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第5話 黒板が埋まるまで、私は「いつまでに必要?」を手放さない
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黒板に線を引いた翌朝、ギルドは相変わらずうるさかった。
怒鳴り声はいつも通り天井に跳ね返り、紙の束はいつも通り机の端から崩れ、硬貨の音がどこかで乾いたリズムを刻んでいる。混乱はこの建物の“通常運転”で、みんなそのまま走り続けるつもりでいた。走り続けて、倒れて、また起きて、走る。そんなループが当たり前。
でも。
黒板だけは、昨日よりはっきりそこに立っていた。
板の表面には、すでに数字が書かれている。依頼受付◯件、審査待ち◯件、精算待ち◯件。クレーム◯件。大きな字で“今日の未処理”とある。
それを見ただけで、胸が少しだけ落ち着いた。
見えるって、息がしやすい。
「新人~」
センパイの声がする。相変わらず軽い。軽くないのは顔だけ。目の下の影が、昨日より濃い気がする。
「なに?」
「昨日さ、板に数字書いたじゃん。あれ、みんな意外と見てたわ」
「意外とって何ですか」
「いや、うちの人間ってさ、文字読むの嫌いなの」
「……うそでしょ」
「ほんと。だから依頼書踏むし、報告書なくす」
センパイは肩をすくめて笑う。笑ってるけど、笑えない。踏まれた紙の中に“死亡報告書”があったことを思い出して、私の喉が少しだけ硬くなる。
私は黒板の前に立ち、チョークを握り直した。粉が指につく。昨日より指の動きが滑らかだ。慣れって、こういうところで力になる。
「……じゃあ、今日からもっと見えるようにします」
「お、やる気。怖」
センパイは言いつつ、私の邪魔はしない。むしろ、少し距離を取って見守っている。試されてる。そういう空気がする。でも、試されるのは嫌いじゃない。現代でも何度もやった。結果で黙らせるしかない場面は、慣れている。
私は深く息を吸って、受付カウンターの内側から、外に向かって声を張った。
「すみません!今日来た依頼を、全部、ここに書いてください!」
自分の声が、思ったよりよく通った。空気が一瞬だけ止まる。怒鳴っていた冒険者が口を閉じ、職員の手が止まり、誰かの咳がやけに大きく聞こえる。
センパイが鼻で笑った。
「はっ。新人、いきなり何言ってんの。そんなのやったことないよ」
「だからやります」
「やりますって……紙の依頼書があるのに、わざわざ板に?」
「紙は踏まれます。なくなります。板は踏めない」
私は言い切った。
冒険者の一人が眉をひそめる。
「おい、なんだよそれ。俺らに書けって?」
「はい。依頼の内容を一言でいいので。読み上げてくれたら、こちらで書きます。とにかく“今日の分”を全部ここに集めたいです」
ざわざわが戻る。反発のざわめき。慣れないものへの警戒。そういう音。
私は、黒板の横に立ち、チョークを高く掲げた。戦場に旗を立てるみたいに。自分の中で、妙に覚悟が決まる。
「順番にやります。列、作ってください」
「列?は?」
「列です。順番がないと、ずっと怒鳴り声が勝つだけです」
私はカウンターの前に、床の上を指さした。線を引くものはない。だから、言葉で線を引く。
「壁沿いに並んでください。入口から。はい、そっち。あなた、先頭。次の人は後ろ」
冒険者たちは最初、ぽかんとしていた。
でも、誰かが動くと、流れは生まれる。
腕組みしていた屈強な男が「チッ」と舌打ちしながらも壁に寄り、次の男がその後ろに立ち、さらにその後ろへと人が続く。まるで、散らばっていた砂が、目に見えない手で一本の線に集められていくみたいに。
「……ほんとに列できてる」
センパイが小声で笑う。驚いてる。ちょっと悔しそう。私は笑わない。笑ったら緩む。今は緩めたくない。
列ができた。
私は先頭の冒険者に向き直る。青年。まだ若い。装備が少し頼りない。緊張で喉が鳴っている。
「依頼、何ですか」
「え、えっと……村の近くにゴブリンが出たって……」
「場所は」
「東の……ナナ草村」
「期限はありますか」
青年が目を瞬いた。
「き、期限……?」
「いつまでに解決したい、っていう希望です。村が困ってる度合い」
青年は目を泳がせ、しばらく考えてから言う。
「できれば……早いほうが。畑荒らされて……」
「了解。緊急寄り」
私は黒板に大きく書く。
【討伐】ナナ草村 ゴブリン/緊急寄り
その文字を見て、青年の表情が少しだけ柔らぐ。
紙に書かれるより、板に書かれるほうが、なぜか“話が進んだ”感じがするのかもしれない。
次。
列の二人目は、商人っぽい男だった。荷物袋を抱えている。
「護衛です。王都から南の街道、荷馬車二台。盗賊が出るんで」
「出発希望は」
「三日後」
「期間は」
「片道で二日。泊まり込み」
黒板に書く。
【護衛】南街道 荷馬車2/出発3日後
次。
三人目は、依頼じゃなくてクレームだった。
顔を赤くした冒険者が、いきなり机を叩こうとして、私の視線に止まる。叩く前に、空気が凍る。
「……報酬が遅いんだよ!」
「依頼番号、わかりますか」
「知らねぇ!」
「内容と日付、パーティ名で」
「……狼の巣。五日前。鉄牙!」
「了解。精算待ちに入れます」
私は黒板の“精算”欄に書き足す。
【精算】鉄牙 狼の巣/5日前/未払い
冒険者が口を開けたまま固まる。
「……書いただけで終わりかよ」
「終わりじゃないです。見えるところに置きました。これが消えたら、私の責任です。消えなければ、次に進めます」
その瞬間、冒険者の怒りが少しだけ鈍る。
“責任”という単語は、相手の感情の熱を落とす。現代でもそうだった。責任がどこにあるか見えるだけで、怒りの矛先は少しだけ迷う。
センパイがぼそっと言う。
「新人、危ない橋渡ってんなぁ」
「橋は渡らないと向こうに行けません」
「かっこつけてんの?」
「本気です」
センパイは、ふっと笑った。
そして、紙束を持ってきて私の横に置く。
「ほら。依頼書。板に書くなら、こっちも見ながらやりなよ」
「ありがとう」
礼を言うと、センパイが一瞬だけ照れた顔をした。すぐにいつもの軽い顔に戻るけど、その一瞬が、私には大事だった。味方がいるって、仕事が進む。
列は続く。
討伐。採取。護衛。調査。迷子の猫探し(猫?異世界でも猫なの?)。
依頼の種類はバラバラで、そのたびにギルド職員の頭の中はぐちゃぐちゃになる。でも、黒板の上ではカテゴリごとに整っていく。
私は太い線を追加した。
【討伐】
【護衛】
【採取】
【調査】
【その他】
センパイが鼻で笑う。
「うわ、分類し始めた。新人、ほんとそういうの好きだね」
「好きじゃないです。必要なんです」
「同じじゃん」
同じかもしれない。
必要だから、好きになってしまったもの。私の人生にはそういうものが多い。
午前が過ぎるころ、黒板はもう半分埋まっていた。
文字が増えるたび、混乱が少しずつ“形”になる。形になれば、対処できる。
でも、ここで新しい波が来た。
「おい!いつ終わるんだよ!」
大きな声。列の途中から、背の高い冒険者が前へ出てきた。肩に大剣。傷だらけの手。目が鋭い。慣れてる人の目だ。現場の荒波を何度も越えてきた目。
彼は私を睨む。
「俺たちは今日、出たいんだ。依頼もある。装備の修理もある。手続きに何時間かかる」
私は一瞬、喉が乾くのを感じた。
現代なら「いつ終わる」って言葉は、ほぼ脅しだ。相手の心に火をつける言葉。私の中の記憶が、黒崎の声とつながる。“助かるわ~、今日中ね”の圧。
でも。
私は息を吸って、いつもの返しを選んだ。
「いつまでに必要ですか」
冒険者が、ぴたりと止まった。
その沈黙が、妙に気持ちいい。
空気が止まる。
周りの冒険者も、職員も、センパイも、全員が一瞬だけ耳を澄ませる。
冒険者の眉が少しだけ動く。
「……は?」
「期限です。あなたが“いつ終わる”と聞くなら、私は“いつまでに必要か”を聞きます。必要な期限がわかれば、優先順位を調整できます」
彼は口を開けたまま、少しだけ言葉を探す。
この世界で“期限”を問われたことがないのかもしれない。
依頼は降ってくる。受ける。行く。帰る。終わり。
その間に“いつまで”を入れる発想が薄い。
「……日没までだ」
ようやく彼が言った。
「日没までに、出発できないと困る」
私は頷いた。
「了解。日没までに出発できるように、手続きを優先します」
「……できるのか」
「やります。理由は簡単です。期限が明確だから」
冒険者の目が細くなる。
「お前、変な女だな」
「よく言われます」
そう返すと、周囲から小さな笑いが漏れた。
笑い。
この事務局で笑いが出るの、珍しい。
センパイが私の耳元で囁く。
「今の、刺さったね。みんな固まってた」
「固まるのは悪くないです。固まった瞬間、考えるから」
私は黒板にその冒険者の案件を追記し、横に小さく印をつけた。
【優先】日没まで
印をつけるだけで、現場の空気が少し変わる。
“ああ、あれは急ぎなんだ”って、全員が共有できる。共有できれば、無駄な衝突が減る。
午後。
列は短くなってきた。
最初は「なんで並ばなきゃいけないんだ」とぶつぶつ言っていた冒険者たちも、いつの間にか壁沿いに並ぶことを当然のように受け入れている。人間って、仕組みができるとその中で生き始める。
センパイは途中から、私の隣でチョークを持って手伝い始めた。
字は少し雑だけど、速い。現場の字。
彼女が書くたび、黒板が埋まる速度が上がる。
「新人、ほら、次これ」
「ありがとう。分類は——討伐でいい?」
「うん。あと期限、明後日って言ってた」
「明後日、了解」
こんなふうに、会話が“仕事の言葉”になっていくのが嬉しかった。怒鳴り声じゃない。確認の言葉。進める言葉。
途中で、紙束を抱えて走っていた職員がつまずき、依頼書をばらまいた。
床に散らばる紙。昨日ならそれだけで混乱が増えていた。でも、今日は違った。
センパイが叫ぶ。
「拾う前に!内容だけ読む!」
「え?」
「新人方式!読む!板に書く!」
職員が一瞬迷って、それから紙を拾い上げながら読み上げる。
「採取!森の薬草!期限三日!」
私は即座に黒板に書く。
【採取】森の薬草/期限3日
紙は拾われ、束ねられ、棚に置かれる。
でも、依頼はすでに“板”に残った。
それだけで、紙が再び散らばっても恐怖が減る。
夕方が近づくと、光が窓から斜めに入ってきて、黒板の粉が金色に舞った。
黒板は、ほとんど埋まっていた。
文字。数字。カテゴリ。期限。優先印。
ごちゃごちゃなのに、昨日の“ごちゃごちゃ”とは違う。
整理されたごちゃごちゃ。
見えるごちゃごちゃ。
私はチョークを置き、黒板全体を見渡した。
……ここに、今日の仕事が全部ある。
初めて、“仕事が見える”形になっていた。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
そんな感情が残っていたことに、自分で驚く。
希望って、もっと派手なものだと思ってた。勇者が剣を抜くとか、魔法が炸裂するとか。
でも私の希望は、黒板に並んだ文字の列だった。
「……できた」
小さく呟くと、センパイが隣で肩をぶつけてきた。
「できた、じゃないよ。まだ終わってないよ」
「わかってます。でも——」
私は黒板を指さす。
「ここにある。消えない。踏まれない」
センパイは黒板を見上げて、少しだけ目を細めた。
「……なんかさ」
「はい」
「これ、普通に……助かるね」
その言葉に、私は一瞬だけ心臓が跳ねた。
“助かる”
黒崎マーカーの「助かるわ~」が頭をよぎる。
でも、今の“助かる”は違う。軽くない。奪う言葉じゃない。共に息をつく言葉だ。
私は、笑ってしまった。ほんの少しだけ。
「よかったです」
センパイも笑う。疲れた顔のまま、でも確かに笑う。
カウンターの向こうでは、冒険者たちが黒板を覗き込みながら、自分の依頼が書かれているか確認している。
「お、俺のある」
「期限、明日って書いてあるけど、合ってる」
そんな声が飛び交い、怒鳴り声は少しだけ減っていた。
夕方の光の中で、黒板は文字で埋まり、ギルドの一日が初めて“形”になった。
私はチョークの粉を手で払って、息をひとつ吐いた。
たった一枚の板。
たった数本の線。
たった一つの質問——「いつまでに必要ですか」。
それだけで、世界はほんの少しだけ、整い始めた気がした。
怒鳴り声はいつも通り天井に跳ね返り、紙の束はいつも通り机の端から崩れ、硬貨の音がどこかで乾いたリズムを刻んでいる。混乱はこの建物の“通常運転”で、みんなそのまま走り続けるつもりでいた。走り続けて、倒れて、また起きて、走る。そんなループが当たり前。
でも。
黒板だけは、昨日よりはっきりそこに立っていた。
板の表面には、すでに数字が書かれている。依頼受付◯件、審査待ち◯件、精算待ち◯件。クレーム◯件。大きな字で“今日の未処理”とある。
それを見ただけで、胸が少しだけ落ち着いた。
見えるって、息がしやすい。
「新人~」
センパイの声がする。相変わらず軽い。軽くないのは顔だけ。目の下の影が、昨日より濃い気がする。
「なに?」
「昨日さ、板に数字書いたじゃん。あれ、みんな意外と見てたわ」
「意外とって何ですか」
「いや、うちの人間ってさ、文字読むの嫌いなの」
「……うそでしょ」
「ほんと。だから依頼書踏むし、報告書なくす」
センパイは肩をすくめて笑う。笑ってるけど、笑えない。踏まれた紙の中に“死亡報告書”があったことを思い出して、私の喉が少しだけ硬くなる。
私は黒板の前に立ち、チョークを握り直した。粉が指につく。昨日より指の動きが滑らかだ。慣れって、こういうところで力になる。
「……じゃあ、今日からもっと見えるようにします」
「お、やる気。怖」
センパイは言いつつ、私の邪魔はしない。むしろ、少し距離を取って見守っている。試されてる。そういう空気がする。でも、試されるのは嫌いじゃない。現代でも何度もやった。結果で黙らせるしかない場面は、慣れている。
私は深く息を吸って、受付カウンターの内側から、外に向かって声を張った。
「すみません!今日来た依頼を、全部、ここに書いてください!」
自分の声が、思ったよりよく通った。空気が一瞬だけ止まる。怒鳴っていた冒険者が口を閉じ、職員の手が止まり、誰かの咳がやけに大きく聞こえる。
センパイが鼻で笑った。
「はっ。新人、いきなり何言ってんの。そんなのやったことないよ」
「だからやります」
「やりますって……紙の依頼書があるのに、わざわざ板に?」
「紙は踏まれます。なくなります。板は踏めない」
私は言い切った。
冒険者の一人が眉をひそめる。
「おい、なんだよそれ。俺らに書けって?」
「はい。依頼の内容を一言でいいので。読み上げてくれたら、こちらで書きます。とにかく“今日の分”を全部ここに集めたいです」
ざわざわが戻る。反発のざわめき。慣れないものへの警戒。そういう音。
私は、黒板の横に立ち、チョークを高く掲げた。戦場に旗を立てるみたいに。自分の中で、妙に覚悟が決まる。
「順番にやります。列、作ってください」
「列?は?」
「列です。順番がないと、ずっと怒鳴り声が勝つだけです」
私はカウンターの前に、床の上を指さした。線を引くものはない。だから、言葉で線を引く。
「壁沿いに並んでください。入口から。はい、そっち。あなた、先頭。次の人は後ろ」
冒険者たちは最初、ぽかんとしていた。
でも、誰かが動くと、流れは生まれる。
腕組みしていた屈強な男が「チッ」と舌打ちしながらも壁に寄り、次の男がその後ろに立ち、さらにその後ろへと人が続く。まるで、散らばっていた砂が、目に見えない手で一本の線に集められていくみたいに。
「……ほんとに列できてる」
センパイが小声で笑う。驚いてる。ちょっと悔しそう。私は笑わない。笑ったら緩む。今は緩めたくない。
列ができた。
私は先頭の冒険者に向き直る。青年。まだ若い。装備が少し頼りない。緊張で喉が鳴っている。
「依頼、何ですか」
「え、えっと……村の近くにゴブリンが出たって……」
「場所は」
「東の……ナナ草村」
「期限はありますか」
青年が目を瞬いた。
「き、期限……?」
「いつまでに解決したい、っていう希望です。村が困ってる度合い」
青年は目を泳がせ、しばらく考えてから言う。
「できれば……早いほうが。畑荒らされて……」
「了解。緊急寄り」
私は黒板に大きく書く。
【討伐】ナナ草村 ゴブリン/緊急寄り
その文字を見て、青年の表情が少しだけ柔らぐ。
紙に書かれるより、板に書かれるほうが、なぜか“話が進んだ”感じがするのかもしれない。
次。
列の二人目は、商人っぽい男だった。荷物袋を抱えている。
「護衛です。王都から南の街道、荷馬車二台。盗賊が出るんで」
「出発希望は」
「三日後」
「期間は」
「片道で二日。泊まり込み」
黒板に書く。
【護衛】南街道 荷馬車2/出発3日後
次。
三人目は、依頼じゃなくてクレームだった。
顔を赤くした冒険者が、いきなり机を叩こうとして、私の視線に止まる。叩く前に、空気が凍る。
「……報酬が遅いんだよ!」
「依頼番号、わかりますか」
「知らねぇ!」
「内容と日付、パーティ名で」
「……狼の巣。五日前。鉄牙!」
「了解。精算待ちに入れます」
私は黒板の“精算”欄に書き足す。
【精算】鉄牙 狼の巣/5日前/未払い
冒険者が口を開けたまま固まる。
「……書いただけで終わりかよ」
「終わりじゃないです。見えるところに置きました。これが消えたら、私の責任です。消えなければ、次に進めます」
その瞬間、冒険者の怒りが少しだけ鈍る。
“責任”という単語は、相手の感情の熱を落とす。現代でもそうだった。責任がどこにあるか見えるだけで、怒りの矛先は少しだけ迷う。
センパイがぼそっと言う。
「新人、危ない橋渡ってんなぁ」
「橋は渡らないと向こうに行けません」
「かっこつけてんの?」
「本気です」
センパイは、ふっと笑った。
そして、紙束を持ってきて私の横に置く。
「ほら。依頼書。板に書くなら、こっちも見ながらやりなよ」
「ありがとう」
礼を言うと、センパイが一瞬だけ照れた顔をした。すぐにいつもの軽い顔に戻るけど、その一瞬が、私には大事だった。味方がいるって、仕事が進む。
列は続く。
討伐。採取。護衛。調査。迷子の猫探し(猫?異世界でも猫なの?)。
依頼の種類はバラバラで、そのたびにギルド職員の頭の中はぐちゃぐちゃになる。でも、黒板の上ではカテゴリごとに整っていく。
私は太い線を追加した。
【討伐】
【護衛】
【採取】
【調査】
【その他】
センパイが鼻で笑う。
「うわ、分類し始めた。新人、ほんとそういうの好きだね」
「好きじゃないです。必要なんです」
「同じじゃん」
同じかもしれない。
必要だから、好きになってしまったもの。私の人生にはそういうものが多い。
午前が過ぎるころ、黒板はもう半分埋まっていた。
文字が増えるたび、混乱が少しずつ“形”になる。形になれば、対処できる。
でも、ここで新しい波が来た。
「おい!いつ終わるんだよ!」
大きな声。列の途中から、背の高い冒険者が前へ出てきた。肩に大剣。傷だらけの手。目が鋭い。慣れてる人の目だ。現場の荒波を何度も越えてきた目。
彼は私を睨む。
「俺たちは今日、出たいんだ。依頼もある。装備の修理もある。手続きに何時間かかる」
私は一瞬、喉が乾くのを感じた。
現代なら「いつ終わる」って言葉は、ほぼ脅しだ。相手の心に火をつける言葉。私の中の記憶が、黒崎の声とつながる。“助かるわ~、今日中ね”の圧。
でも。
私は息を吸って、いつもの返しを選んだ。
「いつまでに必要ですか」
冒険者が、ぴたりと止まった。
その沈黙が、妙に気持ちいい。
空気が止まる。
周りの冒険者も、職員も、センパイも、全員が一瞬だけ耳を澄ませる。
冒険者の眉が少しだけ動く。
「……は?」
「期限です。あなたが“いつ終わる”と聞くなら、私は“いつまでに必要か”を聞きます。必要な期限がわかれば、優先順位を調整できます」
彼は口を開けたまま、少しだけ言葉を探す。
この世界で“期限”を問われたことがないのかもしれない。
依頼は降ってくる。受ける。行く。帰る。終わり。
その間に“いつまで”を入れる発想が薄い。
「……日没までだ」
ようやく彼が言った。
「日没までに、出発できないと困る」
私は頷いた。
「了解。日没までに出発できるように、手続きを優先します」
「……できるのか」
「やります。理由は簡単です。期限が明確だから」
冒険者の目が細くなる。
「お前、変な女だな」
「よく言われます」
そう返すと、周囲から小さな笑いが漏れた。
笑い。
この事務局で笑いが出るの、珍しい。
センパイが私の耳元で囁く。
「今の、刺さったね。みんな固まってた」
「固まるのは悪くないです。固まった瞬間、考えるから」
私は黒板にその冒険者の案件を追記し、横に小さく印をつけた。
【優先】日没まで
印をつけるだけで、現場の空気が少し変わる。
“ああ、あれは急ぎなんだ”って、全員が共有できる。共有できれば、無駄な衝突が減る。
午後。
列は短くなってきた。
最初は「なんで並ばなきゃいけないんだ」とぶつぶつ言っていた冒険者たちも、いつの間にか壁沿いに並ぶことを当然のように受け入れている。人間って、仕組みができるとその中で生き始める。
センパイは途中から、私の隣でチョークを持って手伝い始めた。
字は少し雑だけど、速い。現場の字。
彼女が書くたび、黒板が埋まる速度が上がる。
「新人、ほら、次これ」
「ありがとう。分類は——討伐でいい?」
「うん。あと期限、明後日って言ってた」
「明後日、了解」
こんなふうに、会話が“仕事の言葉”になっていくのが嬉しかった。怒鳴り声じゃない。確認の言葉。進める言葉。
途中で、紙束を抱えて走っていた職員がつまずき、依頼書をばらまいた。
床に散らばる紙。昨日ならそれだけで混乱が増えていた。でも、今日は違った。
センパイが叫ぶ。
「拾う前に!内容だけ読む!」
「え?」
「新人方式!読む!板に書く!」
職員が一瞬迷って、それから紙を拾い上げながら読み上げる。
「採取!森の薬草!期限三日!」
私は即座に黒板に書く。
【採取】森の薬草/期限3日
紙は拾われ、束ねられ、棚に置かれる。
でも、依頼はすでに“板”に残った。
それだけで、紙が再び散らばっても恐怖が減る。
夕方が近づくと、光が窓から斜めに入ってきて、黒板の粉が金色に舞った。
黒板は、ほとんど埋まっていた。
文字。数字。カテゴリ。期限。優先印。
ごちゃごちゃなのに、昨日の“ごちゃごちゃ”とは違う。
整理されたごちゃごちゃ。
見えるごちゃごちゃ。
私はチョークを置き、黒板全体を見渡した。
……ここに、今日の仕事が全部ある。
初めて、“仕事が見える”形になっていた。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
そんな感情が残っていたことに、自分で驚く。
希望って、もっと派手なものだと思ってた。勇者が剣を抜くとか、魔法が炸裂するとか。
でも私の希望は、黒板に並んだ文字の列だった。
「……できた」
小さく呟くと、センパイが隣で肩をぶつけてきた。
「できた、じゃないよ。まだ終わってないよ」
「わかってます。でも——」
私は黒板を指さす。
「ここにある。消えない。踏まれない」
センパイは黒板を見上げて、少しだけ目を細めた。
「……なんかさ」
「はい」
「これ、普通に……助かるね」
その言葉に、私は一瞬だけ心臓が跳ねた。
“助かる”
黒崎マーカーの「助かるわ~」が頭をよぎる。
でも、今の“助かる”は違う。軽くない。奪う言葉じゃない。共に息をつく言葉だ。
私は、笑ってしまった。ほんの少しだけ。
「よかったです」
センパイも笑う。疲れた顔のまま、でも確かに笑う。
カウンターの向こうでは、冒険者たちが黒板を覗き込みながら、自分の依頼が書かれているか確認している。
「お、俺のある」
「期限、明日って書いてあるけど、合ってる」
そんな声が飛び交い、怒鳴り声は少しだけ減っていた。
夕方の光の中で、黒板は文字で埋まり、ギルドの一日が初めて“形”になった。
私はチョークの粉を手で払って、息をひとつ吐いた。
たった一枚の板。
たった数本の線。
たった一つの質問——「いつまでに必要ですか」。
それだけで、世界はほんの少しだけ、整い始めた気がした。
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他サイトにも連載中
2023/09/06 少し修正したバージョンと入れ替えながら更新を再開します。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
【完結】ゲーム開始は自由の時! 乙女ゲーム? いいえ。ここは農業系ゲームの世界ですよ?
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私はゲームの世界に転生したようです。主人公なのですが、前世の記憶が戻ったら、なんという不遇な状況。これもゲームで語られなかった裏設定でしょうか。
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自称妹の事は無視していたら、今度は食事に毒を盛られる始末。これもゲームで語られなかった裏設定でしょうか?
私はどんな辛いことも頑張って乗り越えて、ゲーム開始を楽しみにいたしますわ!
※紹介文と本編は微妙に違います。
完結いたしました。
感想うけつけています。
4月4日、誤字修正しました。
【完結】五度の人生を不幸な出来事で幕を閉じた転生少女は、六度目の転生で幸せを掴みたい!
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「ノワール・エルティナス! 貴様とは婚約破棄だ!」
ノワール・エルティナス伯爵令嬢は、アクード・ベリヤル第三王子に婚約破棄を言い渡される。
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すると、アクードの背後からメルティが現れて、アクードに肩を抱かれてメルティが不敵な笑みを浮かべた。
「お姉様ったら可哀想! まぁ、お姉様より私の方が王子に相応しいという事よ!」
ノワールは、アクードの婚約者に相応しくする為に、様々な事を犠牲にして尽くしたというのに、こんな形で裏切られるとは思っていなくて、ショックで立ち崩れていた。
その時、頭の中にビジョンが浮かんできた。
最初の人生では、日本という国で淵東 黒樹(えんどう くろき)という女子高生で、ゲームやアニメ、ファンタジー小説好きなオタクだったが、学校の帰り道にトラックに刎ねられて死んだ人生。
2度目の人生は、異世界に転生して日本の知識を駆使して…魔女となって魔法や薬学を発展させたが、最後は魔女狩りによって命を落とした。
3度目の人生は、王国に使える女騎士だった。
幾度も国を救い、活躍をして行ったが…最後は王族によって魔物侵攻の盾に使われて死亡した。
4度目の人生は、聖女として国を守る為に活動したが…
魔王の供物として生贄にされて命を落とした。
5度目の人生は、城で王族に使えるメイドだった。
炊事・洗濯などを完璧にこなして様々な能力を駆使して、更には貴族の妻に抜擢されそうになったのだが…同期のメイドの嫉妬により捏造の罪をなすりつけられて処刑された。
そして6度目の現在、全ての前世での記憶が甦り…
「そうですか、では婚約破棄を快く受け入れます!」
そう言って、ノワールは城から出て行った。
5度による浮いた話もなく死んでしまった人生…
6度目には絶対に幸せになってみせる!
そう誓って、家に帰ったのだが…?
一応恋愛として話を完結する予定ですが…
作品の内容が、思いっ切りファンタジー路線に行ってしまったので、ジャンルを恋愛からファンタジーに変更します。
今回はHOTランキングは最高9位でした。
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