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第1話 追放の朝、偽りの光
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鐘が鳴った。金と銀の縁を叩くような、高く冷たい音。天井の高みで震える波紋が、聖堂の床石までひやりと降りてくる。香の煙が白い線になって揺れ、染色ガラスに閉じ込められた聖人たちの顔が、冬の朝陽を受けて色だけ濃く燃えていた。
私はひとり、中央の祭壇の前に立っていた。純白のヴェールは肩で止まり、胸元の金糸は儀礼用に規定された図形を描いている。今日まで、この布の重みは信頼の重みだった。今は違う。喉の奥に落ちていく石のように、冷たく硬い。
「セリーヌ・アルディア」
名を呼ぶ声は、大司教のものだった。名前のたった七文字が、聖堂の石柱にぶつかっては跳ね返り、群衆の間を走る。ざわめきが低く広がって、それは波のように私の足首へ寄せては引いた。
「お前は……神託を偽った」
波が止んだ。空気が固まった。口の中で溶けかけていた言葉が、そこで凍った。
「違います」
声は出た。それでも弱かった。自分で驚くくらいに。
「私は、神の御言葉を──」
「黙れ」
鋼が床を穿つような音色で遮る声。王太子ルシオン。今日の儀式の主役であり、王国の“未来”。磨き抜かれた白の礼服と、夜の髪。あの笑わない蒼色の瞳が、私だけを鋭く切る。
「お前の声に、神の重みはない」
「殿下」
私は一歩踏み出す。膝が震えるのをごまかすみたいに、つま先で石を押した。
「神託は、戦ではなく撤退を告げました。東の辺境に“灰の霧”が出たのは偶然じゃない。攻めれば、民が──」
「民のために攻めるのだ」
彼は笑った。笑う、という表情だけを顔に載せたみたいに。
「お前の臆病は、神託ではない」
「臆病じゃありません。見えたのです。あの霧に触れれば……」
「証明できるのか?」
人々の視線が、刃になって私に降りかかる。見えないはずの重みが肩を押し下げ、肺の空気を奪っていく。
そこで光が走った。祭壇の横で、白いドレスが膨らみ、薄桃色の唇が祈りの形を作る。新聖女──リリア。彼女の周りの空気は、甘い花の匂いがするみたいに暖かく、目に見えない絹の布でふわりと包まれていた。
「神よ、真実を」
リリアが手を掲げる。ぱち、と弾けた光が天井の金箔を照らし、誰かの「わあ」という息の音が膨らむ。光は確かに美しかった。まるで春の朝にだけ差す、特別な日差しみたいに。けれど私は、そこに“声”を聞かなかった。神の声は、喉元を通る風の温度で知る。リリアの光は、温度がない。
「見よ。これが祝福の光だ」
ルシオンの声が、勝ちを宣言した兵士のように高くなる。群衆の間から、ぽつ、ぽつと拍手が生まれ、それはあっという間に広がった。まるで雨だ。私は傘を持っていない。
「セリーヌ・アルディア。お前は神の名を騙り、国を惑わせた。よって、聖女の名を剥奪し、王国より追放する」
「待ってください」
私はひざまずいた。石の床は冷たくて、肌越しに冬の骨が伝わる。両の手を合わせる。祈りの姿勢。これは人に乞う形じゃない。神に向ける形。それでも私は、人に向けた。
「神は、沈黙の時ほどよく語ります。今日、この場で答えが出なくても──」
「沈黙は罪を認める合図だ」
ルシオンが言葉を重ねるより早く、誰かが叫んだ。
「裏切り者!」
石の柱に焼き印みたいに響く声。続いて別の声が重なる。「偽聖女」「罰を」「神の名を穢した女」……言葉の棘が肌に刺さって、そこからじんじんと熱が広がる。熱はやがて痛みになる。痛みはやがて、何も感じないという痛みに変わる。
「セリーヌ」
と、リリアが私の名を呼んだ。花の飾りのついた杖を胸に抱え、瞳を伏せる。彼女の声は、ほんの少し震えていた。
「あなたの祈りは……優しかった。だからこそ、弱さに負けたのね」
「弱さじゃない。私は“見た”の」
「神は、強いものを選ぶのよ」
リリアはふっと笑った。笑みは綺麗だった。美しいものほど、時々残酷だ。
兵士が二人、私の腕を取った。儀式用の手袋越しにも、彼らの手が固いとわかる。動かすたび、布が擦れる音が大きく聞こえた。音は世界の輪郭を厚くし、私だけ薄くする。
「ルシオン殿下」
私は顔を上げる。彼の目は、氷湖みたいに透明だった。底が見えない透明。手が届いたと思ったら、割れて落ちる透明。
「東へ行かないで。霧は、ただの自然現象じゃないわ。人の怒りと、忘れられた祈りの塊。剣じゃ触れられない」
「俺は剣ではない。王だ」
「王なら、救って」
「救う。その障害は排除する」
それは、私のことだという顔。
ヴェールが乱れた。誰かがそれを剥いだ。白が床に落ちる音は、紙の音に似ていた。軽い。軽いのに、胸が空っぽになったみたいに重い。
「……神よ」
口から漏れたのは、祈りではなく、ため息に近いものだった。
広場へ引き出されると、冬の空気が頬を刺した。雪はまだ降っていない。降っていないのに、降る前の匂いがする。冷たい鉄と古い木、遠くの薪の煙。石畳の目地に溜まった水が、薄氷をまとって光っていた。民衆の列は長く、子どももいた。子どもの目が、いちばんまっすぐに私を見ていた。
「嘘つき、だって」
小さな声。母親が慌てて口を塞ぐ。私は首を横に振った。違うの、という言葉は出なかった。違う、と言えば言うほど、違わないものになっていく気がしたからだ。
「セリーヌ様……」
どこからか、かすかな声。振り向くと、パン屋の娘がいた。私がかつて、彼女の病を癒した子。彼女は泣いていた。唇を噛んで、声を殺すみたいに泣く。あの子が泣くのは嫌だ。誰かの涙で世界が濡れるのは、もうたくさんだ。
私は彼女に微笑んだ。たぶん、うまく笑えなかった。
「大丈夫」
唇だけでそう言った。彼女は余計に泣いた。世界は、ほんと頑固だ。
城門の前で、兵士たちが立ち止まる。周囲の空気が、少し膨らんで揺れる。そこには儀礼用の机と紙束、王国印の蝋。追放は儀式だ。どこまでもきちんと、形だけは整える。
「名を」
書記官が冷ややかに問う。
「セリーヌ・アルディア」
「生年」
「──○○年」
「罪状」
私は黙った。代わりに、書記官が紙から読み上げる。
「神託の偽造。国民の動揺を煽動。王命への不服従」
紙の上では、世界はすべて四角く断定できる。息をしていることも、息をやめることも。
「処遇。王国より追放。帰還の権利なし。王国内に協力者を得た場合、その者も同罪」
ご丁寧に、と喉の奥で誰かが笑った。たぶん私。笑いはすぐに消えた。代わりに風が、私の髪を撫でていく。冬の風は、記憶の匂いがする。
兵士の一人が、ためらいがちにヴェールの下に手を伸ばした。私の首の後ろに、聖女の証──小さな金の留め具がある。それを外すには、人の手がいる。私は肩をすくめ、髪を持ち上げた。
「ありがとう」
その兵士は、びくりと肩を震わせた。目が合う。若い。目に、迷いがあった。こういう時、目は嘘をつけない。
「俺は、命令を……」
「わかってる。あなたのせいじゃない」
留め具が外れた。ちいさな音だった。私の世界は、それで音を失わない。驚く。世界はしぶとい。
「門を開けよ!」
掛け声とともに、城門がゆっくりと持ち上がる。鉄が軋む音が、空の色をもっと重くする。門の向こうは、もう王国じゃない。雪の匂いが濃くなった。空は白い。白は、何でも隠してしまう。何でも、やり直せると錯覚させる。
背後でざわめきが一段高くなる。
「裏切り者を出すのか」
「神の怒りが薄まるように」
私は振り返らない。振り返れば、足は止まる。止まれば、誰かの期待になってしまう。私はもう、誰の期待でもない。それは、少しだけ寂しくて、少しだけ自由だった。
「セリーヌ」
その名を、もう一度呼ぶ声があった。ルシオンだった。彼は門の影に立ち、光の半分だけを顔に受けていた。彫刻のように整った顔が、薄い笑みを貼りつける。
「最後に忠告だ。お前は二度と、この国境をくぐることはない。自分の選択に酔って死ぬな」
「酔えるほど甘くはありません」
私の声は静かだった。震えていなかった。驚く。自分の声が、まだ自分のものだ。
「殿下。私は、あなたを憎みません」
彼の眉が一瞬だけ動いた。薄い波。すぐに凪ぐ。
「私が憎むのは、恐れです。恐れは人を、祈りから遠ざける。あなたが恐れから自由でありますように」
「祈るな。お前に祈る資格はない」
「祈りに資格は要らない」
沈黙。彼は笑って、肩をすくめた。彼の笑いはいつも、筋書きのある演技に見えた。演技は上手かった。上手い演技ほど、時々真実に見える。
「行け」
私は、門をくぐった。石の感触が靴底から変わる。王国の土が、見えない線を境に別の土へ滑っていく。冷たさが、一段階深くなる。肺に入る空気が、体の内側まで凍らせようとする。
門の影を抜けたところで、私は足を止めた。振り返らない。前を見る。前には、白い道。道は、どこまでも無傷だった。
雪が降り始めた。最初は一片、二片。ほどけた羽のように落ちてきて、まつげに触れ、溶けた。冷たい水が目尻を伝う。涙と紛れて、よくわからなくなる。
私は深呼吸をした。胸の奥の空洞が、冷気で満たされていく。空洞は軽い。軽いものは飛べる。飛べなくても、歩ける。
「……行こう」
自分に言い聞かせる。声は風に削られて、耳に届く頃には小さくなっていた。
道の先に、森が見える。冬の森は、夏より音が遠い。枝の上に積もった雪が落ちるたび、小さな拍手みたいな音がした。私はその拍手を、自分へのものだと勝手に誤解する。誤解は、ときに人を救う。
指先が痺れてきた。儀式用の薄い靴は、雪に弱い。足首から冷たさが吸い上がって、膝に届く。体が震えた。こんなに震えているのに、歩く足は止まらない。不思議だ。人は、どれくらいなら壊れないでいられるんだろう。
祈りの言葉が、喉の奥で形を探す。言葉はすぐには見つからない。神は、いつも少し遅れてくる。遅れてくるものは、時々やさしい。
王都の鐘の音が、遠くでまた鳴った。今度はさっきより低く、重い。別れの音。背中がひゅっと軽くなる。鎖を外されたみたいに。自由は、冷たい。自由は、痛い。自由は、でも、どこか甘い。舌の上で溶ける雪みたいに、味がしないようで、じわじわ広がる。
ふいに、ポケットの中で硬いものが当たった。指輪。聖女として任じられた日に受け取った、薄金の輪。刻まれた小さな祈りの文言は、摩耗して読みにくくなっている。私はそれを取り出し、白い息にかざした。光らない。光らないのに、なぜか手放せなかった。
「いつか、返せるといいな」
誰に、と言わない。神に? 王に? 国に? 過去の自分に? どれでもいい。どれでもなくてもいい。
雪は深くなる。足跡が、はっきり残る。残るたび、私は少し救われた。世界が、私の通過を覚えていてくれる気がしたから。
木々の影が濃くなり、風の向きが変わった。森の手前で、白が灰色に混ざる。遠くの方で、黒い霧が、静かに蠢いた。冬の空の色をさらに薄くしてしまうような、嫌な揺らぎ。胸がちくりと痛む。私の見たものは、やはり幻ではなかった。霧はここにも伸びている。国境の向こうだから安全だ、なんて、誰が言ったのだろう。
私は歩幅を整え、呼吸を数えた。吸って、吐いて。二つで一。十で一区切り。十を五回で五十。五十数えたら、振り返らずに、もう五十。数は、心を落ち着ける呪文になる。
やがて、森の縁に辿り着いた。枝の間から、空が細くちぎれて見える。白い。白の向こうに、色のない太陽がある気がした。世界が一枚の紙に見える。そこに、最初の線を引くみたいに、私は一歩、森の影へ踏み入れた。
冷えた空気が、頬から首筋へ滑り込む。鳥の鳴き声が、遠くで一度だけした。私は振り返らない。門はもう見えない。見えないものは、いくらでもやり直せる。
「セリーヌ、立ちなさい」
昔の自分が、胸の奥で言った。あの子はまっすぐで、時々、無茶だった。私は苦笑する。
「はい。立ってます」
言葉にすると、少しだけ本当に強くなった気がした。
雪を払って、私はまた歩く。白い息が、前に伸びる。すぐに消える。消えるたび、次の息が生まれる。生きるって、たぶんそれの繰り返しだ。きっと、それで十分だ。
私は、雪の舞う国境をひとり歩き出した。背中に残る視線は、もう石に変わった。前に広がる白は、紙のように静かに待っていた。そこに、私の足音で細い線を引いていく。震える線でも、たどれば道になる。道は、誰かに繋がっていく。まだ見ぬ誰か。まだ知らない声。まだ知らない、紅茶の香り。
雪が、笑うみたいに頬に落ちた。私は笑い返す。唇の端が、冷たさに痺れる。それでも、笑う。
──偽りの光は背に置いていく。これから私が頼るのは、凍える指先と、前に出す足と、しぶとい心臓。祈りは、たぶんまだ私の中にいる。沈黙の形で。
足元の雪がきゅむ、と鳴った。その小さな音がやけに愛おしい。世界はまだ、音をくれる。なら、私はまだ、歩ける。歩いて、生きて、いつか、誰かの温かい湯気に辿り着く。
その時まで。私は、行く。
私はひとり、中央の祭壇の前に立っていた。純白のヴェールは肩で止まり、胸元の金糸は儀礼用に規定された図形を描いている。今日まで、この布の重みは信頼の重みだった。今は違う。喉の奥に落ちていく石のように、冷たく硬い。
「セリーヌ・アルディア」
名を呼ぶ声は、大司教のものだった。名前のたった七文字が、聖堂の石柱にぶつかっては跳ね返り、群衆の間を走る。ざわめきが低く広がって、それは波のように私の足首へ寄せては引いた。
「お前は……神託を偽った」
波が止んだ。空気が固まった。口の中で溶けかけていた言葉が、そこで凍った。
「違います」
声は出た。それでも弱かった。自分で驚くくらいに。
「私は、神の御言葉を──」
「黙れ」
鋼が床を穿つような音色で遮る声。王太子ルシオン。今日の儀式の主役であり、王国の“未来”。磨き抜かれた白の礼服と、夜の髪。あの笑わない蒼色の瞳が、私だけを鋭く切る。
「お前の声に、神の重みはない」
「殿下」
私は一歩踏み出す。膝が震えるのをごまかすみたいに、つま先で石を押した。
「神託は、戦ではなく撤退を告げました。東の辺境に“灰の霧”が出たのは偶然じゃない。攻めれば、民が──」
「民のために攻めるのだ」
彼は笑った。笑う、という表情だけを顔に載せたみたいに。
「お前の臆病は、神託ではない」
「臆病じゃありません。見えたのです。あの霧に触れれば……」
「証明できるのか?」
人々の視線が、刃になって私に降りかかる。見えないはずの重みが肩を押し下げ、肺の空気を奪っていく。
そこで光が走った。祭壇の横で、白いドレスが膨らみ、薄桃色の唇が祈りの形を作る。新聖女──リリア。彼女の周りの空気は、甘い花の匂いがするみたいに暖かく、目に見えない絹の布でふわりと包まれていた。
「神よ、真実を」
リリアが手を掲げる。ぱち、と弾けた光が天井の金箔を照らし、誰かの「わあ」という息の音が膨らむ。光は確かに美しかった。まるで春の朝にだけ差す、特別な日差しみたいに。けれど私は、そこに“声”を聞かなかった。神の声は、喉元を通る風の温度で知る。リリアの光は、温度がない。
「見よ。これが祝福の光だ」
ルシオンの声が、勝ちを宣言した兵士のように高くなる。群衆の間から、ぽつ、ぽつと拍手が生まれ、それはあっという間に広がった。まるで雨だ。私は傘を持っていない。
「セリーヌ・アルディア。お前は神の名を騙り、国を惑わせた。よって、聖女の名を剥奪し、王国より追放する」
「待ってください」
私はひざまずいた。石の床は冷たくて、肌越しに冬の骨が伝わる。両の手を合わせる。祈りの姿勢。これは人に乞う形じゃない。神に向ける形。それでも私は、人に向けた。
「神は、沈黙の時ほどよく語ります。今日、この場で答えが出なくても──」
「沈黙は罪を認める合図だ」
ルシオンが言葉を重ねるより早く、誰かが叫んだ。
「裏切り者!」
石の柱に焼き印みたいに響く声。続いて別の声が重なる。「偽聖女」「罰を」「神の名を穢した女」……言葉の棘が肌に刺さって、そこからじんじんと熱が広がる。熱はやがて痛みになる。痛みはやがて、何も感じないという痛みに変わる。
「セリーヌ」
と、リリアが私の名を呼んだ。花の飾りのついた杖を胸に抱え、瞳を伏せる。彼女の声は、ほんの少し震えていた。
「あなたの祈りは……優しかった。だからこそ、弱さに負けたのね」
「弱さじゃない。私は“見た”の」
「神は、強いものを選ぶのよ」
リリアはふっと笑った。笑みは綺麗だった。美しいものほど、時々残酷だ。
兵士が二人、私の腕を取った。儀式用の手袋越しにも、彼らの手が固いとわかる。動かすたび、布が擦れる音が大きく聞こえた。音は世界の輪郭を厚くし、私だけ薄くする。
「ルシオン殿下」
私は顔を上げる。彼の目は、氷湖みたいに透明だった。底が見えない透明。手が届いたと思ったら、割れて落ちる透明。
「東へ行かないで。霧は、ただの自然現象じゃないわ。人の怒りと、忘れられた祈りの塊。剣じゃ触れられない」
「俺は剣ではない。王だ」
「王なら、救って」
「救う。その障害は排除する」
それは、私のことだという顔。
ヴェールが乱れた。誰かがそれを剥いだ。白が床に落ちる音は、紙の音に似ていた。軽い。軽いのに、胸が空っぽになったみたいに重い。
「……神よ」
口から漏れたのは、祈りではなく、ため息に近いものだった。
広場へ引き出されると、冬の空気が頬を刺した。雪はまだ降っていない。降っていないのに、降る前の匂いがする。冷たい鉄と古い木、遠くの薪の煙。石畳の目地に溜まった水が、薄氷をまとって光っていた。民衆の列は長く、子どももいた。子どもの目が、いちばんまっすぐに私を見ていた。
「嘘つき、だって」
小さな声。母親が慌てて口を塞ぐ。私は首を横に振った。違うの、という言葉は出なかった。違う、と言えば言うほど、違わないものになっていく気がしたからだ。
「セリーヌ様……」
どこからか、かすかな声。振り向くと、パン屋の娘がいた。私がかつて、彼女の病を癒した子。彼女は泣いていた。唇を噛んで、声を殺すみたいに泣く。あの子が泣くのは嫌だ。誰かの涙で世界が濡れるのは、もうたくさんだ。
私は彼女に微笑んだ。たぶん、うまく笑えなかった。
「大丈夫」
唇だけでそう言った。彼女は余計に泣いた。世界は、ほんと頑固だ。
城門の前で、兵士たちが立ち止まる。周囲の空気が、少し膨らんで揺れる。そこには儀礼用の机と紙束、王国印の蝋。追放は儀式だ。どこまでもきちんと、形だけは整える。
「名を」
書記官が冷ややかに問う。
「セリーヌ・アルディア」
「生年」
「──○○年」
「罪状」
私は黙った。代わりに、書記官が紙から読み上げる。
「神託の偽造。国民の動揺を煽動。王命への不服従」
紙の上では、世界はすべて四角く断定できる。息をしていることも、息をやめることも。
「処遇。王国より追放。帰還の権利なし。王国内に協力者を得た場合、その者も同罪」
ご丁寧に、と喉の奥で誰かが笑った。たぶん私。笑いはすぐに消えた。代わりに風が、私の髪を撫でていく。冬の風は、記憶の匂いがする。
兵士の一人が、ためらいがちにヴェールの下に手を伸ばした。私の首の後ろに、聖女の証──小さな金の留め具がある。それを外すには、人の手がいる。私は肩をすくめ、髪を持ち上げた。
「ありがとう」
その兵士は、びくりと肩を震わせた。目が合う。若い。目に、迷いがあった。こういう時、目は嘘をつけない。
「俺は、命令を……」
「わかってる。あなたのせいじゃない」
留め具が外れた。ちいさな音だった。私の世界は、それで音を失わない。驚く。世界はしぶとい。
「門を開けよ!」
掛け声とともに、城門がゆっくりと持ち上がる。鉄が軋む音が、空の色をもっと重くする。門の向こうは、もう王国じゃない。雪の匂いが濃くなった。空は白い。白は、何でも隠してしまう。何でも、やり直せると錯覚させる。
背後でざわめきが一段高くなる。
「裏切り者を出すのか」
「神の怒りが薄まるように」
私は振り返らない。振り返れば、足は止まる。止まれば、誰かの期待になってしまう。私はもう、誰の期待でもない。それは、少しだけ寂しくて、少しだけ自由だった。
「セリーヌ」
その名を、もう一度呼ぶ声があった。ルシオンだった。彼は門の影に立ち、光の半分だけを顔に受けていた。彫刻のように整った顔が、薄い笑みを貼りつける。
「最後に忠告だ。お前は二度と、この国境をくぐることはない。自分の選択に酔って死ぬな」
「酔えるほど甘くはありません」
私の声は静かだった。震えていなかった。驚く。自分の声が、まだ自分のものだ。
「殿下。私は、あなたを憎みません」
彼の眉が一瞬だけ動いた。薄い波。すぐに凪ぐ。
「私が憎むのは、恐れです。恐れは人を、祈りから遠ざける。あなたが恐れから自由でありますように」
「祈るな。お前に祈る資格はない」
「祈りに資格は要らない」
沈黙。彼は笑って、肩をすくめた。彼の笑いはいつも、筋書きのある演技に見えた。演技は上手かった。上手い演技ほど、時々真実に見える。
「行け」
私は、門をくぐった。石の感触が靴底から変わる。王国の土が、見えない線を境に別の土へ滑っていく。冷たさが、一段階深くなる。肺に入る空気が、体の内側まで凍らせようとする。
門の影を抜けたところで、私は足を止めた。振り返らない。前を見る。前には、白い道。道は、どこまでも無傷だった。
雪が降り始めた。最初は一片、二片。ほどけた羽のように落ちてきて、まつげに触れ、溶けた。冷たい水が目尻を伝う。涙と紛れて、よくわからなくなる。
私は深呼吸をした。胸の奥の空洞が、冷気で満たされていく。空洞は軽い。軽いものは飛べる。飛べなくても、歩ける。
「……行こう」
自分に言い聞かせる。声は風に削られて、耳に届く頃には小さくなっていた。
道の先に、森が見える。冬の森は、夏より音が遠い。枝の上に積もった雪が落ちるたび、小さな拍手みたいな音がした。私はその拍手を、自分へのものだと勝手に誤解する。誤解は、ときに人を救う。
指先が痺れてきた。儀式用の薄い靴は、雪に弱い。足首から冷たさが吸い上がって、膝に届く。体が震えた。こんなに震えているのに、歩く足は止まらない。不思議だ。人は、どれくらいなら壊れないでいられるんだろう。
祈りの言葉が、喉の奥で形を探す。言葉はすぐには見つからない。神は、いつも少し遅れてくる。遅れてくるものは、時々やさしい。
王都の鐘の音が、遠くでまた鳴った。今度はさっきより低く、重い。別れの音。背中がひゅっと軽くなる。鎖を外されたみたいに。自由は、冷たい。自由は、痛い。自由は、でも、どこか甘い。舌の上で溶ける雪みたいに、味がしないようで、じわじわ広がる。
ふいに、ポケットの中で硬いものが当たった。指輪。聖女として任じられた日に受け取った、薄金の輪。刻まれた小さな祈りの文言は、摩耗して読みにくくなっている。私はそれを取り出し、白い息にかざした。光らない。光らないのに、なぜか手放せなかった。
「いつか、返せるといいな」
誰に、と言わない。神に? 王に? 国に? 過去の自分に? どれでもいい。どれでもなくてもいい。
雪は深くなる。足跡が、はっきり残る。残るたび、私は少し救われた。世界が、私の通過を覚えていてくれる気がしたから。
木々の影が濃くなり、風の向きが変わった。森の手前で、白が灰色に混ざる。遠くの方で、黒い霧が、静かに蠢いた。冬の空の色をさらに薄くしてしまうような、嫌な揺らぎ。胸がちくりと痛む。私の見たものは、やはり幻ではなかった。霧はここにも伸びている。国境の向こうだから安全だ、なんて、誰が言ったのだろう。
私は歩幅を整え、呼吸を数えた。吸って、吐いて。二つで一。十で一区切り。十を五回で五十。五十数えたら、振り返らずに、もう五十。数は、心を落ち着ける呪文になる。
やがて、森の縁に辿り着いた。枝の間から、空が細くちぎれて見える。白い。白の向こうに、色のない太陽がある気がした。世界が一枚の紙に見える。そこに、最初の線を引くみたいに、私は一歩、森の影へ踏み入れた。
冷えた空気が、頬から首筋へ滑り込む。鳥の鳴き声が、遠くで一度だけした。私は振り返らない。門はもう見えない。見えないものは、いくらでもやり直せる。
「セリーヌ、立ちなさい」
昔の自分が、胸の奥で言った。あの子はまっすぐで、時々、無茶だった。私は苦笑する。
「はい。立ってます」
言葉にすると、少しだけ本当に強くなった気がした。
雪を払って、私はまた歩く。白い息が、前に伸びる。すぐに消える。消えるたび、次の息が生まれる。生きるって、たぶんそれの繰り返しだ。きっと、それで十分だ。
私は、雪の舞う国境をひとり歩き出した。背中に残る視線は、もう石に変わった。前に広がる白は、紙のように静かに待っていた。そこに、私の足音で細い線を引いていく。震える線でも、たどれば道になる。道は、誰かに繋がっていく。まだ見ぬ誰か。まだ知らない声。まだ知らない、紅茶の香り。
雪が、笑うみたいに頬に落ちた。私は笑い返す。唇の端が、冷たさに痺れる。それでも、笑う。
──偽りの光は背に置いていく。これから私が頼るのは、凍える指先と、前に出す足と、しぶとい心臓。祈りは、たぶんまだ私の中にいる。沈黙の形で。
足元の雪がきゅむ、と鳴った。その小さな音がやけに愛おしい。世界はまだ、音をくれる。なら、私はまだ、歩ける。歩いて、生きて、いつか、誰かの温かい湯気に辿り着く。
その時まで。私は、行く。
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理由はフランチェスカの先見(さきみ)の力だった。
どうやら王太子は先見の力を『魔の物』と契約したからだと思っている。
何とか信用を取り戻そうとするも、なんと王太子はフランチェスカの処刑を決定する。
両親にその報を受け、その日のうちに国を脱出する事になってしまった。
しかし当てもなく国を出たため、何をするかも決まっていない。
「丁度いいですわね、冒険者になる事としましょう」
剣の腕が強すぎて可愛げがないと婚約破棄された私は冒険者稼業を始めます。~えっ?国が滅びそうだから助けに戻れ?今さら言われてももう遅いですよ~
十六夜りん
ファンタジー
公爵家の令嬢シンシアは王子との婚約が決まっていた。式当日、王子が告げた結婚相手はシンシアではなく、彼女の幼馴染イザベラだった。
「シンシア、君の剣の腕は男よりも強すぎる。それは可愛げがない。それに比べ、イザベラは……」
怒り、軽蔑……。シンシアは王子に愛想がつくと、家と国を追われた彼女はその強すぎる剣の腕を生かし、冒険者として成り上がる。
一方、その頃。シンシアがいなくなった国では大量の死霊が発生し、滅亡の危機にひんして……。
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