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第4話 ガラスが砕けた音
しおりを挟む夜会の音がまだ耳のどこかに貼りついていた。拍手の丸い粒、香水の甘さ、氷が触れ合う軽い音。車のドアが閉まった瞬間、それらは一度に遠ざかり、代わりに自分の鼓動だけが近くなる。屋敷の玄関は、いつもの夜の香りに差し替えられていた。白檀に、ほんのわずかな柑橘。安心させる配合である。今夜ばかりは、効かない。
「お嬢様」 西園寺が扉を押さえ、深く頭を下げる。動線は整っている。いつだって整っている。整っていないのは、私の内側だけだ。 「父は」 「応接室にてお待ちでございます」 「分かった」
足音を小さくして廊下を進む。絨毯が歩幅に合わせて沈み、壁の絵は視線を返してこない。ドアをノックし、開ける。父はブラインドを半分だけ下ろし、光を均一にしながら書類の山を整理していた。顔は石、目は数字。呼吸は熱を帯びない。
「座れ」 言葉は削られている。私は指示通り、向かいのソファに腰を下ろす。粗い布地がドレスをひっかけないよう、膝の角度を一度整える。身体が勝手に“正解の姿勢”を採用するのが、酷く滑稽に思えた。
「今夜の件だが」 父は書類から目を上げない。眼鏡のレンズが机の光を拾って、薄く白い。声は平たく、感情の温度は室温のまま。 「朝霧会長とは既に話した。息子の独断専行である、と。明日、先方はコメントを出す。こちらも、だ」 「こちら、とは」 「白崎家としての声明だ。『事実を重く受け止め、今後も信頼回復に努める』。定型文でよい」 定型文。状況を黙らせるための毛布。厚手だが、濡れると重い。 「……私の名前で」 「当然だ。お前が看板だ」 「内容は私が決める」 「決めるのは家だ」 父はようやく視線をあげ、私の顔を真っ直ぐに見た。冷たい、というより、温度そのものがない。 「明日以降のスケジュールを調整する。余計な動きはするな。メディアは西園寺がさばく。SNSは凍結だ。勝手をするな」 「……勝手」 「今夜のことは『不測の事態』だ。お前が感情で動くと、ただの『醜聞』になる」 醜聞。口に出された瞬間、部屋の空気に粉になって漂う。肺に入る前に、私はそれを拒否したい衝動に駆られる。拒否の仕方を、私は長く忘れてきた。
「父さん」 呼びかけると、父は眉をわずかに上げた。初めて“父”と呼んだ新入りの社員を見るみたいな顔。 「今夜、私の婚約は破棄された」 「そうだ」 「公の場でだ」 「見れば分かる」 「私は、何になればいい」 自分でも、予想外の言葉が出た。父は一拍おいて答える。 「看板だ」 「人間ではなく」 「看板に人格は不要だ」 言葉は正確で、残酷ではなく、ただ薄い。薄さが刃に変わる前に、私は立ち上がる。笑顔は使わない。会釈も使わない。ただ立つ。 「理解した」 父が何か言い足そうとした気配を背に、私は応接室を出た。
廊下の角で、真白が壁に寄りかかっていた。ドレスの白が夜の廊下に沈み、彼女の顔は水に濡れた紙のように弱い。 「お姉ちゃん」 「部屋に戻っていろ」 「ごめんなさい」 「謝るのは、あなたではない」 彼女の目が潤み、言葉が続く前に私は手を挙げた。止まれ、の合図。止めるのは、涙ではない。これ以上、あの夜会の続きをここでやることだ。 「水を飲んで、眠れ。明日は早い」 「眠れない」 「目を閉じるだけでもいい」 「隣にいて」 吐息が細い糸で繋がってくる。切れば泣く。繋げば溺れる。私はゆっくり頷く。 「少しだけ」 彼女の部屋に入り、窓のカーテンを半分閉める。白い光が弱くなり、空気の角が丸くなる。ベッドに腰掛け、真白の指を一本ずつほどく。彼女の呼吸が少し、深くなる。 「さっきのこと、知らなかった。ほんとに、今、初めて」 「知っている」 「私、悪い?」 「悪くない」 「じゃあ、誰が悪いの」 「……答えは、明日でいい」 真白の目に、幼い日の庭が映る。砂場、日傘、氷菓の甘い匂い。私はその風景の端で、いつも影を伸ばしていた。影は守る。光を邪魔しないように、横で伸びるのが仕事だ。 「お姉ちゃん」 「なに」 「私、どうしたらいいの」 「強くなる」 「どうやって」 「弱さを知っているままで」 言いながら、自分に返ってくる。弱さを知っているまま強くなる法。答えはまだ形にならない。けれど、輪郭だけは見える。『誰のためにも微笑まない』。それが最初で、次がある。
真白のまぶたが重くなり、呼吸がゆっくりになっていく。私は立ち上がり、彼女の髪をそっと耳にかけた。ドアを静かに閉める。廊下の空気が、ひやりと戻ってくる。
自室に戻り、ドレッサーの前に座る。指先がジュエリーをひとつずつ外す。ピアス、ネックレス、ブレスレット。外すたびに、体のどこかが軽くなる。軽くなるのに、胸の奥は重くなる。不思議だ。軽く、重い。この矛盾の中に、今夜の私が入っている。
鏡の中で、私は笑わない。笑い方は知っている。だが、今は笑顔が顔の中で迷子になる。迷子のまま、目だけが私を見返してくる。まぶたの縁に細い疲れ。頬の奥の筋肉が、長い一日の終わり方を思い出せずにいる。
「誰のためにも、微笑まない」 声に出す。小さな音だが、部屋に響く。壁紙が受け取り、絨毯が吸い、窓のガラスが薄く震える。震えの輪が私の内部まで届いたとき、どこかで、カタンと小さな音がした。
ドレッサーの端に立て掛けてある写真立てが、わずかに傾いでいた。幼い私と真白、そして両親。庭の白いベンチ。母の顔は遠く、父の横顔は硬い。写真に触れようと、指先を伸ばす。その瞬間、金属のスタンドが外れて、フレームが倒れた。ガラスが床で砕け、夜の空気を切る澄んだ音がする。
——ガラスが割れる音は、いつだって綺麗だ。
私は動かない。破片が灯りを拾って、床で星になる。掃除道具を呼ぶこともできた。呼べば、五分で何事もなかった床に戻るだろう。今は、見ていたかった。綺麗に散った欠片の形を、目に覚えさせたかった。
膝をつき、一番大きな破片を指でつまむ。表面は滑らかで、端は鋭い。光を噛む歯みたいに、白く冷たい。破片越しに鏡を覗く。歪んだ私が、何人も重なる。誰が本当か。どれも少しずつ本当で、どれも少しずつ嘘だ。
指の腹がわずかに切れ、赤い点が滲む。痛みは小さい。小さいが、真っ直ぐだ。私は破片をそっと床に戻し、立ち上がる。鏡の前にもう一度座る。ここからだ。今までの終わりと、これからの始まりの境界線は、意外にも静かに引ける。
「完璧は今日で終わり」 声は揺れない。揺れないことが、今夜だけは自然だった。耳の奥で、ホールのざわめきが遠のいていく。代わりに、自分の呼吸だけが、はっきり聞こえる。
携帯が震えた。着信画面に表示された名前は、朝霧悠真。視線が、画面の白い光に張り付く。指が勝手にスワイプの角度を思い出す。思い出しながら、動かない。迷いは二秒。二秒で十年分の礼儀と侘びの文法が並び、二秒で全部を却下する。
通話は受けない。メッセージアプリが開いたままになっていたので、そこに文字を打つ。 『謝るなら、妹に』 送信。指が震えない。震えないことに、少し驚く。既読がつく。返事はすぐに来る。 『彼女にも、君にも謝りたい。話せないか』 短く息を吐き、画面を伏せた。伏せる角度で、部屋の空気が変わる。説明のない沈黙のほうが、今は誠実に思える。
洗面台で指先の血を流す。赤は水に触れると、ほんの少しだけ甘い匂いがする。昔、転んで膝を擦りむいたときも、同じ匂いがしたことを思い出す。傷は小さく、しかし、身体はちゃんと反応する。生きているからである。
戻ると、床の破片に月光が落ちていた。カーテンを半分だけ開けたからだ。月は白く、白は光と喧嘩しない。けれど今夜の白は、少しだけ刃に見えた。外は静かだが、門の向こうにはきっと車の影。遅い時間でも、嗅ぎつけるものは嗅ぎつける。明日の朝には、もっと。だから、静かにしておく。静かにして、隙間をつくる。隙間は息継ぎで、息継ぎがあれば泳げる。
クローゼットを開け、箱を一つ取り出す。昔、母が残していった小さな箱だ。中には古いポラロイドと、少し色の褪せたスカーフ、そして紙片。紙片には丸い字で一文だけ。 『笑わない日を、一日だけ持ちなさい』 箱の匂いは、遠い午後の埃の匂いがした。母の声は思い出せない。字の癖だけが、手のひらの温度に似ていた。私は紙片を箱に戻し、ふたを閉じる。今夜は、これが合図だ。
ベッドに腰を下ろす。シーツの冷たさが背中をまっすぐにする。天井の模様を目でなぞる。いつもと同じ線、いつもと違う目。違うのは私のほう。違うなら、違いを動かす。動かす力は、怒りではない。怒りは燃料だが、すぐに燃え尽きる。必要なのは、冷たさ。冷たさは長持ちする。刃の温度は低いほど切れる。
西園寺が控えめにドアを叩いた。 「お嬢様」 「どうした」 「メディアの車が数台、門の前に。警備へ指示しました。明朝は裏口からのご出立が安全かと」 「手配を」 「はい。……それから、破片は」 「朝まで、そのままで」 西園寺は一瞬だけ目を細め、うなずいた。理解、というより、判断を私に返す仕草だ。老練な人間だけが持つ、余白の譲り方。 「おやすみなさいませ」 「おやすみ」 静けさが戻る。鏡の中で、目の奥だけが冴えている。眠れない夜の目。けれど、眠る。眠らなければ、明日、切れない。切るのは、私の番だ。
横になり、呼吸を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。数の間に、今日の場面が差し込まれる。ホールの光、マイク、真白の肩の震え、父の声、久遠の短い言葉、写真のガラス、破片の星。星は床に落ちても、光る。ならば、落ちても光ればいい。そう思うと、胸の中の重さが、ほんの少し動いた。重さの位置が変わるだけで、呼吸は入れ替わる。
瞼が下りる直前、自分に向けて短く言う。 「終わりだ」 完璧な令嬢の契約書に、目に見えないハサミを入れる。切り離した紙片は、空調に舞って、床の破片に紛れる。朝になったら掃除する。掃除をするのは、明日の私だ。今夜の私は、ただ切る。静かに、確実に。
睡りは浅いが、確かな底がある。底に降りていく途中で、耳がもう一度だけ、さっきの音を再生する。ガラスが砕ける、冷たくて透明な音。私はその音を、心臓の裏で握りしめる。冷たさを保つ。朝が来る。来たとき、笑わない顔で立つ。立って、最初の一手を打つ。誰のためでもない、一手である。
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