが、息を呑むのが分かった。
カイゼルの瞳が、細くなる。
「慣れている? 誰にだ」
問いが鋭い。
でもリリアーナは逸らさない。逸らしたら終わる。
「婚約者に、です」
言った瞬間、胸が痛んだ。
でも、痛みの上に立つしかない。
「私は向こうの世界で、今夜……公衆の前で婚約破棄されました。身に覚えのない罪を着せられて。皆の前で笑われて、切り捨てられて」
言いながら、自分の声が震える。
涙が出そうになる。
それでも、言葉を止めない。止めたら飲まれる。
「だから、ここでまで、同じように投げ捨てられるのは嫌です」
静寂。
落ちた音が、床で割れそうな静寂。
玉座の間の片隅で、金属の擦れる音がした。
カイゼルの側近らしき男が、一歩踏み出したのだ。
背が高い。
短く整えた髪。鋭い目。軍人の匂い。
目立たない場所に立っていたのに、動いた瞬間に存在感が跳ね上がる。
「……陛下」
その男が低い声を出す。
止めようとしているのか、確認しようとしているのか分からない声。
セラフィナが、ほんの僅かに口角を上げた。
笑った、というより“面白い”と思った顔。
冷たい神官が見せる、ほんの一滴の人間味。
カイゼルはリリアーナを見下ろしたまま、言った。
「投げ捨てられるのが嫌なら、しがみつくのか」
「……しがみつきません」
リリアーナは即答した。
喉が痛い。心臓がうるさい。
でも、ここで弱音は吐かない。
「私は、私の場所を自分で決めたいだけです。帰るにしても、残るにしても。誰かの都合で決められるのは、もう嫌なんです」
カイゼルの金の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
光の角度が変わったみたいな、ごく小さな揺れ。
それが、なぜか怖かった。
この男が感情を見せる瞬間は、きっと危険だ。
何かが壊れる前触れみたいに思えた。
「……女」
カイゼルが吐き捨てるように言う。
「俺は花嫁など要らない。制度も、神殿も、神器も――全部、嫌悪している」
「なら、私だって要りません」
言った瞬間、場の空気が凍った。
自分でも言いすぎたと思う。
でも引けない。引いたら、また自分を失う。
「……ほう」
カイゼルの声が、ほんの少しだけ低くなる。
怒っているのか、興味を持ったのか分からない。
「お前は、俺にいらないと言われて、俺をいらないと言うのか」
「はい」
リリアーナは頷いた。
喉が震える。涙が滲む。
でも、目は逸らさない。
「私は“花嫁”として呼ばれたみたいですけど、私は私です。あなたに要るか要らないかを決められるためだけに、ここに来たんじゃない」
息が切れる。
胸が痛い。
でも、その痛みはどこか“生きている”痛みだった。
舞踏会の時の、凍りつく痛みと違う。
側近の男――レオンハルトが、目を見開いているのが見えた。
信じられない、という顔。
皇帝の前でこんな物言いをする女を見たことがない、という顔。
セラフィナは相変わらず静かだ。
ただ、その瞳の奥に小さな光がある。
“この子は折れない”と確信した光。
カイゼルは長い沈黙のあと、短く言った。
「……面倒だ」
それだけで、空気が重くなる。
「セラフィナ。連れてきた責任は神殿が取れ」
「陛下、花嫁は――」
「要らない。だが、放置もできない」
カイゼルの視線が、リリアーナの手首の紋章に落ちた。
その瞬間、紋章がぴり、と熱を持つ。
見られただけで反応するみたいに。
カイゼルの眉が僅かに動く。
嫌悪の色。
そして、その奥に――恐れに似たもの。
「監視下に置け」
短い命令。
それで決まってしまう。
レオンハルトが即座に膝を折る。
「はっ。陛下の命のままに」
リリアーナは息を呑んだ。
監視。
牢屋じゃない。でも、自由じゃない。
また囲われる。選ぶ権利を奪われる。
「待ってください!」
声が跳ねる。
焦りが出る。
自分で言った“決めたい”が、今奪われようとしている。
カイゼルは玉座の肘掛けに指を置いたまま、視線だけ寄越す。
その視線が冷たい。
氷の底に落ちたみたいに冷たい。
「まだ何かあるのか」
リリアーナは喉を鳴らした。
怖い。
でも言う。
「監視は構いません。でも、私に説明してください。私は何のためにここにいるのか。花嫁って何なのか。私は何をすればいいのか」
息を吐き切って、続ける。
「何も分からないまま閉じ込められるのは、嫌です」
カイゼルの金の瞳が、じっとリリアーナを見つめた。
長い。
視線だけで圧がある。
逃げたくなる。謝りたくなる。跪きたくなる。
でもリリアーナは立っていた。
足は震えている。
指先も冷たい。
それでも、立っている。
やがてカイゼルは、答えを“与える”というより“切る”みたいに言った。
「必要なことは、必要になった時に教える」
「それは、説明じゃないです」
「十分だ」
言い切られて、リリアーナは唇を噛んだ。
悔しい。
でも、ここで食い下がったら斬られる。
本能がそう告げる。
カイゼルはレオンハルトに目線を投げる。
「レオンハルト。近づけるな。だが、死なせるな」
「……承知しました」
レオンハルトの声が一瞬だけ詰まった。
命令の内容が矛盾しているからだ。
近づけるな、死なせるな。
守れ、でも距離を取れ。
その矛盾が、皇帝の心の矛盾みたいに見えた。
セラフィナが静かに立ち上がる。
「陛下。彼女の身柄は神殿が管理します。ですが、花嫁の紋章は――」
「黙れ」
カイゼルの声が低く落ち、空気が一瞬だけ震えた。
神殿の最高神官ですら黙る。
それがこの男の権力だ。
リリアーナの背中に汗が滲む。
怖い。
でも――。
カイゼルの金の瞳が、再びリリアーナを捉えた。
その瞳の奥に、また一瞬だけ揺れがあった。
怒りではない。興味でもない。
――痛み。
そんなものが、ちらりと見えた気がした。
でもそれはすぐに闇に沈む。
彼は何事もなかったように視線を逸らし、玉座の間に告げた。
「連れて行け」
護衛が近づく。
リリアーナは抵抗せずに一歩下がった。
悔しい。
でも、ここで暴れても何も変わらない。
変えるなら、もっと違う形で。
玉座の間を出る直前、リリアーナは振り返った。
玉座の上の男は、もうこちらを見ていない。
冷たい横顔。黒曜の髪。金の瞳。
世界の中心みたいに座っているのに、どこか孤独が滲む背中。
リリアーナは胸の奥で、静かに言った。
――私は投げ捨てられない。
――あなたが要らないと言っても。
――私が私を、要ると言うから。
その決意はまだ小さい。
でも確かに、手首の紋章みたいに熱を持っていた。
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