追放後に拾った猫が実は竜王で、溺愛プロポーズが止まらない

タマ マコト

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第4話「辺境の村と、未亡人マリア」

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 森を抜けたのは、ほとんど無意識のうちだった。

 雨は、いつの間にか小降りになっていた。
 木々の密度が少しずつ薄くなり、視界の先に、開けた場所の気配がにじむ。
 泥まみれの足をずるずる前に引きずりながら、リラは重い瞼をどうにか持ち上げた。

(……ひらけてる)

 木の壁が途切れた先にあったのは、小さな畑と、いくつかの家。
 屋根は藁や粗末な板で、煙突からは細く煙が上がっている。
 土の道はぬかるんでいて、雨水が細い筋になって流れていく。

 王都の整った石畳も、神殿の白い壁も、ここにはない。

 シロ——まだ名前はないけれど——白銀の猫を胸に抱きしめた腕が、じんじん痺れていた。
 猫の体温はまだ高くて、そこだけが、世界から浮き上がっているみたいに熱い。

「……村、だ……」

 声にならない声が、喉から漏れる。

 人の気配。煙の匂い。煮込み料理の、かすかな香り。
 全部が、今のリラには眩しすぎた。

(とりあえず……誰か……)

 そこまで考えたあたりで、限界が来た。

 足首から膝へ、膝から腰へと、力がまとめて抜け落ちる。
 視界が急に斜めになり、世界がゆっくりと傾いた。

「あ——」

 声を出す暇もなく、リラは土の上に崩れ落ちた。
 胸に抱えた猫だけは、なんとか守るように丸く体を丸める。

 冷たい地面の感触と、猫の温かさが最後に交錯して——
 意識は、そこでぷつりと途切れた。



「——起きた」

 低めの女の声が、どこか遠くで響いている。

「猫も……生きてるねえ。運がいいったらないわ」

 次に意識が浮上したとき、最初に感じたのは、鼻をくすぐる木の香りと、薬草のツンとした匂いだった。

 瞼をゆっくり開けると、見知らぬ天井があった。
 白い漆喰でも、豪華な装飾でもない。木の梁がむき出しで、ところどころ節が浮き出ている、素朴な天井。

 耳には、ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
 頬には、暖炉の火の柔らかい熱気が当たっている。

「……ここ……」

「はいはい、おはようさん。よく生きてたね、アンタ」

 視線を横に向けると、椅子にどっかり腰掛けている女の人がいた。

 三十代くらいだろうか。
 癖のある茶色の髪をざっくり後ろで束ね、エプロンには粉と土のシミ。
 腕まくりした袖から見える腕は、細いけど筋が浮いていて、働き者なのが一目でわかる。

 顔立ちはきれいなのに、口元には遠慮のない笑みが乗っている。

「……あの」

「ここは辺境のちっこい村の、さらに外れにある、私の家。
 で、アンタはその玄関前で、猫抱えたまま死にかけてたお嬢ちゃん」

 女は指を一本立てて、さらっと状況を要約した。

「……すみません」

「いや謝られても。死なれるよりはマシだから拾っただけよ」

 言葉はきついのに、声色はどこか楽しげだ。

 上半身を起こそうとして、リラは気づく。
 自分が粗末な木のベッドに寝かされていて、体には毛布が何枚もかけられていることに。

 濡れていたはずのローブも、今は乾いている。
 肌着だけになって、古いシャツを羽織らされているのは、たぶんこの家の持ち主のものだ。

(誰かが……着替えさせてくれた?)

 顔が少し熱くなる。

 そんなリラの様子を見て、女はふっと笑った。

「安心しな。脱がしたのは私。アンタはひたすらぐったりで、色気の欠片もなかったから」

「色気……」

 変なところに突かれて、リラは思わず頬を押さえる。

「で、アンタの猫ちゃんはこっち」

 女——あとで名前がマリアだと知る人——は、暖炉の前のバスケットを顎で指した。

 覗き込むと、そこには白銀の猫が丸くなって眠っていた。
 まだ毛並みに血の跡は残っているけれど、呼吸は安定していて、喉が小さく鳴っている。

「よかった……」

 胸の奥から、ほっとした息が漏れた。

「そっちの猫、相当な熱持ってたけどねえ。普通なら逆に“触っちゃダメ”案件よ? アンタ、よく抱えて歩いたわ」

「……あの子、一人で倒れてたから……」

「見捨てられなかった?」

 図星を刺されて、リラは黙る。

 女は「やっぱりね」と肩をすくめた。

「で、自己紹介がまだだったわね。私はマリア。この家の持ち主で、夫は早くに死んじゃったから、未亡人ってやつ」

「未亡人……」

「そう、未亡人。響きだけ聞くとちょっと色っぽいけど、中身はただの労働力よ。
 で、アンタの名前は?」

「……リラ、です」

「リラ。いい名前じゃない。花っぽくて」

 ついでに、と言わんばかりに質問が飛んでくる。

「で、なんでこんな辺境まで? 王都の子でしょ、そのローブ」

 さすがに見抜かれていた。
 神殿のローブは、たとえ泥まみれでも、形でだいたいわかる。

 リラは一瞬だけ迷ってから、言葉を選ぶ。

「……仕事を」

「うん」

「クビになって、歩いてたら森に迷い込んで、そのまま……」

「こっちに流れ着いたと。なるほどねえ」

 マリアは特に深くは追及しなかった。
 “どんな仕事か”も、“なんでクビになったか”も、聞こうと思えば聞けるのに。

「アンタ、嘘つくの下手そうだし、なんか事情はあるんでしょう。
 話したくなったら勝手に喋ればいいし、喋りたくないなら墓場まで持ってきな」

「……いいんですか」

「何が?」

「そんな、知らない子を……」

「死なせるよりはマシだって言ったでしょ。
 うちは畑も納屋もあるし、寝床くらいはどうとでもなるの。
 その代わり——」

 マリアはにやりと笑った。

「動けるようになったら、ちゃんと働いてもらうからね?」

 その言い回しが、妙に安心感をくれた。

「……はい。できることなら、なんでも」

「その“なんでも”って、たいてい後悔する言い方なんだけどねえ。
 ま、いいわ。今日は寝てなさい。熱、まだ少しあるし」

 そう言ってマリアは立ち上がると、薬草の束を棚から取って、テーブルの上で手早くちぎり始めた。
 ざくざくという音と、鼻をつんと刺す匂いが部屋に広がる。

「それ、薬ですか?」

「そう。貧乏村だからね、医者なんていないし、自分でどうにかするしかないのよ。
 アンタの猫にも後で舐めさせとこ」

 何気なく告げられたその一言が、この村の現実を物語っていた。



 数日後。

 リラは、すっかりこの家の匂いに慣れていた。

 朝は早く、マリアが焚く暖炉の火の音で目を覚ます。
 木の床のひんやりした感触と、外から聞こえてくる鶏の鳴き声が、今の彼女の日常だ。

 寝床は、家の横にある納屋の一角。
 干し草の上に敷かれた古い布団は、正直ふかふかとは言えないけれど、屋根があって雨風がしのげるだけで十分ありがたい。

「はい、朝ごはん」

 マリアが持ってきてくれる朝食は、薄いスープと固いパンと、たまに卵。
 それでも、空腹の胃には十分すぎるご馳走だった。

「ありがとうございます」

「礼言うくらいなら、早く飲んで畑手伝ってきな。今日は芋掘り」

「はい……!」

 指示がやたら早くて的確なのも、マリアらしい。

 村は小さくて、家の数も両手で数えられる程度。
 畑仕事をする人、子どもを抱えた若い母親、腰の曲がった老人。
 みんな、それぞれの持ち場で忙しく動いている。

 医者はいない。神官もいない。
 ちょっとした怪我や病気は、基本的に「我慢する」か「寝て治す」しかない世界だ。

 だからこそ——。

「お嬢ちゃん、本当に治癒ができるのかい?」

 ある日、畑仕事の合間に、腰をさすっていたおばあさんが声をかけてきた。

「この間、マリアが自慢げに言ってたよ。“拾った子が手ぇかざしたら、肩の痛みが軽くなった”って」

「マリアさん……」

「あの人、口悪いけど腕の立つ子は好きだからねえ。
 ちょっと、この手。トゲが刺さって抜けなくてさ」

 差し出された手のひらには、小さな棘が深く食い込んで、赤く腫れていた。
 放っておけば膿みそうな状態だ。

「見せてください」

 リラはおばあさんの手をそっと取った。
 指先に慎重に意識を集中させる。

 胸の奥から、小さな火種みたいな温かさを引き出して、手のひらへ流す。

 ふわり、と薄い緑の光が、おばあさんの手を柔らかく包んだ。

「……あったかいねえ」

「ちょっとだけ、チクってしますけど、すぐ終わりますから」

「トゲ抜くよりはマシだよ」

 腫れた部分が少しずつ落ち着き、棘が自然に表面に浮かび上がる。
 ピンセット代わりに針を使って、マリアが器用にそれを抜き取った。

「ほら、終わり」

「おや……痛くない。なんだい、これ、すごいじゃないか」

 おばあさんの顔が、ふにゃりとほぐれる。

「お嬢ちゃん、すごいねえ。ありがとねぇ」

「いえ、そんな……」

 照れくさくて、視線をそらす。
 でも、その言葉はじんわりと胸に染み込んだ。

(“すごい”なんて、久しぶりに言われた)

 神殿では、「基準以下」だの「補欠」だの、そんな言葉ばかりだったから。

 その後も、ちょっと捻った足首、包丁で切った指、子どもの擦り傷、熱を出した幼児。
 そういうものが少しずつ、リラのところへ集まってきた。

「お嬢ちゃん、ちょっといいかい」「リラちゃん、またあの光見せてよ」と。

 治癒そのものは、神殿にいた頃と大きくは変わらない。
 むしろ、測定器で「弱い」と言われたあの魔力と同じはずなのに。

 ここでは、それで十分だった。

「お嬢ちゃん、本当にすごいねえ」「女神さまみたいだよ」
 そんな言葉が、遠慮なく飛んでくる。

 リラは毎回、「そんな大したものじゃないです」と苦笑いするけれど——
 心のどこかで、こっそりそれを抱きしめていた。



 白銀の猫には、名前がついた。

「アンタ、名前まだ決めてないでしょ?」

 夕食後、暖炉の前で毛繕いしている猫を眺めながら、マリアが言った。

「え、どうしてわかるんですか」

「呼び方が“ねえ”“ほら”ばっかり。
 名前付けてたら、絶対一日五十回は呼んでるわよ、アンタの性格だと」

「……否定できない……」

 図星すぎて、リラは視線を泳がせる。

「いいじゃない、適当に決めな。どうせ猫は自分の好きなように生きるんだから」

「そんな身も蓋もないこと……」

 でも、名前。
 確かに、そろそろちゃんと呼びたい。

 膝の上にちょこんと乗ってきた猫の頭を撫でながら、リラはじっと見つめる。

 血と泥でぐちゃぐちゃだった頃が嘘みたいに、白銀の毛並みはふわふわに戻っていた。
 濡れていないときの毛は、月明かりみたいな銀色で、触ると指先が埋もれる。

「……白いから、シロ、とか」

「安直にも程があるわね」

「だ、だって、他にセンスのある名前思いつかなくて……!」

「いいじゃない。覚えやすくて。猫だし」

 マリアが笑う。
 猫——いや、シロの方はといえば、名前なんてどうでもいいと言わんばかりに、リラの指に頭を押しつけてくる。

「……シロ。どう?」

「にゃあ」

 肯定とも否定ともつかない鳴き声。
 でも、嫌がっている様子はない。

「うん、じゃあ今日からシロね。よろしく、シロ」

 そう言って頬を寄せると、シロはべろりとリラの鼻先を舐めた。

「ひゃっ、冷たっ……! ちょっと、やめ……くすぐったい……!」

 くすくす笑うリラを、マリアがカウンター越しに眺めながら、ぼそっと呟く。

「……うん、だいぶマシな顔になってきたじゃない、アンタ」

「え?」

「なんでもないわよ。はい、片付け手伝って」

「はーい」

 そんな、何気ないやり取りが、ゆっくりと日常になっていった。



 シロは、とにかく人懐こかった。

 朝、リラが納屋で目を覚ますと、だいたい胸元に丸まっている。
 毛布から出ている鼻先を、ぺしぺし、肉球で小突いてくるのが毎朝の目覚ましだ。

「ん……シロ、起きる、起きるから……」

「にゃ」

 返事と共に、のそのそとリラの胸から顔を出し、喉をぐるぐる鳴らす。

 食事のときは膝の上。
 片手でパンをちぎりながら、もう片方の手でシロの背を撫でるのが完全にルーティンと化した。

 村の子どもたちにも人気で、「シロちゃん触っていい?」と順番待ちになることもある。
 そのたびにシロは得意げに喉を鳴らし、リラの方をちらりと見上げてくる。

(ねえ見て、褒められてるよ、って顔……)

 無駄に誇らしげなその表情に、つられて笑ってしまう。

 夜、納屋に戻ると、シロは当然のように布団に潜り込んでくる。
 枕元、胸元、おなかの上。気がつくとどこかに乗っている。

「シロ、重い……」

「にゃ」

 抗議する気ゼロの返事。

「でも、あったかいから……まあ、いっか……」

 冷えた夜気の中で、その体温は本当にありがたかった。

 シロの体温は普通の猫より高い気がする。
 抱きしめていると、手のひらがじんわり温まって、胸の奥までほぐれていく。

(なんか、あったかいの、ひさしぶりだな)

 神殿の寝床は、きれいだけど冷たかった。
 誰かとこうしてくっついて眠ることなんてなかったから、この感覚は新鮮で、少しだけ泣きたくなる。

 シロの喉の音は、遠い雷みたいに低くて、心地よく響いた。

 その音を聞いていると、追放された日の冷たい記憶も、神殿の門が閉まる音も、少しだけ遠ざかる。

 空っぽでスカスカだった心の中に、ちょっとずつ、何かが積もっていく感じ。

 マリアのぶっきらぼうな優しさ。
 村の人たちの、遠慮のない感謝。
 シロの、やたら全面的な甘え。

 それら全部が、リラの中の「いらない」という言葉を、少しずつ上書きしていった。

(ここにいても、いいのかな)

 そう思える瞬間が、一日の中で、ほんの少しだけ増えていく。

 まだまだ不安は多いし、過去の傷は完全には癒えていない。
 それでも——。

 雨の森で偶然拾った命と、辺境の小さな村。
 その二つが、追放された元聖女の心に、静かに新しい居場所を作り始めていた。
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