追放後に拾った猫が実は竜王で、溺愛プロポーズが止まらない

タマ マコト

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第15話「大浄化と、神殿への復讐」

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 空を裂く風の音は、悲鳴みたいだった。

 リラは竜の背にしがみつきながら、ぎゅっと目を閉じる。
 指の下に触れるのは、硬くて滑らかな鱗。
 冷たいはずなのに、そこからじんわりと伝わる熱が、唯一の安心だった。

(本当に、空飛んでるんだ……)

 何度も心の中で繰り返して、やっと現実だと理解する。

 アゼルは今、完全に“竜王”の姿をしていた。
 夜空の一部を切り取って形にしたみたいな黒い巨体。
 月光を飲み込むような翼。
 首をめぐらせたとき、その蒼い瞳が、一度だけ背中の少女を振り返る。

『怖いか』

 声は、直接頭の中に響いてきた。

「……ちょっとだけ」

『“ちょっと”で済んでいるなら上出来だ』

 竜形態のわりに、声はいつものアゼルだった。
 それが可笑しくて、ほんの少しだけ笑いそうになる。

 でも、笑いは喉の奥で凍りついた。

 視界の端に、王都が見えてきたからだ。

 高い城壁。
 大理石の塔。
 本来なら、夜でもあちこちに灯がともり、賑やかなはずの街。

 今、そのすべてが──黒い靄に覆われていた。

「……っ」

 息が詰まる。

 街の上に、べったりと貼りついた黒い雲。
 瘴気が渦を巻き、ところどころで赤い光が瞬いている。
 あれは炎か、それとも魔物の目か。

 城壁の中からは、悲鳴のような、唸り声のような音が混ざって聞こえてきた。

『見るなとは言わんが、飲まれるな』

 アゼルの声が、少しだけ低くなる。

『これは“お前の罪”ではない。
 お前が背負うべきものは、お前自身が選んだ分だけだ』

「……うん」

 胸の奥で、マリアの声が蘇る。
 「全部自分で背負う必要はないんだよ」と笑っていた顔。

(全部はできない。
 でも、今の私にできるだけは、ちゃんとやる)

 リラは自分に言い聞かせて、背筋を伸ばした。

 王都の上空を一度旋回し、それから徐々に高度を落としていく。
 地上の光と闇の輪郭が、少しずつはっきりしてくる。

 崩れた屋根。
 倒れた塔。
 街角でうずくまる人影。
 そして──神殿前の広場に、渦を巻く黒い影の群れ。

『あそこだ』

 アゼルが翼を傾ける。

 巨大な竜の影が、靄の間を切り裂いていく。
 そのたびに、瘴気が嫌そうにざわめく。

 神殿前の広場の光景を見た瞬間、リラの心臓が跳ねた。



 神殿前の大広場は、かつてリラが知っていた場所とは、ほとんど別物になっていた。

 昔は、朝になると露店が並んで、祈りに来た人々が穏やかに行き交っていた。
 儀式の日には、白い花びらが舞い、鐘の音が響いていた。

 今は──。

 粉々に砕けた石畳。
 倒れた柱。
 巨大な爪痕。
 そのあいだを、黒い影がのたうち回っている。

 瘴気をまとった獣たち。
 人の形をしているのに、顔が溶けたように歪んだ魔物。
 その中に、血だらけで倒れている人間たち。

「やだ……」

 思わず声が漏れた。

 誰かが泣いている。
 誰かが叫んでいる。
 誰かが、誰かの名前を呼び続けている。

(遅かったのかな……)

 胸の奥がきゅっと締めあげられる。

『遅くもない。早くもない』

 アゼルの声は、冷静だ。

『“今、お前がここにいる”という事実だけを見ろ』

「……うん」

 竜の巨大な影が広場の上空を覆うと、魔物たちの動きがざわついた。
 耳障りな唸り声が、一斉に空をかきむしる。

『掴まっていろ』

 アゼルの体が、わずかに後ろへしなった。

 次の瞬間──竜王の喉から、咆哮が放たれた。

 それは、音というより“圧”だった。

 空気が震え、瘴気が一瞬で引き裂かれる。
 乾いた空に、雷にも似た衝撃が走る。

 魔物たちが、一斉に黙り込んだ。

 その場にへたり込むもの。
 耳を押さえるように頭を抱えるもの。
 純粋な本能から来る“恐怖”に押し潰され、動けなくなっている。

 人間たちもまた、その咆哮の圧に呑まれて、短い悲鳴をあげた。
 だが、アゼルはしっかりと狙いを定めている。
 恐怖の刃は、魔物たちにだけ深く突き刺さり、人間たちには“膝が震える”程度で済むように絞られていた。

『今だ』

「……うん!」

 リラは、竜の背から軽やかに飛び降りた。

 本当は軽やかなんかじゃない。
 膝はがくがく震えているし、心臓は爆発しそうだし、手のひらも汗でじっとり濡れている。

 それでも、足は前に出た。

 崩れた石畳を踏みしめて、一歩、二歩と進む。

「リラ……!」

 広場の端で、誰かが叫んだ。

 レイナだった。

 ボロボロのローブのまま、倒れた人々のそばで治癒の光を必死に灯している。
 その光は弱く、今にもかき消されそうだ。

 目が合った。

 レイナの顔が、くしゃりと歪む。
 何かを叫ぼうとして、言葉が喉の奥で絡まる。

 リラは、一度だけ小さく頷いた。
 それ以上、何も言わない。

(今は、言葉じゃなくて、やることが先)

 胸の奥の泉に意識を沈める。
 アゼルの魔力と触れ合う感覚を、意識して引き寄せる。

「アゼル!」

『ああ』

 背後から、竜王の気配がさらに濃くなる。

 巨大な竜が、広場の端に身を横たえた。
 その頭を、リラの少し後ろ、まるで“護衛”の位置に下げる。

『我が核を、少し開く』

 アゼルの声が、低く響く。

『お前の治癒の流れと、世界の魔力の流れを、一度だけ重ねる。
 負担は大きい。だが、お前なら耐えられる』

「……信じてるよ」

 リラは、両手を胸の前に組んだ。

 指先が、微かに震える。
 それでも目を閉じて、深く息を吸う。

 胸の奥の泉が、熱さを増していく。
 そこに、アゼルからの蒼い光が注ぎ込まれる。

 泉は溢れ、川になる。
 川は広がり、海になる。

 “流れ”が変わる。

 自分の中の治癒魔力が、世界の底に流れる竜の理とつながっていく。
 人間としての限界を超えた深さに、足を踏み入れる感覚。

(怖い)

 正直、怖い。

 でも──。

(これは、私が選んだこと)

 歯を食いしばる。

「……行くよ」

 小さく呟き、目を開けた。

 両手を前に伸ばす。
 竜王の頭の上に、その片方をそっと乗せる。
 鱗の下から、核の鼓動が伝わってきた。

 もう片方の手を、王都へ向かって差し伸べる。

「届いて──」

 願いを込める。

「全部、届いて!」

 次の瞬間。

 世界が、光に包まれた。



 それは、眩しさというより“温度”だった。

 広場の上に、柔らかな蒼緑の光が、ゆっくりと広がっていく。
 竜の魔力と、リラの治癒が混ざり合って生まれた光。

 それはまるで、冷え切った世界に一気に春を流し込むような、優しくて、でも揺るぎない波だった。

 負傷者の傷口に触れた光が、ゆっくりと染み込んでいく。
 破れた皮膚が再び繋がり、砕けた骨が元の形に組み上がる。
 焼けただれた肌が、少しずつ滑らかさを取り戻す。

「え……」

「痛く……ない……?」

 人々の口から、驚きの声が漏れる。

 ただの治癒ではない。
 肉体だけではなく、瘴気に蝕まれかけていた“内側”まで、光がすくい取っていく。

 黒い靄が触れた場所の冷たさが、じんわりと消えていく。
 肺の奥に残っていた重さが、ふっと軽くなる。

 魔物たちの近くでは、光は別の形をとっていた。

 瘴気そのものを、内側から溶かす光。
 黒いもやが、煙のようにふわりと浮かび上がり、風に吹かれて消えていく。

 瘴気を失った魔物の体は、ゆっくりと崩れた。
 もともとこの世界に居場所のなかった“異物”たちが、静かに還っていく。

 街の上を覆っていた黒い雲にも、光は届いていた。

 ひび割れた結界の残骸に、光が染み込む。
 歪んだ魔力の流れを、少しずつ正しい場所へと誘導していく。

 ガラスに入ったひびを、内側から“なかったこと”にしていくような作業。
 すべてを元どおりにすることはできなくても、これ以上割れないように補修することはできる。

 広場だけでなく、街中の至るところで、小さな奇跡が起きていた。

 崩れかけた家の中で、挟まれていた子どもが、瓦礫の隙間から引き出される。
 路地裏でうずくまっていた老人が、ゆっくりと体を起こす。
 神殿の階段で倒れていた兵士が、震える手で立ち上がる。

 誰かが泣いた。
 誰かが笑った。
 誰かが、ただ呆然と空を見上げた。

 そこには──竜の影と、両手を広げたひとりの少女の姿。

 神殿の高窓から、その光景を見下ろしている者たちがいた。



 崩れかけた神殿の礼拝堂。
 壁の一部は落ち、ステンドグラスは割れ、女神像の腕には大きなひびが入っている。

 そこに、高位神官たちが集まっていた。

「この光……」

「まさか……」

 窓から差し込む蒼緑の光が、老神官の皺だらけの顔を照らす。
 その光に触れた瞬間、痛みで曲がっていた腰がほんの少しだけ伸びた。

「竜の……魔力?」

「いや、人の……治癒……?」

 相反するはずの二つの要素が、ひとつの波になって押し寄せてくる。

 誰かが、呟いた。

「リラ……」

 その名が、礼拝堂の中に落ちる。

 追放記録に、ひどく軽く書き記された名前。
 「基準以下」「補欠」「辺境に解放」。

 その存在が今、王都全体に広がる光の中心にいる。

 老神官は、ゆっくりと膝をついた。
 おそらく、生涯で初めて、自分の意思で“誰かに跪いた”のかもしれない。

「……我々は」

 震える声が漏れる。

「何を、してきたのだ……」

 女神像のひび割れた腕に、光が触れる。
 まるで“そんなこと、最初から知られていた”かのように、ひびの一部が静かに塞がっていく。

 それは、女神からの赦しではない。
 リラ自身の、“世界への手当て”だ。

 赦すかどうかを決めるのは、女神でも神殿でもない。
 彼女自身の、選択。



 広場の中央。

 光がゆっくりと弱まり、やがて完全に消えたとき、リラはその場に膝をついた。

「はぁ……っ、はぁ……」

 呼吸が荒い。
 全身が、骨の芯まで重たい。
 魔力を使いすぎたとき特有の、頭の奥がジンジンとしびれる感覚。

 でも──。

 見上げた先には、さっきまでの地獄ではない光景が広がっていた。

 倒れていた人々が、互いに手を取り合って立ち上がっている。
 泣きながら抱き合う親子。
 安堵のあまりその場に座り込む兵士。
 呆然とした顔で自分の体を撫でる人々。

「……間に合った、のかな」

 自分に問いかけるように呟く。

『十分以上だ』

 アゼルの巨体が、ゆっくりと人の姿へと縮んでいった。
 光が収まると、そこにはいつもの青年が立っている。

 少し息を切らしながらも、彼は穏やかに笑った。

『よく耐えたな』

「……疲れた……」

『知っている』

 アゼルはリラの肩に手を置き、その魔力で少しだけ体力を補う。
 完全には回復しないが、立ち上がる分には十分だ。

 リラはゆっくりと立ち上がり、広場の向こう──神殿の階段へと視線を向けた。

 階段の中腹に、レイナが立っていた。

 涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、リラを見下ろしている。

 その後ろには、高位神官たち。
 先ほどまで絶望と恐怖で固まっていた人々と同じように、彼らもまた、今、“どうすればいいかわからない顔”をしていた。

 リラは、ゆっくりと歩き出した。

 一歩、また一歩。
 階段の下まで辿り着いたところで立ち止まり、顔を上げる。

「……リラ」

 先に口を開いたのは、レイナだった。

 声は震えている。
 それでも、その瞳はまっすぐにリラを捉えていた。

「ありがとう……」

 それは、神殿のための「礼」ではなかった。

 救われた人々のための、ただの“ひとりの人間”としての感謝の言葉。

「あなたがいなかったら……本当に、終わってた」

「うん」

 リラは短く頷いた。
 謙遜しなかった。
 「そんなことない」も言わなかった。

 自分がやったことを、自分で否定する気はもうなかった。

 レイナは、震える手を胸の前で握りしめた。

「……お願いが、あるの」

 その言葉に、高位神官たちの視線が集中する。
 誰も声を挟めない。

「戻ってきて」

 レイナの声が、広場に落ちた。

 静寂。

「この神殿に。
 わたしと一緒に……もう一度、ここを立て直してほしい」

 その願いは、あまりにも素直すぎた。

「わたし一人では、もう無理なの。
 女神の名前を出しても、誰も素直には信じてくれない。
 神殿は、“人を救う場所”ではなく、“間違いと欲の象徴”になりかけてる」

 レイナは、涙を拭いもせず続ける。

「だから、あなたの力と、あなたの優しさが、どうしても必要で。
 あなたの、“ここには戻りたくない”って気持ちを無視してるってわかってても……
 それでも、“一緒にやり直してほしい”って、言いたいの」

 その言葉は、きれいごとじゃない。
 自分の浅ましさも、弱さも、全部さらけ出した上での願いだ。

 だからこそ──。

「ごめんなさい」

 リラは、はっきりと言った。

 広場の空気が、わずかに揺れる。

「戻らない」

 レイナの目が、大きく見開かれる。

「……そっか」

 すぐに、理解したように、彼女は小さく笑った。
 そこに怒りも恨みもない。
 ただ、受け入れようとする痛みの色だけ。

 リラは、胸の奥から湧き上がる言葉を、ひとつひとつ丁寧に並べていく。

「ここは、私を“いらない”って切り捨てた場所だから」

 さっきまでの大浄化の余韻とはまったく違う種類の静けさが、広場を包んだ。

「“基準以下”って言われて、“補欠として置いてやってる”って笑われて。
 最後は、“真の大聖女は一人でいい”って、都合よく切り捨てられて」

 階段の上の高位神官たちが、小さく身じろぎする。
 誰も反論しない。できない。

「そうやって追い出した場所に、今さら“戻ってこい”って言われても──」

 リラは、一度だけ目を閉じて、すぐに開いた。

「戻らない」

 今度は、少し強く。

「私、自分で居場所を見つけたの。
 私を“役に立つから置いてやる”んじゃなくて、“一緒にいてくれてありがとう”って言ってくれる人たちのところに」

 マリアの顔。
 村の子どもたちの笑顔。
 「アンタの人生なんだから」と言ってくれた声。

「私の魔法を、“数字”じゃなくて、“あったかいね”って言ってくれる人たち」

 リラは、胸に手を当てた。

「そこが、私の帰る場所だから。
 私はそこに、帰る」

 レイナは、唇を噛んだ。

 悔しさでも、怒りでもない。
 ただ、自分が過去に選んだ行動の結果を、真正面から突きつけられた痛み。

「……うん」

 しばらくして、レイナは小さく笑った。

「そう、だよね」

 その笑顔は泣き笑いで、ひどく不器用で、でもどこかで救われたような表情だった。

「“戻ってきてくれないかもしれない”って、わかってて言ったんだ。
 それでも、“言わなかったら後悔する”って思ったから」

「それは、たぶん正解です」

 リラは、素直にそう返した。

「レイナ様が、自分の気持ちをちゃんと言ったの、きっと初めてだから」

「ずるいなあ……」

 レイナは自嘲気味に笑い、両手で顔を覆った。

「やっぱり、あなたには敵わないや」

「敵わないのは私も同じです」

 ひとつ、笑い合う。

 高位神官たちは、もう完全に言葉を失っていた。
 自分たちが口を挟む余地は、微塵もない。

 沈黙を破ったのは、アゼルだった。

「ひとつ、勘違いを正しておく」

 低く、しかしよく通る声で言う。

 蒼い瞳が、高位神官たちを冷ややかに見据える。

「“恩を受けていた”のは──お前たちの方だ」

 その一言で、空気の温度が下がった気がした。

「リラは、お前たちに救われていたわけではない。
 お前たちの方が、一方的に彼女の優しさと力に寄りかかっていただけだ」

 老神官の喉が、ごくりと鳴る。

「“居場所を与えてやっていた”つもりかもしれないが、
 実際には、彼女の力で維持されていたものが、いくつもある」

 アゼルは、神殿の建物を一瞥した。

「結界の補強。
 日々の小さな治癒。
儀式のたびに、お前たちが見落としていた歪み」

「……な、にを……」

「竜王の目は、人間の愚かさに鈍くはない」

 静かな怒りが、言葉の奥に潜んでいる。

「それを、“基準以下”と切り捨て、“いらない”と言い放ったのは──お前たちだ」

 高位神官たちは、誰一人顔を上げられなかった。

 その姿は、威厳ある“神殿の頂点”ではない。
 ただ、自分の愚かさと向き合わされている、一人の人間の群れだ。

「今、リラがお前たちの街を救ったのは、
 “神殿のため”でも、“王家のため”でも、“自分を追放した者のため”でもない」

 アゼルは、リラの横に立ち、その肩を軽く抱いた。

「“ここにも、救いたい誰かがいると知っていたからだ”」

 人々の中から、小さな嗚咽が聞こえた。

 広場にいた避難民たちの中には、リラがかつて治した人々もいる。
 その顔を見て、リラは静かに微笑んだ。

「リラは、お前たちにはもう恩義はない。
 あるのは、“この街の人たちへの情”だけだ」

 アゼルの声が、最後に冷たく締める。

「その情に甘え続けるか、
 それとも自分たちで立ち上がるのか。
 選ぶのは、お前たちだ」

 誰も、言い返せなかった。



 やがて、王都の空の黒い靄は、かなり薄くなっていた。

 全部が元どおりになったわけじゃない。
 傷も、ひびも、確かに残っている。
 死んだ人は帰らないし、失ったものも戻らない。

 それでも──。

 街は、“終わり”ではなく、“続き”に立っていた。

「……じゃあ、帰ります」

 広場の真ん中で、リラはそう宣言した。

 レイナは、涙で潤んだ目で頷き、深く頭を下げる。

「本当に……ありがとう」

「こちらこそ、“ちゃんと謝ってくれてありがとう”です」

 それ以上、余計な言葉は交わさない。

 リラは踵を返し、アゼルと並んで歩き始めた。

「村に戻るのか」

 アゼルが問う。

「うん。みんなお腹空かせて待ってる気がする」

「マリアが“晩飯冷めるよ”と怒るかもしれんな」

「それはちょっと怖いから急いで帰ろう」

 二人の会話は、ひどく日常だった。

 竜王は再びその姿を変え、大きな翼を広げる。
 リラはその背に乗り、もう一度だけ王都を見下ろした。

 黒い靄はほとんど消え、代わりにまだ頼りないけれど確かな灯りが、あちこちでちらちらと揺れている。

(さよなら)

 心の中で、小さく言った。

(“私をいらなかった神殿”)

(“私を見てくれなかった王都”)

 そして、もう一つ。

(ありがとう)

 かつて自分が傷ついた場所に、いま小さな感謝を向ける。

(ここで傷ついたから、私はちゃんと“自分の居場所”を選べた)

 竜の大きな翼が、空を打つ。
 王都が遠ざかり、村の方向へと風が流れ始める。

 リラは振り返らなかった。

 彼女の目は、もう、“帰るべき場所”しか見ていなかった。
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