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第13話「土下座の再会と、竜王の威圧」
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その日、村の空は、やけに騒がしかった。
鳥たちがいつもと違う方向へ飛んでいく。
犬が落ち着きなく吠え、家畜たちが柵の中でそわそわと足を鳴らしていた。
「……なんか、嫌な感じする」
畑から戻る途中、リラは足を止めて空を見上げた。
薄く黒い靄は、ここ数日で少しずつ濃さを増している。
遠くの山の稜線が、かすかに歪んで見えた。
背中に、ざわり、と冷たいものが走る。
「リラ!」
マリアが村の入口の方から叫んだ。
「ちょっと! アンタも来な! 面倒くさいのが来た!」
「言い方!!」
叫び返しながらも、リラは走り出していた。
“面倒くさい”の意味を、嫌でも察してしまう。
(……来たんだ)
王都からの──“厄介な客”が。
◇
村の入口は、妙な静けさに包まれていた。
いつもなら、子どもたちが虫を追いかけていたり、畑に行く人たちが行き来していたりする場所だ。
今日は、村人たちが一列に並んで、遠くの土煙を固唾を飲んで見つめている。
やがて、土の道の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
ドッドッドッ──と、重たいリズム。
近づいてくるにつれて、そのリズムが妙に乱れているのがわかる。
疲れている。馬も、人も。
姿が見えたとき、リラは息を呑んだ。
本来なら、眩しいくらいに煌びやかなはずの装束。
金糸の刺繍、白いローブ、王家の紋章の入ったマント。
その全てが──泥と血と煤で汚れていた。
裾は破れ、紋章は煤で黒ずみ、金糸は土に沈んで光を失っている。
顔も同じだ。
騎士たちの鎧には傷が刻まれ、神官たちの頬はやつれ切っていた。
「あれが……王都から?」
隣で、誰かが小さく呟く。
騎馬の列の真ん中に、ひときわ立派な馬車があった。
だが、その車体もまた、泥で汚れ、片方の車輪はギリギリのところで持ちこたえている。
村の手前まで来ると、使節団は足を止めた。
しばしの沈黙。
風が、土の匂いと、遠くから混じってきた鉄臭さを運ぶ。
騎馬の前に、一人の男が進み出た。
髭をたくわえた、高位神官の一人。
リラも、何度も見た顔だ。聖堂の奥でいつも偉そうに座っていた男。
「……ここが、例の辺境の村か」
彼は、村を見下ろすような目で言った。
その視線に、マリアが小さく舌打ちする。
「辺境だの無名だの、さっきから失礼なのよね、ああいう顔した連中」
「マリアさん、声……」
「聞こえていいの」
平常運転で強い。頼もしい。
高位神官は、村人たちの前に立つと、かろうじて作った威厳をまとって口を開いた。
「我らは、王都よりの使節団である」
よく通る声が、村の空気を無理やり押し広げる。
「王の命により、“かつての大聖女候補”リラを探し、この地へ到来した」
村人たちの視線が、一斉にリラへ向く。
「……“かつての”とか、言い方」
「いちいちムカつくわね」
小声でマリアと毒を吐き合いながらも、リラは一歩前に出た。
喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
膝が少し震える。
「……私が、リラです」
はっきりと、名乗る。
もう、“補欠”とか“基準以下”とか、余計な肩書きをくっつける気はない。
高位神官の目が、じろりとリラを舐めた。
どこかで見たことがあるような、それでいて「ここにいるのが信じられない」とでも言いたげな顔。
「おお……本当にいたか。
もっとやつれているかと思ったが……案外元気そうだな」
「開口一番それですか」
マリアの低いツッコミが飛ぶ。
リラは、半分笑いそうになりながらも、ぐっと堪えた。
高位神官は、咳払いを一つしてから、言葉を慎重に選ぶような顔になった。
「リラ。久しいな」
「そうですね。追放されてからは、一度も会っていませんから」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「……おお、そうだな。
その件については、色々な行き違いがあった……」
「“行き違い”」
口の中でその言葉を転がす。
“行き違い”で済ませるには、あの日の痛みはあまりに生々しい。
高位神官は続けた。
「過去のことはともかくとして──」
「出たよ、“ともかく”」
マリアがまた小さく唸る。
リラの胸の中にも、同じ言葉が刺さってくる。
「今は、王都が危機に瀕している。
女神の加護が揺らぎ、多くの民が倒れ、魔物が街を蹂躙している。
我らは、その惨状を前に、可能な限りの力を集めねばならぬと判断した」
そこで、男の視線がぐっと鋭くなる。
「リラ。
お前の力が、我々にとって“必要”になった」
その一言で、胸の奥がチリチリと焼けた。
(“必要になった”)
(今までは“いらなかった”って言いたいんだね)
「だから、お前に協力を求めに来た。
王都のために、一緒に立ってほしい」
言葉だけ聞けば立派だ。
けれど、その裏側に透けて見えるのは、都合のいい打算と恐怖。
(“助けてください”じゃないんだ)
(まだ、“上から”なんだ)
唇を噛みそうになったそのとき──。
その男の影に、別の影が重なった。
白いローブ。
金の髪。
以前より痩せた頬と、深く落ちた目の下の隈。
「……リラ」
レイナだった。
上等なはずの聖女服は、他の神官たち以上にボロボロだった。
裾は泥で黒く染まり、袖には乾いた血の跡がこびりついている。
髪は丁寧に結い上げられているはずなのに、ところどころ乱れていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。
(……レイナ様)
声をかけるべきか、迷う。
喉の奥にいろんな言葉が渦巻いて、どれから出せばいいのかわからない。
迷っている間に──レイナは、動いた。
す、と一歩前に出る。
そしてそのまま、膝をついた。
「え……?」
次の瞬間。
彼女は、地面に額をつけていた。
ボロボロのローブが土にまみれ、金の髪に土埃が絡みつく。
村の入口の、決して綺麗とは言えない道の上で。
「レイナ様!?」「なっ──!」
神殿の者たちがざわめく。
レイナは、それを無視するように、震える声を絞り出した。
「ごめんなさい、リラ」
その声は、ひどくか細かった。
「本当に……本当に、ごめんなさい……」
ガリ、と土を掻く音がする。
額を押しつける力が、尋常じゃない。
「わたし……あなたを、庇えなかった。
測定器の結果を、信じたふりをして。
神官たちの言葉に、縋って。
“あの子は弱いから仕方ない”って、自分に言い聞かせて……」
言葉が、そこで一度途切れた。
レイナの肩が震えている。
涙が土に落ち、泥水と混じる。
「本当は、わかってた。
あなたが、弱くなんかないこと。
治癒の時の光が、誰よりもあたたかいってこと。
わたし一人じゃ背負いきれないものを、ずっと一緒に持ってくれてたこと……」
「……」
リラは、何も言えなかった。
怒りと、哀しみと、安堵と、嫉妬と、懐かしさと。
ありとあらゆる感情が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「それでも……わたし、怖かったの」
レイナは、声を震わせ続ける。
「“大聖女”って肩書きが。
“たった一人の真の聖女”って、持ち上げられることが。
もしあなたと一緒に立ったら、わたしの存在意義がなくなるんじゃないかって……」
嗚咽が混じる。
「だから、“基準以下”って言葉に、甘えた。
神官たちの“切り捨てても仕方ない”って言葉に、縋った。
庇うことをやめた。
あなたを、守るのをやめた」
胸の奥が、ズキッ、と痛む。
(知ってた)
(どこかで、ずっと知ってた)
レイナが、自分を完全に信じていなかったこと。
どこかで、自分と並び立つ存在を恐れていたこと。
「その結果が、これなの……」
レイナは顔を上げた。
泥と涙と血でぐちゃぐちゃになった顔。
「王都は崩れかけてる。
結界は破れて、魔物が街に溢れて……
わたしは、“ひとりの大聖女”として、何もできなかった……」
「レイナ様……」
「だからお願い、リラ」
レイナの目が、リラを真っ直ぐに見た。
そこには、言い訳も、体裁も、プライドもなかった。
ただ、必死さだけがあった。
「今さら、どんな顔して会えばいいのかわからないけど……
謝る資格があるのかもわからないけど……」
声が、少しだけ裏返る。
「お願い……助けて。
王都の人たちを……わたしの、大切な人たちを……死なせたくないの」
その一言で、リラの胸は、どうしようもなく掻き乱された。
「……ずるい」
ぽつりと、声が漏れる。
「そういうふうに言うの、ずるいよ、レイナ様」
怒りがないわけじゃない。
むしろ、怒りの方が強いくらいだ。
追放された日のこと。
門が閉まる音。
“庇えなかった”と言いながら、その目の奥に浮かんだ安堵。
全部、まだ鮮明に覚えている。
「今さら……今さら、そんなふうに謝られても、傷は消えないよ」
唇を噛む。
涙が、じわりと滲む。
「“ごめんなさい”って言葉で、あの日の私の気持ちが全部チャラになるわけじゃない」
「……うん……」
レイナは否定しなかった。
うつむきながら、小さく頷く。
「許されるなんて……思ってない。
罰を与えるなら、何だって受ける。
嫌われたっていい。
それでも──」
顔を上げる。
その目は、涙でぐちゃぐちゃでも、光を失ってはいなかった。
「王都のみんなが、死んじゃうのは嫌なの」
その一言が、胸に刺さる。
(私だって、嫌だよ)
心の中で、誰かが叫ぶ。
(嫌に決まってる)
神殿が嫌いでも、王都が苦くても。
治したことのある人たちが死ぬのを、“どうでもいい”なんて言えるはずがない。
(でも……)
喉の奥で、何かが渦巻く。
怒り、悲しみ、罪悪感、そして、今の居場所への愛着。
(私だって、ここを守りたい)
村の人たち。
マリア。
子どもたち。
シロ──いや、アゼル。
(ここを守りたいし、あっちも見捨てたくない。
どっちもなんて、都合よすぎるのかもしれないけど……)
答えを出せずに、唇をさらに噛みしめたとき。
背中の方から、ふわりと空気が変わった。
冷たくも熱くもない、ただ濃い何か。
空気が一瞬、ぴたりと止まる。
村人たちのざわめきが、すっと引いた。
「……これ以上、リラの感情を掻き回すな」
低い声が、リラのすぐ後ろから響いた。
振り返るまでもない。
聞き慣れた声。
アゼルが、一歩前に出た。
いつもの農作業用のシャツではなく、マリアが「まともなとき用」にとっておいた、少しだけきちんとした服を着ている。
黒い髪は風に揺れ、蒼い瞳が、村の入口にひざまずく一団を射抜いた。
その瞬間──空気が、変わった。
さっきまで、ただの“疲れた旅人の一団”だった王都の使節団が、
一気に“狩られる側の獲物”みたいな匂いを帯びる。
「な、何者だ……?」
騎士の一人が、震える声を漏らした。
アゼルは、返事の代わりに、息をひとつ吐く。
ただのため息。
それだけのはずなのに──。
空気が、びり、と震えた。
見えない圧力が、上から押し寄せてくる。
地面がきしみ、周囲の空気が重く沈む。
胸の奥がざわつく。
それは、あの日、魔物を圧倒したときに感じた“片鱗”よりも、ずっと濃い。
竜の威圧。
「っ……!」
高位神官が、思わず一歩後ろに下がる。
騎士たちも、息を詰めて足を踏ん張る。
膝が、かくん、と折れた。
「な、なんだ、この……」
「重い……体が、動か……」
使節団の面々は、誰ひとりとして顔を上げられなくなっていた。
地面に押し付けられたみたいに、頭が勝手に垂れる。
レイナだけが、土下座の姿勢のまま、小刻みに震えながらも、必死に顔を上げようとしていた。
アゼルは、一歩、また一歩と前に出る。
リラの前に立ち、完全に庇う位置。
その姿は、どこからどう見ても、“彼女の盾”だった。
「お前たちの都合で」
低い声が、じわじわと使節団の耳に染み込んでいく。
「これ以上、リラを振り回すことは許さない」
一語一語が、重い。
「追放したのはお前たちだ。
“基準以下”“役立たず”と切り捨て、“ここにはいらない”と突きつけた。
その結果、リラはここで、ようやく“居場所”を見つけた」
アゼルの目が、冷たい光を宿す。
「今さら、“必要になったから返してくれ”と?」
高位神官の喉が、ごくりと鳴る。
「そ、それは……我々も、誤りを認め……」
「誤りを認めれば、過去が消えるとでも?」
淡々とした声の中に、鋭い刃が潜んでいる。
「お前たちが呼び出した魔物によって、傷ついた者や死んだ者が、元に戻るとでも?」
言葉が続かない。
誰も反論できなかった。
沈黙。
重い沈黙。
リラは、アゼルの背中を見上げた。
いつもの、猫の時のふにゃっとした空気は欠片もない。
そこに立っているのは、“天と地の均衡を司る竜王”だった。
王都の結界を見張り、世界の魔力の流れを監視してきた存在。
その威圧を、真正面から浴びている。
(……怖い)
思わず本音が零れかける。
でも、同時に。
(心強い)
胸の奥に、それ以上に強い感情が広がっていた。
「リラは、“ここにいたい”と選んだ」
アゼルは続ける。
「居場所とは、与えられるものではない。
自分で選び、積み上げたものだ」
その言葉に、リラの指先が小さく震える。
「お前たちは、それを一度奪った。
今度は、勝手に引き摺り出そうとしている」
蒼い瞳が、細められた。
「我は──それを許さない」
空気が、さらに一段重くなった。
騎士の一人が、とうとう両膝をつき、その場に崩れ落ちる。
「ひ、ひぃ……!」
「やめ、やめろ……!」
高位神官も、背筋を折られたようにして地面に手をついた。
額から汗が滝のように流れ落ちている。
マリアたち村人は、驚きはしているものの、そこまで強く押さえつけられてはいない。
アゼルが無意識に「対象」を選んでいるのがわかった。
(……完全に、“敵”って認識されてんだな、あの人たち)
リラは、複雑な気持ちでそれを見つめた。
沈黙を破ったのは──やっぱりレイナだった。
「っ……!」
土の上で、彼女の指がぎゅっと握りしめられる。
押しつけられるような魔力に、震えながらも。
それでも、必死に顔を上げた。
「ま、待って……!」
声は掠れていた。
それでも、はっきりと響いた。
「お前たちは黙っていろ」
高位神官が反射的に怒鳴ろうとするが、アゼルの視線一つで声が喉の奥に消える。
レイナはそんなことすら気にしていないように、アゼルの方を見上げた。
「あなたが……どれだけ強い存在か、わたしには……全部はわからないけど」
ひゅう、と乱れた息を吐きながら、それでも続ける。
「リラを守ってくれていることだけは、見ればわかる。
そのことには……本当に、感謝してる」
「……」
アゼルの目が、わずかに細くなる。
レイナは、震える手で地面を掴み、さらに頭を垂れた。
「でも……それでも……!」
声が、少しだけ大きくなる。
「王都のみんなが……死んじゃう……!」
その一言に、空気が揺れた。
「子どもたちが……泣いてる。
家族を失って、行き場をなくした人たちが、絶望してる。
わたしは、もう……あの街を、“女神の加護の場所です”なんて胸を張って言えない……!」
涙が、土に落ちて跳ねる。
「わたしは悪かった。
神殿も、王都も、たくさん間違った。
欲に目が眩んで、力を求めすぎて、禁忌に手を出して……取り返しがつかないことになってる」
うつむく高位神官たち。
誰一人、否定しない。否定できない。
「だからって……だからって……」
レイナは、必死に顔を上げた。
「“だから死んで当然だ”って言われるのだけは……耐えられない……!」
その声には、虚勢も飾りもなかった。
ただ、切実で、どうしようもない祈りだけがあった。
「お願い……リラ」
レイナは、地面に額をつけたまま、震える声で呼ぶ。
「わたしは……あなたに謝る資格なんてないかもしれないし、
“助けてください”なんて言う資格もないのかもしれない。
それでも──」
喉の奥から、絞り出すみたいな声。
「どうか……どうか、あの街の人たちを……“見捨てないで”って言ったら、あなたは……それでも、怒る?」
その問いに、リラの胸の奥で、何かがはじけた。
怒り、悲しみ、赦せない気持ち。
全部全部、まだそこにある。
でも──。
(“見捨てないで”)
その言葉にだけは、どうやっても“嫌だ”と言えない自分も、確かにいた。
アゼルの威圧が、少しだけ和らぐ。
彼は無言で振り返り、リラを見た。
蒼い瞳が問うている。
──どうしたい?
選ぶのは、お前だ、と。
リラは、ぎゅっと拳を握りしめた。
喉の奥に溜まっていた感情を、一つずつ噛み潰すみたいに飲み込んでいく。
居場所を奪われた痛み。
“いらない”と言われた記憶。
今ようやく見つけた“ここにいたい場所”。
その全部を抱えたまま──それでも。
視線を、土下座しているレイナへと向けた。
今にも壊れそうなその姿は、かつて自分が頭の中で作り上げた“完璧な大聖女”像とは、似ても似つかなかった。
だからこそ──やっと、同じ高さに立てた気がした。
胸の奥で、ぽつり、と言葉が生まれる。
(……ずるいなあ、本当に)
深く息を吸う。
アゼルの背中の横から、一歩、前に出た。
竜王の威圧が、リラの周りだけ少し薄くなる。
視界が、はっきりと開けた。
「……レイナ様」
静かな声で呼ぶ。
レイナの肩が、びくんと震えた。
「顔、上げてください」
ゆっくりと、レイナが顔を上げる。
泥と涙でぐちゃぐちゃの顔に、かすかな希望と、深い絶望が混ざった表情が浮かんでいる。
リラは、唇を噛んで、それから──。
「“見捨ててほしい”なんて、言われても、無理です」
絞り出すように言った。
「私、そういうの、できないから」
レイナの目が、わずかに見開かれた。
アゼルの視線も、静かにリラへ向く。
それでもまだ、返事は最後まで言わない。
王都をどうするか。
ここをどう守るか。
リラの選択は、今まさに形を取り始めたところだった。
鳥たちがいつもと違う方向へ飛んでいく。
犬が落ち着きなく吠え、家畜たちが柵の中でそわそわと足を鳴らしていた。
「……なんか、嫌な感じする」
畑から戻る途中、リラは足を止めて空を見上げた。
薄く黒い靄は、ここ数日で少しずつ濃さを増している。
遠くの山の稜線が、かすかに歪んで見えた。
背中に、ざわり、と冷たいものが走る。
「リラ!」
マリアが村の入口の方から叫んだ。
「ちょっと! アンタも来な! 面倒くさいのが来た!」
「言い方!!」
叫び返しながらも、リラは走り出していた。
“面倒くさい”の意味を、嫌でも察してしまう。
(……来たんだ)
王都からの──“厄介な客”が。
◇
村の入口は、妙な静けさに包まれていた。
いつもなら、子どもたちが虫を追いかけていたり、畑に行く人たちが行き来していたりする場所だ。
今日は、村人たちが一列に並んで、遠くの土煙を固唾を飲んで見つめている。
やがて、土の道の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
ドッドッドッ──と、重たいリズム。
近づいてくるにつれて、そのリズムが妙に乱れているのがわかる。
疲れている。馬も、人も。
姿が見えたとき、リラは息を呑んだ。
本来なら、眩しいくらいに煌びやかなはずの装束。
金糸の刺繍、白いローブ、王家の紋章の入ったマント。
その全てが──泥と血と煤で汚れていた。
裾は破れ、紋章は煤で黒ずみ、金糸は土に沈んで光を失っている。
顔も同じだ。
騎士たちの鎧には傷が刻まれ、神官たちの頬はやつれ切っていた。
「あれが……王都から?」
隣で、誰かが小さく呟く。
騎馬の列の真ん中に、ひときわ立派な馬車があった。
だが、その車体もまた、泥で汚れ、片方の車輪はギリギリのところで持ちこたえている。
村の手前まで来ると、使節団は足を止めた。
しばしの沈黙。
風が、土の匂いと、遠くから混じってきた鉄臭さを運ぶ。
騎馬の前に、一人の男が進み出た。
髭をたくわえた、高位神官の一人。
リラも、何度も見た顔だ。聖堂の奥でいつも偉そうに座っていた男。
「……ここが、例の辺境の村か」
彼は、村を見下ろすような目で言った。
その視線に、マリアが小さく舌打ちする。
「辺境だの無名だの、さっきから失礼なのよね、ああいう顔した連中」
「マリアさん、声……」
「聞こえていいの」
平常運転で強い。頼もしい。
高位神官は、村人たちの前に立つと、かろうじて作った威厳をまとって口を開いた。
「我らは、王都よりの使節団である」
よく通る声が、村の空気を無理やり押し広げる。
「王の命により、“かつての大聖女候補”リラを探し、この地へ到来した」
村人たちの視線が、一斉にリラへ向く。
「……“かつての”とか、言い方」
「いちいちムカつくわね」
小声でマリアと毒を吐き合いながらも、リラは一歩前に出た。
喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
膝が少し震える。
「……私が、リラです」
はっきりと、名乗る。
もう、“補欠”とか“基準以下”とか、余計な肩書きをくっつける気はない。
高位神官の目が、じろりとリラを舐めた。
どこかで見たことがあるような、それでいて「ここにいるのが信じられない」とでも言いたげな顔。
「おお……本当にいたか。
もっとやつれているかと思ったが……案外元気そうだな」
「開口一番それですか」
マリアの低いツッコミが飛ぶ。
リラは、半分笑いそうになりながらも、ぐっと堪えた。
高位神官は、咳払いを一つしてから、言葉を慎重に選ぶような顔になった。
「リラ。久しいな」
「そうですね。追放されてからは、一度も会っていませんから」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「……おお、そうだな。
その件については、色々な行き違いがあった……」
「“行き違い”」
口の中でその言葉を転がす。
“行き違い”で済ませるには、あの日の痛みはあまりに生々しい。
高位神官は続けた。
「過去のことはともかくとして──」
「出たよ、“ともかく”」
マリアがまた小さく唸る。
リラの胸の中にも、同じ言葉が刺さってくる。
「今は、王都が危機に瀕している。
女神の加護が揺らぎ、多くの民が倒れ、魔物が街を蹂躙している。
我らは、その惨状を前に、可能な限りの力を集めねばならぬと判断した」
そこで、男の視線がぐっと鋭くなる。
「リラ。
お前の力が、我々にとって“必要”になった」
その一言で、胸の奥がチリチリと焼けた。
(“必要になった”)
(今までは“いらなかった”って言いたいんだね)
「だから、お前に協力を求めに来た。
王都のために、一緒に立ってほしい」
言葉だけ聞けば立派だ。
けれど、その裏側に透けて見えるのは、都合のいい打算と恐怖。
(“助けてください”じゃないんだ)
(まだ、“上から”なんだ)
唇を噛みそうになったそのとき──。
その男の影に、別の影が重なった。
白いローブ。
金の髪。
以前より痩せた頬と、深く落ちた目の下の隈。
「……リラ」
レイナだった。
上等なはずの聖女服は、他の神官たち以上にボロボロだった。
裾は泥で黒く染まり、袖には乾いた血の跡がこびりついている。
髪は丁寧に結い上げられているはずなのに、ところどころ乱れていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。
(……レイナ様)
声をかけるべきか、迷う。
喉の奥にいろんな言葉が渦巻いて、どれから出せばいいのかわからない。
迷っている間に──レイナは、動いた。
す、と一歩前に出る。
そしてそのまま、膝をついた。
「え……?」
次の瞬間。
彼女は、地面に額をつけていた。
ボロボロのローブが土にまみれ、金の髪に土埃が絡みつく。
村の入口の、決して綺麗とは言えない道の上で。
「レイナ様!?」「なっ──!」
神殿の者たちがざわめく。
レイナは、それを無視するように、震える声を絞り出した。
「ごめんなさい、リラ」
その声は、ひどくか細かった。
「本当に……本当に、ごめんなさい……」
ガリ、と土を掻く音がする。
額を押しつける力が、尋常じゃない。
「わたし……あなたを、庇えなかった。
測定器の結果を、信じたふりをして。
神官たちの言葉に、縋って。
“あの子は弱いから仕方ない”って、自分に言い聞かせて……」
言葉が、そこで一度途切れた。
レイナの肩が震えている。
涙が土に落ち、泥水と混じる。
「本当は、わかってた。
あなたが、弱くなんかないこと。
治癒の時の光が、誰よりもあたたかいってこと。
わたし一人じゃ背負いきれないものを、ずっと一緒に持ってくれてたこと……」
「……」
リラは、何も言えなかった。
怒りと、哀しみと、安堵と、嫉妬と、懐かしさと。
ありとあらゆる感情が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「それでも……わたし、怖かったの」
レイナは、声を震わせ続ける。
「“大聖女”って肩書きが。
“たった一人の真の聖女”って、持ち上げられることが。
もしあなたと一緒に立ったら、わたしの存在意義がなくなるんじゃないかって……」
嗚咽が混じる。
「だから、“基準以下”って言葉に、甘えた。
神官たちの“切り捨てても仕方ない”って言葉に、縋った。
庇うことをやめた。
あなたを、守るのをやめた」
胸の奥が、ズキッ、と痛む。
(知ってた)
(どこかで、ずっと知ってた)
レイナが、自分を完全に信じていなかったこと。
どこかで、自分と並び立つ存在を恐れていたこと。
「その結果が、これなの……」
レイナは顔を上げた。
泥と涙と血でぐちゃぐちゃになった顔。
「王都は崩れかけてる。
結界は破れて、魔物が街に溢れて……
わたしは、“ひとりの大聖女”として、何もできなかった……」
「レイナ様……」
「だからお願い、リラ」
レイナの目が、リラを真っ直ぐに見た。
そこには、言い訳も、体裁も、プライドもなかった。
ただ、必死さだけがあった。
「今さら、どんな顔して会えばいいのかわからないけど……
謝る資格があるのかもわからないけど……」
声が、少しだけ裏返る。
「お願い……助けて。
王都の人たちを……わたしの、大切な人たちを……死なせたくないの」
その一言で、リラの胸は、どうしようもなく掻き乱された。
「……ずるい」
ぽつりと、声が漏れる。
「そういうふうに言うの、ずるいよ、レイナ様」
怒りがないわけじゃない。
むしろ、怒りの方が強いくらいだ。
追放された日のこと。
門が閉まる音。
“庇えなかった”と言いながら、その目の奥に浮かんだ安堵。
全部、まだ鮮明に覚えている。
「今さら……今さら、そんなふうに謝られても、傷は消えないよ」
唇を噛む。
涙が、じわりと滲む。
「“ごめんなさい”って言葉で、あの日の私の気持ちが全部チャラになるわけじゃない」
「……うん……」
レイナは否定しなかった。
うつむきながら、小さく頷く。
「許されるなんて……思ってない。
罰を与えるなら、何だって受ける。
嫌われたっていい。
それでも──」
顔を上げる。
その目は、涙でぐちゃぐちゃでも、光を失ってはいなかった。
「王都のみんなが、死んじゃうのは嫌なの」
その一言が、胸に刺さる。
(私だって、嫌だよ)
心の中で、誰かが叫ぶ。
(嫌に決まってる)
神殿が嫌いでも、王都が苦くても。
治したことのある人たちが死ぬのを、“どうでもいい”なんて言えるはずがない。
(でも……)
喉の奥で、何かが渦巻く。
怒り、悲しみ、罪悪感、そして、今の居場所への愛着。
(私だって、ここを守りたい)
村の人たち。
マリア。
子どもたち。
シロ──いや、アゼル。
(ここを守りたいし、あっちも見捨てたくない。
どっちもなんて、都合よすぎるのかもしれないけど……)
答えを出せずに、唇をさらに噛みしめたとき。
背中の方から、ふわりと空気が変わった。
冷たくも熱くもない、ただ濃い何か。
空気が一瞬、ぴたりと止まる。
村人たちのざわめきが、すっと引いた。
「……これ以上、リラの感情を掻き回すな」
低い声が、リラのすぐ後ろから響いた。
振り返るまでもない。
聞き慣れた声。
アゼルが、一歩前に出た。
いつもの農作業用のシャツではなく、マリアが「まともなとき用」にとっておいた、少しだけきちんとした服を着ている。
黒い髪は風に揺れ、蒼い瞳が、村の入口にひざまずく一団を射抜いた。
その瞬間──空気が、変わった。
さっきまで、ただの“疲れた旅人の一団”だった王都の使節団が、
一気に“狩られる側の獲物”みたいな匂いを帯びる。
「な、何者だ……?」
騎士の一人が、震える声を漏らした。
アゼルは、返事の代わりに、息をひとつ吐く。
ただのため息。
それだけのはずなのに──。
空気が、びり、と震えた。
見えない圧力が、上から押し寄せてくる。
地面がきしみ、周囲の空気が重く沈む。
胸の奥がざわつく。
それは、あの日、魔物を圧倒したときに感じた“片鱗”よりも、ずっと濃い。
竜の威圧。
「っ……!」
高位神官が、思わず一歩後ろに下がる。
騎士たちも、息を詰めて足を踏ん張る。
膝が、かくん、と折れた。
「な、なんだ、この……」
「重い……体が、動か……」
使節団の面々は、誰ひとりとして顔を上げられなくなっていた。
地面に押し付けられたみたいに、頭が勝手に垂れる。
レイナだけが、土下座の姿勢のまま、小刻みに震えながらも、必死に顔を上げようとしていた。
アゼルは、一歩、また一歩と前に出る。
リラの前に立ち、完全に庇う位置。
その姿は、どこからどう見ても、“彼女の盾”だった。
「お前たちの都合で」
低い声が、じわじわと使節団の耳に染み込んでいく。
「これ以上、リラを振り回すことは許さない」
一語一語が、重い。
「追放したのはお前たちだ。
“基準以下”“役立たず”と切り捨て、“ここにはいらない”と突きつけた。
その結果、リラはここで、ようやく“居場所”を見つけた」
アゼルの目が、冷たい光を宿す。
「今さら、“必要になったから返してくれ”と?」
高位神官の喉が、ごくりと鳴る。
「そ、それは……我々も、誤りを認め……」
「誤りを認めれば、過去が消えるとでも?」
淡々とした声の中に、鋭い刃が潜んでいる。
「お前たちが呼び出した魔物によって、傷ついた者や死んだ者が、元に戻るとでも?」
言葉が続かない。
誰も反論できなかった。
沈黙。
重い沈黙。
リラは、アゼルの背中を見上げた。
いつもの、猫の時のふにゃっとした空気は欠片もない。
そこに立っているのは、“天と地の均衡を司る竜王”だった。
王都の結界を見張り、世界の魔力の流れを監視してきた存在。
その威圧を、真正面から浴びている。
(……怖い)
思わず本音が零れかける。
でも、同時に。
(心強い)
胸の奥に、それ以上に強い感情が広がっていた。
「リラは、“ここにいたい”と選んだ」
アゼルは続ける。
「居場所とは、与えられるものではない。
自分で選び、積み上げたものだ」
その言葉に、リラの指先が小さく震える。
「お前たちは、それを一度奪った。
今度は、勝手に引き摺り出そうとしている」
蒼い瞳が、細められた。
「我は──それを許さない」
空気が、さらに一段重くなった。
騎士の一人が、とうとう両膝をつき、その場に崩れ落ちる。
「ひ、ひぃ……!」
「やめ、やめろ……!」
高位神官も、背筋を折られたようにして地面に手をついた。
額から汗が滝のように流れ落ちている。
マリアたち村人は、驚きはしているものの、そこまで強く押さえつけられてはいない。
アゼルが無意識に「対象」を選んでいるのがわかった。
(……完全に、“敵”って認識されてんだな、あの人たち)
リラは、複雑な気持ちでそれを見つめた。
沈黙を破ったのは──やっぱりレイナだった。
「っ……!」
土の上で、彼女の指がぎゅっと握りしめられる。
押しつけられるような魔力に、震えながらも。
それでも、必死に顔を上げた。
「ま、待って……!」
声は掠れていた。
それでも、はっきりと響いた。
「お前たちは黙っていろ」
高位神官が反射的に怒鳴ろうとするが、アゼルの視線一つで声が喉の奥に消える。
レイナはそんなことすら気にしていないように、アゼルの方を見上げた。
「あなたが……どれだけ強い存在か、わたしには……全部はわからないけど」
ひゅう、と乱れた息を吐きながら、それでも続ける。
「リラを守ってくれていることだけは、見ればわかる。
そのことには……本当に、感謝してる」
「……」
アゼルの目が、わずかに細くなる。
レイナは、震える手で地面を掴み、さらに頭を垂れた。
「でも……それでも……!」
声が、少しだけ大きくなる。
「王都のみんなが……死んじゃう……!」
その一言に、空気が揺れた。
「子どもたちが……泣いてる。
家族を失って、行き場をなくした人たちが、絶望してる。
わたしは、もう……あの街を、“女神の加護の場所です”なんて胸を張って言えない……!」
涙が、土に落ちて跳ねる。
「わたしは悪かった。
神殿も、王都も、たくさん間違った。
欲に目が眩んで、力を求めすぎて、禁忌に手を出して……取り返しがつかないことになってる」
うつむく高位神官たち。
誰一人、否定しない。否定できない。
「だからって……だからって……」
レイナは、必死に顔を上げた。
「“だから死んで当然だ”って言われるのだけは……耐えられない……!」
その声には、虚勢も飾りもなかった。
ただ、切実で、どうしようもない祈りだけがあった。
「お願い……リラ」
レイナは、地面に額をつけたまま、震える声で呼ぶ。
「わたしは……あなたに謝る資格なんてないかもしれないし、
“助けてください”なんて言う資格もないのかもしれない。
それでも──」
喉の奥から、絞り出すみたいな声。
「どうか……どうか、あの街の人たちを……“見捨てないで”って言ったら、あなたは……それでも、怒る?」
その問いに、リラの胸の奥で、何かがはじけた。
怒り、悲しみ、赦せない気持ち。
全部全部、まだそこにある。
でも──。
(“見捨てないで”)
その言葉にだけは、どうやっても“嫌だ”と言えない自分も、確かにいた。
アゼルの威圧が、少しだけ和らぐ。
彼は無言で振り返り、リラを見た。
蒼い瞳が問うている。
──どうしたい?
選ぶのは、お前だ、と。
リラは、ぎゅっと拳を握りしめた。
喉の奥に溜まっていた感情を、一つずつ噛み潰すみたいに飲み込んでいく。
居場所を奪われた痛み。
“いらない”と言われた記憶。
今ようやく見つけた“ここにいたい場所”。
その全部を抱えたまま──それでも。
視線を、土下座しているレイナへと向けた。
今にも壊れそうなその姿は、かつて自分が頭の中で作り上げた“完璧な大聖女”像とは、似ても似つかなかった。
だからこそ──やっと、同じ高さに立てた気がした。
胸の奥で、ぽつり、と言葉が生まれる。
(……ずるいなあ、本当に)
深く息を吸う。
アゼルの背中の横から、一歩、前に出た。
竜王の威圧が、リラの周りだけ少し薄くなる。
視界が、はっきりと開けた。
「……レイナ様」
静かな声で呼ぶ。
レイナの肩が、びくんと震えた。
「顔、上げてください」
ゆっくりと、レイナが顔を上げる。
泥と涙でぐちゃぐちゃの顔に、かすかな希望と、深い絶望が混ざった表情が浮かんでいる。
リラは、唇を噛んで、それから──。
「“見捨ててほしい”なんて、言われても、無理です」
絞り出すように言った。
「私、そういうの、できないから」
レイナの目が、わずかに見開かれた。
アゼルの視線も、静かにリラへ向く。
それでもまだ、返事は最後まで言わない。
王都をどうするか。
ここをどう守るか。
リラの選択は、今まさに形を取り始めたところだった。
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