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第2話 雪の森、黒い霧の中で
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森は、音を食べる。
枝からこぼれ落ちた雪が地面に触れるまでの一瞬でさえ、吸い込んだ白に溶けて消えた。私の吐息は目の前でほどけ、すぐ形を失う。喉は渇き、胃はきしむ。足は歩幅を忘れ、ただ前へ押し出される機械になっていた。
「……寒い」
声にしても、寒さは薄まらない。机上の祈りみたいに、形だけが空に浮かんで、すぐ霧散する。
雪は膝の少し下まで積もり、道の境界を飲み込んでいた。歩けば歩くほど、世界は単純になっていく。白、灰、黒。その三色で塗り固められた景色の向こうに、黒だけが異様に濃かった。
黒い霧。
遠目には細い糸の束のように見えて、近づけば、夜の底の水をこぼしたように地面を染めている。あの揺らぎは知っている。神殿の書庫で、古文書の片隅に“忘れられた祈りの澱”と記されていたもの。人が願いを投げっぱなしにして放置した結果、形を得損なった祈りが腐り、風の隙間に沈殿して生まれる、と。
「……近寄らない方がいい、はずなんだけど」
足は止まらなかった。止まれば凍る。凍れば眠る。眠れば二度と起きられない。そんな予感が背骨に沿って走り、私を押す。
霧の手前で、白に不自然な皺が寄っていた。雪が抉れている。獣の足跡よりも深い溝。何かが引きずられ、そして──倒れた跡。
雪を払うと、黒が現れた。黒の下から、血の色。冷えきっているはずのそれは、なぜか目に熱かった。私は膝をつき、手袋を外す。皮膚が空気に触れた瞬間、痛みで指先が跳ねた。
「……人?」
違う、という直感が、次の心拍より先に答えを出す。けれど、形は人だ。肩幅が広く、背は高い。雪と霧に塗られた髪は夜の色で、肌は白いというより、血の巡りの失われた象牙の色だった。全身に刻まれた傷は、古いのと新しいのが混ざっている。斜めに走る大きな爪痕。焼け焦げたような痕。剣で裂いたような直線。どれも深い。どれも、よく生きていると思わせる深さだ。
呼吸はある。けれど浅い。胸が上下するたび、黒い霧が寄っては引き、寄っては引く。まるで彼の息に合わせて、世界そのものが脈打っているみたいだった。
「助けなきゃ」
唇が、勝手に動いた。
理由はいらなかった。神の名も、肩書きも、規定もいらない。ただ目の前の苦しさに、手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、光が漏れた。
自分の体のどこに残っていたのかわからないほど微かな光。不器用な子どもが握っていたマッチの火みたいに頼りないのに、確かに暖かい。光は彼の傷口をなぞり、縫うように走った。白い蒸気がひゅう、と上がり、苦い匂いが鼻を刺す。痛みが私の指に逆流し、肩まで痺れが来る。
「……っ」
歯を食いしばる。治癒は、いつだって痛みの対価を要求する。誰かの痛みは、誰かの体に移すことでしか、軽くできない。
それでも、光は働いた。大きな裂傷の縁が柔らかく閉じ、血の色は鈍い茶に変わっていく。焼けた痕の熱が引き、皮膚の下の炎が沈む。霧が不満げにうねり、私の手首にまとわりついた。
「離れて」
低く言うと、黒は怯えた犬みたいに少し引いた。祈りの言葉を知らない者にも、声の温度は伝わる。私はその温度を、彼にも、霧にも向ける。
「生きなさい」
最後の言葉は、自分に言ったのかもしれない。指先の感覚が遠のく。光は細っていく。残り火みたいに、じりじり音がする気がした。
彼の胸が、大きく一度だけ上下する。次の瞬間、瞼が震え、黒の奥で薄い銀が閃いた。
目が、開く。
それは、夜の底で光る刃の色だった。
「……」
口が、わずかに動いた。声は出ない。喉が乾いているのだろう。私は雪をすくい、溶けかけの白を彼の唇に押し当てた。彼は反射のようにそれを舌で受け、少しだけ喉が動いた。
「聞こえますか」
私の声は自分で思ったより落ち着いていた。驚く。こんなときに、人は落ち着けるのか。
彼はしばらく私を見ていた。睫毛についた雪が、ゆっくり溶けて、頬へ冷たい跡を残す。目の色はやはり銀だ。でも、ただの銀ではない。深い水の底に沈んだ金属が、わずかな光を拾ってわたっていくような、重さのある輝き。
「……なぜ」
声が擦れる。砂を噛んで喉を通すみたいな音。
「なぜ……助けた?」
「苦しそうだったから」
答えは、もう出来上がっていた。飾る言葉は何もない。私は彼の目を見た。嘘をつく余裕なんて、どこにもなかった。
銀の中に、ほんの小さな揺れが生まれた。興味、と呼ぶには弱い。疑い、と呼ぶにはやさしすぎる。
「……人間か」
「たぶん」
笑おうとして、唇の皮がつって痛んだ。冗談が下手だ。寒さは、ユーモアまで凍らせる。
「どこから来た」
「向こうの門。追放されました」
「……そうか」
彼はゆっくりと視線を巡らせる。黒い霧、雪、私。認識の輪郭がはっきりしていくにつれ、その顔についた影の意味が見えてくる。疲労。飢え。戦いの痕。孤独。どれも人間であり得るものなのに、どうして彼の顔に載ると“人”から少し外れて見えるのだろう。
近くで彼の手を見た。指の節は太く、掌は固い。爪が黒いのは血の汚れではない。生来の色。人ではない、という確信が、そこから静かに腕を上って心に沈んだ。
「あなた、霧に触れましたね」
「……ああ」
「痛むでしょう」
「痛みは……残っている方が、生きているとわかる」
言い方が乾いている。乾きすぎて、まるで自分のことを他人事みたいに話す。私も似たような声を出す時がある。夜、一人で祈る時。神の気配が薄い日に。
「動けますか」
「動く理由がない」
「じゃあ、作りましょう。今はそれでいいから」
「……人間は、いつも理由を欲しがる」
「あなたは?」
「俺は、理由を失って生き延びたものだ」
霧が風に捲れ、彼の肩の傷が露わになる。縫い跡の上に新しい裂傷。剣だけじゃない。牙の形。爪の刻み。獣とも、人ともつかない敵の痕。世界のどこでも、戦いの形は似ている。
「立てますか?」
私は手を差し出した。骨と皮になった手。冷たさが芯に入っている手。彼はそれをしばらく見て、そして、掴んだ。力は弱い。けれど指の腹は、驚くほど熱かった。体温の質が人と違う。焚き火というより、岩の下に閉じこめられた熾きの温度。
立ち上がると、彼は背丈の半分が雪から出るほど大きかった。重さが私の肩にかかる。膝が笑い、腰がきしむ。それでも、倒れない。倒せない。
「どこへ行く」
「とりあえず、霧から離れて」
彼の体を支えながら、斜面の浅い方へルートを選ぶ。雪の下は凍土で、滑る。彼の足は新しい傷でうまく踏ん張れない。私は前に出て、彼の腕を肩に回し、自分の体重で引っ張った。
「お前、力がない」
「ないですね」
「治癒に使い切ったか」
「もともと、力持ちじゃないので」
「愚かだ」
「そうですね」
「なぜ否定しない」
「頑固で臆病だって言われるより、愚かって言われる方が、まだ人間っぽい気がして」
彼がわずかに息を吐く。寒さが形を持って、その息の周りに白い輪を作る。笑ったのかもしれない。笑った、という形を顔に貼り付けるのが下手なのかもしれない。どちらにせよ、その音は、私の耳に優しかった。
霧の縁を抜けると、風の匂いが変わった。黒に混じっていた苦い金属の匂いが薄れ、代わりに樹皮と苔の湿りが鼻に触れる。私たちは倒木の影に身を寄せ、ひと息つく。視界の隅で霧がまだ蠢いている。音はないのに、確かに近い。
「名は」
彼が言う。
「セリーヌ。……あなたは?」
わずかな間。雪が一枚、彼の肩に落ちて溶けた。
「カイン」
名が、冷たい空気に馴染む。短い。硬い。牙の音がする。記憶のどこかで、同じ名を聞いた気がした。祈祷師たちが口にする禁忌の名。人が怖がる時に、口の中で転がす音。
「……魔王、ですか」
自分の声がかすれた。呆れでも畏れでもない。単に、世界が繋がる音に驚いた。
「お前は、怖がらないのか」
「怖いです。今も。指先まで震えてます」
「なら、手を離せ」
「それとこれとは、別です」
「別だと?」
「怖いから手を離したら、あなたはここで凍えます。凍えるのは、怖いよりも嫌です」
彼は目を細める。銀の刃が鞘に戻るように、視線が一度、私を通り過ぎて遠くを見た。遠くには、霧と雪と、倒木と、冬。
「人間は、矛盾する」
「あなたは?」
「俺は、矛盾し尽くした先で、形を保っている」
「それは、強いってことです」
「弱いとも言える」
「両方です。だから、生きています」
会話は、呼吸の合間に挟む小さな火のようだった。凍えた肺に擦り付ける、紙切れみたいな火。それが消えないよう、私は言葉を探す。祈りに似ている。祈りはいつも、言葉を探す営みから始まる。
「カイン。あなたの傷、奥の一つがまだ塞がってません。触ります」
「……好きにしろ」
私は彼の脇腹に手を差し入れた。体表の冷たさの下に、熾きの温度がある。そこへ光を流す。私は目を閉じ、指先だけになった。世界の形が指先に移り、そこから震えが腕へ上がる。痛みが来る。痛みは、熱の形をしている。熱は、生命の残り香だ。
「……っ、は」
息を吐くと、白が濃くなった。混じるように、彼の息が重なった。二つの白は、重なれば少しの間だけ形を保つ。形があるものは、世界に居場所がある。居場所があるものは、消えにくい。私はその理屈にすがる。
「お前は、聖女か」
「元、です」
「元?」
「追放されました」
「理由は」
「……神託を偽った、と」
「偽ったのか」
「いいえ。……けど、そういうことになりました」
「王は、弱い声を嫌う」
「あなたは?」
「俺は、強い声もうるさい」
少し笑ってしまう。頬がひび割れ、痛みが走る。笑いはすぐ止めた方がいいのに、止められない。感情は時々、止めどきを知らない。
「ありがとう」
思わず出たその言葉に、彼が眉を寄せた。
「何に対して」
「生きてくれて。……生きて、ここで出会ってくれて」
「礼を言うのは、助けた側ではないのか」
「助かる側だって、礼は言えます」
「奇妙だ」
「人間ですから」
「……そうだな」
風が一本、森を縫った。黒い霧の端がふわりと浮き、雪の上に落ち、すぐ消える。霧は生きている。生きているものは、名前を欲しがる。名付けなければ飲み込まれる。けれど、こいつに名は要らない。ただ、離れればいい。
「城は、どこだ」
唐突に彼が訊いた。言葉の硬さは変わらないのに、その奥に、さっきより濃い熱がある。
「城?」
「俺の城だ」
「あなた、帰る場所があるんですか」
「ある。……はずだ」
“はず”。その二文字の浅瀬に、沈む影の形が見えた。疑い。喪失。奪われたものを手で探す時の、空振りの感覚。
「案内してくれ」
彼が、私の手を強く握った。握る理由は、きっと二つ。彼が立っていることを確認するためと、私が逃げないことを確認するため。私は逃げない。逃げたくても、どのみち逃げ切れない。
「方角は」
彼は首を傾け、鼻で空気を嗅いだ。獣みたいな所作なのに、奇妙に品がある。目を閉じ、額に深い皺を刻み、低く呟く。
「黒曜の匂い。……北西」
「わかるんですね」
「俺のものは、世界の底で鳴る」
「詩的」
「事実だ」
私は頷いた。北西。黒い霧の海を迂回するには、斜面を戻って、樅の林を抜け、凍った小川を渡る必要がある。頭の中で地図を描き、道筋に印を付ける。印は目に見えない。けれど、歩けば足に残る。
「行きましょう。ゆっくり」
「ゆっくりは嫌いだ」
「今日は、好きになってください」
「命令するな」
「お願いです」
「……」
彼の口元が、ほんのわずか緩む。緩む、という言葉にさえ躊躇うほど小さな変化。けれど、それは確かに、凍った湖面に走ったひびに似ていた。ひびは、やがて春になる。
私たちは歩き出した。雪が鳴る。木が軋む。呼吸が白を描く。霧は背中でうねり、遠ざかるたびに、肩の重さが少しずつ剥がれていく。
「セリーヌ」
「はい」
「お前、紅茶は淹れられるか」
「え?」
「城に戻ったら……茶が欲しい」
唐突すぎて、口を開けたまま雪を吸い込みそうになる。咳が出て、涙が滲む。寒さと驚きの涙は、区別がつかない。
「……淹れます。きっと、あたためます。体も、少しは心も」
「心は、あたためると柔らかくなる。柔らかいものは、形を失う」
「柔らかいから、形を変えられます。固いものは、折れます」
「……詩的だ」
「事実です」
彼は短く相槌を打ち、それ以上は何も言わなかった。沈黙は嫌いじゃない。沈黙の中に、まだ名前のない感情がふくらみ、呼吸に合わせて揺れる。
凍った小川に差し掛かる。透明な板の下で、黒い水がゆっくり動いている。私は足で氷を探り、厚さを確かめる。彼の体重を支えられるか。支えなければならない。彼が落ちれば、私も落ちる。選択肢はいらない。
「手を」
彼の大きな手が、私の小さな手を覆う。皮膚同士が触れ、熱の質が混ざる。氷の上に、それは奇妙に心強かった。私たちは一歩ずつ渡る。氷が低く唸る。世界が、私たちを試している。試す者に、試される者が答えを返すとき、物語は細く延びる糸みたいに先へ続く。
対岸に辿り着いたとき、私はようやく肺の奥まで息を入れた。冷たさで胸が痛む。痛みは、生きている証拠。痛みがなければ、ここまで来られなかった。痛みと一緒に歩いてきた足だけが、今も前へ出る。
「もう少し」
前を見据えて言うと、彼が低く返す。
「ああ。……もう少しだ」
その声は、さっきよりも人に近かった。
雪は降り続ける。世界は三色のまま、しかし、私たちの間だけに、知らない色が一滴、落ちて広がっていく。名も知らないその色は、暖かい茶の湯気に似ている。まだ遠いのに、舌の奥がわずかに甘くなった。
黒い霧が背後でほどけ、森の影に吸われていく。振り返らない。前だけを見る。北西。黒曜の匂い。城。居場所。約束されていない約束。
歩くたび、彼の重さが少しずつ自分の重さに馴染んでいく。二人分の足音が、雪の上で交互に刻まれていく。振り向けば軌跡。振り向かなくても、軌跡。どちらにせよ、私たちは刻んでいる。
息を合わせる。言葉を少しだけ減らす。沈黙の代わりに、心臓の鼓動を互いの耳へ渡す。鼓動は、世界一古い歌だ。歌は、寒さを一瞬だけ忘れさせる。
──なぜ助けた?
──苦しそうだったから。
その問答は、もう何度も胸の内で反芻された。たぶんこれからも何度もする。答えは変わらない。けれど、答えが届く場所は、少しずつ変わる。届いた先で、何かが小さく動く。銀色の瞳の奥に、興味という火種があるなら、それが湿った薪に火を移す日を願う。祈りは、まだ私の中にいる。肩書きがなくても、祈りは祈りだ。
雪の中、私たちは歩いた。北西へ。黒曜の匂いへ。
霧の向こうの王国も、門も、偽りの光も、今は遠い。世界はまだ冷たい。けれど、冷たい世界の中で触れた体温は、本当にあった。あったものは、消えない。消えないものだけが、道になる。
足元の雪が、きゅ、きゅ、と鳴る。二つの音。まるで、合図のように。
その音に合わせて、私たちは、少しだけ歩幅を揃えた。
枝からこぼれ落ちた雪が地面に触れるまでの一瞬でさえ、吸い込んだ白に溶けて消えた。私の吐息は目の前でほどけ、すぐ形を失う。喉は渇き、胃はきしむ。足は歩幅を忘れ、ただ前へ押し出される機械になっていた。
「……寒い」
声にしても、寒さは薄まらない。机上の祈りみたいに、形だけが空に浮かんで、すぐ霧散する。
雪は膝の少し下まで積もり、道の境界を飲み込んでいた。歩けば歩くほど、世界は単純になっていく。白、灰、黒。その三色で塗り固められた景色の向こうに、黒だけが異様に濃かった。
黒い霧。
遠目には細い糸の束のように見えて、近づけば、夜の底の水をこぼしたように地面を染めている。あの揺らぎは知っている。神殿の書庫で、古文書の片隅に“忘れられた祈りの澱”と記されていたもの。人が願いを投げっぱなしにして放置した結果、形を得損なった祈りが腐り、風の隙間に沈殿して生まれる、と。
「……近寄らない方がいい、はずなんだけど」
足は止まらなかった。止まれば凍る。凍れば眠る。眠れば二度と起きられない。そんな予感が背骨に沿って走り、私を押す。
霧の手前で、白に不自然な皺が寄っていた。雪が抉れている。獣の足跡よりも深い溝。何かが引きずられ、そして──倒れた跡。
雪を払うと、黒が現れた。黒の下から、血の色。冷えきっているはずのそれは、なぜか目に熱かった。私は膝をつき、手袋を外す。皮膚が空気に触れた瞬間、痛みで指先が跳ねた。
「……人?」
違う、という直感が、次の心拍より先に答えを出す。けれど、形は人だ。肩幅が広く、背は高い。雪と霧に塗られた髪は夜の色で、肌は白いというより、血の巡りの失われた象牙の色だった。全身に刻まれた傷は、古いのと新しいのが混ざっている。斜めに走る大きな爪痕。焼け焦げたような痕。剣で裂いたような直線。どれも深い。どれも、よく生きていると思わせる深さだ。
呼吸はある。けれど浅い。胸が上下するたび、黒い霧が寄っては引き、寄っては引く。まるで彼の息に合わせて、世界そのものが脈打っているみたいだった。
「助けなきゃ」
唇が、勝手に動いた。
理由はいらなかった。神の名も、肩書きも、規定もいらない。ただ目の前の苦しさに、手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、光が漏れた。
自分の体のどこに残っていたのかわからないほど微かな光。不器用な子どもが握っていたマッチの火みたいに頼りないのに、確かに暖かい。光は彼の傷口をなぞり、縫うように走った。白い蒸気がひゅう、と上がり、苦い匂いが鼻を刺す。痛みが私の指に逆流し、肩まで痺れが来る。
「……っ」
歯を食いしばる。治癒は、いつだって痛みの対価を要求する。誰かの痛みは、誰かの体に移すことでしか、軽くできない。
それでも、光は働いた。大きな裂傷の縁が柔らかく閉じ、血の色は鈍い茶に変わっていく。焼けた痕の熱が引き、皮膚の下の炎が沈む。霧が不満げにうねり、私の手首にまとわりついた。
「離れて」
低く言うと、黒は怯えた犬みたいに少し引いた。祈りの言葉を知らない者にも、声の温度は伝わる。私はその温度を、彼にも、霧にも向ける。
「生きなさい」
最後の言葉は、自分に言ったのかもしれない。指先の感覚が遠のく。光は細っていく。残り火みたいに、じりじり音がする気がした。
彼の胸が、大きく一度だけ上下する。次の瞬間、瞼が震え、黒の奥で薄い銀が閃いた。
目が、開く。
それは、夜の底で光る刃の色だった。
「……」
口が、わずかに動いた。声は出ない。喉が乾いているのだろう。私は雪をすくい、溶けかけの白を彼の唇に押し当てた。彼は反射のようにそれを舌で受け、少しだけ喉が動いた。
「聞こえますか」
私の声は自分で思ったより落ち着いていた。驚く。こんなときに、人は落ち着けるのか。
彼はしばらく私を見ていた。睫毛についた雪が、ゆっくり溶けて、頬へ冷たい跡を残す。目の色はやはり銀だ。でも、ただの銀ではない。深い水の底に沈んだ金属が、わずかな光を拾ってわたっていくような、重さのある輝き。
「……なぜ」
声が擦れる。砂を噛んで喉を通すみたいな音。
「なぜ……助けた?」
「苦しそうだったから」
答えは、もう出来上がっていた。飾る言葉は何もない。私は彼の目を見た。嘘をつく余裕なんて、どこにもなかった。
銀の中に、ほんの小さな揺れが生まれた。興味、と呼ぶには弱い。疑い、と呼ぶにはやさしすぎる。
「……人間か」
「たぶん」
笑おうとして、唇の皮がつって痛んだ。冗談が下手だ。寒さは、ユーモアまで凍らせる。
「どこから来た」
「向こうの門。追放されました」
「……そうか」
彼はゆっくりと視線を巡らせる。黒い霧、雪、私。認識の輪郭がはっきりしていくにつれ、その顔についた影の意味が見えてくる。疲労。飢え。戦いの痕。孤独。どれも人間であり得るものなのに、どうして彼の顔に載ると“人”から少し外れて見えるのだろう。
近くで彼の手を見た。指の節は太く、掌は固い。爪が黒いのは血の汚れではない。生来の色。人ではない、という確信が、そこから静かに腕を上って心に沈んだ。
「あなた、霧に触れましたね」
「……ああ」
「痛むでしょう」
「痛みは……残っている方が、生きているとわかる」
言い方が乾いている。乾きすぎて、まるで自分のことを他人事みたいに話す。私も似たような声を出す時がある。夜、一人で祈る時。神の気配が薄い日に。
「動けますか」
「動く理由がない」
「じゃあ、作りましょう。今はそれでいいから」
「……人間は、いつも理由を欲しがる」
「あなたは?」
「俺は、理由を失って生き延びたものだ」
霧が風に捲れ、彼の肩の傷が露わになる。縫い跡の上に新しい裂傷。剣だけじゃない。牙の形。爪の刻み。獣とも、人ともつかない敵の痕。世界のどこでも、戦いの形は似ている。
「立てますか?」
私は手を差し出した。骨と皮になった手。冷たさが芯に入っている手。彼はそれをしばらく見て、そして、掴んだ。力は弱い。けれど指の腹は、驚くほど熱かった。体温の質が人と違う。焚き火というより、岩の下に閉じこめられた熾きの温度。
立ち上がると、彼は背丈の半分が雪から出るほど大きかった。重さが私の肩にかかる。膝が笑い、腰がきしむ。それでも、倒れない。倒せない。
「どこへ行く」
「とりあえず、霧から離れて」
彼の体を支えながら、斜面の浅い方へルートを選ぶ。雪の下は凍土で、滑る。彼の足は新しい傷でうまく踏ん張れない。私は前に出て、彼の腕を肩に回し、自分の体重で引っ張った。
「お前、力がない」
「ないですね」
「治癒に使い切ったか」
「もともと、力持ちじゃないので」
「愚かだ」
「そうですね」
「なぜ否定しない」
「頑固で臆病だって言われるより、愚かって言われる方が、まだ人間っぽい気がして」
彼がわずかに息を吐く。寒さが形を持って、その息の周りに白い輪を作る。笑ったのかもしれない。笑った、という形を顔に貼り付けるのが下手なのかもしれない。どちらにせよ、その音は、私の耳に優しかった。
霧の縁を抜けると、風の匂いが変わった。黒に混じっていた苦い金属の匂いが薄れ、代わりに樹皮と苔の湿りが鼻に触れる。私たちは倒木の影に身を寄せ、ひと息つく。視界の隅で霧がまだ蠢いている。音はないのに、確かに近い。
「名は」
彼が言う。
「セリーヌ。……あなたは?」
わずかな間。雪が一枚、彼の肩に落ちて溶けた。
「カイン」
名が、冷たい空気に馴染む。短い。硬い。牙の音がする。記憶のどこかで、同じ名を聞いた気がした。祈祷師たちが口にする禁忌の名。人が怖がる時に、口の中で転がす音。
「……魔王、ですか」
自分の声がかすれた。呆れでも畏れでもない。単に、世界が繋がる音に驚いた。
「お前は、怖がらないのか」
「怖いです。今も。指先まで震えてます」
「なら、手を離せ」
「それとこれとは、別です」
「別だと?」
「怖いから手を離したら、あなたはここで凍えます。凍えるのは、怖いよりも嫌です」
彼は目を細める。銀の刃が鞘に戻るように、視線が一度、私を通り過ぎて遠くを見た。遠くには、霧と雪と、倒木と、冬。
「人間は、矛盾する」
「あなたは?」
「俺は、矛盾し尽くした先で、形を保っている」
「それは、強いってことです」
「弱いとも言える」
「両方です。だから、生きています」
会話は、呼吸の合間に挟む小さな火のようだった。凍えた肺に擦り付ける、紙切れみたいな火。それが消えないよう、私は言葉を探す。祈りに似ている。祈りはいつも、言葉を探す営みから始まる。
「カイン。あなたの傷、奥の一つがまだ塞がってません。触ります」
「……好きにしろ」
私は彼の脇腹に手を差し入れた。体表の冷たさの下に、熾きの温度がある。そこへ光を流す。私は目を閉じ、指先だけになった。世界の形が指先に移り、そこから震えが腕へ上がる。痛みが来る。痛みは、熱の形をしている。熱は、生命の残り香だ。
「……っ、は」
息を吐くと、白が濃くなった。混じるように、彼の息が重なった。二つの白は、重なれば少しの間だけ形を保つ。形があるものは、世界に居場所がある。居場所があるものは、消えにくい。私はその理屈にすがる。
「お前は、聖女か」
「元、です」
「元?」
「追放されました」
「理由は」
「……神託を偽った、と」
「偽ったのか」
「いいえ。……けど、そういうことになりました」
「王は、弱い声を嫌う」
「あなたは?」
「俺は、強い声もうるさい」
少し笑ってしまう。頬がひび割れ、痛みが走る。笑いはすぐ止めた方がいいのに、止められない。感情は時々、止めどきを知らない。
「ありがとう」
思わず出たその言葉に、彼が眉を寄せた。
「何に対して」
「生きてくれて。……生きて、ここで出会ってくれて」
「礼を言うのは、助けた側ではないのか」
「助かる側だって、礼は言えます」
「奇妙だ」
「人間ですから」
「……そうだな」
風が一本、森を縫った。黒い霧の端がふわりと浮き、雪の上に落ち、すぐ消える。霧は生きている。生きているものは、名前を欲しがる。名付けなければ飲み込まれる。けれど、こいつに名は要らない。ただ、離れればいい。
「城は、どこだ」
唐突に彼が訊いた。言葉の硬さは変わらないのに、その奥に、さっきより濃い熱がある。
「城?」
「俺の城だ」
「あなた、帰る場所があるんですか」
「ある。……はずだ」
“はず”。その二文字の浅瀬に、沈む影の形が見えた。疑い。喪失。奪われたものを手で探す時の、空振りの感覚。
「案内してくれ」
彼が、私の手を強く握った。握る理由は、きっと二つ。彼が立っていることを確認するためと、私が逃げないことを確認するため。私は逃げない。逃げたくても、どのみち逃げ切れない。
「方角は」
彼は首を傾け、鼻で空気を嗅いだ。獣みたいな所作なのに、奇妙に品がある。目を閉じ、額に深い皺を刻み、低く呟く。
「黒曜の匂い。……北西」
「わかるんですね」
「俺のものは、世界の底で鳴る」
「詩的」
「事実だ」
私は頷いた。北西。黒い霧の海を迂回するには、斜面を戻って、樅の林を抜け、凍った小川を渡る必要がある。頭の中で地図を描き、道筋に印を付ける。印は目に見えない。けれど、歩けば足に残る。
「行きましょう。ゆっくり」
「ゆっくりは嫌いだ」
「今日は、好きになってください」
「命令するな」
「お願いです」
「……」
彼の口元が、ほんのわずか緩む。緩む、という言葉にさえ躊躇うほど小さな変化。けれど、それは確かに、凍った湖面に走ったひびに似ていた。ひびは、やがて春になる。
私たちは歩き出した。雪が鳴る。木が軋む。呼吸が白を描く。霧は背中でうねり、遠ざかるたびに、肩の重さが少しずつ剥がれていく。
「セリーヌ」
「はい」
「お前、紅茶は淹れられるか」
「え?」
「城に戻ったら……茶が欲しい」
唐突すぎて、口を開けたまま雪を吸い込みそうになる。咳が出て、涙が滲む。寒さと驚きの涙は、区別がつかない。
「……淹れます。きっと、あたためます。体も、少しは心も」
「心は、あたためると柔らかくなる。柔らかいものは、形を失う」
「柔らかいから、形を変えられます。固いものは、折れます」
「……詩的だ」
「事実です」
彼は短く相槌を打ち、それ以上は何も言わなかった。沈黙は嫌いじゃない。沈黙の中に、まだ名前のない感情がふくらみ、呼吸に合わせて揺れる。
凍った小川に差し掛かる。透明な板の下で、黒い水がゆっくり動いている。私は足で氷を探り、厚さを確かめる。彼の体重を支えられるか。支えなければならない。彼が落ちれば、私も落ちる。選択肢はいらない。
「手を」
彼の大きな手が、私の小さな手を覆う。皮膚同士が触れ、熱の質が混ざる。氷の上に、それは奇妙に心強かった。私たちは一歩ずつ渡る。氷が低く唸る。世界が、私たちを試している。試す者に、試される者が答えを返すとき、物語は細く延びる糸みたいに先へ続く。
対岸に辿り着いたとき、私はようやく肺の奥まで息を入れた。冷たさで胸が痛む。痛みは、生きている証拠。痛みがなければ、ここまで来られなかった。痛みと一緒に歩いてきた足だけが、今も前へ出る。
「もう少し」
前を見据えて言うと、彼が低く返す。
「ああ。……もう少しだ」
その声は、さっきよりも人に近かった。
雪は降り続ける。世界は三色のまま、しかし、私たちの間だけに、知らない色が一滴、落ちて広がっていく。名も知らないその色は、暖かい茶の湯気に似ている。まだ遠いのに、舌の奥がわずかに甘くなった。
黒い霧が背後でほどけ、森の影に吸われていく。振り返らない。前だけを見る。北西。黒曜の匂い。城。居場所。約束されていない約束。
歩くたび、彼の重さが少しずつ自分の重さに馴染んでいく。二人分の足音が、雪の上で交互に刻まれていく。振り向けば軌跡。振り向かなくても、軌跡。どちらにせよ、私たちは刻んでいる。
息を合わせる。言葉を少しだけ減らす。沈黙の代わりに、心臓の鼓動を互いの耳へ渡す。鼓動は、世界一古い歌だ。歌は、寒さを一瞬だけ忘れさせる。
──なぜ助けた?
──苦しそうだったから。
その問答は、もう何度も胸の内で反芻された。たぶんこれからも何度もする。答えは変わらない。けれど、答えが届く場所は、少しずつ変わる。届いた先で、何かが小さく動く。銀色の瞳の奥に、興味という火種があるなら、それが湿った薪に火を移す日を願う。祈りは、まだ私の中にいる。肩書きがなくても、祈りは祈りだ。
雪の中、私たちは歩いた。北西へ。黒曜の匂いへ。
霧の向こうの王国も、門も、偽りの光も、今は遠い。世界はまだ冷たい。けれど、冷たい世界の中で触れた体温は、本当にあった。あったものは、消えない。消えないものだけが、道になる。
足元の雪が、きゅ、きゅ、と鳴る。二つの音。まるで、合図のように。
その音に合わせて、私たちは、少しだけ歩幅を揃えた。
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