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第5話:花嫁候補の部屋、逃げ道のない朝
しおりを挟む玉座の間を出た瞬間、肺の奥に溜めていた息が一気に抜けた。
そのせいで足がふらつき、リリアーナは廊下の壁に手をついた。
石が冷たい。
冷たいのに、掌の熱が引かない。手首の紋章がじわじわ脈打っていて、まるで「ここにいる」と主張しているみたいだった。
「……しっかりしろ」
低い声。
振り向くと、さっき玉座の間で膝を折った男――レオンハルトが立っていた。
近くで見ると、さらに軍人らしい。無駄のない筋肉、磨かれた鎧、抜かりなく整った姿勢。けれど目だけは、鋼じゃなくて人間の目をしている。
「あなたが、レオンハルト……?」
「レオンハルト・グレン。陛下の側近だ。……今からお前を花嫁用区画へ連れて行く」
“お前”。
命令形。
皇帝の空気をそのまま引きずってきたみたいな口調に、リリアーナの胸がちくりとする。
「監視、ですよね」
「そうだ」
即答。
優しさの皮膜もない。けれど、馬鹿にしている感じでもない。事実を言っているだけ。
「……じゃあ、牢屋みたいなところですか?」
リリアーナがわざと軽く言うと、レオンハルトはほんの少しだけ眉を動かした。
「牢屋ではない。豪奢だ。……豪奢なぶん、逃げ道はないがな」
「最悪」
吐き捨てると、レオンハルトが小さく息を吐いた。笑いではなく、呆れの呼吸。
「口が回る。さっきの物言いもそうだが……陛下の前でやるな。死ぬぞ」
「脅しですか?」
「忠告だ」
短い会話の間に、彼は歩き出す。
ついて来い、という合図すらないのに、ついて来るのが当然という歩幅。
リリアーナは一瞬だけ反発しかけて――飲み込んだ。
反発する元気はある。でも、今は方向を間違えたくない。
ここで無駄に角を立てても、損するのは自分だ。
歩きながら、城の空気が変わっていくのを感じた。
玉座の間に近い区域は、黒くて重い。息苦しいほどの緊張が漂っている。
しかし少し離れると、空気に人の気配が混じり始める。侍女の足音、銀器の触れ合う音、布の擦れる音。生活の音。
その生活の音の中に、リリアーナは完全に“異物”として置かれている。
廊下を曲がった先、扉が並ぶ区画に入った。
扉は白い。神殿みたいに白い。けれど神殿の白は祝福の白で、ここは隔離の白だ。
壁に飾られた花の絵がやけに整いすぎていて、逆に息が詰まる。
「ここだ」
レオンハルトが扉の前で止まる。
扉には小さな紋章が刻まれていた。輪と線。門の形。
手首の紋章が疼く。
扉が開くと、侍女たちが並んで頭を下げた。
「花嫁候補様、ご到着です」
言い方が丁寧すぎて、リリアーナは逆に怖くなる。
“様”。
でも、歓迎じゃない。形式だけの敬意。紙の花みたいな敬意。
部屋は、想像よりずっと豪奢だった。
天蓋付きの大きなベッド。絨毯は分厚く、足が沈む。窓は高く、カーテンは重い。
金の縁取り。白い壁。香炉から漂う甘い香り。
そして――寒い。
暖炉があるのに、火が入っていない。
部屋が広いせいじゃない。意図的に温度が低い。
居心地の悪さを“上品”で包んだ空間。
「……うわ。綺麗なのに、冷蔵庫みたい」
思わず口に出た。
侍女たちの表情が微妙に固まる。聞こえなかったふりをするプロの顔。
レオンハルトは扉の外へ下がりながら言った。
「ここから先は侍女が担当する。……逃げるなよ」
「逃げられるなら逃げてます」
返すと、レオンハルトは一瞬だけ視線を寄越した。
その目が少しだけ柔らかい。
でもすぐに無表情に戻り、扉が閉まった。
“カチャン”という音。
鍵の音ではない。
だけど、鍵みたいに心に響いた。
リリアーナは、部屋の真ん中に立ち尽くした。
豪奢。
清潔。
静か。
そして孤独。
鏡台の大きな鏡に、見知らぬ自分が映っている。
異世界の衣装。軽いのに、締め付ける。布の質感が違う。色味が違う。
自分の身体なのに、借り物みたいだった。
「……私、何してるんだろ」
声が、部屋の広さに吸われて小さくなる。
侍女の一人が進み出た。年は二十歳前後だろうか。黒髪をきっちり結い、目元は涼しい。
丁寧だけど、感情が薄い。
「お着替えとお身体の確認をさせていただきます。花嫁候補様」
「……名前、呼んでください。リリアーナでいいです」
侍女は一瞬だけ瞬きをした。
それから、機械みたいに頷く。
「承知しました、リリアーナ様。私はイリス。ほかの者も紹介します」
「イリス……」
呼びやすい名前で少しだけ安心する。
だけど、安心の輪郭がすぐ消える。
イリスは他の侍女を紹介した。
ミア、ルノ、ソフィ。
みんな綺麗で、みんな同じように丁寧で、みんな同じように距離がある。
リリアーナは気づいた。
この距離は、侍女が冷たいからじゃない。
近づけば、巻き込まれるから。
花嫁候補に肩入れした者は、皇帝の機嫌や宮廷の政治に巻き込まれる。だから距離を取る。
それが、分かってしまう程度には、リリアーナは元の世界で痛い目を見た。
「……お風呂、あります?」
「はい。ですが、規定の時間がございます。監視もつきます」
「監視、万能だね」
軽口を叩いたつもりなのに、声が乾いていた。
イリスは笑わない。ただ「はい」と答える。
着替えを手伝われる間、リリアーナは黙っていた。
布が肌を滑る感触。異世界の布は、軽くて冷たい。
髪を梳かされる櫛の音。
爪を整えられる小さな刃の感触。
整えられるほど、自分が“飾り”になる気がして、心がざらつく。
「……ねえ。ここ、花嫁用区画って言ってたけど、他にも候補がいるの?」
リリアーナが問うと、イリスは一瞬だけ言葉を探した。
「……以前は、いました」
「以前は?」
「はい。ですが、長くは続きませんでした」
その言い方が意味深すぎて、リリアーナの背筋が冷える。
「続かないって、どういう……」
「申し訳ありません。私たちは口外を禁じられております」
禁じられている。
口外できない。
その言葉だけで、過去に何があったかが透けて見える。
リリアーナはそれ以上聞かなかった。
聞いたところで、答えは返ってこない。
でも、胸の奥に不安の種が植えられたのは確かだった。
昼食が運ばれてくる。銀の皿に盛られた料理は美しく、香りもいい。
けれど、一口食べても味が薄い。
緊張で舌が痺れているせいかもしれない。
食後、部屋に一人になった。
侍女たちは交代制で出入りするが、基本的に“付き添い”はしない。
必要最低限。監視はする。世話もする。でも心には触れない。
窓辺に立つと、外の庭が見えた。
整えられた生垣。噴水。白い花。
遠くに高い壁。さらに遠くに兵の影。
綺麗な箱庭。
箱庭の外には、自由がない。
「……逃げ道、ほんとにない」
呟いた瞬間、壁の向こうから声がした。
はっきり聞こえない。でも、確かに“噂話”のトーン。
「――また花嫁だってさ」
「――陛下が拒むのに、神殿が強引すぎる」
「――神器の気まぐれ。迷惑だよね」
「――どうせすぐ消えるわ」
リリアーナは背中が冷えるのを感じた。
“消える”。
その言葉の軽さが怖い。
人の人生を、消しゴムみたいに扱う軽さ。
別の声が重なる。
「――あの皇帝が、花嫁なんて」
「――呪いがあるって、ほんと?」
「――しっ。聞こえる」
呪い。
昨日から何度も出てくる単語。
何も知らないまま、私はそこに巻き込まれている。
リリアーナは窓から離れた。
背中に、見えない針が刺さる感覚がする。
見られている。
噂されている。
評価されている。
また舞踏会みたいに。
夜になっても、寒さは消えなかった。
暖炉に火は入らない。
それがルールだと、イリスが淡々と言った。
“花嫁候補は余計な熱を持つな”。
意味が分からないけど、従うしかない。
ベッドに入っても眠れない。
シーツは柔らかいのに、肌が落ち着かない。
枕から香る花の匂いが、逆に息を苦しくする。
暗闇の中で、リリアーナは自分の手を見つめた。
左手の人差し指。指輪があった場所。
そこに、指輪はない。
その代わりに、掌の上に小さなものが乗っていた。
いつの間にか、持っていた。
砕けた指輪の欠片――核ではない。宝石の周りを守っていた小さな金具の破片みたいなもの。
薄くて、軽い。けれど確かに“あの指輪の残骸”だ。
「……残ってたんだ」
声が震える。
握りしめると、金具が掌に食い込む。痛い。
その痛みが現実の証拠みたいで、泣きそうになる。
母の形見。
母の声。
あれは幻聴じゃなかった気がする。
“行きなさい”は、確かに聞こえた。
「お母様……」
暗闇の中で名前を呼ぶと、胸の奥がすっと空洞になる。
空洞から、遅れて涙が溢れた。
舞踏会では泣かなかった。馬車でも泣かなかった。
でも、今は誰も見ていない。だから泣ける。
涙が頬を伝って、枕に落ちる。
枕が湿る。
その湿り気が、唯一の“生きてる感じ”だった。
「……門だったんだ」
欠片を見つめながら、リリアーナは呟く。
母の形見は、ただの宝石じゃなかった。
私をここへ連れてくる“門”。
私の人生を別の場所へ繋ぐ“鍵”。
なぜ。
どうして母は、そんなものを持っていたの。
どうして私に渡したの。
答えはない。
暗闇は何も返さない。
それでも、涙の奥で、別の感情が芽を出す。
怒り。
悔しさ。
そして、意地。
向こうの世界で私は捨てられた。
ここでも、皇帝に「要らない」と言われた。
噂話では「どうせすぐ消える」と言われた。
……じゃあ私は、どうする?
泣きながら、リリアーナは自分に問う。
泣くのは悪くない。泣くのは自然だ。
でも、泣いたままでは終わりたくない。
リリアーナは欠片をそっと握りしめた。
痛みが掌に残る。
その痛みが、決意に形を与える。
「……泣くのはいい。でも立つ」
声は小さい。
でも、確かに言った。
自分の耳に届く音量で。
「ここで、私の価値を取り戻す」
価値を決めるのは、他人じゃない。
皇帝でもない。神殿でもない。噂話でもない。
私だ。
手首の紋章が、暗闇で薄く光った。
まるで、その言葉に反応したみたいに。
リリアーナは涙を拭き、深く息を吸った。
胸の奥の空洞は消えない。
でも、その空洞の縁に、小さな灯が灯った気がした。
逃げ道のない朝が来る。
この豪奢な牢獄の中で、私はどう生きるのか。
答えはまだない。
だけど――逃げない。
それだけは、決まっていた。
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