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第3話「雨の森と、血まみれの白銀」
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王都を離れて、どれくらい歩いたのか、もうよくわからなかった。
最初は、ちゃんと数えていたのだ。
門を出てから十歩、二十歩、百歩。
いつ振り返ろうか、どのあたりで振り返るのをあきらめようか、そんなことを考えながら。
でも、振り返る前に、足の裏が痛くなった。
石畳はいつの間にか途切れていて、綺麗に整えられていた道は、ただの固い土の一本道に変わっていた。
王都の喧騒は、もうすっかり遠い。
人の声も馬車の音も聞こえない。耳に届くのは、草を撫でる風と、自分の足音だけ。
靴の裏に、ぐちゃ、と泥が張りつく感触がする。
(あーあ……この靴、神殿支給だったのに)
妙にどうでもいいことが頭をよぎる。
もう返す必要もないのに。
もう“神殿の人間”でもないのに。
曇った空は、どんよりと低く垂れ込めていて、今にも泣き出しそうだった。
いや、たぶん、先に泣きそうだったのは自分の方だ。
「……笑えない」
自嘲気味に呟いた声は、誰にも拾われずに空気に溶けた。
◇
歩けど歩けど、見える景色は大して変わらない。
王都から少し離れただけで、世界はこうも静かになるものなのかと、変なところで感心してしまう。
脇道のない一本道を、とにかく前へ。
行き先なんて決めていないのに、足は止まってくれない。止まったら、そこで何かが終わってしまいそうで、怖かった。
やがて、道の周りに木々が増え始める。
細い枝が空に向かって伸び、葉の隙間からこぼれる光は、神殿のステンドグラスよりずっと素朴で揺れている。
(森……か)
地図なんて持っていないし、ここがどこの森なのかも知らない。
そもそも、王都の外の地名を、リラはほとんど知らなかった。
神殿の外の世界は、祈りの言葉の中にだけある“どこか”で。
実際に歩いたことのある場所なんて、ほんの一握りだ。
(こうやって歩いてるだけで、世界から完全に迷子になってる気がするな)
乾いた独白を、心の中でぽとんと落とす。
そのとき——ぽつ、と、額に冷たい感触が落ちた。
「……雨?」
空を仰ぐと、灰色の雲がさっきよりも重くなっている。
黒に近い鉛色のかたまりが、押しつぶしてくるみたいに広がっていた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ——。
額、頬、首筋。
その一つ一つが、はっきりわかるくらい冷たい。
数呼吸のあいだに、それは「ぽつぽつ」から「ざあざあ」に変わった。
「うわ——」
思わず声が漏れる。
雨粒が急に太くなり、肌を刺すような勢いで降り注いでくる。
ローブの布地はたちまち重くなり、肩から背中へ冷たい水が伝っていく感触が、ぞくりと身震いを誘った。
「ちょ、待って、え、聞いてない……」
誰に文句を言っているのか、自分でもわからない。
女神か、王城か、神殿か、それともただの空か。
靴の中に水が入り込み、ぐちゅ、と嫌な音が鳴る。
髪は額にはりつき、視界は白い雨で滲んだ。
立ち止まると、余計に寒さが骨に染みる。
だから、半ば意地のようなものだけで、リラは足を前へ出し続けた。
(なんなの、ほんと。追放されて、即これ? 女神様、タイミング悪すぎでは……)
心の中のぼやきは、泣き言とほとんど同義だった。
◇
森の入口は、気づけばすぐそこまで迫っていた。
濡れた木々の幹は黒く光り、枝から枝へと落ちる雨が、小さな滝みたいになっている。
土はぬかるみ、踏むたびに靴が沈み込む。
森に入れば、雨気は少しだけ和らぐ。
葉がさえぎってくれる分、頭上からの直撃は減るから。
代わりに、冷気が濃くなる。
濡れた葉と土の匂いが、冷えた空気と一緒に肺の中へ入り込んでくる。
「さむ……」
歯が小刻みに鳴った。
ローブはもう、ただの冷たい布の塊でしかない。
木の下に立ち止まり、幹にもたれかかる。
外の世界での最初の休憩が、こんなびしょ濡れ状態だなんて、誰が想像しただろう。
(いや、想像しとけよ、私)
自嘲のツッコミを自分に入れる余裕が、まだ残っていることに驚く。
しかし、その余裕も長くは続かなかった。
寒さが、じわじわと、体の中心から気力を削っていく。
指先の感覚は薄れ、足は石のように重い。
喉はカラカラなのに、口に入るのは雨水だけ。
「……もう、やだなあ」
ぽつりと声が漏れる。
森の中には、当然ながら返事をしてくれる誰かなんていない。
「もういいよ、どこでもいいから、消えちゃいたいな」
その言葉が、思ったよりもあっさり口から出てきて、自分で少し驚いた。
神殿を追い出された時点で、心の大事なところはだいぶ削れていた。
でも今、雨と冷えと孤独が、それをさらに削り取っていく。
世界の色が、少しずつ薄くなっていく感覚。
雨音だけがやけに鮮明で、自分の足音すら遠くなる。
それでも、足は止まらない。
止まったら、その場にへたり込んで、二度と動けなくなる気がしたから。
◇
どれくらい、そんなふうにさまよっていたのか。
森の中は、時間の感覚を簡単に壊してくる。
木の幹も、落ち葉も、同じようなものばかりで、目印になりそうなものは何一つない。
雨音が少し弱くなった気がした頃、リラはふと足を止めた。
——何か、聞こえた。
雨のざあざあという音とは違う。
風の唸りとも違う。
小さくて、か細くて、それでも確かに耳に引っかかる音。
「……今の、なに?」
耳を澄ます。
息を飲み込んで、雨音の隙間に意識を沈める。
キュ……、と。
掠れた、小さな鳴き声。
泣き声と鳴き声の中間みたいな、弱々しい声が、もう一度、聞こえた。
「……誰?」
言葉が口からこぼれると同時に、体が勝手に動いた。
音のした方へ、泥に足をとられながらも近づいていく。
茂みが視界を遮る。葉と枝が、濡れたローブに引っかかる。
「ちょっと、ごめんね。通るよ……!」
両手で枝をかき分け、上体を低くして進む。
葉についた雨粒が、顔や首筋に容赦なく落ちてきて、思わず目を細めた。
そして——茂みの向こう側で、その子を見つけた。
◇
「……っ」
息が、喉で止まる。
そこにいたのは、白銀の毛並みを持つ小さな猫だった。
いや、“持っていた”と言うべきか。
雪みたいに綺麗だったであろう毛は、今は血と泥でぐちゃぐちゃに汚れている。
雨に打たれて毛はべたりと肌に貼りつき、身体のあちこちには裂けたような傷が見えた。
呼吸は浅く、細い体が上下に震えるたび、泥に混じった血がじわりと滲み出る。
でも——その瞳だけは、驚くほど鮮烈だった。
宝石みたいな蒼。
雨空よりも深くて、森の緑よりも鋭い色が、かすかに光っている。
「え……」
言葉が出てこない。
猫は弱々しく顔を上げ、リラを見た。
そして、小さな口を開いて、か細く鳴く。
「……にゃ……」
それは、「助けて」とも、「もういい」とも聞こえた。
リラの体は、すでに冷え切っている。
指先も感覚が薄くて、足もガクガクしているのに——その瞬間だけ、胸の奥がじわりと熱くなった。
(なんで、こんなところで……)
こんな森の、こんな雨の中で。
こんな小さな命が、ひとりで、こんな状態で倒れているなんて。
頭のどこかが、「関わるな」と言った。
今の自分には余裕がない。自分だって行き倒れ寸前なのに、他人——いや、他生き物——の心配なんてしている場合じゃない、と。
でも、心のずっと深いところで、別の声が響いた。
(放っておけない)
それは、神殿にいた頃から何度も自分を動かしてきた声。
汚れた床も、散らかった寝台も、怪我した子どもの手も——見てしまったら、体が勝手に動いてしまう、自分の弱さであり強さでもある部分。
リラは、泥に膝をついた。
「……ねえ」
声が震える。
寒さか、怖さか、自分でもわからない。
「こんなところで、なにしてるの。バカだなあ……」
バカなのは、たぶん自分も同じだ。
そっと両腕を伸ばし、猫の体を抱き上げる。
細い。軽い。
濡れた毛のせいで一瞬重く感じたけれど、その実態は簡単に折れてしまいそうなほど華奢だった。
血で濡れた毛が、リラのローブを汚す。
それでも、少しも気にならなかった。
むしろ、その温度に驚いていた。
「……あれ」
自分の体は凍っているのに、腕の中の小さな体は、信じられないほど熱い。
熱を持ちすぎている、と言った方が近いくらいに。
掌にじかに伝わるその熱に、リラの指先がじん、と痺れる。
胸の奥が、さらに熱くなる。
「私……なんかでも」
喉の奥から、言葉が漏れた。
「助けられるなら……」
涙の気配が、視界の端をじんわりと滲ませる。
そのくせ、声は不思議と静かだった。
「お願い、生きて」
それは、猫に向けた祈りであり——
同時に、自分自身に向けた祈りでもあった。
◇
リラは猫を胸に抱き寄せ、その額に自分の額をそっと合わせた。
冷たい自分と、熱い猫。
両方の温度が混ざり合い、奇妙なバランスで落ち着く。
「ちょっと、頑張ってね。私も、頑張るから」
自分に言い聞かせるみたいに言葉を重ねる。
両手で猫を支えながら、ゆっくりと詠唱に入った。
声に出す余裕はない。
けれど、祈りの文句は体に染みこんでいて、心の中でなぞることくらいは簡単だった。
(癒しの光よ、穏やかな風よ——)
胸の奥から、いつものあの温かさが顔を出す。
でも今日は、その流れ方が違った。
普段は、細い糸みたいに指先へと移動していく魔力が——
今は、奔流みたいに、勢いを持って溢れ出してくる。
「う、え……ちょっと待って、多くない?」
思わず変な声が出た。
でも止まらない。
魔力が、溜め込んでいたものすべてを吐き出すみたいに、どんどん流れていく。
掌が熱を帯び、淡い緑色の光が猫の小さな体をすっぽりと包み込む。
雨で冷えた空気の中、その光だけが、やけに温かく、柔らかく揺れていた。
「……っ」
猫の体が、ぴくりと震える。
開きかけていた傷口が、まるで時間を巻き戻すみたいな速度でふさがっていく。
血に濡れていた毛並みは、完全には元通りにならないものの、下に見えていた赤い肉は見えなくなっていた。
その様子は、何度も人の怪我を見てきたリラからしても「おかしい」と思うほどのスピードだった。
「まって、こんな……」
驚きと戸惑いで声が震える。
(こんなに、早く? こんなに、きれいに?)
いつも自分がやってきた治癒は、もっとゆっくりだった。
じわじわと、時間をかけて、痛みを和らげていくタイプのもの。
今みたいに、一瞬で「なかったこと」にしてしまうような力なんて、持っていなかったはずだ。
でも——現に、目の前で起こっている。
猫の呼吸は、さっきよりも深くなった。
荒く乱れていた胸の動きが、落ち着いた波に変わっていく。
蒼い瞳が、もう一度、はっきりとリラを映した。
「……よかった」
力が抜ける。
膝に、土の冷たさがじかに伝わる。
胸のどこかが、じんわりと熱いまま、視界が滲んだ。
「よかった……本当に……」
涙が、ぽろぽろと溢れる。
それは、猫を助けられた安堵の涙であり——
同時に、自分の中の「誰かを救いたい」という気持ちが、まだ死んでいなかったことへの涙でもあった。
(私、まだ——誰かを助けたいって思ってるんだ)
あんな追放をされて、
「いらない」と切り捨てられて、
「才能が足りない」と突きつけられて。
それでも、目の前で倒れている小さな命を見たら、放っておけなかった。
その事実が、なんだか悔しくて、でも同時に誇らしくもあって。
ぐちゃぐちゃになった感情が、涙に全部溶けていく。
「私の魔法……ちゃんと、届いてるじゃん」
思わず、笑いながら泣いてしまう。
自分の手の中で、小さな体が温かく息づいている。
それは、「お前の力は弱い」と言い放った測定器よりも、よほど真実味のある証拠だった。
「ねえ」
涙で濡れた頬をそのままに、リラは猫に顔を近づける。
「ありがとう」
助けたはずなのに、気づけば礼を言っていた。
「私まだ、誰かを助けたいって思えるんだ、って……教えてくれて」
猫は「にゃ」と小さく鳴いた。
その声は、不思議と「どういたしまして」にも、「勝手に助けたくせに」にも聞こえる。
リラは笑いながら、その額にそっとキスを落とした。
「とりあえず、ここから出よっか。
このままだと、二人して風邪ひいて倒れるからさ」
立ち上がろうとして、ふらりと足がよろける。
それもそうだ。自分もギリギリだったのだ。
「……でも、大丈夫。二人なら、どうにかなるでしょ」
根拠なんてない。
けれど、胸の中の冷たさは、さっきよりもずっとマシになっていた。
雨はまだ降り続いている。
森の中も、道も、状況は何一つ好転していない。
それでも——リラの腕の中には、確かに守りたい命がいた。
世界が彼女に「いらない」と言ったその日に。
彼女は、世界の片隅で「ここにいて」と言ってくれる存在を、自分の手で拾ったのだ。
それが、この先の運命をめちゃくちゃに変える一歩目だなんて——
このときのリラは、まだ知る由もなかった。
最初は、ちゃんと数えていたのだ。
門を出てから十歩、二十歩、百歩。
いつ振り返ろうか、どのあたりで振り返るのをあきらめようか、そんなことを考えながら。
でも、振り返る前に、足の裏が痛くなった。
石畳はいつの間にか途切れていて、綺麗に整えられていた道は、ただの固い土の一本道に変わっていた。
王都の喧騒は、もうすっかり遠い。
人の声も馬車の音も聞こえない。耳に届くのは、草を撫でる風と、自分の足音だけ。
靴の裏に、ぐちゃ、と泥が張りつく感触がする。
(あーあ……この靴、神殿支給だったのに)
妙にどうでもいいことが頭をよぎる。
もう返す必要もないのに。
もう“神殿の人間”でもないのに。
曇った空は、どんよりと低く垂れ込めていて、今にも泣き出しそうだった。
いや、たぶん、先に泣きそうだったのは自分の方だ。
「……笑えない」
自嘲気味に呟いた声は、誰にも拾われずに空気に溶けた。
◇
歩けど歩けど、見える景色は大して変わらない。
王都から少し離れただけで、世界はこうも静かになるものなのかと、変なところで感心してしまう。
脇道のない一本道を、とにかく前へ。
行き先なんて決めていないのに、足は止まってくれない。止まったら、そこで何かが終わってしまいそうで、怖かった。
やがて、道の周りに木々が増え始める。
細い枝が空に向かって伸び、葉の隙間からこぼれる光は、神殿のステンドグラスよりずっと素朴で揺れている。
(森……か)
地図なんて持っていないし、ここがどこの森なのかも知らない。
そもそも、王都の外の地名を、リラはほとんど知らなかった。
神殿の外の世界は、祈りの言葉の中にだけある“どこか”で。
実際に歩いたことのある場所なんて、ほんの一握りだ。
(こうやって歩いてるだけで、世界から完全に迷子になってる気がするな)
乾いた独白を、心の中でぽとんと落とす。
そのとき——ぽつ、と、額に冷たい感触が落ちた。
「……雨?」
空を仰ぐと、灰色の雲がさっきよりも重くなっている。
黒に近い鉛色のかたまりが、押しつぶしてくるみたいに広がっていた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ——。
額、頬、首筋。
その一つ一つが、はっきりわかるくらい冷たい。
数呼吸のあいだに、それは「ぽつぽつ」から「ざあざあ」に変わった。
「うわ——」
思わず声が漏れる。
雨粒が急に太くなり、肌を刺すような勢いで降り注いでくる。
ローブの布地はたちまち重くなり、肩から背中へ冷たい水が伝っていく感触が、ぞくりと身震いを誘った。
「ちょ、待って、え、聞いてない……」
誰に文句を言っているのか、自分でもわからない。
女神か、王城か、神殿か、それともただの空か。
靴の中に水が入り込み、ぐちゅ、と嫌な音が鳴る。
髪は額にはりつき、視界は白い雨で滲んだ。
立ち止まると、余計に寒さが骨に染みる。
だから、半ば意地のようなものだけで、リラは足を前へ出し続けた。
(なんなの、ほんと。追放されて、即これ? 女神様、タイミング悪すぎでは……)
心の中のぼやきは、泣き言とほとんど同義だった。
◇
森の入口は、気づけばすぐそこまで迫っていた。
濡れた木々の幹は黒く光り、枝から枝へと落ちる雨が、小さな滝みたいになっている。
土はぬかるみ、踏むたびに靴が沈み込む。
森に入れば、雨気は少しだけ和らぐ。
葉がさえぎってくれる分、頭上からの直撃は減るから。
代わりに、冷気が濃くなる。
濡れた葉と土の匂いが、冷えた空気と一緒に肺の中へ入り込んでくる。
「さむ……」
歯が小刻みに鳴った。
ローブはもう、ただの冷たい布の塊でしかない。
木の下に立ち止まり、幹にもたれかかる。
外の世界での最初の休憩が、こんなびしょ濡れ状態だなんて、誰が想像しただろう。
(いや、想像しとけよ、私)
自嘲のツッコミを自分に入れる余裕が、まだ残っていることに驚く。
しかし、その余裕も長くは続かなかった。
寒さが、じわじわと、体の中心から気力を削っていく。
指先の感覚は薄れ、足は石のように重い。
喉はカラカラなのに、口に入るのは雨水だけ。
「……もう、やだなあ」
ぽつりと声が漏れる。
森の中には、当然ながら返事をしてくれる誰かなんていない。
「もういいよ、どこでもいいから、消えちゃいたいな」
その言葉が、思ったよりもあっさり口から出てきて、自分で少し驚いた。
神殿を追い出された時点で、心の大事なところはだいぶ削れていた。
でも今、雨と冷えと孤独が、それをさらに削り取っていく。
世界の色が、少しずつ薄くなっていく感覚。
雨音だけがやけに鮮明で、自分の足音すら遠くなる。
それでも、足は止まらない。
止まったら、その場にへたり込んで、二度と動けなくなる気がしたから。
◇
どれくらい、そんなふうにさまよっていたのか。
森の中は、時間の感覚を簡単に壊してくる。
木の幹も、落ち葉も、同じようなものばかりで、目印になりそうなものは何一つない。
雨音が少し弱くなった気がした頃、リラはふと足を止めた。
——何か、聞こえた。
雨のざあざあという音とは違う。
風の唸りとも違う。
小さくて、か細くて、それでも確かに耳に引っかかる音。
「……今の、なに?」
耳を澄ます。
息を飲み込んで、雨音の隙間に意識を沈める。
キュ……、と。
掠れた、小さな鳴き声。
泣き声と鳴き声の中間みたいな、弱々しい声が、もう一度、聞こえた。
「……誰?」
言葉が口からこぼれると同時に、体が勝手に動いた。
音のした方へ、泥に足をとられながらも近づいていく。
茂みが視界を遮る。葉と枝が、濡れたローブに引っかかる。
「ちょっと、ごめんね。通るよ……!」
両手で枝をかき分け、上体を低くして進む。
葉についた雨粒が、顔や首筋に容赦なく落ちてきて、思わず目を細めた。
そして——茂みの向こう側で、その子を見つけた。
◇
「……っ」
息が、喉で止まる。
そこにいたのは、白銀の毛並みを持つ小さな猫だった。
いや、“持っていた”と言うべきか。
雪みたいに綺麗だったであろう毛は、今は血と泥でぐちゃぐちゃに汚れている。
雨に打たれて毛はべたりと肌に貼りつき、身体のあちこちには裂けたような傷が見えた。
呼吸は浅く、細い体が上下に震えるたび、泥に混じった血がじわりと滲み出る。
でも——その瞳だけは、驚くほど鮮烈だった。
宝石みたいな蒼。
雨空よりも深くて、森の緑よりも鋭い色が、かすかに光っている。
「え……」
言葉が出てこない。
猫は弱々しく顔を上げ、リラを見た。
そして、小さな口を開いて、か細く鳴く。
「……にゃ……」
それは、「助けて」とも、「もういい」とも聞こえた。
リラの体は、すでに冷え切っている。
指先も感覚が薄くて、足もガクガクしているのに——その瞬間だけ、胸の奥がじわりと熱くなった。
(なんで、こんなところで……)
こんな森の、こんな雨の中で。
こんな小さな命が、ひとりで、こんな状態で倒れているなんて。
頭のどこかが、「関わるな」と言った。
今の自分には余裕がない。自分だって行き倒れ寸前なのに、他人——いや、他生き物——の心配なんてしている場合じゃない、と。
でも、心のずっと深いところで、別の声が響いた。
(放っておけない)
それは、神殿にいた頃から何度も自分を動かしてきた声。
汚れた床も、散らかった寝台も、怪我した子どもの手も——見てしまったら、体が勝手に動いてしまう、自分の弱さであり強さでもある部分。
リラは、泥に膝をついた。
「……ねえ」
声が震える。
寒さか、怖さか、自分でもわからない。
「こんなところで、なにしてるの。バカだなあ……」
バカなのは、たぶん自分も同じだ。
そっと両腕を伸ばし、猫の体を抱き上げる。
細い。軽い。
濡れた毛のせいで一瞬重く感じたけれど、その実態は簡単に折れてしまいそうなほど華奢だった。
血で濡れた毛が、リラのローブを汚す。
それでも、少しも気にならなかった。
むしろ、その温度に驚いていた。
「……あれ」
自分の体は凍っているのに、腕の中の小さな体は、信じられないほど熱い。
熱を持ちすぎている、と言った方が近いくらいに。
掌にじかに伝わるその熱に、リラの指先がじん、と痺れる。
胸の奥が、さらに熱くなる。
「私……なんかでも」
喉の奥から、言葉が漏れた。
「助けられるなら……」
涙の気配が、視界の端をじんわりと滲ませる。
そのくせ、声は不思議と静かだった。
「お願い、生きて」
それは、猫に向けた祈りであり——
同時に、自分自身に向けた祈りでもあった。
◇
リラは猫を胸に抱き寄せ、その額に自分の額をそっと合わせた。
冷たい自分と、熱い猫。
両方の温度が混ざり合い、奇妙なバランスで落ち着く。
「ちょっと、頑張ってね。私も、頑張るから」
自分に言い聞かせるみたいに言葉を重ねる。
両手で猫を支えながら、ゆっくりと詠唱に入った。
声に出す余裕はない。
けれど、祈りの文句は体に染みこんでいて、心の中でなぞることくらいは簡単だった。
(癒しの光よ、穏やかな風よ——)
胸の奥から、いつものあの温かさが顔を出す。
でも今日は、その流れ方が違った。
普段は、細い糸みたいに指先へと移動していく魔力が——
今は、奔流みたいに、勢いを持って溢れ出してくる。
「う、え……ちょっと待って、多くない?」
思わず変な声が出た。
でも止まらない。
魔力が、溜め込んでいたものすべてを吐き出すみたいに、どんどん流れていく。
掌が熱を帯び、淡い緑色の光が猫の小さな体をすっぽりと包み込む。
雨で冷えた空気の中、その光だけが、やけに温かく、柔らかく揺れていた。
「……っ」
猫の体が、ぴくりと震える。
開きかけていた傷口が、まるで時間を巻き戻すみたいな速度でふさがっていく。
血に濡れていた毛並みは、完全には元通りにならないものの、下に見えていた赤い肉は見えなくなっていた。
その様子は、何度も人の怪我を見てきたリラからしても「おかしい」と思うほどのスピードだった。
「まって、こんな……」
驚きと戸惑いで声が震える。
(こんなに、早く? こんなに、きれいに?)
いつも自分がやってきた治癒は、もっとゆっくりだった。
じわじわと、時間をかけて、痛みを和らげていくタイプのもの。
今みたいに、一瞬で「なかったこと」にしてしまうような力なんて、持っていなかったはずだ。
でも——現に、目の前で起こっている。
猫の呼吸は、さっきよりも深くなった。
荒く乱れていた胸の動きが、落ち着いた波に変わっていく。
蒼い瞳が、もう一度、はっきりとリラを映した。
「……よかった」
力が抜ける。
膝に、土の冷たさがじかに伝わる。
胸のどこかが、じんわりと熱いまま、視界が滲んだ。
「よかった……本当に……」
涙が、ぽろぽろと溢れる。
それは、猫を助けられた安堵の涙であり——
同時に、自分の中の「誰かを救いたい」という気持ちが、まだ死んでいなかったことへの涙でもあった。
(私、まだ——誰かを助けたいって思ってるんだ)
あんな追放をされて、
「いらない」と切り捨てられて、
「才能が足りない」と突きつけられて。
それでも、目の前で倒れている小さな命を見たら、放っておけなかった。
その事実が、なんだか悔しくて、でも同時に誇らしくもあって。
ぐちゃぐちゃになった感情が、涙に全部溶けていく。
「私の魔法……ちゃんと、届いてるじゃん」
思わず、笑いながら泣いてしまう。
自分の手の中で、小さな体が温かく息づいている。
それは、「お前の力は弱い」と言い放った測定器よりも、よほど真実味のある証拠だった。
「ねえ」
涙で濡れた頬をそのままに、リラは猫に顔を近づける。
「ありがとう」
助けたはずなのに、気づけば礼を言っていた。
「私まだ、誰かを助けたいって思えるんだ、って……教えてくれて」
猫は「にゃ」と小さく鳴いた。
その声は、不思議と「どういたしまして」にも、「勝手に助けたくせに」にも聞こえる。
リラは笑いながら、その額にそっとキスを落とした。
「とりあえず、ここから出よっか。
このままだと、二人して風邪ひいて倒れるからさ」
立ち上がろうとして、ふらりと足がよろける。
それもそうだ。自分もギリギリだったのだ。
「……でも、大丈夫。二人なら、どうにかなるでしょ」
根拠なんてない。
けれど、胸の中の冷たさは、さっきよりもずっとマシになっていた。
雨はまだ降り続いている。
森の中も、道も、状況は何一つ好転していない。
それでも——リラの腕の中には、確かに守りたい命がいた。
世界が彼女に「いらない」と言ったその日に。
彼女は、世界の片隅で「ここにいて」と言ってくれる存在を、自分の手で拾ったのだ。
それが、この先の運命をめちゃくちゃに変える一歩目だなんて——
このときのリラは、まだ知る由もなかった。
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私は聖女(ヒロイン)のおまけ
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100年前、異世界に召喚された聖女の手によって魔王を封印し、アルガシュカル国の危機は救われたが100年経った今、再び魔王の封印が解かれかけている。その為に呼ばれた二人の少女
しかし、聖女は一人。聖女と同じ色彩を持つヒナコ・ハヤカワを聖女候補として考えるアルガシュカルだが念のため、ミズキ・カナエも聖女として扱う。内気で何も自分で決められないヒナコを支えながらミズキは何とか元の世界に帰れないか方法を探す。
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ところが王国内で聖女の処遇で揉めていて、転生先は草原だった。
サラは女神がくれた山盛りてんこ盛りのスキルを使い、異世界で知り合ったモフモフたちと暮らし始める――――
※第16話 あつまれ聖獣の森 6 が抜けていましたので2025/07/30に追加しました。
召喚失敗!?いや、私聖女みたいなんですけど・・・まぁいっか。
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