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第6話:王都の匂いと、聖堂の悪夢
しおりを挟む街道は、まっすぐじゃない。
曲がって、うねって、草に飲まれかけて、また石畳に戻って――そのたびに、世界の匂いが変わった。
村を出てから数日。
朝は霧の水っぽい匂い、昼は土と汗、夜は焚き火の煙。
馬車に揺られるでもなく、豪華な旅でもなく、ただ歩く旅。
でも、不思議と苦しくなかった。
ルシアンが歩幅を合わせてくれるからだ。
「疲れたら言え」
彼は前を見たまま言う。
「言ったら、止まる?」
私は半分冗談で返した。
「止まる」
即答。
その即答が、私の胸を少し軽くした。
王都が近づくほど、道が整っていく。
草が減り、石が増え、人が増える。
行き交う商人の声、荷車の軋み、馬の鼻息。
空気は賑やかで、同時にざらざらしていた。
そして、匂い。
最初に鼻を刺したのは香水。
甘ったるい花の匂いが、風にのって流れてくる。
次に馬糞。乾いた獣の臭いが、足元から立ち上る。
さらに人いきれ。汗と油と布の匂いが混ざって、熱を持っている。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
ルシアンがちらりと私を見る。
「酔ったか?」
「ううん。……ただ、匂いが多すぎる」
私は鼻を押さえる。
「王都はそういう場所だ」
彼は淡々と言った。
「空気も、人も、欲も。全部が密集してる」
欲。
その言葉に、喉の奥がひりついた。
私は黙って頷き、城壁を見上げる。
高い。
石の壁が、空を切り取っている。
門は大きく、衛兵が並び、人の列が蛇みたいに続いていた。
「身分証は?」
衛兵がルシアンに尋ねる。
ルシアンは旅の騎士の証――擦れた金属札を見せた。
衛兵が頷き、次に私を見る。
「そっちは?」
私の心臓が跳ねる。
私は何者でもない。身分証もない。
エリシア・ノクス=セレスティアという名前はあるけれど、それを証明する紙はない。
ルシアンが前に出た。
さりげなく、自然に。
私の前に壁を作るみたいに。
「同行者だ。事情があって村から出た」
彼は短く言う。
「俺が責任を持つ」
衛兵は私を一度だけ見た。
視線が、値踏みするみたいに冷たい。
「……問題を起こすなよ」
「起こさせない」
ルシアンが即答する。
私は小さく頭を下げた。
門が開く。
そして――王都の中へ。
一歩踏み込んだ瞬間、音が増えた。
声、足音、呼び込み、笑い声、怒鳴り声、鍛冶の金槌。
全部が同じ高さで鳴っていて、耳が追いつかない。
「いらっしゃい! 果物安いよ!」
「布だ布! 南から来た新しい柄!」
「避けろ! 荷車が通るぞ!」
私は人波に押されそうになる。
肩がぶつかり、袖が引っ張られ、息が浅くなる。
「近い」
私は小さく言った。
ルシアンが私の左側へ回り、肩を少し寄せた。
触れてはいない。
でも、人の流れから私を守る角度を作る。
「俺の後ろに」
彼の声は低い。
命令じゃなく、道を示す声。
私は頷き、彼の背中を追った。
背中。
旅の埃と、剣の匂い。
それが道しるべになる。
私はその匂いを頼りに、王都の波を進む。
華やかな店が並ぶ。
金の縁取りの看板。
宝石みたいに光る果物。
絹の布。
笑顔の店主。
通り過ぎる貴族の香水が、鼻を刺す。
美しい。
でも、同時に臭い。
馬糞の臭いがそれを裏切る。
人いきれがそれを押し潰す。
油の臭い、酒の臭い、魚の生臭さ。
甘い香水が混ざって、吐きそうなほど濃い。
「王都って……こんな匂いだったっけ」
私は呟いてしまう。
ルシアンが振り向かずに言う。
「覚えてるのか?」
私は答えに詰まる。
覚えてる。
でも“覚えてる”と言ったら、どこまで言うことになる?
「……なんとなく」
私は誤魔化した。
ルシアンはそれ以上聞かなかった。
聞かれないことが、ありがたい。
人の波を抜けると、少し広い道に出た。
石畳が綺麗で、通りが整っている。
遠くに尖塔が見えた。
大聖堂。
一瞬で、胃が縮んだ。
「――っ」
喉が鳴る。
視界が狭くなる。
尖塔が、あの白い回廊の天井と繋がってしまう。
鐘の音が鳴った。
ゴォン、と。
低く、重く、腹の底に響く音。
その音を聞いた瞬間、私は足が止まった。
いや、止まったというより、身体が拒否した。
脳の奥が白くなる。
鼻に、冷たい石の匂いが蘇る。
金箔の聖画の光が、瞼の裏でギラつく。
そして――階段。
大聖堂の正面階段。
罵声の波。
石が飛ぶ。
衣が剥がされる。
血が頬を伝う。
「役立たず!」
「追放だ!」
「祈れよ!」
耳の奥で、声が再生される。
違う。今は春。今は昼。今は王都の中。
なのに、私の身体だけが雪の夜に引き戻される。
膝が震えた。
息ができない。
手が冷たくなる。
「エリシア」
ルシアンの声がした。
いつもより少し低い。
私は返事ができない。
ルシアンが、すっと前に出た。
彼の背中が、大聖堂の尖塔を隠した。
視界から、あの形が消える。
代わりに見えるのは、擦れた外套と、剣の鞘。
「……無理なら行かなくていい」
彼は振り返らずに言った。
その言葉が、驚くほど優しく胸に落ちる。
無理なら行かなくていい。
そんな許可を、私は一度ももらったことがない。
祈れ。行け。立て。笑え。救え。
いつも命令だった。
私は涙が出そうになった。
でも泣いたら、王都の真ん中で崩れる。
それが怖くて、歯を食いしばる。
「……行かないでいいなら、行かない」
喉の奥で、弱い声が囁く。
逃げたい。
尖塔の影から逃げたい。
春の匂いの場所へ戻りたい。
でも――逃げたら、また同じになる。
私は自分の心の中の冷たい場所を見た。
逃げた先で、いつかまた呼ばれる。
いつかまた見つかる。
そしてそのとき私は、もっと弱い。
ルシアンはまだ私の前に立っている。
守る壁みたいに。
その壁に甘えてしまいたい。
ずっと隠れていたい。
でも、それじゃだめだ。
「……ルシアン」
私はやっと声を出した。
かすれない声なのに、震えた。
「何だ」
「……少し、だけ」
私は息を吸って言った。
「少しだけ、待って」
ルシアンが頷いた。
短く。
「待つ」
私は目を閉じた。
目を閉じると、余計に雪の夜が強くなる。
だからすぐに開けた。
私は手のひらを見た。
小さい。健康な色。
震えているけど、血は出ていない。
ここは今。
私は今、生きている。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
足が折れた時のリオに言った言葉を、自分に。
胃がまだ痛い。
でも私は、一歩前に出た。
足が石畳を踏む音がした。
その音が、現実だった。
雪を踏む音じゃない。
春の王都の音。
ルシアンが少し横にずれて、私の顔を覗いた。
「行けるか?」
私は頷いた。
喉が鳴る。
でも頷いた。
「無理なら、止まる」
彼は念を押すみたいに言う。
私は息を吐いた。
その息は白くならない。
春だ。
「……止まるって言ったら、止まってくれる?」
「止まる」
また即答。
その即答が、私の足を前へ押す。
私たちは歩き出した。
大聖堂に向かう道じゃない。
でも王都の中心へ向かう道は、どうしたって尖塔の影を踏む。
鐘の音がもう一度鳴った。
ゴォン。
腹に響く。
でも今度は、さっきほど心臓が跳ねなかった。
怖い。
それでも、足は動いている。
私はルシアンの横を歩きながら、歯を食いしばった。
逃げない。
逃げない。
私はもう、追放されるだけの人じゃない。
尖塔の影が石畳に落ちている。
その影を踏む瞬間、足首が冷える気がした。
でも私は踏んだ。
踏んで、次の一歩を出した。
「……えらいな」
ルシアンがぼそっと言った。
「なにが」
私は反射で返した。
声が少し尖ってしまう。照れ隠しみたいに。
ルシアンは肩をすくめた。
「怖いのに歩いてる」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
褒められるのは苦手だ。
でも、責務じゃなくて“怖いのに”を見てくれたのが、嬉しい。
私は顔を逸らして言った。
「……怖いままじゃ、終わらないから」
ルシアンが短く笑った。
「そうだな」
王都は相変わらず臭い。
香水と馬糞と人いきれ。
でもその中に、焼き菓子の甘い匂いが混じる。
花屋の湿った匂いが混じる。
鉄を打つ熱い匂いが混じる。
全部が混ざって、汚くて、きらきらしてて、息苦しい。
――それが、私が戻ってきた世界なんだ。
私は自分の足で、一歩ずつ進む。
大聖堂の鐘の音が背中を叩くたび、胃が縮む。
でも、縮んだ胃の奥で、私は小さく息をしている。
生きている息を。
そして、ルシアンの隣で。
守る剣の温度を、背中越しに感じながら。
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