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第17話「竜族の長老たちと、“人間の女”への視線」
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空が、ひっくり返ったみたいだった。
リラは竜の背にしがみつきながら、感覚だけでそれを悟った。
さっきまで見えていた雲も星も、どこかの山の稜線も、全部一回ゼロになって──
気づけば、そこには“別の空”が広がっていた。
「……なに、ここ……」
思わず声が漏れる。
頭上には空。
足元にも、空。
直線で説明するのを拒否してくるような、上下の感覚が壊れた世界。
夜とも昼ともつかない薄い青紫の空の中に、巨大な大陸の塊が、まるで島みたいに浮かんでいる。
浮遊大陸。
それがひとつじゃない。
大きさも色も質感も違う岩や土の塊が、遠く近く、さまざまな高さで浮かんでいる。
そのあいだを、魔力の雲が海みたいに渦を巻いていた。
光っては消える。
揺れては流れる。
あちこちで雷みたいな光が走るのに、音はほとんどしない。
(世界設定が高度すぎる……)
つい現実逃避でそんなことを考えてしまう。
アゼルは、黒い竜の姿のまま、巨大な浮遊大陸のひとつへと降下していった。
近づくほど、そのスケールのおかしさが露わになる。
大陸の縁は、そのまま断崖絶壁になっていて、下は何もない。
ただ、底なしの魔力の海が、静かに渦を巻いている。
大陸の中央には、巨大な柱が突き立っていた。
石でも木でも鉄でもない。
魔力を凝固させて作ったような、透明で、内側に星のような光を閉じ込めた柱。
その周囲を、さまざまな色と形の竜たちが旋回していた。
紅蓮のような赤。
古い樹皮みたいな苔むした緑。
氷河の奥のような薄い青。
そのどれもが、アゼルと同等か、あるいはそれ以上の重厚さをまとっている。
(竜族評議会、ってやつ……?)
喉がごくりと鳴った。
『しっかり掴まっていろ。落ちたら面倒だ』
「落ちるとか言わないで!!」
『冗談だ』
竜王の冗談は笑えない。
大陸の縁の、少し開けた場所に静かに着地すると、アゼルはゆっくりと体を縮め、人の姿へと戻っていった。
「着いた」
振り向いたアゼルが手を差し出す。
リラはその手をぎゅっと掴んで、竜の背から降りた。
足元の地面は、不思議な感触だった。
土でも岩でもない。
魔力が固まったような、ふかふかとも硬いとも言えない弾力。
「ここが……竜たちの、世界?」
「“一角”だな。
全部を見ようとすると、たぶんお前の頭が先に悲鳴をあげる」
「今ですら悲鳴寸前なんだけど」
空間の把握を諦めるのが、精神衛生上よさそうだ。
周囲の空を飛んでいた竜たちの一部が、アゼルの存在に気づいて高度を変え始める。
ざわ、と魔力の流れが揺れた。
「……見られてるね」
「当然だ。
竜が“人間”を連れてくるなど、珍事だからな」
「その言い方やめて? 私、珍獣じゃないからね?」
「いや、“珍獣”という単語は候補に入っていない」
「今入ったよね!? 今私のせいで新しいラベル付いたよね!?」
くだらないやり取りをしているうちにも、空から降りてくる竜の数は増えていく。
やがて、そのうち数体が人の姿へと変わった。
人、といっても、見た目は若者から老人までさまざまだ。
だが、共通しているのは、その目だ。
底の見えない深さと、長い歳月を閉じ込めたような重さ。
彼らが、竜族の長老たちだと、言われなくてもわかった。
一番手前に降り立ったのは、深い緑の髪をもつ男だった。
森のような色合いのローブ。
金でも宝石でもない、古い木の根や石を繋いだ装飾。
その姿は、自然そのものが形を取ったみたいだった。
「──アゼル」
低い声が、空気を震わせる。
「久しいな、“均衡の竜王”よ」
「まあな、グレイオル」
アゼルは、特に緊張した様子もなく答えた。
「前に顔を出したのは……百年ほど前か」
「人間で言えば“久々どころじゃない”レベルだね」
小声で呟いたのを、隣のアゼルが聞き逃さない。
「百年程度でたいしたことはない」
「そういう感覚の人たちと話し合いするの、ハードル高くない?」
「今さらだろう」
グレイオルと呼ばれた長老は、ゆっくりとリラの方に視線を向けた。
その目は、好奇心と警戒と、少しの嫌悪が混ざったような、複雑な色をしている。
「……人間、か」
嫌でも、その言葉に含まれた温度差が伝わる。
「竜王アゼル」
別の声が割って入った。
銀色の髪をした、細身の青年──見た目は青年だが、目だけが老人のそれをしている竜だ。
「世界の均衡が揺らいでいる時に、
“人間の女”ひとりに入れ込むとは。
お前らしくもない」
その言い方が、リラの胸をチクリと刺した。
「人間の女」。
名前も、力も、何も見ていない一括り。
「……アゼル」
今度は、白髪に金の瞳をもつ女の竜が前に出る。
長いローブの裾が大地を撫でるたび、細かな光が舞い上がる。
「お前は、竜族評議に顔を出さぬ間に、
ずいぶんと“世界の理”から外れた行動を取っているようだな」
「外れたつもりはないが」
「王都の結界崩壊の件」
グレイオルの声が低くなる。
「本来ならば、“竜王”たるお前が、もっと早く手を打つべきだった。
なのに、お前は“あんな辺境の小村”で足を止めていた」
「……」
「“竜の理”から見れば、
王都の崩壊と辺境の村ひとつ。
どちらを優先すべきかは明白だろう」
その言葉に、リラは思わず息を詰めた。
(“あんな辺境の小村”)
あそこは、自分にとってようやく見つけた居場所で。
大切で、守りたくて、温かい場所だ。
それが、「理」の世界では、苛烈な天秤にかけられる。
「お前は、“世界の均衡”より、
その人間の女の“居場所”を優先した」
銀髪の竜が冷笑を漏らす。
「それを、“外れていない”と言い張るつもりか?」
自分が原因だ、ということは、嫌でも理解できた。
アゼルが村に留まったのは、自分のせいだ。
自分の居場所を守るために、一緒にいてくれた。
その結果、王都の結界崩壊に対する介入が遅れた──
その“事実”だけを切り取れば、たしかにそう見える。
(私がいなかったら)
胸の奥に、黒い考えが浮かぶ。
(アゼルはもっと、“正しい竜王”でいられたんじゃ……)
喉の奥が、じわ、と痛くなる。
長老たちの言葉は止まらない。
「人間の女を伴侶にするというのは、そういうことだ」
白髪の竜女が、冷ややかに言い放つ。
「寿命も違う。価値観も違う。
世界に対する視点も、背負っているものも、全てが違う」
「お前は、“数十年からせいぜい百年”で死ぬ存在を、
竜王としての責務より優先している」
グレイオルが重ねる。
「それがどれほど不安定なことか、わからぬわけではあるまい」
銀髪の竜は、あからさまに睨みつけてくる。
「お前は、また昔の悲劇を繰り返すつもりか?」
「昔の悲劇」という単語に、空気がぴん、と張り詰めた。
リラもその言葉には覚えがある。
アゼルから聞いたことがある、
“竜と契約した聖女の末路”の話。
人間側は「禁忌」として封印し、
竜側は「愚かさ」として記録した歴史。
(ああ、やっぱり)
自分が、また同じことをしているように見えるのだろう。
竜王が人間の女性に心を寄せること。
それがどれほど“危うい”と見なされるか。
「……アゼル」
小さく名前を呼ぶ。
たぶん、彼はわかっていた。
こうなることを。
竜族の領域に自分を連れてきた時点で、
こういう批判が飛ぶことも、
自分が傷つくことも、全部。
アゼルは、少しだけ息を吐いた。
「昔の悲劇を繰り返すつもりか、か」
長老たちを見渡す。
「それは、“お前たちがあの時から何一つ変わっていないなら、そう見える”のだろうな」
「変わっていないのは、お前もだ」
銀髪の竜が刺すように言う。
「いつだって、“均衡”と“個”のあいだで、中途半端に迷う。
結局、誰かひとりを選んで、その周囲ごと抱え込もうとする。
それが、お前の欠点だ」
ピンポイント刺突がすぎる。
リラは、立っている足元がふっと薄くなるような感覚を覚えた。
(私が、アゼルを“中途半端”にしてるんだ)
たぶん、それも間違いじゃない。
アゼルが自分のそばにいる限り、
彼は世界の均衡だけを見ていればいい存在ではいられない。
(私さえいなければ──)
その思考が、ゆっくりと形を取りかけた瞬間。
「──リラ」
アゼルの声が、すぐ近くから降ってきた。
顔を上げる。
彼は、長老たちから視線を外して、まっすぐにリラを見た。
その目は、何も揺れていなかった。
「耳を貸すな」
短い言葉。
「お前のせいではない」
それだけで、胸の奥にあった黒いものが、少しだけ溶けた。
でも、長老たちの声は止まらない。
「“せいではない”と、自分に言い聞かせているだけだ」
白髪の竜女が、冷たい声で言う。
「事実として、お前は“彼女を優先した”。
それが、竜族の世界にどんな影響をもたらしたか──」
「──我が選んだ」
アゼルの声が、その言葉を切り裂いた。
静かで、よく通る声。
どこにも力んだところはないのに、その一言で空気が変わった。
「世界の均衡を見ていた我が。
竜王である我が。
リラを選び、この村を選び、この行動を選んだ」
長老たちが、一瞬だけ言葉を失う。
「彼女に責任はない」
ゆっくりと、一つ一つの音を確かめるように言葉を続ける。
「あるとするなら、それは──我が自分の意思で選んだという事実だけだ」
心臓が、強く打った。
(……“我が選んだ”)
リラは、その言葉を胸の中で繰り返した。
“流されてこうなった”のではなく。
“そうせざるをえなかった”のでもなく。
彼自身が、“選んだ”。
「均衡の竜王としての責務と、ひとりの竜としての我儘の両方を、我は知っている」
アゼルは、長老たちを見渡した。
「“外れていない”と言ったのは、
世界の均衡を投げ捨てたつもりはないからだ。
今回の王都の件も、“必要な瞬間には動いた”」
「だが、優先順位は変えた」
静かな告白。
「今の我は、“世界のどこかで起きている抽象的な悲劇”よりも、
“リラの隣にある具体的な涙”を、先に拭うことを選ぶ」
長老たちの表情は、一様に固い。
「それが“竜王としての責務からの逸脱”だと言うなら、好きに記録すればいい。
だが、それを理由に彼女を責めるのは──筋違いだ」
(あ)
そこで、やっと気づいた。
(アゼル、今……)
「自分が責められるのは構わないけど、私が原因扱いされるのは許さない」って、はっきり言ったんだ。
それはもう、ある意味で“世界への喧嘩”みたいなものだ。
竜族全体から見れば、“ひとりの人間に入れ込んでいる”竜王は、リスクにも脅威にも見える。
それでも──。
『我が選んだ』
その一点で押し通している。
グレイオルが、長い息を吐いた。
「……やはり、お前は変わらぬな」
「褒め言葉と受け取っておこう」
「褒めてはいない」
「知っている」
皮肉の応酬。
銀髪の竜は、明らかに苛立っていた。
「昔もそう言って、結果どうなった?
人間の女と竜王が深く結びつきすぎれば、
必ず“どこか”に歪みが出る」
「過去の聖女の話か」
アゼルは、目を細めた。
「彼女は、自分で選べなかった。
人間の王に、神官に、竜に、押し流され、利用され、
最後には“悲劇”として語られるための物語に変えられた」
空気が、少しだけ冷たくなる。
「今回の話は、違う」
アゼルの視線が、ちらりとリラに向いた。
「リラは、自分で選ぶ」
「……」
「戻るか戻らぬか。
救うか救わぬか。
世界をどう見るか。
誰の隣に立つか」
ひとつひとつ、リラがここまで考えて選んできたことを並べていく。
「我は、その隣にいる」
静かな宣言。
「彼女が選ぶときに、“選べない場所”に閉じ込めるつもりはない。
それは、あのときと同じ悲劇を生むだけだ」
白髪の竜女が、少しだけ目を伏せた。
どこかで、その言葉に心当たりがあるのだろう。
「……しかしな、アゼル」
グレイオルの声が、少し柔らかくなった。
「お前が“選んだ”と言う以上、
お前は、世界からも、竜族からも、彼女からも──同時に責任を問われることになる」
「わかっている」
「それは、お前ひとりの問題ではない。
彼女も、《竜王の伴侶》として、その矢面に立つことになる」
その言葉が、真正面からリラの心臓を撃ち抜いた。
(私も……)
自分で選ぶこと。
自分で掴むこと。
それは、「誰かに守られているだけ」の立場から一歩踏み出すことでもある。
(アゼルが、全部かばってくれてるうちは、きっと私は“また同じ”になる)
あの神殿で。
「守られているふり」をして、全部流されていた自分。
今、竜族の世界で。
「アゼルが選んでくれたから」と、また流される自分。
(それ、嫌だ)
胸の奥で、じわじわと熱が生まれる。
今はまだ、うまく言葉にならない。
でも、その熱はたしかにある。
「……ごもっともだと思います」
自分でも驚くくらいはっきりした声が出た。
長老たちの視線が、一斉にこちらを向く。
リラは、足元を見ないようにして、できるだけ顔を上げた。
「私がここに来ることで、アゼルが責められてるのも。
“世界の均衡より人間の女を優先した”って言われるのも。
たぶん、全部、事実です」
隣で、アゼルの気配がぴくりと動く。
「でも、それを“アゼルだけの責任”にするのは──ずるいの、私の方です」
喉が、少し震えた。
「私、自分で選びました。
“王都には戻らない”“村に帰る”“でも王都は助ける”。
アゼルに頼ってばかりじゃなくて、自分で決めたいって」
マリアの顔。
村の子どもたちの笑顔。
王都で“戻らない”と言ったときの、レイナの泣き笑い。
全部が、背中を押してくれる。
「だから、もし“竜王の伴侶”って立場が本当に重いなら──」
一度だけ息を吸う。
「私、自分でその重さを掴みたいです」
言いながら、拳をぎゅっと握った。
「アゼルがかばってくれるから、じゃなくて。
“アゼルの隣にいたい”って、私が言ったっていう形で」
その言葉は、まだちょっと恥ずかしかった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
銀髪の竜が、わずかに目を見開いた。
「……人間が、“竜族の責を自分から掴む”と言うか」
白髪の竜女も、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「愚かで、愛おしいな」
グレイオルは、ふう、と長く息を吐いた。
「やはり、変わらぬものだな。
“人と竜”とは」
その言葉が、責めるものなのか、諦めなのか、温かさなのか──
リラにはまだうまく判別できない。
ただひとつだけわかるのは。
今の自分は、たしかに“誰かに守られて立っているだけの女の子”から、少しだけ進んだ、ということ。
アゼルが横で、小さく笑った。
「……聞いたな、長老たち」
竜王の声は、先ほどまでよりも少し明るい。
「これでもまだ、“彼女はただの弱い人間で、我が誤って拾っただけだ”と言うつもりか?」
「そこまでは言っていない」
銀髪の竜がむっとした顔をした。
「ただ、“お前の選択は、世界全体に影響する”と言っただけだ」
「それはわかっている」
アゼルは、リラの方を一瞬だけ見て、すぐに長老たちへ視線を戻した。
「だからこそ、我はこう記録してほしい」
「記録?」
白髪の竜女が首を傾げる。
「“竜王アゼルは、世界の均衡を見ていた。
だが、ある時、人間の女リラに出会い、
世界よりひとりの居場所を優先するという、愚かで、しかし確かな選択をした”と」
リラの心臓が、またどくんと鳴る。
「あとに続く竜がいれば、それを見て思えばいい。
“これは愚かだ”と否定するか、
“こんな生き方もあるのか”と笑うか」
グレイオルは、しばらく黙ってアゼルを見つめていた。
やがて、肩をすくめる。
「……勝手なやつだ」
「いまさらだ」
「そうだな」
初めて、長老の目に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「評議としての結論を言う」
グレイオルは、竜たち全員に聞こえるよう、声を張る。
「竜王アゼル。
お前の行動は、“世界の理”から見れば、危うい。一歩間違えれば、破綻を招きうるものだ」
リラの背中に、冷たい汗が流れる。
「だが、今のところ──“均衡を完全に崩した”とは判断しない」
思わず、息を吐いた。
「お前が自ら責を負うと言う以上、評議はそれを記録するに留める。
人間の女リラについても、現時点では“要監視・要観察”とするが──」
そこまで言って、グレイオルはじろりとリラを見る。
「“今ここで消すべき脅威”ではない」
銀髪の竜が舌打ちをした。
「その言い方は、脅しているのと同じだぞ」
「事実だ」
グレイオルはあっさり言い切る。
「人間の女よ」
「は、はい」
急に話を振られて、変な声が出た。
「お前の選択は、これからも世界に影響を与えうる。
それを忘れるな」
「……はい」
「だが同時に、“誰かひとりを守るために戦う”という小さな選び方も、
世界を形作る一部であることを、我らも忘れぬ」
その言葉が、少しだけ胸の奥を温めた。
(……ちゃんと、聞いてくれたんだ)
竜族の長老たち。
世界の理。
その中で、自分の声が、まったくの無視ではなく、どこかに刻まれた。
アゼルが、小さく呟く。
「それで十分だ」
そうして、評議はひとまず終わりを告げた。
◇
竜族の領域を離れ、再び“普通の空”に戻ってきたころには、リラはぐったりとアゼルの背に倒れ込んでいた。
「……精神疲労がやばい」
『当然だ。竜の長老たちの視線を一身に浴びたのだ。普通の人間なら意識を手放している』
「褒めてんのそれ?」
『褒めている』
背中の上で、リラは小さく笑った。
さっきのやり取りが、胸の中で何度もリピートされる。
長老たちの冷たい視線。
「人間の女」と切り捨てる言葉。
それに負けそうになった自分。
でも、アゼルの「我が選んだ」の一言で、
なんとか呼吸を取り戻せた。
そして、自分で「掴みたい」と言えた。
(今度こそ、自分から掴み取りたい)
誰かに連れて行かれるんじゃなくて。
誰かに選ばれるだけじゃなくて。
自分の足で立って、
自分の言葉で“ここにいたい”って言って、
自分の意思で、“隣に立ちたい”人の手を掴む。
(……たぶん、すごく怖いけど)
王都の空。
村の空。
そして、竜族の空。
全部を見てしまって、全部が怖い。
でも、同時に全部が愛おしい。
「アゼル」
『なんだ』
「さっき、“記録しておけ”って言ってたじゃん」
『ああ』
「“竜王アゼルは、人間の女リラを選んだ”ってやつ」
『うむ』
「そこにさ」
空に向かって、ぽつりと呟く。
「“人間の女リラは、自分の意思で竜王アゼルの隣に立つことを選んだ”ってのも、ちゃんとセットで書いておいて」
アゼルの気配が、すこしだけ揺れた。
『……そうしよう』
笑いを含んだ声。
『記録は、偏らぬ方がいい』
「でしょ」
風が、くすぐったく頬を撫でた。
村の方角に、見慣れた山のラインが見えてくる。
世界のどこかで、竜族の長老たちが「要監視」とか「記録」とか真面目に書き記しているかもしれない。
でも──。
リラの胸には、ひとつの小さな決意だけが、確かに根を張っていた。
今度こそ、自分から掴みにいく。
“竜王の伴侶”という重さも。
“誰かを救う”という責任も。
“ここにいたい”というわがままも。
全部、自分の手で。
リラは竜の背にしがみつきながら、感覚だけでそれを悟った。
さっきまで見えていた雲も星も、どこかの山の稜線も、全部一回ゼロになって──
気づけば、そこには“別の空”が広がっていた。
「……なに、ここ……」
思わず声が漏れる。
頭上には空。
足元にも、空。
直線で説明するのを拒否してくるような、上下の感覚が壊れた世界。
夜とも昼ともつかない薄い青紫の空の中に、巨大な大陸の塊が、まるで島みたいに浮かんでいる。
浮遊大陸。
それがひとつじゃない。
大きさも色も質感も違う岩や土の塊が、遠く近く、さまざまな高さで浮かんでいる。
そのあいだを、魔力の雲が海みたいに渦を巻いていた。
光っては消える。
揺れては流れる。
あちこちで雷みたいな光が走るのに、音はほとんどしない。
(世界設定が高度すぎる……)
つい現実逃避でそんなことを考えてしまう。
アゼルは、黒い竜の姿のまま、巨大な浮遊大陸のひとつへと降下していった。
近づくほど、そのスケールのおかしさが露わになる。
大陸の縁は、そのまま断崖絶壁になっていて、下は何もない。
ただ、底なしの魔力の海が、静かに渦を巻いている。
大陸の中央には、巨大な柱が突き立っていた。
石でも木でも鉄でもない。
魔力を凝固させて作ったような、透明で、内側に星のような光を閉じ込めた柱。
その周囲を、さまざまな色と形の竜たちが旋回していた。
紅蓮のような赤。
古い樹皮みたいな苔むした緑。
氷河の奥のような薄い青。
そのどれもが、アゼルと同等か、あるいはそれ以上の重厚さをまとっている。
(竜族評議会、ってやつ……?)
喉がごくりと鳴った。
『しっかり掴まっていろ。落ちたら面倒だ』
「落ちるとか言わないで!!」
『冗談だ』
竜王の冗談は笑えない。
大陸の縁の、少し開けた場所に静かに着地すると、アゼルはゆっくりと体を縮め、人の姿へと戻っていった。
「着いた」
振り向いたアゼルが手を差し出す。
リラはその手をぎゅっと掴んで、竜の背から降りた。
足元の地面は、不思議な感触だった。
土でも岩でもない。
魔力が固まったような、ふかふかとも硬いとも言えない弾力。
「ここが……竜たちの、世界?」
「“一角”だな。
全部を見ようとすると、たぶんお前の頭が先に悲鳴をあげる」
「今ですら悲鳴寸前なんだけど」
空間の把握を諦めるのが、精神衛生上よさそうだ。
周囲の空を飛んでいた竜たちの一部が、アゼルの存在に気づいて高度を変え始める。
ざわ、と魔力の流れが揺れた。
「……見られてるね」
「当然だ。
竜が“人間”を連れてくるなど、珍事だからな」
「その言い方やめて? 私、珍獣じゃないからね?」
「いや、“珍獣”という単語は候補に入っていない」
「今入ったよね!? 今私のせいで新しいラベル付いたよね!?」
くだらないやり取りをしているうちにも、空から降りてくる竜の数は増えていく。
やがて、そのうち数体が人の姿へと変わった。
人、といっても、見た目は若者から老人までさまざまだ。
だが、共通しているのは、その目だ。
底の見えない深さと、長い歳月を閉じ込めたような重さ。
彼らが、竜族の長老たちだと、言われなくてもわかった。
一番手前に降り立ったのは、深い緑の髪をもつ男だった。
森のような色合いのローブ。
金でも宝石でもない、古い木の根や石を繋いだ装飾。
その姿は、自然そのものが形を取ったみたいだった。
「──アゼル」
低い声が、空気を震わせる。
「久しいな、“均衡の竜王”よ」
「まあな、グレイオル」
アゼルは、特に緊張した様子もなく答えた。
「前に顔を出したのは……百年ほど前か」
「人間で言えば“久々どころじゃない”レベルだね」
小声で呟いたのを、隣のアゼルが聞き逃さない。
「百年程度でたいしたことはない」
「そういう感覚の人たちと話し合いするの、ハードル高くない?」
「今さらだろう」
グレイオルと呼ばれた長老は、ゆっくりとリラの方に視線を向けた。
その目は、好奇心と警戒と、少しの嫌悪が混ざったような、複雑な色をしている。
「……人間、か」
嫌でも、その言葉に含まれた温度差が伝わる。
「竜王アゼル」
別の声が割って入った。
銀色の髪をした、細身の青年──見た目は青年だが、目だけが老人のそれをしている竜だ。
「世界の均衡が揺らいでいる時に、
“人間の女”ひとりに入れ込むとは。
お前らしくもない」
その言い方が、リラの胸をチクリと刺した。
「人間の女」。
名前も、力も、何も見ていない一括り。
「……アゼル」
今度は、白髪に金の瞳をもつ女の竜が前に出る。
長いローブの裾が大地を撫でるたび、細かな光が舞い上がる。
「お前は、竜族評議に顔を出さぬ間に、
ずいぶんと“世界の理”から外れた行動を取っているようだな」
「外れたつもりはないが」
「王都の結界崩壊の件」
グレイオルの声が低くなる。
「本来ならば、“竜王”たるお前が、もっと早く手を打つべきだった。
なのに、お前は“あんな辺境の小村”で足を止めていた」
「……」
「“竜の理”から見れば、
王都の崩壊と辺境の村ひとつ。
どちらを優先すべきかは明白だろう」
その言葉に、リラは思わず息を詰めた。
(“あんな辺境の小村”)
あそこは、自分にとってようやく見つけた居場所で。
大切で、守りたくて、温かい場所だ。
それが、「理」の世界では、苛烈な天秤にかけられる。
「お前は、“世界の均衡”より、
その人間の女の“居場所”を優先した」
銀髪の竜が冷笑を漏らす。
「それを、“外れていない”と言い張るつもりか?」
自分が原因だ、ということは、嫌でも理解できた。
アゼルが村に留まったのは、自分のせいだ。
自分の居場所を守るために、一緒にいてくれた。
その結果、王都の結界崩壊に対する介入が遅れた──
その“事実”だけを切り取れば、たしかにそう見える。
(私がいなかったら)
胸の奥に、黒い考えが浮かぶ。
(アゼルはもっと、“正しい竜王”でいられたんじゃ……)
喉の奥が、じわ、と痛くなる。
長老たちの言葉は止まらない。
「人間の女を伴侶にするというのは、そういうことだ」
白髪の竜女が、冷ややかに言い放つ。
「寿命も違う。価値観も違う。
世界に対する視点も、背負っているものも、全てが違う」
「お前は、“数十年からせいぜい百年”で死ぬ存在を、
竜王としての責務より優先している」
グレイオルが重ねる。
「それがどれほど不安定なことか、わからぬわけではあるまい」
銀髪の竜は、あからさまに睨みつけてくる。
「お前は、また昔の悲劇を繰り返すつもりか?」
「昔の悲劇」という単語に、空気がぴん、と張り詰めた。
リラもその言葉には覚えがある。
アゼルから聞いたことがある、
“竜と契約した聖女の末路”の話。
人間側は「禁忌」として封印し、
竜側は「愚かさ」として記録した歴史。
(ああ、やっぱり)
自分が、また同じことをしているように見えるのだろう。
竜王が人間の女性に心を寄せること。
それがどれほど“危うい”と見なされるか。
「……アゼル」
小さく名前を呼ぶ。
たぶん、彼はわかっていた。
こうなることを。
竜族の領域に自分を連れてきた時点で、
こういう批判が飛ぶことも、
自分が傷つくことも、全部。
アゼルは、少しだけ息を吐いた。
「昔の悲劇を繰り返すつもりか、か」
長老たちを見渡す。
「それは、“お前たちがあの時から何一つ変わっていないなら、そう見える”のだろうな」
「変わっていないのは、お前もだ」
銀髪の竜が刺すように言う。
「いつだって、“均衡”と“個”のあいだで、中途半端に迷う。
結局、誰かひとりを選んで、その周囲ごと抱え込もうとする。
それが、お前の欠点だ」
ピンポイント刺突がすぎる。
リラは、立っている足元がふっと薄くなるような感覚を覚えた。
(私が、アゼルを“中途半端”にしてるんだ)
たぶん、それも間違いじゃない。
アゼルが自分のそばにいる限り、
彼は世界の均衡だけを見ていればいい存在ではいられない。
(私さえいなければ──)
その思考が、ゆっくりと形を取りかけた瞬間。
「──リラ」
アゼルの声が、すぐ近くから降ってきた。
顔を上げる。
彼は、長老たちから視線を外して、まっすぐにリラを見た。
その目は、何も揺れていなかった。
「耳を貸すな」
短い言葉。
「お前のせいではない」
それだけで、胸の奥にあった黒いものが、少しだけ溶けた。
でも、長老たちの声は止まらない。
「“せいではない”と、自分に言い聞かせているだけだ」
白髪の竜女が、冷たい声で言う。
「事実として、お前は“彼女を優先した”。
それが、竜族の世界にどんな影響をもたらしたか──」
「──我が選んだ」
アゼルの声が、その言葉を切り裂いた。
静かで、よく通る声。
どこにも力んだところはないのに、その一言で空気が変わった。
「世界の均衡を見ていた我が。
竜王である我が。
リラを選び、この村を選び、この行動を選んだ」
長老たちが、一瞬だけ言葉を失う。
「彼女に責任はない」
ゆっくりと、一つ一つの音を確かめるように言葉を続ける。
「あるとするなら、それは──我が自分の意思で選んだという事実だけだ」
心臓が、強く打った。
(……“我が選んだ”)
リラは、その言葉を胸の中で繰り返した。
“流されてこうなった”のではなく。
“そうせざるをえなかった”のでもなく。
彼自身が、“選んだ”。
「均衡の竜王としての責務と、ひとりの竜としての我儘の両方を、我は知っている」
アゼルは、長老たちを見渡した。
「“外れていない”と言ったのは、
世界の均衡を投げ捨てたつもりはないからだ。
今回の王都の件も、“必要な瞬間には動いた”」
「だが、優先順位は変えた」
静かな告白。
「今の我は、“世界のどこかで起きている抽象的な悲劇”よりも、
“リラの隣にある具体的な涙”を、先に拭うことを選ぶ」
長老たちの表情は、一様に固い。
「それが“竜王としての責務からの逸脱”だと言うなら、好きに記録すればいい。
だが、それを理由に彼女を責めるのは──筋違いだ」
(あ)
そこで、やっと気づいた。
(アゼル、今……)
「自分が責められるのは構わないけど、私が原因扱いされるのは許さない」って、はっきり言ったんだ。
それはもう、ある意味で“世界への喧嘩”みたいなものだ。
竜族全体から見れば、“ひとりの人間に入れ込んでいる”竜王は、リスクにも脅威にも見える。
それでも──。
『我が選んだ』
その一点で押し通している。
グレイオルが、長い息を吐いた。
「……やはり、お前は変わらぬな」
「褒め言葉と受け取っておこう」
「褒めてはいない」
「知っている」
皮肉の応酬。
銀髪の竜は、明らかに苛立っていた。
「昔もそう言って、結果どうなった?
人間の女と竜王が深く結びつきすぎれば、
必ず“どこか”に歪みが出る」
「過去の聖女の話か」
アゼルは、目を細めた。
「彼女は、自分で選べなかった。
人間の王に、神官に、竜に、押し流され、利用され、
最後には“悲劇”として語られるための物語に変えられた」
空気が、少しだけ冷たくなる。
「今回の話は、違う」
アゼルの視線が、ちらりとリラに向いた。
「リラは、自分で選ぶ」
「……」
「戻るか戻らぬか。
救うか救わぬか。
世界をどう見るか。
誰の隣に立つか」
ひとつひとつ、リラがここまで考えて選んできたことを並べていく。
「我は、その隣にいる」
静かな宣言。
「彼女が選ぶときに、“選べない場所”に閉じ込めるつもりはない。
それは、あのときと同じ悲劇を生むだけだ」
白髪の竜女が、少しだけ目を伏せた。
どこかで、その言葉に心当たりがあるのだろう。
「……しかしな、アゼル」
グレイオルの声が、少し柔らかくなった。
「お前が“選んだ”と言う以上、
お前は、世界からも、竜族からも、彼女からも──同時に責任を問われることになる」
「わかっている」
「それは、お前ひとりの問題ではない。
彼女も、《竜王の伴侶》として、その矢面に立つことになる」
その言葉が、真正面からリラの心臓を撃ち抜いた。
(私も……)
自分で選ぶこと。
自分で掴むこと。
それは、「誰かに守られているだけ」の立場から一歩踏み出すことでもある。
(アゼルが、全部かばってくれてるうちは、きっと私は“また同じ”になる)
あの神殿で。
「守られているふり」をして、全部流されていた自分。
今、竜族の世界で。
「アゼルが選んでくれたから」と、また流される自分。
(それ、嫌だ)
胸の奥で、じわじわと熱が生まれる。
今はまだ、うまく言葉にならない。
でも、その熱はたしかにある。
「……ごもっともだと思います」
自分でも驚くくらいはっきりした声が出た。
長老たちの視線が、一斉にこちらを向く。
リラは、足元を見ないようにして、できるだけ顔を上げた。
「私がここに来ることで、アゼルが責められてるのも。
“世界の均衡より人間の女を優先した”って言われるのも。
たぶん、全部、事実です」
隣で、アゼルの気配がぴくりと動く。
「でも、それを“アゼルだけの責任”にするのは──ずるいの、私の方です」
喉が、少し震えた。
「私、自分で選びました。
“王都には戻らない”“村に帰る”“でも王都は助ける”。
アゼルに頼ってばかりじゃなくて、自分で決めたいって」
マリアの顔。
村の子どもたちの笑顔。
王都で“戻らない”と言ったときの、レイナの泣き笑い。
全部が、背中を押してくれる。
「だから、もし“竜王の伴侶”って立場が本当に重いなら──」
一度だけ息を吸う。
「私、自分でその重さを掴みたいです」
言いながら、拳をぎゅっと握った。
「アゼルがかばってくれるから、じゃなくて。
“アゼルの隣にいたい”って、私が言ったっていう形で」
その言葉は、まだちょっと恥ずかしかった。
けれど、不思議と後悔はなかった。
銀髪の竜が、わずかに目を見開いた。
「……人間が、“竜族の責を自分から掴む”と言うか」
白髪の竜女も、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「愚かで、愛おしいな」
グレイオルは、ふう、と長く息を吐いた。
「やはり、変わらぬものだな。
“人と竜”とは」
その言葉が、責めるものなのか、諦めなのか、温かさなのか──
リラにはまだうまく判別できない。
ただひとつだけわかるのは。
今の自分は、たしかに“誰かに守られて立っているだけの女の子”から、少しだけ進んだ、ということ。
アゼルが横で、小さく笑った。
「……聞いたな、長老たち」
竜王の声は、先ほどまでよりも少し明るい。
「これでもまだ、“彼女はただの弱い人間で、我が誤って拾っただけだ”と言うつもりか?」
「そこまでは言っていない」
銀髪の竜がむっとした顔をした。
「ただ、“お前の選択は、世界全体に影響する”と言っただけだ」
「それはわかっている」
アゼルは、リラの方を一瞬だけ見て、すぐに長老たちへ視線を戻した。
「だからこそ、我はこう記録してほしい」
「記録?」
白髪の竜女が首を傾げる。
「“竜王アゼルは、世界の均衡を見ていた。
だが、ある時、人間の女リラに出会い、
世界よりひとりの居場所を優先するという、愚かで、しかし確かな選択をした”と」
リラの心臓が、またどくんと鳴る。
「あとに続く竜がいれば、それを見て思えばいい。
“これは愚かだ”と否定するか、
“こんな生き方もあるのか”と笑うか」
グレイオルは、しばらく黙ってアゼルを見つめていた。
やがて、肩をすくめる。
「……勝手なやつだ」
「いまさらだ」
「そうだな」
初めて、長老の目に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「評議としての結論を言う」
グレイオルは、竜たち全員に聞こえるよう、声を張る。
「竜王アゼル。
お前の行動は、“世界の理”から見れば、危うい。一歩間違えれば、破綻を招きうるものだ」
リラの背中に、冷たい汗が流れる。
「だが、今のところ──“均衡を完全に崩した”とは判断しない」
思わず、息を吐いた。
「お前が自ら責を負うと言う以上、評議はそれを記録するに留める。
人間の女リラについても、現時点では“要監視・要観察”とするが──」
そこまで言って、グレイオルはじろりとリラを見る。
「“今ここで消すべき脅威”ではない」
銀髪の竜が舌打ちをした。
「その言い方は、脅しているのと同じだぞ」
「事実だ」
グレイオルはあっさり言い切る。
「人間の女よ」
「は、はい」
急に話を振られて、変な声が出た。
「お前の選択は、これからも世界に影響を与えうる。
それを忘れるな」
「……はい」
「だが同時に、“誰かひとりを守るために戦う”という小さな選び方も、
世界を形作る一部であることを、我らも忘れぬ」
その言葉が、少しだけ胸の奥を温めた。
(……ちゃんと、聞いてくれたんだ)
竜族の長老たち。
世界の理。
その中で、自分の声が、まったくの無視ではなく、どこかに刻まれた。
アゼルが、小さく呟く。
「それで十分だ」
そうして、評議はひとまず終わりを告げた。
◇
竜族の領域を離れ、再び“普通の空”に戻ってきたころには、リラはぐったりとアゼルの背に倒れ込んでいた。
「……精神疲労がやばい」
『当然だ。竜の長老たちの視線を一身に浴びたのだ。普通の人間なら意識を手放している』
「褒めてんのそれ?」
『褒めている』
背中の上で、リラは小さく笑った。
さっきのやり取りが、胸の中で何度もリピートされる。
長老たちの冷たい視線。
「人間の女」と切り捨てる言葉。
それに負けそうになった自分。
でも、アゼルの「我が選んだ」の一言で、
なんとか呼吸を取り戻せた。
そして、自分で「掴みたい」と言えた。
(今度こそ、自分から掴み取りたい)
誰かに連れて行かれるんじゃなくて。
誰かに選ばれるだけじゃなくて。
自分の足で立って、
自分の言葉で“ここにいたい”って言って、
自分の意思で、“隣に立ちたい”人の手を掴む。
(……たぶん、すごく怖いけど)
王都の空。
村の空。
そして、竜族の空。
全部を見てしまって、全部が怖い。
でも、同時に全部が愛おしい。
「アゼル」
『なんだ』
「さっき、“記録しておけ”って言ってたじゃん」
『ああ』
「“竜王アゼルは、人間の女リラを選んだ”ってやつ」
『うむ』
「そこにさ」
空に向かって、ぽつりと呟く。
「“人間の女リラは、自分の意思で竜王アゼルの隣に立つことを選んだ”ってのも、ちゃんとセットで書いておいて」
アゼルの気配が、すこしだけ揺れた。
『……そうしよう』
笑いを含んだ声。
『記録は、偏らぬ方がいい』
「でしょ」
風が、くすぐったく頬を撫でた。
村の方角に、見慣れた山のラインが見えてくる。
世界のどこかで、竜族の長老たちが「要監視」とか「記録」とか真面目に書き記しているかもしれない。
でも──。
リラの胸には、ひとつの小さな決意だけが、確かに根を張っていた。
今度こそ、自分から掴みにいく。
“竜王の伴侶”という重さも。
“誰かを救う”という責任も。
“ここにいたい”というわがままも。
全部、自分の手で。
3
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