追放された聖女、今では魔王の隣でティータイムを楽しんでいます

タマ マコト

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第2話 雪の森、黒い霧の中で

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 森は、音を食べる。
 枝からこぼれ落ちた雪が地面に触れるまでの一瞬でさえ、吸い込んだ白に溶けて消えた。私の吐息は目の前でほどけ、すぐ形を失う。喉は渇き、胃はきしむ。足は歩幅を忘れ、ただ前へ押し出される機械になっていた。

「……寒い」

 声にしても、寒さは薄まらない。机上の祈りみたいに、形だけが空に浮かんで、すぐ霧散する。

 雪は膝の少し下まで積もり、道の境界を飲み込んでいた。歩けば歩くほど、世界は単純になっていく。白、灰、黒。その三色で塗り固められた景色の向こうに、黒だけが異様に濃かった。

 黒い霧。
 遠目には細い糸の束のように見えて、近づけば、夜の底の水をこぼしたように地面を染めている。あの揺らぎは知っている。神殿の書庫で、古文書の片隅に“忘れられた祈りの澱”と記されていたもの。人が願いを投げっぱなしにして放置した結果、形を得損なった祈りが腐り、風の隙間に沈殿して生まれる、と。

「……近寄らない方がいい、はずなんだけど」

 足は止まらなかった。止まれば凍る。凍れば眠る。眠れば二度と起きられない。そんな予感が背骨に沿って走り、私を押す。

 霧の手前で、白に不自然な皺が寄っていた。雪が抉れている。獣の足跡よりも深い溝。何かが引きずられ、そして──倒れた跡。

 雪を払うと、黒が現れた。黒の下から、血の色。冷えきっているはずのそれは、なぜか目に熱かった。私は膝をつき、手袋を外す。皮膚が空気に触れた瞬間、痛みで指先が跳ねた。

「……人?」

 違う、という直感が、次の心拍より先に答えを出す。けれど、形は人だ。肩幅が広く、背は高い。雪と霧に塗られた髪は夜の色で、肌は白いというより、血の巡りの失われた象牙の色だった。全身に刻まれた傷は、古いのと新しいのが混ざっている。斜めに走る大きな爪痕。焼け焦げたような痕。剣で裂いたような直線。どれも深い。どれも、よく生きていると思わせる深さだ。

 呼吸はある。けれど浅い。胸が上下するたび、黒い霧が寄っては引き、寄っては引く。まるで彼の息に合わせて、世界そのものが脈打っているみたいだった。

「助けなきゃ」

 唇が、勝手に動いた。
 理由はいらなかった。神の名も、肩書きも、規定もいらない。ただ目の前の苦しさに、手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、光が漏れた。
 自分の体のどこに残っていたのかわからないほど微かな光。不器用な子どもが握っていたマッチの火みたいに頼りないのに、確かに暖かい。光は彼の傷口をなぞり、縫うように走った。白い蒸気がひゅう、と上がり、苦い匂いが鼻を刺す。痛みが私の指に逆流し、肩まで痺れが来る。

「……っ」

 歯を食いしばる。治癒は、いつだって痛みの対価を要求する。誰かの痛みは、誰かの体に移すことでしか、軽くできない。

 それでも、光は働いた。大きな裂傷の縁が柔らかく閉じ、血の色は鈍い茶に変わっていく。焼けた痕の熱が引き、皮膚の下の炎が沈む。霧が不満げにうねり、私の手首にまとわりついた。

「離れて」

 低く言うと、黒は怯えた犬みたいに少し引いた。祈りの言葉を知らない者にも、声の温度は伝わる。私はその温度を、彼にも、霧にも向ける。

「生きなさい」

 最後の言葉は、自分に言ったのかもしれない。指先の感覚が遠のく。光は細っていく。残り火みたいに、じりじり音がする気がした。

 彼の胸が、大きく一度だけ上下する。次の瞬間、瞼が震え、黒の奥で薄い銀が閃いた。

 目が、開く。
 それは、夜の底で光る刃の色だった。

「……」

 口が、わずかに動いた。声は出ない。喉が乾いているのだろう。私は雪をすくい、溶けかけの白を彼の唇に押し当てた。彼は反射のようにそれを舌で受け、少しだけ喉が動いた。

「聞こえますか」

 私の声は自分で思ったより落ち着いていた。驚く。こんなときに、人は落ち着けるのか。

 彼はしばらく私を見ていた。睫毛についた雪が、ゆっくり溶けて、頬へ冷たい跡を残す。目の色はやはり銀だ。でも、ただの銀ではない。深い水の底に沈んだ金属が、わずかな光を拾ってわたっていくような、重さのある輝き。

「……なぜ」

 声が擦れる。砂を噛んで喉を通すみたいな音。

「なぜ……助けた?」

「苦しそうだったから」

 答えは、もう出来上がっていた。飾る言葉は何もない。私は彼の目を見た。嘘をつく余裕なんて、どこにもなかった。

 銀の中に、ほんの小さな揺れが生まれた。興味、と呼ぶには弱い。疑い、と呼ぶにはやさしすぎる。

「……人間か」

「たぶん」

 笑おうとして、唇の皮がつって痛んだ。冗談が下手だ。寒さは、ユーモアまで凍らせる。

「どこから来た」

「向こうの門。追放されました」

「……そうか」

 彼はゆっくりと視線を巡らせる。黒い霧、雪、私。認識の輪郭がはっきりしていくにつれ、その顔についた影の意味が見えてくる。疲労。飢え。戦いの痕。孤独。どれも人間であり得るものなのに、どうして彼の顔に載ると“人”から少し外れて見えるのだろう。

 近くで彼の手を見た。指の節は太く、掌は固い。爪が黒いのは血の汚れではない。生来の色。人ではない、という確信が、そこから静かに腕を上って心に沈んだ。

「あなた、霧に触れましたね」

「……ああ」

「痛むでしょう」

「痛みは……残っている方が、生きているとわかる」

 言い方が乾いている。乾きすぎて、まるで自分のことを他人事みたいに話す。私も似たような声を出す時がある。夜、一人で祈る時。神の気配が薄い日に。

「動けますか」

「動く理由がない」

「じゃあ、作りましょう。今はそれでいいから」

「……人間は、いつも理由を欲しがる」

「あなたは?」

「俺は、理由を失って生き延びたものだ」

 霧が風に捲れ、彼の肩の傷が露わになる。縫い跡の上に新しい裂傷。剣だけじゃない。牙の形。爪の刻み。獣とも、人ともつかない敵の痕。世界のどこでも、戦いの形は似ている。

「立てますか?」

 私は手を差し出した。骨と皮になった手。冷たさが芯に入っている手。彼はそれをしばらく見て、そして、掴んだ。力は弱い。けれど指の腹は、驚くほど熱かった。体温の質が人と違う。焚き火というより、岩の下に閉じこめられた熾きの温度。

 立ち上がると、彼は背丈の半分が雪から出るほど大きかった。重さが私の肩にかかる。膝が笑い、腰がきしむ。それでも、倒れない。倒せない。

「どこへ行く」

「とりあえず、霧から離れて」

 彼の体を支えながら、斜面の浅い方へルートを選ぶ。雪の下は凍土で、滑る。彼の足は新しい傷でうまく踏ん張れない。私は前に出て、彼の腕を肩に回し、自分の体重で引っ張った。

「お前、力がない」

「ないですね」

「治癒に使い切ったか」

「もともと、力持ちじゃないので」

「愚かだ」

「そうですね」

「なぜ否定しない」

「頑固で臆病だって言われるより、愚かって言われる方が、まだ人間っぽい気がして」

 彼がわずかに息を吐く。寒さが形を持って、その息の周りに白い輪を作る。笑ったのかもしれない。笑った、という形を顔に貼り付けるのが下手なのかもしれない。どちらにせよ、その音は、私の耳に優しかった。

 霧の縁を抜けると、風の匂いが変わった。黒に混じっていた苦い金属の匂いが薄れ、代わりに樹皮と苔の湿りが鼻に触れる。私たちは倒木の影に身を寄せ、ひと息つく。視界の隅で霧がまだ蠢いている。音はないのに、確かに近い。

「名は」

 彼が言う。

「セリーヌ。……あなたは?」

 わずかな間。雪が一枚、彼の肩に落ちて溶けた。

「カイン」

 名が、冷たい空気に馴染む。短い。硬い。牙の音がする。記憶のどこかで、同じ名を聞いた気がした。祈祷師たちが口にする禁忌の名。人が怖がる時に、口の中で転がす音。

「……魔王、ですか」

 自分の声がかすれた。呆れでも畏れでもない。単に、世界が繋がる音に驚いた。

「お前は、怖がらないのか」

「怖いです。今も。指先まで震えてます」

「なら、手を離せ」

「それとこれとは、別です」

「別だと?」

「怖いから手を離したら、あなたはここで凍えます。凍えるのは、怖いよりも嫌です」

 彼は目を細める。銀の刃が鞘に戻るように、視線が一度、私を通り過ぎて遠くを見た。遠くには、霧と雪と、倒木と、冬。

「人間は、矛盾する」

「あなたは?」

「俺は、矛盾し尽くした先で、形を保っている」

「それは、強いってことです」

「弱いとも言える」

「両方です。だから、生きています」

 会話は、呼吸の合間に挟む小さな火のようだった。凍えた肺に擦り付ける、紙切れみたいな火。それが消えないよう、私は言葉を探す。祈りに似ている。祈りはいつも、言葉を探す営みから始まる。

「カイン。あなたの傷、奥の一つがまだ塞がってません。触ります」

「……好きにしろ」

 私は彼の脇腹に手を差し入れた。体表の冷たさの下に、熾きの温度がある。そこへ光を流す。私は目を閉じ、指先だけになった。世界の形が指先に移り、そこから震えが腕へ上がる。痛みが来る。痛みは、熱の形をしている。熱は、生命の残り香だ。

「……っ、は」

 息を吐くと、白が濃くなった。混じるように、彼の息が重なった。二つの白は、重なれば少しの間だけ形を保つ。形があるものは、世界に居場所がある。居場所があるものは、消えにくい。私はその理屈にすがる。

「お前は、聖女か」

「元、です」

「元?」

「追放されました」

「理由は」

「……神託を偽った、と」

「偽ったのか」

「いいえ。……けど、そういうことになりました」

「王は、弱い声を嫌う」

「あなたは?」

「俺は、強い声もうるさい」

 少し笑ってしまう。頬がひび割れ、痛みが走る。笑いはすぐ止めた方がいいのに、止められない。感情は時々、止めどきを知らない。

「ありがとう」

 思わず出たその言葉に、彼が眉を寄せた。

「何に対して」

「生きてくれて。……生きて、ここで出会ってくれて」

「礼を言うのは、助けた側ではないのか」

「助かる側だって、礼は言えます」

「奇妙だ」

「人間ですから」

「……そうだな」

 風が一本、森を縫った。黒い霧の端がふわりと浮き、雪の上に落ち、すぐ消える。霧は生きている。生きているものは、名前を欲しがる。名付けなければ飲み込まれる。けれど、こいつに名は要らない。ただ、離れればいい。

「城は、どこだ」

 唐突に彼が訊いた。言葉の硬さは変わらないのに、その奥に、さっきより濃い熱がある。

「城?」

「俺の城だ」

「あなた、帰る場所があるんですか」

「ある。……はずだ」

 “はず”。その二文字の浅瀬に、沈む影の形が見えた。疑い。喪失。奪われたものを手で探す時の、空振りの感覚。

「案内してくれ」

 彼が、私の手を強く握った。握る理由は、きっと二つ。彼が立っていることを確認するためと、私が逃げないことを確認するため。私は逃げない。逃げたくても、どのみち逃げ切れない。

「方角は」

 彼は首を傾け、鼻で空気を嗅いだ。獣みたいな所作なのに、奇妙に品がある。目を閉じ、額に深い皺を刻み、低く呟く。

「黒曜の匂い。……北西」

「わかるんですね」

「俺のものは、世界の底で鳴る」

「詩的」

「事実だ」

 私は頷いた。北西。黒い霧の海を迂回するには、斜面を戻って、樅の林を抜け、凍った小川を渡る必要がある。頭の中で地図を描き、道筋に印を付ける。印は目に見えない。けれど、歩けば足に残る。

「行きましょう。ゆっくり」

「ゆっくりは嫌いだ」

「今日は、好きになってください」

「命令するな」

「お願いです」

「……」

 彼の口元が、ほんのわずか緩む。緩む、という言葉にさえ躊躇うほど小さな変化。けれど、それは確かに、凍った湖面に走ったひびに似ていた。ひびは、やがて春になる。

 私たちは歩き出した。雪が鳴る。木が軋む。呼吸が白を描く。霧は背中でうねり、遠ざかるたびに、肩の重さが少しずつ剥がれていく。

「セリーヌ」

「はい」

「お前、紅茶は淹れられるか」

「え?」

「城に戻ったら……茶が欲しい」

 唐突すぎて、口を開けたまま雪を吸い込みそうになる。咳が出て、涙が滲む。寒さと驚きの涙は、区別がつかない。

「……淹れます。きっと、あたためます。体も、少しは心も」

「心は、あたためると柔らかくなる。柔らかいものは、形を失う」

「柔らかいから、形を変えられます。固いものは、折れます」

「……詩的だ」

「事実です」

 彼は短く相槌を打ち、それ以上は何も言わなかった。沈黙は嫌いじゃない。沈黙の中に、まだ名前のない感情がふくらみ、呼吸に合わせて揺れる。

 凍った小川に差し掛かる。透明な板の下で、黒い水がゆっくり動いている。私は足で氷を探り、厚さを確かめる。彼の体重を支えられるか。支えなければならない。彼が落ちれば、私も落ちる。選択肢はいらない。

「手を」

 彼の大きな手が、私の小さな手を覆う。皮膚同士が触れ、熱の質が混ざる。氷の上に、それは奇妙に心強かった。私たちは一歩ずつ渡る。氷が低く唸る。世界が、私たちを試している。試す者に、試される者が答えを返すとき、物語は細く延びる糸みたいに先へ続く。

 対岸に辿り着いたとき、私はようやく肺の奥まで息を入れた。冷たさで胸が痛む。痛みは、生きている証拠。痛みがなければ、ここまで来られなかった。痛みと一緒に歩いてきた足だけが、今も前へ出る。

「もう少し」

 前を見据えて言うと、彼が低く返す。

「ああ。……もう少しだ」

 その声は、さっきよりも人に近かった。
 雪は降り続ける。世界は三色のまま、しかし、私たちの間だけに、知らない色が一滴、落ちて広がっていく。名も知らないその色は、暖かい茶の湯気に似ている。まだ遠いのに、舌の奥がわずかに甘くなった。

 黒い霧が背後でほどけ、森の影に吸われていく。振り返らない。前だけを見る。北西。黒曜の匂い。城。居場所。約束されていない約束。

 歩くたび、彼の重さが少しずつ自分の重さに馴染んでいく。二人分の足音が、雪の上で交互に刻まれていく。振り向けば軌跡。振り向かなくても、軌跡。どちらにせよ、私たちは刻んでいる。

 息を合わせる。言葉を少しだけ減らす。沈黙の代わりに、心臓の鼓動を互いの耳へ渡す。鼓動は、世界一古い歌だ。歌は、寒さを一瞬だけ忘れさせる。

 ──なぜ助けた?
 ──苦しそうだったから。
 その問答は、もう何度も胸の内で反芻された。たぶんこれからも何度もする。答えは変わらない。けれど、答えが届く場所は、少しずつ変わる。届いた先で、何かが小さく動く。銀色の瞳の奥に、興味という火種があるなら、それが湿った薪に火を移す日を願う。祈りは、まだ私の中にいる。肩書きがなくても、祈りは祈りだ。

 雪の中、私たちは歩いた。北西へ。黒曜の匂いへ。
 霧の向こうの王国も、門も、偽りの光も、今は遠い。世界はまだ冷たい。けれど、冷たい世界の中で触れた体温は、本当にあった。あったものは、消えない。消えないものだけが、道になる。

 足元の雪が、きゅ、きゅ、と鳴る。二つの音。まるで、合図のように。
 その音に合わせて、私たちは、少しだけ歩幅を揃えた。
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