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第4話「辺境の村と、未亡人マリア」
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森を抜けたのは、ほとんど無意識のうちだった。
雨は、いつの間にか小降りになっていた。
木々の密度が少しずつ薄くなり、視界の先に、開けた場所の気配がにじむ。
泥まみれの足をずるずる前に引きずりながら、リラは重い瞼をどうにか持ち上げた。
(……ひらけてる)
木の壁が途切れた先にあったのは、小さな畑と、いくつかの家。
屋根は藁や粗末な板で、煙突からは細く煙が上がっている。
土の道はぬかるんでいて、雨水が細い筋になって流れていく。
王都の整った石畳も、神殿の白い壁も、ここにはない。
シロ——まだ名前はないけれど——白銀の猫を胸に抱きしめた腕が、じんじん痺れていた。
猫の体温はまだ高くて、そこだけが、世界から浮き上がっているみたいに熱い。
「……村、だ……」
声にならない声が、喉から漏れる。
人の気配。煙の匂い。煮込み料理の、かすかな香り。
全部が、今のリラには眩しすぎた。
(とりあえず……誰か……)
そこまで考えたあたりで、限界が来た。
足首から膝へ、膝から腰へと、力がまとめて抜け落ちる。
視界が急に斜めになり、世界がゆっくりと傾いた。
「あ——」
声を出す暇もなく、リラは土の上に崩れ落ちた。
胸に抱えた猫だけは、なんとか守るように丸く体を丸める。
冷たい地面の感触と、猫の温かさが最後に交錯して——
意識は、そこでぷつりと途切れた。
◇
「——起きた」
低めの女の声が、どこか遠くで響いている。
「猫も……生きてるねえ。運がいいったらないわ」
次に意識が浮上したとき、最初に感じたのは、鼻をくすぐる木の香りと、薬草のツンとした匂いだった。
瞼をゆっくり開けると、見知らぬ天井があった。
白い漆喰でも、豪華な装飾でもない。木の梁がむき出しで、ところどころ節が浮き出ている、素朴な天井。
耳には、ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
頬には、暖炉の火の柔らかい熱気が当たっている。
「……ここ……」
「はいはい、おはようさん。よく生きてたね、アンタ」
視線を横に向けると、椅子にどっかり腰掛けている女の人がいた。
三十代くらいだろうか。
癖のある茶色の髪をざっくり後ろで束ね、エプロンには粉と土のシミ。
腕まくりした袖から見える腕は、細いけど筋が浮いていて、働き者なのが一目でわかる。
顔立ちはきれいなのに、口元には遠慮のない笑みが乗っている。
「……あの」
「ここは辺境のちっこい村の、さらに外れにある、私の家。
で、アンタはその玄関前で、猫抱えたまま死にかけてたお嬢ちゃん」
女は指を一本立てて、さらっと状況を要約した。
「……すみません」
「いや謝られても。死なれるよりはマシだから拾っただけよ」
言葉はきついのに、声色はどこか楽しげだ。
上半身を起こそうとして、リラは気づく。
自分が粗末な木のベッドに寝かされていて、体には毛布が何枚もかけられていることに。
濡れていたはずのローブも、今は乾いている。
肌着だけになって、古いシャツを羽織らされているのは、たぶんこの家の持ち主のものだ。
(誰かが……着替えさせてくれた?)
顔が少し熱くなる。
そんなリラの様子を見て、女はふっと笑った。
「安心しな。脱がしたのは私。アンタはひたすらぐったりで、色気の欠片もなかったから」
「色気……」
変なところに突かれて、リラは思わず頬を押さえる。
「で、アンタの猫ちゃんはこっち」
女——あとで名前がマリアだと知る人——は、暖炉の前のバスケットを顎で指した。
覗き込むと、そこには白銀の猫が丸くなって眠っていた。
まだ毛並みに血の跡は残っているけれど、呼吸は安定していて、喉が小さく鳴っている。
「よかった……」
胸の奥から、ほっとした息が漏れた。
「そっちの猫、相当な熱持ってたけどねえ。普通なら逆に“触っちゃダメ”案件よ? アンタ、よく抱えて歩いたわ」
「……あの子、一人で倒れてたから……」
「見捨てられなかった?」
図星を刺されて、リラは黙る。
女は「やっぱりね」と肩をすくめた。
「で、自己紹介がまだだったわね。私はマリア。この家の持ち主で、夫は早くに死んじゃったから、未亡人ってやつ」
「未亡人……」
「そう、未亡人。響きだけ聞くとちょっと色っぽいけど、中身はただの労働力よ。
で、アンタの名前は?」
「……リラ、です」
「リラ。いい名前じゃない。花っぽくて」
ついでに、と言わんばかりに質問が飛んでくる。
「で、なんでこんな辺境まで? 王都の子でしょ、そのローブ」
さすがに見抜かれていた。
神殿のローブは、たとえ泥まみれでも、形でだいたいわかる。
リラは一瞬だけ迷ってから、言葉を選ぶ。
「……仕事を」
「うん」
「クビになって、歩いてたら森に迷い込んで、そのまま……」
「こっちに流れ着いたと。なるほどねえ」
マリアは特に深くは追及しなかった。
“どんな仕事か”も、“なんでクビになったか”も、聞こうと思えば聞けるのに。
「アンタ、嘘つくの下手そうだし、なんか事情はあるんでしょう。
話したくなったら勝手に喋ればいいし、喋りたくないなら墓場まで持ってきな」
「……いいんですか」
「何が?」
「そんな、知らない子を……」
「死なせるよりはマシだって言ったでしょ。
うちは畑も納屋もあるし、寝床くらいはどうとでもなるの。
その代わり——」
マリアはにやりと笑った。
「動けるようになったら、ちゃんと働いてもらうからね?」
その言い回しが、妙に安心感をくれた。
「……はい。できることなら、なんでも」
「その“なんでも”って、たいてい後悔する言い方なんだけどねえ。
ま、いいわ。今日は寝てなさい。熱、まだ少しあるし」
そう言ってマリアは立ち上がると、薬草の束を棚から取って、テーブルの上で手早くちぎり始めた。
ざくざくという音と、鼻をつんと刺す匂いが部屋に広がる。
「それ、薬ですか?」
「そう。貧乏村だからね、医者なんていないし、自分でどうにかするしかないのよ。
アンタの猫にも後で舐めさせとこ」
何気なく告げられたその一言が、この村の現実を物語っていた。
◇
数日後。
リラは、すっかりこの家の匂いに慣れていた。
朝は早く、マリアが焚く暖炉の火の音で目を覚ます。
木の床のひんやりした感触と、外から聞こえてくる鶏の鳴き声が、今の彼女の日常だ。
寝床は、家の横にある納屋の一角。
干し草の上に敷かれた古い布団は、正直ふかふかとは言えないけれど、屋根があって雨風がしのげるだけで十分ありがたい。
「はい、朝ごはん」
マリアが持ってきてくれる朝食は、薄いスープと固いパンと、たまに卵。
それでも、空腹の胃には十分すぎるご馳走だった。
「ありがとうございます」
「礼言うくらいなら、早く飲んで畑手伝ってきな。今日は芋掘り」
「はい……!」
指示がやたら早くて的確なのも、マリアらしい。
村は小さくて、家の数も両手で数えられる程度。
畑仕事をする人、子どもを抱えた若い母親、腰の曲がった老人。
みんな、それぞれの持ち場で忙しく動いている。
医者はいない。神官もいない。
ちょっとした怪我や病気は、基本的に「我慢する」か「寝て治す」しかない世界だ。
だからこそ——。
「お嬢ちゃん、本当に治癒ができるのかい?」
ある日、畑仕事の合間に、腰をさすっていたおばあさんが声をかけてきた。
「この間、マリアが自慢げに言ってたよ。“拾った子が手ぇかざしたら、肩の痛みが軽くなった”って」
「マリアさん……」
「あの人、口悪いけど腕の立つ子は好きだからねえ。
ちょっと、この手。トゲが刺さって抜けなくてさ」
差し出された手のひらには、小さな棘が深く食い込んで、赤く腫れていた。
放っておけば膿みそうな状態だ。
「見せてください」
リラはおばあさんの手をそっと取った。
指先に慎重に意識を集中させる。
胸の奥から、小さな火種みたいな温かさを引き出して、手のひらへ流す。
ふわり、と薄い緑の光が、おばあさんの手を柔らかく包んだ。
「……あったかいねえ」
「ちょっとだけ、チクってしますけど、すぐ終わりますから」
「トゲ抜くよりはマシだよ」
腫れた部分が少しずつ落ち着き、棘が自然に表面に浮かび上がる。
ピンセット代わりに針を使って、マリアが器用にそれを抜き取った。
「ほら、終わり」
「おや……痛くない。なんだい、これ、すごいじゃないか」
おばあさんの顔が、ふにゃりとほぐれる。
「お嬢ちゃん、すごいねえ。ありがとねぇ」
「いえ、そんな……」
照れくさくて、視線をそらす。
でも、その言葉はじんわりと胸に染み込んだ。
(“すごい”なんて、久しぶりに言われた)
神殿では、「基準以下」だの「補欠」だの、そんな言葉ばかりだったから。
その後も、ちょっと捻った足首、包丁で切った指、子どもの擦り傷、熱を出した幼児。
そういうものが少しずつ、リラのところへ集まってきた。
「お嬢ちゃん、ちょっといいかい」「リラちゃん、またあの光見せてよ」と。
治癒そのものは、神殿にいた頃と大きくは変わらない。
むしろ、測定器で「弱い」と言われたあの魔力と同じはずなのに。
ここでは、それで十分だった。
「お嬢ちゃん、本当にすごいねえ」「女神さまみたいだよ」
そんな言葉が、遠慮なく飛んでくる。
リラは毎回、「そんな大したものじゃないです」と苦笑いするけれど——
心のどこかで、こっそりそれを抱きしめていた。
◇
白銀の猫には、名前がついた。
「アンタ、名前まだ決めてないでしょ?」
夕食後、暖炉の前で毛繕いしている猫を眺めながら、マリアが言った。
「え、どうしてわかるんですか」
「呼び方が“ねえ”“ほら”ばっかり。
名前付けてたら、絶対一日五十回は呼んでるわよ、アンタの性格だと」
「……否定できない……」
図星すぎて、リラは視線を泳がせる。
「いいじゃない、適当に決めな。どうせ猫は自分の好きなように生きるんだから」
「そんな身も蓋もないこと……」
でも、名前。
確かに、そろそろちゃんと呼びたい。
膝の上にちょこんと乗ってきた猫の頭を撫でながら、リラはじっと見つめる。
血と泥でぐちゃぐちゃだった頃が嘘みたいに、白銀の毛並みはふわふわに戻っていた。
濡れていないときの毛は、月明かりみたいな銀色で、触ると指先が埋もれる。
「……白いから、シロ、とか」
「安直にも程があるわね」
「だ、だって、他にセンスのある名前思いつかなくて……!」
「いいじゃない。覚えやすくて。猫だし」
マリアが笑う。
猫——いや、シロの方はといえば、名前なんてどうでもいいと言わんばかりに、リラの指に頭を押しつけてくる。
「……シロ。どう?」
「にゃあ」
肯定とも否定ともつかない鳴き声。
でも、嫌がっている様子はない。
「うん、じゃあ今日からシロね。よろしく、シロ」
そう言って頬を寄せると、シロはべろりとリラの鼻先を舐めた。
「ひゃっ、冷たっ……! ちょっと、やめ……くすぐったい……!」
くすくす笑うリラを、マリアがカウンター越しに眺めながら、ぼそっと呟く。
「……うん、だいぶマシな顔になってきたじゃない、アンタ」
「え?」
「なんでもないわよ。はい、片付け手伝って」
「はーい」
そんな、何気ないやり取りが、ゆっくりと日常になっていった。
◇
シロは、とにかく人懐こかった。
朝、リラが納屋で目を覚ますと、だいたい胸元に丸まっている。
毛布から出ている鼻先を、ぺしぺし、肉球で小突いてくるのが毎朝の目覚ましだ。
「ん……シロ、起きる、起きるから……」
「にゃ」
返事と共に、のそのそとリラの胸から顔を出し、喉をぐるぐる鳴らす。
食事のときは膝の上。
片手でパンをちぎりながら、もう片方の手でシロの背を撫でるのが完全にルーティンと化した。
村の子どもたちにも人気で、「シロちゃん触っていい?」と順番待ちになることもある。
そのたびにシロは得意げに喉を鳴らし、リラの方をちらりと見上げてくる。
(ねえ見て、褒められてるよ、って顔……)
無駄に誇らしげなその表情に、つられて笑ってしまう。
夜、納屋に戻ると、シロは当然のように布団に潜り込んでくる。
枕元、胸元、おなかの上。気がつくとどこかに乗っている。
「シロ、重い……」
「にゃ」
抗議する気ゼロの返事。
「でも、あったかいから……まあ、いっか……」
冷えた夜気の中で、その体温は本当にありがたかった。
シロの体温は普通の猫より高い気がする。
抱きしめていると、手のひらがじんわり温まって、胸の奥までほぐれていく。
(なんか、あったかいの、ひさしぶりだな)
神殿の寝床は、きれいだけど冷たかった。
誰かとこうしてくっついて眠ることなんてなかったから、この感覚は新鮮で、少しだけ泣きたくなる。
シロの喉の音は、遠い雷みたいに低くて、心地よく響いた。
その音を聞いていると、追放された日の冷たい記憶も、神殿の門が閉まる音も、少しだけ遠ざかる。
空っぽでスカスカだった心の中に、ちょっとずつ、何かが積もっていく感じ。
マリアのぶっきらぼうな優しさ。
村の人たちの、遠慮のない感謝。
シロの、やたら全面的な甘え。
それら全部が、リラの中の「いらない」という言葉を、少しずつ上書きしていった。
(ここにいても、いいのかな)
そう思える瞬間が、一日の中で、ほんの少しだけ増えていく。
まだまだ不安は多いし、過去の傷は完全には癒えていない。
それでも——。
雨の森で偶然拾った命と、辺境の小さな村。
その二つが、追放された元聖女の心に、静かに新しい居場所を作り始めていた。
雨は、いつの間にか小降りになっていた。
木々の密度が少しずつ薄くなり、視界の先に、開けた場所の気配がにじむ。
泥まみれの足をずるずる前に引きずりながら、リラは重い瞼をどうにか持ち上げた。
(……ひらけてる)
木の壁が途切れた先にあったのは、小さな畑と、いくつかの家。
屋根は藁や粗末な板で、煙突からは細く煙が上がっている。
土の道はぬかるんでいて、雨水が細い筋になって流れていく。
王都の整った石畳も、神殿の白い壁も、ここにはない。
シロ——まだ名前はないけれど——白銀の猫を胸に抱きしめた腕が、じんじん痺れていた。
猫の体温はまだ高くて、そこだけが、世界から浮き上がっているみたいに熱い。
「……村、だ……」
声にならない声が、喉から漏れる。
人の気配。煙の匂い。煮込み料理の、かすかな香り。
全部が、今のリラには眩しすぎた。
(とりあえず……誰か……)
そこまで考えたあたりで、限界が来た。
足首から膝へ、膝から腰へと、力がまとめて抜け落ちる。
視界が急に斜めになり、世界がゆっくりと傾いた。
「あ——」
声を出す暇もなく、リラは土の上に崩れ落ちた。
胸に抱えた猫だけは、なんとか守るように丸く体を丸める。
冷たい地面の感触と、猫の温かさが最後に交錯して——
意識は、そこでぷつりと途切れた。
◇
「——起きた」
低めの女の声が、どこか遠くで響いている。
「猫も……生きてるねえ。運がいいったらないわ」
次に意識が浮上したとき、最初に感じたのは、鼻をくすぐる木の香りと、薬草のツンとした匂いだった。
瞼をゆっくり開けると、見知らぬ天井があった。
白い漆喰でも、豪華な装飾でもない。木の梁がむき出しで、ところどころ節が浮き出ている、素朴な天井。
耳には、ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
頬には、暖炉の火の柔らかい熱気が当たっている。
「……ここ……」
「はいはい、おはようさん。よく生きてたね、アンタ」
視線を横に向けると、椅子にどっかり腰掛けている女の人がいた。
三十代くらいだろうか。
癖のある茶色の髪をざっくり後ろで束ね、エプロンには粉と土のシミ。
腕まくりした袖から見える腕は、細いけど筋が浮いていて、働き者なのが一目でわかる。
顔立ちはきれいなのに、口元には遠慮のない笑みが乗っている。
「……あの」
「ここは辺境のちっこい村の、さらに外れにある、私の家。
で、アンタはその玄関前で、猫抱えたまま死にかけてたお嬢ちゃん」
女は指を一本立てて、さらっと状況を要約した。
「……すみません」
「いや謝られても。死なれるよりはマシだから拾っただけよ」
言葉はきついのに、声色はどこか楽しげだ。
上半身を起こそうとして、リラは気づく。
自分が粗末な木のベッドに寝かされていて、体には毛布が何枚もかけられていることに。
濡れていたはずのローブも、今は乾いている。
肌着だけになって、古いシャツを羽織らされているのは、たぶんこの家の持ち主のものだ。
(誰かが……着替えさせてくれた?)
顔が少し熱くなる。
そんなリラの様子を見て、女はふっと笑った。
「安心しな。脱がしたのは私。アンタはひたすらぐったりで、色気の欠片もなかったから」
「色気……」
変なところに突かれて、リラは思わず頬を押さえる。
「で、アンタの猫ちゃんはこっち」
女——あとで名前がマリアだと知る人——は、暖炉の前のバスケットを顎で指した。
覗き込むと、そこには白銀の猫が丸くなって眠っていた。
まだ毛並みに血の跡は残っているけれど、呼吸は安定していて、喉が小さく鳴っている。
「よかった……」
胸の奥から、ほっとした息が漏れた。
「そっちの猫、相当な熱持ってたけどねえ。普通なら逆に“触っちゃダメ”案件よ? アンタ、よく抱えて歩いたわ」
「……あの子、一人で倒れてたから……」
「見捨てられなかった?」
図星を刺されて、リラは黙る。
女は「やっぱりね」と肩をすくめた。
「で、自己紹介がまだだったわね。私はマリア。この家の持ち主で、夫は早くに死んじゃったから、未亡人ってやつ」
「未亡人……」
「そう、未亡人。響きだけ聞くとちょっと色っぽいけど、中身はただの労働力よ。
で、アンタの名前は?」
「……リラ、です」
「リラ。いい名前じゃない。花っぽくて」
ついでに、と言わんばかりに質問が飛んでくる。
「で、なんでこんな辺境まで? 王都の子でしょ、そのローブ」
さすがに見抜かれていた。
神殿のローブは、たとえ泥まみれでも、形でだいたいわかる。
リラは一瞬だけ迷ってから、言葉を選ぶ。
「……仕事を」
「うん」
「クビになって、歩いてたら森に迷い込んで、そのまま……」
「こっちに流れ着いたと。なるほどねえ」
マリアは特に深くは追及しなかった。
“どんな仕事か”も、“なんでクビになったか”も、聞こうと思えば聞けるのに。
「アンタ、嘘つくの下手そうだし、なんか事情はあるんでしょう。
話したくなったら勝手に喋ればいいし、喋りたくないなら墓場まで持ってきな」
「……いいんですか」
「何が?」
「そんな、知らない子を……」
「死なせるよりはマシだって言ったでしょ。
うちは畑も納屋もあるし、寝床くらいはどうとでもなるの。
その代わり——」
マリアはにやりと笑った。
「動けるようになったら、ちゃんと働いてもらうからね?」
その言い回しが、妙に安心感をくれた。
「……はい。できることなら、なんでも」
「その“なんでも”って、たいてい後悔する言い方なんだけどねえ。
ま、いいわ。今日は寝てなさい。熱、まだ少しあるし」
そう言ってマリアは立ち上がると、薬草の束を棚から取って、テーブルの上で手早くちぎり始めた。
ざくざくという音と、鼻をつんと刺す匂いが部屋に広がる。
「それ、薬ですか?」
「そう。貧乏村だからね、医者なんていないし、自分でどうにかするしかないのよ。
アンタの猫にも後で舐めさせとこ」
何気なく告げられたその一言が、この村の現実を物語っていた。
◇
数日後。
リラは、すっかりこの家の匂いに慣れていた。
朝は早く、マリアが焚く暖炉の火の音で目を覚ます。
木の床のひんやりした感触と、外から聞こえてくる鶏の鳴き声が、今の彼女の日常だ。
寝床は、家の横にある納屋の一角。
干し草の上に敷かれた古い布団は、正直ふかふかとは言えないけれど、屋根があって雨風がしのげるだけで十分ありがたい。
「はい、朝ごはん」
マリアが持ってきてくれる朝食は、薄いスープと固いパンと、たまに卵。
それでも、空腹の胃には十分すぎるご馳走だった。
「ありがとうございます」
「礼言うくらいなら、早く飲んで畑手伝ってきな。今日は芋掘り」
「はい……!」
指示がやたら早くて的確なのも、マリアらしい。
村は小さくて、家の数も両手で数えられる程度。
畑仕事をする人、子どもを抱えた若い母親、腰の曲がった老人。
みんな、それぞれの持ち場で忙しく動いている。
医者はいない。神官もいない。
ちょっとした怪我や病気は、基本的に「我慢する」か「寝て治す」しかない世界だ。
だからこそ——。
「お嬢ちゃん、本当に治癒ができるのかい?」
ある日、畑仕事の合間に、腰をさすっていたおばあさんが声をかけてきた。
「この間、マリアが自慢げに言ってたよ。“拾った子が手ぇかざしたら、肩の痛みが軽くなった”って」
「マリアさん……」
「あの人、口悪いけど腕の立つ子は好きだからねえ。
ちょっと、この手。トゲが刺さって抜けなくてさ」
差し出された手のひらには、小さな棘が深く食い込んで、赤く腫れていた。
放っておけば膿みそうな状態だ。
「見せてください」
リラはおばあさんの手をそっと取った。
指先に慎重に意識を集中させる。
胸の奥から、小さな火種みたいな温かさを引き出して、手のひらへ流す。
ふわり、と薄い緑の光が、おばあさんの手を柔らかく包んだ。
「……あったかいねえ」
「ちょっとだけ、チクってしますけど、すぐ終わりますから」
「トゲ抜くよりはマシだよ」
腫れた部分が少しずつ落ち着き、棘が自然に表面に浮かび上がる。
ピンセット代わりに針を使って、マリアが器用にそれを抜き取った。
「ほら、終わり」
「おや……痛くない。なんだい、これ、すごいじゃないか」
おばあさんの顔が、ふにゃりとほぐれる。
「お嬢ちゃん、すごいねえ。ありがとねぇ」
「いえ、そんな……」
照れくさくて、視線をそらす。
でも、その言葉はじんわりと胸に染み込んだ。
(“すごい”なんて、久しぶりに言われた)
神殿では、「基準以下」だの「補欠」だの、そんな言葉ばかりだったから。
その後も、ちょっと捻った足首、包丁で切った指、子どもの擦り傷、熱を出した幼児。
そういうものが少しずつ、リラのところへ集まってきた。
「お嬢ちゃん、ちょっといいかい」「リラちゃん、またあの光見せてよ」と。
治癒そのものは、神殿にいた頃と大きくは変わらない。
むしろ、測定器で「弱い」と言われたあの魔力と同じはずなのに。
ここでは、それで十分だった。
「お嬢ちゃん、本当にすごいねえ」「女神さまみたいだよ」
そんな言葉が、遠慮なく飛んでくる。
リラは毎回、「そんな大したものじゃないです」と苦笑いするけれど——
心のどこかで、こっそりそれを抱きしめていた。
◇
白銀の猫には、名前がついた。
「アンタ、名前まだ決めてないでしょ?」
夕食後、暖炉の前で毛繕いしている猫を眺めながら、マリアが言った。
「え、どうしてわかるんですか」
「呼び方が“ねえ”“ほら”ばっかり。
名前付けてたら、絶対一日五十回は呼んでるわよ、アンタの性格だと」
「……否定できない……」
図星すぎて、リラは視線を泳がせる。
「いいじゃない、適当に決めな。どうせ猫は自分の好きなように生きるんだから」
「そんな身も蓋もないこと……」
でも、名前。
確かに、そろそろちゃんと呼びたい。
膝の上にちょこんと乗ってきた猫の頭を撫でながら、リラはじっと見つめる。
血と泥でぐちゃぐちゃだった頃が嘘みたいに、白銀の毛並みはふわふわに戻っていた。
濡れていないときの毛は、月明かりみたいな銀色で、触ると指先が埋もれる。
「……白いから、シロ、とか」
「安直にも程があるわね」
「だ、だって、他にセンスのある名前思いつかなくて……!」
「いいじゃない。覚えやすくて。猫だし」
マリアが笑う。
猫——いや、シロの方はといえば、名前なんてどうでもいいと言わんばかりに、リラの指に頭を押しつけてくる。
「……シロ。どう?」
「にゃあ」
肯定とも否定ともつかない鳴き声。
でも、嫌がっている様子はない。
「うん、じゃあ今日からシロね。よろしく、シロ」
そう言って頬を寄せると、シロはべろりとリラの鼻先を舐めた。
「ひゃっ、冷たっ……! ちょっと、やめ……くすぐったい……!」
くすくす笑うリラを、マリアがカウンター越しに眺めながら、ぼそっと呟く。
「……うん、だいぶマシな顔になってきたじゃない、アンタ」
「え?」
「なんでもないわよ。はい、片付け手伝って」
「はーい」
そんな、何気ないやり取りが、ゆっくりと日常になっていった。
◇
シロは、とにかく人懐こかった。
朝、リラが納屋で目を覚ますと、だいたい胸元に丸まっている。
毛布から出ている鼻先を、ぺしぺし、肉球で小突いてくるのが毎朝の目覚ましだ。
「ん……シロ、起きる、起きるから……」
「にゃ」
返事と共に、のそのそとリラの胸から顔を出し、喉をぐるぐる鳴らす。
食事のときは膝の上。
片手でパンをちぎりながら、もう片方の手でシロの背を撫でるのが完全にルーティンと化した。
村の子どもたちにも人気で、「シロちゃん触っていい?」と順番待ちになることもある。
そのたびにシロは得意げに喉を鳴らし、リラの方をちらりと見上げてくる。
(ねえ見て、褒められてるよ、って顔……)
無駄に誇らしげなその表情に、つられて笑ってしまう。
夜、納屋に戻ると、シロは当然のように布団に潜り込んでくる。
枕元、胸元、おなかの上。気がつくとどこかに乗っている。
「シロ、重い……」
「にゃ」
抗議する気ゼロの返事。
「でも、あったかいから……まあ、いっか……」
冷えた夜気の中で、その体温は本当にありがたかった。
シロの体温は普通の猫より高い気がする。
抱きしめていると、手のひらがじんわり温まって、胸の奥までほぐれていく。
(なんか、あったかいの、ひさしぶりだな)
神殿の寝床は、きれいだけど冷たかった。
誰かとこうしてくっついて眠ることなんてなかったから、この感覚は新鮮で、少しだけ泣きたくなる。
シロの喉の音は、遠い雷みたいに低くて、心地よく響いた。
その音を聞いていると、追放された日の冷たい記憶も、神殿の門が閉まる音も、少しだけ遠ざかる。
空っぽでスカスカだった心の中に、ちょっとずつ、何かが積もっていく感じ。
マリアのぶっきらぼうな優しさ。
村の人たちの、遠慮のない感謝。
シロの、やたら全面的な甘え。
それら全部が、リラの中の「いらない」という言葉を、少しずつ上書きしていった。
(ここにいても、いいのかな)
そう思える瞬間が、一日の中で、ほんの少しだけ増えていく。
まだまだ不安は多いし、過去の傷は完全には癒えていない。
それでも——。
雨の森で偶然拾った命と、辺境の小さな村。
その二つが、追放された元聖女の心に、静かに新しい居場所を作り始めていた。
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しかし、聖女は一人。聖女と同じ色彩を持つヒナコ・ハヤカワを聖女候補として考えるアルガシュカルだが念のため、ミズキ・カナエも聖女として扱う。内気で何も自分で決められないヒナコを支えながらミズキは何とか元の世界に帰れないか方法を探す。
【完結】政略婚約された令嬢ですが、記録と魔法で頑張って、現世と違って人生好転させます
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魔法と貴族社会が息づくこの世界で、セレナは前世の知識を活かし、友人達と交流を深める。
そこに割り込む怪しい聖女ー語彙力もなく、ワンパターンの行動なのに攻略対象ぽい人たちは次々と籠絡されていく。
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その原因を突き止めるため、全ての証拠を記録し始めた。
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