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第5話「“役立たず”じゃなかった? 小さな違和感」
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それは、昼下がりの、ちょっとのんびりした時間だった。
畑仕事もひと段落して、マリアの家の前の丸太に座りながら、リラはシロをひざの上でコロコロ転がしていた。
毛並みは今日も絶好調で、白銀の毛が日差しを柔らかく跳ね返す。指を埋めると、ふわふわの中からあったかい体温がじんわり伝わってくる。
「シロ、そこは噛まない。指は食べ物じゃないの」
「にゃ」
「いや今明らかに歯当ててたよね? ごまかさないで?」
そんな平和な攻防を繰り広げているときだった。
「リラ!!」
叫ぶような声が、村の真ん中から響いた。
顔を上げると、土煙を上げて駆けてくる影が見える。
まだ少年と呼ぶ方がしっくりくるくらいの青年——村一番の力自慢ヨナスだ。
腕の中には、小さな体が抱えられていた。
服は泥と血でぐちゃぐちゃだ。
「……!」
リラは反射的に立ち上がっていた。
シロが膝からするりと落ちるが、それを気にしている余裕はない。
「こっち!」
マリアが店から飛び出してきて、すぐさま家の中へ道を開ける。
「事情はあと! とりあえず中入れて!」
「ああ!」
ヨナスは肩で息をしながら、子どもを抱えたまま家の中へなだれ込む。
リラもそれに続いて走った。
◇
簡素なテーブルの上に、そっと横たえられたのは、小さな男の子だった。
顔色は真っ青で、息は荒く、ときどき喉を詰まらせるような苦しげな音が漏れる。
右脚の太ももあたりが、ありえない角度に曲がっていた。
「……骨、折れてる……」
見た瞬間わかった。
神殿でも、ここまでひどい骨折は滅多になかった。
「森でさ、木の実取りに登ってたら、枝が折れて……そのまま落ちたんだ!」
ヨナスが早口で状況を説明する。
額にも土がついていて、一緒に走ってきたのがよくわかった。
「こいつ、ルカの弟で……!」
「ルカの……」
リラの脳裏に、よく畑で走り回っている兄弟の顔が浮かぶ。
あの元気な兄の弟が、今、こんな姿で息を荒くしている。
太ももだけじゃない。膝のあたりも不自然に腫れていて、ところどころ皮膚が裂け、血がにじんでいる。
普通なら、王都の医者にすぐ連れていきたいレベルだ。
けれど、この村から王都までは、馬でも一日はかかる。
そのあいだに、この小さな体がもつかどうか——それを考えたら、答えは一つしかない。
(今ここで、やるしかない)
心臓が、どくん、と強く鳴った。
「マリアさん、布と水と……できれば、木の板みたいなものを」
「言われなくても用意してるわよ」
マリアはもう動き始めていた。
鍋の横からきれいな布を掴み、水桶を引き寄せ、納屋に飛び込んで板を持ってくる。
「できる?」
短く問われて、リラはこくりと頷く。
「やるしかない、です」
◇
まずは傷口をざっと洗い流す。
泥と血が混ざって、桶の中で薄い赤茶色の水が揺れた。
男の子は痛みに呻き、弱々しく暴れようとする。
マリアが上半身を押さえ、ヨナスがそっと肩を支える。
「ごめんね、ごめんね、すぐ楽にするから」
リラは何度も声をかける。
「大丈夫」と「怖くない」を、言葉に乗せて送る。
骨がずれているのを、手探りで確認する。
神殿で、治癒担当の神官がやっていたのを見て、見様見真似で覚えたやり方。
(ここでずれてる……ここを合わせて……)
深呼吸を一度して、ずれている骨を、慎重に、でも一気に戻す。
「っ……!」
男の子の体がびくんと跳ねる。
マリアが「しっかり押さえて!」と声を張り、ヨナスがさらに力を込める。
関節が、コキン、と嫌な音を立てた。
でも、その直後——。
男の子の表情が、少しだけ和らいだ。
(今……今!)
リラは両手を彼の脚にかざした。
太ももから膝にかけて、まるごと包み込むように。
胸の奥から、魔力を呼び起こす。
いつも通り、そう、いつも通り——のつもりだった。
けれど、やっぱり今日も、いつも通りでは終わらなかった。
(……え)
魔力の流れが、やけにスムーズだった。
引き出すときの抵抗が、ほとんどない。
今までなら、身体のどこかで少し引っかかりを感じて、「ここまで」とブレーキがかかる感覚があった。
けど今は、胸の奥にある泉が、どこまでも深く感じられる。
まるで、自分の内側に開いた井戸が、底なしに澄み渡っているみたいに。
(こんなに……あったっけ、私の中に)
驚く暇もない。
両手の先から、光があふれた。
柔らかな緑の光が、折れた骨と裂けた肉と腫れた皮膚を、まるごと包み込む。
光はただそこにあるだけじゃなく、ゆっくりと、でも確実に「形」を整えていく。
骨が、正しいラインに戻っていく。
筋肉が、その周りを補うように再生していく。
皮膚が、きれいにふさがっていく。
リラは息を詰めて、その変化を感じ取っていた。
自分の魔力が、男の子の体の中を流れ、壊れたところに優しく触れ、そこを「元の形」に思い出させている感覚。
痛みの波が静まり、緊張でこわばっていた筋肉が、少しずつ緩んでいく。
男の子の顔から、苦しそうな歪みがふっと消えた。
まつげが震え、小さなため息とともに、すう、と眠りに落ちる。
「……寝た?」
ヨナスが恐る恐る顔を覗き込む。
「うん。魔力が、痛みを少し鈍らせてるから。今は休ませてあげた方がいいです」
リラは肩で息をしながら、ゆっくりと手を下ろした。
脚の腫れは完全には引いていないものの、さっきと比べものにならないくらい落ち着いている。
骨の位置も、触った限りではほぼ正しく戻っていた。
マリアが、深く息を吐く。
「……アンタ」
「はい?」
「腕、いいわね」
その声は、冗談抜きの、本気の評価だった。
「こんなの、本当なら王都に連れてっても間に合うかどうかって怪我よ。
それをここまで落ち着かせるなんて……アンタ、本当に“すごい”わよ」
「お、おお……」
ヨナスも、ぽかんと口を開けている。
「すげえ……。あんなに変な方向向いてた脚が……ちゃんとまっすぐ……」
彼の手は、まだ子どもの肩を支えたままで、小刻みに震えていた。
それは恐怖からではなく、安堵と驚きからくる震えだ。
「……よかった……」
リラの胸にも、じわじわと安堵が広がる。
たしかに、さっきの治癒は、自分でも驚くくらいスムーズだった。
魔力切れの感覚も、思っていたほど強くない。
(なんで……?)
でも今は、その疑問を後回しにする。
目の前で、小さな命が落ち着いて眠っている。その事実が何より大事だった。
「この子の家族には?」
「俺、呼んでくる! さっきルカには“先に走ってこい”って言われて……、たぶん今頃家で泣いてる」
「頼んだわよ、ヨナス!」
「ああ!」
ヨナスは勢いよく飛び出していく。
マリアは残された子どもの額に布を当てながら、ふう、と息を吐いた。
「いやー……心臓に悪いわ、まったく」
「すみません、私、ちゃんとできてたか……」
「何言ってんの。バッチリよ」
マリアはじろりとリラを見やる。
「アンタ、もっと自分の腕を信用しなさい」
「……でも」
「“でも”じゃない」
いつになく、はっきりと言い切られた。
「今目の前で寝てるこの子が、アンタの治癒の答えよ。
測定器だかなんだか知らないけど、少なくともこの村じゃ、アンタの魔法は“役立たず”なんかじゃない」
その言葉は、胸のど真ん中にストンと落ちて、そこからじんわりと広がった。
役立たずじゃない。
ここでは、そう言ってもらえる。
分かっている。
分かっているのに——心の奥底で、別の声がまだ囁いている。
(でも……神殿では、“弱い”って……)
◇
夕方。
ルカたち家族が駆け込み、弟の無事を知って泣きながら何度も頭を下げていったあと。
家の中は、急に静かになった。
夕飯を終え、片付けも済ませて、マリアは「今日はよく頑張ったから早く寝な」と言ってくれた。
けれど、寝床に横になっても、目は冴えたままだった。
納屋の天井から、隙間風がかすかに入ってくる。
その冷たさを打ち消すように、胸の上にはシロがでん、と陣取っていた。
「重いよ、シロ。今日くらいはお腹の上乗るのやめてくれても……」
「にゃ」
完全に聞く気ゼロの返事。
小さな体のどこにそんな重みを隠していたのか、というくらいの圧がじわじわ腰にくる。
「でも……ありがとね。あったかい」
シロの背中に手を置くと、指先にじかに体温が伝わってきた。
それは昼間よりもさらに濃くて、ほとんど微かな熱源というより、小さな火鉢だ。
(……今の状態で、魔力、どうなってるんだろ)
ふと思う。
昼間の治癒は、明らかに“今までと違った”。
泉が急に深くなったみたいな、そんな圧倒的な感覚。
(たまたま、かな。
でも——そういえば)
リラはぼんやりと過去の記憶をめくる。
この村に来てからの治癒は、不思議と失敗が少ない。
小さな怪我も熱も、神殿にいたころより早く良くなっている気がする。
(……シロが、来てから)
森で倒れていたシロを拾って、治癒して。
あのときも、魔力の流れはおかしいくらいスムーズだった。
それから今日まで。
リラが治癒を行うとき、傍らには、だいたいシロがいた。
膝の上か、肩の上か、足元か。
治癒している自分にくっつくようにして、シロはいつも喉を鳴らしていた。
(偶然……かな)
そう思いながら、リラはゆっくりと目を閉じた。
身体の内側に意識を向ける。
胸の奥、みぞおちのあたり。そこが、自分の魔力の「泉」だと、感覚的にわかる。
普段は、そこにゆっくりと水が溜まっていて、必要なときに汲み上げる感じ。
枯れない代わりに、勢いもそこまでは強くない。
けれど、今——。
(……透明)
泉の水が、やけに澄んでいる。
濁りがなくて、底まで見える。
深さも、前よりずっと深く感じる。
そしてもうひとつ。
(シロに、触れてるときだけ——)
リラはシロの背中に置いた手に、そっと力を込める。
シロの体温が、手のひらから腕を伝って、胸の奥へと入り込んでくるみたいだった。
その瞬間、泉の水がふるふると震え、静かに波紋を広げる。
表面は透明なままなのに、そこから立ちのぼる気配が変わる。
光が差し込んだみたいに、魔力の流れがくっきり見える気がした。
(シロがいるときの方が……)
魔力が、妙にクリアで。
深くて。
使いやすい。
そんな実感が、じわじわと形を持ち始める。
「シロがいるときの方が、私の魔法……」
思わず、声に出してしまう。
「よく効く、気がするんだけど」
シロは目を閉じたまま、ぐるぐると喉を鳴らした。
まるで「そうだよ」と言っているみたいに。
「もしかして、シロが……何か、してくれてる?」
問いかけるように耳をそばだてる。
もちろん、答えなんて返ってこない。
けれど、手のひらに伝わる体温と、胸の奥で震える魔力の泉が、無言の肯定を返してくる気がした。
◇
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは——神殿の測定器の光だった。
あの冷たい透明な柱。
魔力を流しても、すぐにしぼんでしまった、頼りない結果。
『基準以下』
冷徹な声とともに押された、その烙印。
数値で測られた「弱さ」。
それを疑うことなんて、一度もなかった。
(だって、測定器は正しいものだって——ずっと教えられてきたから)
でも、本当に?
あの時も——。
(シロみたいな存在が、近くにいたら、結果は違ってた?)
いや、そんなはずはない。
猫ひとつで、測定結果が変わるわけが——。
そう思おうとしたところで、ふと別の記憶が浮かぶ。
神殿の図書室の片隅。
古びた書物のページの端に、走り書きされていたメモ。
『竜系統の魔力は、一般の測定器では正しく測れないことがある』
その一文を見たとき、軽く流してしまった。
自分には関係ない話だ、と。
(本当に、関係なかったのかな)
胸の奥に、小さなモヤが残る。
今まで、一度も疑わなかった前提。
測定器は正しい。
神殿の言う「基準値」は絶対。
その前提に、初めて小さなひびが入った。
「……あれ、本当に正しかったのかな」
暗闇の中で、リラは小さく独り言をこぼす。
「私、ほんとに“役立たず”だったのかな」
答えは、まだ出ない。
でも——。
今日助けた男の子の安らかな寝顔が、瞼の裏に浮かぶ。
村の人たちの「すごいねえ」という素朴な声も。
胸の中の天秤は、静かに傾き始めていた。
神殿の測定器の言葉と。
村の人たちと、自分の手が感じた「確かさ」と。
どちらを信じるかなんて、今すぐ決める必要はない。
けれど、少なくとも——。
「“役立たず”って決めつけられたまま、全部飲み込むのは……なんか、違う気がする」
ぽつりと呟いたその言葉は、暗闇の中で意外と重く響いた。
シロが、その胸の上で、ぐるん、と寝返りを打つ。
背中がじん、とさらに熱くなる。
まるで、「そう、それでいい」と背中を押されているみたいだった。
「……ありがと、シロ」
撫でると、シロは小さく「にゃ」と鳴いた。
納屋の隙間から覗く夜空には、星がいくつか瞬いている。
その光は、神殿の測定器よりずっと不揃いで、バラバラで——でも不思議と、あたたかかった。
リラは、ほんの少しだけ軽くなった胸のまま、静かに目を閉じた。
“役立たず”じゃなかったかもしれない、という小さな違和感を抱えながら。
それが、この先の運命を揺らす最初の揺れだとも知らずに。
畑仕事もひと段落して、マリアの家の前の丸太に座りながら、リラはシロをひざの上でコロコロ転がしていた。
毛並みは今日も絶好調で、白銀の毛が日差しを柔らかく跳ね返す。指を埋めると、ふわふわの中からあったかい体温がじんわり伝わってくる。
「シロ、そこは噛まない。指は食べ物じゃないの」
「にゃ」
「いや今明らかに歯当ててたよね? ごまかさないで?」
そんな平和な攻防を繰り広げているときだった。
「リラ!!」
叫ぶような声が、村の真ん中から響いた。
顔を上げると、土煙を上げて駆けてくる影が見える。
まだ少年と呼ぶ方がしっくりくるくらいの青年——村一番の力自慢ヨナスだ。
腕の中には、小さな体が抱えられていた。
服は泥と血でぐちゃぐちゃだ。
「……!」
リラは反射的に立ち上がっていた。
シロが膝からするりと落ちるが、それを気にしている余裕はない。
「こっち!」
マリアが店から飛び出してきて、すぐさま家の中へ道を開ける。
「事情はあと! とりあえず中入れて!」
「ああ!」
ヨナスは肩で息をしながら、子どもを抱えたまま家の中へなだれ込む。
リラもそれに続いて走った。
◇
簡素なテーブルの上に、そっと横たえられたのは、小さな男の子だった。
顔色は真っ青で、息は荒く、ときどき喉を詰まらせるような苦しげな音が漏れる。
右脚の太ももあたりが、ありえない角度に曲がっていた。
「……骨、折れてる……」
見た瞬間わかった。
神殿でも、ここまでひどい骨折は滅多になかった。
「森でさ、木の実取りに登ってたら、枝が折れて……そのまま落ちたんだ!」
ヨナスが早口で状況を説明する。
額にも土がついていて、一緒に走ってきたのがよくわかった。
「こいつ、ルカの弟で……!」
「ルカの……」
リラの脳裏に、よく畑で走り回っている兄弟の顔が浮かぶ。
あの元気な兄の弟が、今、こんな姿で息を荒くしている。
太ももだけじゃない。膝のあたりも不自然に腫れていて、ところどころ皮膚が裂け、血がにじんでいる。
普通なら、王都の医者にすぐ連れていきたいレベルだ。
けれど、この村から王都までは、馬でも一日はかかる。
そのあいだに、この小さな体がもつかどうか——それを考えたら、答えは一つしかない。
(今ここで、やるしかない)
心臓が、どくん、と強く鳴った。
「マリアさん、布と水と……できれば、木の板みたいなものを」
「言われなくても用意してるわよ」
マリアはもう動き始めていた。
鍋の横からきれいな布を掴み、水桶を引き寄せ、納屋に飛び込んで板を持ってくる。
「できる?」
短く問われて、リラはこくりと頷く。
「やるしかない、です」
◇
まずは傷口をざっと洗い流す。
泥と血が混ざって、桶の中で薄い赤茶色の水が揺れた。
男の子は痛みに呻き、弱々しく暴れようとする。
マリアが上半身を押さえ、ヨナスがそっと肩を支える。
「ごめんね、ごめんね、すぐ楽にするから」
リラは何度も声をかける。
「大丈夫」と「怖くない」を、言葉に乗せて送る。
骨がずれているのを、手探りで確認する。
神殿で、治癒担当の神官がやっていたのを見て、見様見真似で覚えたやり方。
(ここでずれてる……ここを合わせて……)
深呼吸を一度して、ずれている骨を、慎重に、でも一気に戻す。
「っ……!」
男の子の体がびくんと跳ねる。
マリアが「しっかり押さえて!」と声を張り、ヨナスがさらに力を込める。
関節が、コキン、と嫌な音を立てた。
でも、その直後——。
男の子の表情が、少しだけ和らいだ。
(今……今!)
リラは両手を彼の脚にかざした。
太ももから膝にかけて、まるごと包み込むように。
胸の奥から、魔力を呼び起こす。
いつも通り、そう、いつも通り——のつもりだった。
けれど、やっぱり今日も、いつも通りでは終わらなかった。
(……え)
魔力の流れが、やけにスムーズだった。
引き出すときの抵抗が、ほとんどない。
今までなら、身体のどこかで少し引っかかりを感じて、「ここまで」とブレーキがかかる感覚があった。
けど今は、胸の奥にある泉が、どこまでも深く感じられる。
まるで、自分の内側に開いた井戸が、底なしに澄み渡っているみたいに。
(こんなに……あったっけ、私の中に)
驚く暇もない。
両手の先から、光があふれた。
柔らかな緑の光が、折れた骨と裂けた肉と腫れた皮膚を、まるごと包み込む。
光はただそこにあるだけじゃなく、ゆっくりと、でも確実に「形」を整えていく。
骨が、正しいラインに戻っていく。
筋肉が、その周りを補うように再生していく。
皮膚が、きれいにふさがっていく。
リラは息を詰めて、その変化を感じ取っていた。
自分の魔力が、男の子の体の中を流れ、壊れたところに優しく触れ、そこを「元の形」に思い出させている感覚。
痛みの波が静まり、緊張でこわばっていた筋肉が、少しずつ緩んでいく。
男の子の顔から、苦しそうな歪みがふっと消えた。
まつげが震え、小さなため息とともに、すう、と眠りに落ちる。
「……寝た?」
ヨナスが恐る恐る顔を覗き込む。
「うん。魔力が、痛みを少し鈍らせてるから。今は休ませてあげた方がいいです」
リラは肩で息をしながら、ゆっくりと手を下ろした。
脚の腫れは完全には引いていないものの、さっきと比べものにならないくらい落ち着いている。
骨の位置も、触った限りではほぼ正しく戻っていた。
マリアが、深く息を吐く。
「……アンタ」
「はい?」
「腕、いいわね」
その声は、冗談抜きの、本気の評価だった。
「こんなの、本当なら王都に連れてっても間に合うかどうかって怪我よ。
それをここまで落ち着かせるなんて……アンタ、本当に“すごい”わよ」
「お、おお……」
ヨナスも、ぽかんと口を開けている。
「すげえ……。あんなに変な方向向いてた脚が……ちゃんとまっすぐ……」
彼の手は、まだ子どもの肩を支えたままで、小刻みに震えていた。
それは恐怖からではなく、安堵と驚きからくる震えだ。
「……よかった……」
リラの胸にも、じわじわと安堵が広がる。
たしかに、さっきの治癒は、自分でも驚くくらいスムーズだった。
魔力切れの感覚も、思っていたほど強くない。
(なんで……?)
でも今は、その疑問を後回しにする。
目の前で、小さな命が落ち着いて眠っている。その事実が何より大事だった。
「この子の家族には?」
「俺、呼んでくる! さっきルカには“先に走ってこい”って言われて……、たぶん今頃家で泣いてる」
「頼んだわよ、ヨナス!」
「ああ!」
ヨナスは勢いよく飛び出していく。
マリアは残された子どもの額に布を当てながら、ふう、と息を吐いた。
「いやー……心臓に悪いわ、まったく」
「すみません、私、ちゃんとできてたか……」
「何言ってんの。バッチリよ」
マリアはじろりとリラを見やる。
「アンタ、もっと自分の腕を信用しなさい」
「……でも」
「“でも”じゃない」
いつになく、はっきりと言い切られた。
「今目の前で寝てるこの子が、アンタの治癒の答えよ。
測定器だかなんだか知らないけど、少なくともこの村じゃ、アンタの魔法は“役立たず”なんかじゃない」
その言葉は、胸のど真ん中にストンと落ちて、そこからじんわりと広がった。
役立たずじゃない。
ここでは、そう言ってもらえる。
分かっている。
分かっているのに——心の奥底で、別の声がまだ囁いている。
(でも……神殿では、“弱い”って……)
◇
夕方。
ルカたち家族が駆け込み、弟の無事を知って泣きながら何度も頭を下げていったあと。
家の中は、急に静かになった。
夕飯を終え、片付けも済ませて、マリアは「今日はよく頑張ったから早く寝な」と言ってくれた。
けれど、寝床に横になっても、目は冴えたままだった。
納屋の天井から、隙間風がかすかに入ってくる。
その冷たさを打ち消すように、胸の上にはシロがでん、と陣取っていた。
「重いよ、シロ。今日くらいはお腹の上乗るのやめてくれても……」
「にゃ」
完全に聞く気ゼロの返事。
小さな体のどこにそんな重みを隠していたのか、というくらいの圧がじわじわ腰にくる。
「でも……ありがとね。あったかい」
シロの背中に手を置くと、指先にじかに体温が伝わってきた。
それは昼間よりもさらに濃くて、ほとんど微かな熱源というより、小さな火鉢だ。
(……今の状態で、魔力、どうなってるんだろ)
ふと思う。
昼間の治癒は、明らかに“今までと違った”。
泉が急に深くなったみたいな、そんな圧倒的な感覚。
(たまたま、かな。
でも——そういえば)
リラはぼんやりと過去の記憶をめくる。
この村に来てからの治癒は、不思議と失敗が少ない。
小さな怪我も熱も、神殿にいたころより早く良くなっている気がする。
(……シロが、来てから)
森で倒れていたシロを拾って、治癒して。
あのときも、魔力の流れはおかしいくらいスムーズだった。
それから今日まで。
リラが治癒を行うとき、傍らには、だいたいシロがいた。
膝の上か、肩の上か、足元か。
治癒している自分にくっつくようにして、シロはいつも喉を鳴らしていた。
(偶然……かな)
そう思いながら、リラはゆっくりと目を閉じた。
身体の内側に意識を向ける。
胸の奥、みぞおちのあたり。そこが、自分の魔力の「泉」だと、感覚的にわかる。
普段は、そこにゆっくりと水が溜まっていて、必要なときに汲み上げる感じ。
枯れない代わりに、勢いもそこまでは強くない。
けれど、今——。
(……透明)
泉の水が、やけに澄んでいる。
濁りがなくて、底まで見える。
深さも、前よりずっと深く感じる。
そしてもうひとつ。
(シロに、触れてるときだけ——)
リラはシロの背中に置いた手に、そっと力を込める。
シロの体温が、手のひらから腕を伝って、胸の奥へと入り込んでくるみたいだった。
その瞬間、泉の水がふるふると震え、静かに波紋を広げる。
表面は透明なままなのに、そこから立ちのぼる気配が変わる。
光が差し込んだみたいに、魔力の流れがくっきり見える気がした。
(シロがいるときの方が……)
魔力が、妙にクリアで。
深くて。
使いやすい。
そんな実感が、じわじわと形を持ち始める。
「シロがいるときの方が、私の魔法……」
思わず、声に出してしまう。
「よく効く、気がするんだけど」
シロは目を閉じたまま、ぐるぐると喉を鳴らした。
まるで「そうだよ」と言っているみたいに。
「もしかして、シロが……何か、してくれてる?」
問いかけるように耳をそばだてる。
もちろん、答えなんて返ってこない。
けれど、手のひらに伝わる体温と、胸の奥で震える魔力の泉が、無言の肯定を返してくる気がした。
◇
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは——神殿の測定器の光だった。
あの冷たい透明な柱。
魔力を流しても、すぐにしぼんでしまった、頼りない結果。
『基準以下』
冷徹な声とともに押された、その烙印。
数値で測られた「弱さ」。
それを疑うことなんて、一度もなかった。
(だって、測定器は正しいものだって——ずっと教えられてきたから)
でも、本当に?
あの時も——。
(シロみたいな存在が、近くにいたら、結果は違ってた?)
いや、そんなはずはない。
猫ひとつで、測定結果が変わるわけが——。
そう思おうとしたところで、ふと別の記憶が浮かぶ。
神殿の図書室の片隅。
古びた書物のページの端に、走り書きされていたメモ。
『竜系統の魔力は、一般の測定器では正しく測れないことがある』
その一文を見たとき、軽く流してしまった。
自分には関係ない話だ、と。
(本当に、関係なかったのかな)
胸の奥に、小さなモヤが残る。
今まで、一度も疑わなかった前提。
測定器は正しい。
神殿の言う「基準値」は絶対。
その前提に、初めて小さなひびが入った。
「……あれ、本当に正しかったのかな」
暗闇の中で、リラは小さく独り言をこぼす。
「私、ほんとに“役立たず”だったのかな」
答えは、まだ出ない。
でも——。
今日助けた男の子の安らかな寝顔が、瞼の裏に浮かぶ。
村の人たちの「すごいねえ」という素朴な声も。
胸の中の天秤は、静かに傾き始めていた。
神殿の測定器の言葉と。
村の人たちと、自分の手が感じた「確かさ」と。
どちらを信じるかなんて、今すぐ決める必要はない。
けれど、少なくとも——。
「“役立たず”って決めつけられたまま、全部飲み込むのは……なんか、違う気がする」
ぽつりと呟いたその言葉は、暗闇の中で意外と重く響いた。
シロが、その胸の上で、ぐるん、と寝返りを打つ。
背中がじん、とさらに熱くなる。
まるで、「そう、それでいい」と背中を押されているみたいだった。
「……ありがと、シロ」
撫でると、シロは小さく「にゃ」と鳴いた。
納屋の隙間から覗く夜空には、星がいくつか瞬いている。
その光は、神殿の測定器よりずっと不揃いで、バラバラで——でも不思議と、あたたかかった。
リラは、ほんの少しだけ軽くなった胸のまま、静かに目を閉じた。
“役立たず”じゃなかったかもしれない、という小さな違和感を抱えながら。
それが、この先の運命を揺らす最初の揺れだとも知らずに。
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