追放された聖女、今では魔王の隣でティータイムを楽しんでいます

タマ マコト

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第1話 追放の朝、偽りの光

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 鐘が鳴った。金と銀の縁を叩くような、高く冷たい音。天井の高みで震える波紋が、聖堂の床石までひやりと降りてくる。香の煙が白い線になって揺れ、染色ガラスに閉じ込められた聖人たちの顔が、冬の朝陽を受けて色だけ濃く燃えていた。

 私はひとり、中央の祭壇の前に立っていた。純白のヴェールは肩で止まり、胸元の金糸は儀礼用に規定された図形を描いている。今日まで、この布の重みは信頼の重みだった。今は違う。喉の奥に落ちていく石のように、冷たく硬い。

「セリーヌ・アルディア」

 名を呼ぶ声は、大司教のものだった。名前のたった七文字が、聖堂の石柱にぶつかっては跳ね返り、群衆の間を走る。ざわめきが低く広がって、それは波のように私の足首へ寄せては引いた。

「お前は……神託を偽った」

 波が止んだ。空気が固まった。口の中で溶けかけていた言葉が、そこで凍った。

「違います」

 声は出た。それでも弱かった。自分で驚くくらいに。

「私は、神の御言葉を──」

「黙れ」

 鋼が床を穿つような音色で遮る声。王太子ルシオン。今日の儀式の主役であり、王国の“未来”。磨き抜かれた白の礼服と、夜の髪。あの笑わない蒼色の瞳が、私だけを鋭く切る。

「お前の声に、神の重みはない」

「殿下」

 私は一歩踏み出す。膝が震えるのをごまかすみたいに、つま先で石を押した。

「神託は、戦ではなく撤退を告げました。東の辺境に“灰の霧”が出たのは偶然じゃない。攻めれば、民が──」

「民のために攻めるのだ」

 彼は笑った。笑う、という表情だけを顔に載せたみたいに。

「お前の臆病は、神託ではない」

「臆病じゃありません。見えたのです。あの霧に触れれば……」

「証明できるのか?」

 人々の視線が、刃になって私に降りかかる。見えないはずの重みが肩を押し下げ、肺の空気を奪っていく。

 そこで光が走った。祭壇の横で、白いドレスが膨らみ、薄桃色の唇が祈りの形を作る。新聖女──リリア。彼女の周りの空気は、甘い花の匂いがするみたいに暖かく、目に見えない絹の布でふわりと包まれていた。

「神よ、真実を」

 リリアが手を掲げる。ぱち、と弾けた光が天井の金箔を照らし、誰かの「わあ」という息の音が膨らむ。光は確かに美しかった。まるで春の朝にだけ差す、特別な日差しみたいに。けれど私は、そこに“声”を聞かなかった。神の声は、喉元を通る風の温度で知る。リリアの光は、温度がない。

「見よ。これが祝福の光だ」

 ルシオンの声が、勝ちを宣言した兵士のように高くなる。群衆の間から、ぽつ、ぽつと拍手が生まれ、それはあっという間に広がった。まるで雨だ。私は傘を持っていない。

「セリーヌ・アルディア。お前は神の名を騙り、国を惑わせた。よって、聖女の名を剥奪し、王国より追放する」

「待ってください」

 私はひざまずいた。石の床は冷たくて、肌越しに冬の骨が伝わる。両の手を合わせる。祈りの姿勢。これは人に乞う形じゃない。神に向ける形。それでも私は、人に向けた。

「神は、沈黙の時ほどよく語ります。今日、この場で答えが出なくても──」

「沈黙は罪を認める合図だ」

 ルシオンが言葉を重ねるより早く、誰かが叫んだ。

「裏切り者!」

 石の柱に焼き印みたいに響く声。続いて別の声が重なる。「偽聖女」「罰を」「神の名を穢した女」……言葉の棘が肌に刺さって、そこからじんじんと熱が広がる。熱はやがて痛みになる。痛みはやがて、何も感じないという痛みに変わる。

「セリーヌ」

 と、リリアが私の名を呼んだ。花の飾りのついた杖を胸に抱え、瞳を伏せる。彼女の声は、ほんの少し震えていた。

「あなたの祈りは……優しかった。だからこそ、弱さに負けたのね」

「弱さじゃない。私は“見た”の」

「神は、強いものを選ぶのよ」

 リリアはふっと笑った。笑みは綺麗だった。美しいものほど、時々残酷だ。

 兵士が二人、私の腕を取った。儀式用の手袋越しにも、彼らの手が固いとわかる。動かすたび、布が擦れる音が大きく聞こえた。音は世界の輪郭を厚くし、私だけ薄くする。

「ルシオン殿下」

 私は顔を上げる。彼の目は、氷湖みたいに透明だった。底が見えない透明。手が届いたと思ったら、割れて落ちる透明。

「東へ行かないで。霧は、ただの自然現象じゃないわ。人の怒りと、忘れられた祈りの塊。剣じゃ触れられない」

「俺は剣ではない。王だ」

「王なら、救って」

「救う。その障害は排除する」

 それは、私のことだという顔。

 ヴェールが乱れた。誰かがそれを剥いだ。白が床に落ちる音は、紙の音に似ていた。軽い。軽いのに、胸が空っぽになったみたいに重い。

「……神よ」

 口から漏れたのは、祈りではなく、ため息に近いものだった。

 広場へ引き出されると、冬の空気が頬を刺した。雪はまだ降っていない。降っていないのに、降る前の匂いがする。冷たい鉄と古い木、遠くの薪の煙。石畳の目地に溜まった水が、薄氷をまとって光っていた。民衆の列は長く、子どももいた。子どもの目が、いちばんまっすぐに私を見ていた。

「嘘つき、だって」

 小さな声。母親が慌てて口を塞ぐ。私は首を横に振った。違うの、という言葉は出なかった。違う、と言えば言うほど、違わないものになっていく気がしたからだ。

「セリーヌ様……」

 どこからか、かすかな声。振り向くと、パン屋の娘がいた。私がかつて、彼女の病を癒した子。彼女は泣いていた。唇を噛んで、声を殺すみたいに泣く。あの子が泣くのは嫌だ。誰かの涙で世界が濡れるのは、もうたくさんだ。

 私は彼女に微笑んだ。たぶん、うまく笑えなかった。

「大丈夫」

 唇だけでそう言った。彼女は余計に泣いた。世界は、ほんと頑固だ。

 城門の前で、兵士たちが立ち止まる。周囲の空気が、少し膨らんで揺れる。そこには儀礼用の机と紙束、王国印の蝋。追放は儀式だ。どこまでもきちんと、形だけは整える。

「名を」

 書記官が冷ややかに問う。

「セリーヌ・アルディア」

「生年」

「──○○年」

「罪状」

 私は黙った。代わりに、書記官が紙から読み上げる。

「神託の偽造。国民の動揺を煽動。王命への不服従」

 紙の上では、世界はすべて四角く断定できる。息をしていることも、息をやめることも。

「処遇。王国より追放。帰還の権利なし。王国内に協力者を得た場合、その者も同罪」

 ご丁寧に、と喉の奥で誰かが笑った。たぶん私。笑いはすぐに消えた。代わりに風が、私の髪を撫でていく。冬の風は、記憶の匂いがする。

 兵士の一人が、ためらいがちにヴェールの下に手を伸ばした。私の首の後ろに、聖女の証──小さな金の留め具がある。それを外すには、人の手がいる。私は肩をすくめ、髪を持ち上げた。

「ありがとう」

 その兵士は、びくりと肩を震わせた。目が合う。若い。目に、迷いがあった。こういう時、目は嘘をつけない。

「俺は、命令を……」

「わかってる。あなたのせいじゃない」

 留め具が外れた。ちいさな音だった。私の世界は、それで音を失わない。驚く。世界はしぶとい。

「門を開けよ!」

 掛け声とともに、城門がゆっくりと持ち上がる。鉄が軋む音が、空の色をもっと重くする。門の向こうは、もう王国じゃない。雪の匂いが濃くなった。空は白い。白は、何でも隠してしまう。何でも、やり直せると錯覚させる。

 背後でざわめきが一段高くなる。

「裏切り者を出すのか」

「神の怒りが薄まるように」

 私は振り返らない。振り返れば、足は止まる。止まれば、誰かの期待になってしまう。私はもう、誰の期待でもない。それは、少しだけ寂しくて、少しだけ自由だった。

「セリーヌ」

 その名を、もう一度呼ぶ声があった。ルシオンだった。彼は門の影に立ち、光の半分だけを顔に受けていた。彫刻のように整った顔が、薄い笑みを貼りつける。

「最後に忠告だ。お前は二度と、この国境をくぐることはない。自分の選択に酔って死ぬな」

「酔えるほど甘くはありません」

 私の声は静かだった。震えていなかった。驚く。自分の声が、まだ自分のものだ。

「殿下。私は、あなたを憎みません」

 彼の眉が一瞬だけ動いた。薄い波。すぐに凪ぐ。

「私が憎むのは、恐れです。恐れは人を、祈りから遠ざける。あなたが恐れから自由でありますように」

「祈るな。お前に祈る資格はない」

「祈りに資格は要らない」

 沈黙。彼は笑って、肩をすくめた。彼の笑いはいつも、筋書きのある演技に見えた。演技は上手かった。上手い演技ほど、時々真実に見える。

「行け」

 私は、門をくぐった。石の感触が靴底から変わる。王国の土が、見えない線を境に別の土へ滑っていく。冷たさが、一段階深くなる。肺に入る空気が、体の内側まで凍らせようとする。

 門の影を抜けたところで、私は足を止めた。振り返らない。前を見る。前には、白い道。道は、どこまでも無傷だった。

 雪が降り始めた。最初は一片、二片。ほどけた羽のように落ちてきて、まつげに触れ、溶けた。冷たい水が目尻を伝う。涙と紛れて、よくわからなくなる。

 私は深呼吸をした。胸の奥の空洞が、冷気で満たされていく。空洞は軽い。軽いものは飛べる。飛べなくても、歩ける。

「……行こう」

 自分に言い聞かせる。声は風に削られて、耳に届く頃には小さくなっていた。

 道の先に、森が見える。冬の森は、夏より音が遠い。枝の上に積もった雪が落ちるたび、小さな拍手みたいな音がした。私はその拍手を、自分へのものだと勝手に誤解する。誤解は、ときに人を救う。

 指先が痺れてきた。儀式用の薄い靴は、雪に弱い。足首から冷たさが吸い上がって、膝に届く。体が震えた。こんなに震えているのに、歩く足は止まらない。不思議だ。人は、どれくらいなら壊れないでいられるんだろう。

 祈りの言葉が、喉の奥で形を探す。言葉はすぐには見つからない。神は、いつも少し遅れてくる。遅れてくるものは、時々やさしい。

 王都の鐘の音が、遠くでまた鳴った。今度はさっきより低く、重い。別れの音。背中がひゅっと軽くなる。鎖を外されたみたいに。自由は、冷たい。自由は、痛い。自由は、でも、どこか甘い。舌の上で溶ける雪みたいに、味がしないようで、じわじわ広がる。

 ふいに、ポケットの中で硬いものが当たった。指輪。聖女として任じられた日に受け取った、薄金の輪。刻まれた小さな祈りの文言は、摩耗して読みにくくなっている。私はそれを取り出し、白い息にかざした。光らない。光らないのに、なぜか手放せなかった。

「いつか、返せるといいな」

 誰に、と言わない。神に? 王に? 国に? 過去の自分に? どれでもいい。どれでもなくてもいい。

 雪は深くなる。足跡が、はっきり残る。残るたび、私は少し救われた。世界が、私の通過を覚えていてくれる気がしたから。

 木々の影が濃くなり、風の向きが変わった。森の手前で、白が灰色に混ざる。遠くの方で、黒い霧が、静かに蠢いた。冬の空の色をさらに薄くしてしまうような、嫌な揺らぎ。胸がちくりと痛む。私の見たものは、やはり幻ではなかった。霧はここにも伸びている。国境の向こうだから安全だ、なんて、誰が言ったのだろう。

 私は歩幅を整え、呼吸を数えた。吸って、吐いて。二つで一。十で一区切り。十を五回で五十。五十数えたら、振り返らずに、もう五十。数は、心を落ち着ける呪文になる。

 やがて、森の縁に辿り着いた。枝の間から、空が細くちぎれて見える。白い。白の向こうに、色のない太陽がある気がした。世界が一枚の紙に見える。そこに、最初の線を引くみたいに、私は一歩、森の影へ踏み入れた。

 冷えた空気が、頬から首筋へ滑り込む。鳥の鳴き声が、遠くで一度だけした。私は振り返らない。門はもう見えない。見えないものは、いくらでもやり直せる。

「セリーヌ、立ちなさい」

 昔の自分が、胸の奥で言った。あの子はまっすぐで、時々、無茶だった。私は苦笑する。

「はい。立ってます」

 言葉にすると、少しだけ本当に強くなった気がした。

 雪を払って、私はまた歩く。白い息が、前に伸びる。すぐに消える。消えるたび、次の息が生まれる。生きるって、たぶんそれの繰り返しだ。きっと、それで十分だ。

 私は、雪の舞う国境をひとり歩き出した。背中に残る視線は、もう石に変わった。前に広がる白は、紙のように静かに待っていた。そこに、私の足音で細い線を引いていく。震える線でも、たどれば道になる。道は、誰かに繋がっていく。まだ見ぬ誰か。まだ知らない声。まだ知らない、紅茶の香り。

 雪が、笑うみたいに頬に落ちた。私は笑い返す。唇の端が、冷たさに痺れる。それでも、笑う。

 ──偽りの光は背に置いていく。これから私が頼るのは、凍える指先と、前に出す足と、しぶとい心臓。祈りは、たぶんまだ私の中にいる。沈黙の形で。

 足元の雪がきゅむ、と鳴った。その小さな音がやけに愛おしい。世界はまだ、音をくれる。なら、私はまだ、歩ける。歩いて、生きて、いつか、誰かの温かい湯気に辿り着く。

 その時まで。私は、行く。
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