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第6章
午後二時、フィンが顔を上げた。手元を片づけて席を立つ。
「カフェテリアに行くのか」
「はい。でも、その前に、寄り道をします」
フィンが寄ったのは玄関付近のポストだった。サンゴのように、同じ大きさ同じ形のポストが壁に備えつけられ、一つ一つに研究者の名前が書かれている。フィンは迷いなく先生のポストのダイヤルを回し、扉を開けた。郵便物の宛名を食い入るように読んでいる。フィンは小さくため息をつき、すべての郵便物を白衣のポケットに入れた。
昼時を過ぎたカフェテリアは閑散としていた。選べる料理も少ない。
「ため息をついていたが、よくない知らせでもあったのか」
テーブルにトレイを置きながら問うと、フィンは首を振った。
「先生の手紙が来ないんです。いつもはうちに届きます。全然来ないので、もしかしてこちらかと思いましたが、ありませんでした」
「忙しいのかもしれないな」
フィンはがっかりした様子だったが、手紙が来ないことには疑問を持っていないようだ。先生の手紙はフィンに渡らないよう、あらかじめ回収する手はずになっている。今はカモメが一通だけ巣に保管しているはずだ。あまり長期間手紙が届かないと、不審に思われるかもしれない。偽の手紙を届けるべきか。
「先生の手紙には何が書かれてるんだ」
「今いる場所の情報と、新しい仮説です」
「返事を書くのか」
「いいえ。僕は、手紙もうまく書けません。代わりに、先生が欲しそうな資料やデータを集めておきます。先生が帰ってきたときのために」
今いる場所と仮説。場所についてはごまかしがきくかもしれないが、仮説の捏造は難しそうだ。偽の手紙を送るのは最終手段だろう。
「ルートは先生から手紙をもらわないんですか」
「残念だが、一通もない。フィンがうらやましい」
そう言うと、フィンはコーヒーカップを空中で止めた。薄い皮膚の首から頬へ、徐々に赤みが登っていく。初めて見る反応だ。人間は恥ずかしいと顔が赤くなると習った。今のやり取りのどこが恥ずかしかったのだろう。
新しい話題もなく、それぞれに皿の上を片付ける。陸に来たばかりの頃は、沈黙が不安だった。フィンの思考が読めず、沈黙はすなわち拒絶に思えた。しばらくいっしょに暮らすうちに、フィンにとっては黙っている方が平常らしいとわかってきた。考えてみれば、フィンは先生がいない間、一人であの家に住んでいる。研究所には仲間らしい仲間がいない。必然的に話す機会がないのだろう。
朝、研究所まで一言もしゃべらない日は、ルートグーヴァは波の音やカモメの声を聞いている。夕食の席で、フィンが思い出したように
「今日はカモメがたくさん鳴いていましたね」
と言うと、会話がなくても同じ空間を共有していたとわかる。そのときの感情は、うまく表現できない。分厚いイソギンチャクの下でたっぷりと眠って目覚めた瞬間のような、卵の薄い皮を破って生まれたばかりのイカの子どもと目が合ったような気持ちになる。
感情を言葉で表すのは難しい。フィンほどではないが、自覚がないだけで実は自分も口下手なのではないか、とルートグーヴァは思う。
「フィンは、先生から機密区域の研究も任されているのか」
フィンが出入りできる部屋があるなら、先生の助手としていっしょに入れないだろうか。ルートグーヴァの期待に反し、フィンは首を振った。
「機密扱いになっているのは、国家プロジェクトがほとんどです。主に海洋資源の研究で、先生は関わっていません。プロジェクトメンバーだけが部屋の鍵を持っています。ルートは入れません。総務部にマスターキーがありますが、仮許可証では借りられないんです」
「そうか。残念だ」
仮許可証を受け取るときにも機密区域には入れないと言われたが、鍵を借りられないという意味だったらしい。正面から攻めるのは難しそうだ。
「ルートは国家プロジェクトに興味があるんですか」
フィンはピラフの米粒を皿の中央に集めながら、上目遣いでルートグーヴァを見た。急に機密区域の話をしたので、怪しまれたかもしれない。興味がないと答えてもよかったが、なるべく嘘はつきたくなかった。
「機密と言われたら気になるだろう。フィンは興味ないのか」
「ないです」
フィンは短く答え、フォークでフライドポテトを一センチほどに刻み始めた。ピラフと同様、皿の中央に集めている。不機嫌そうだ。表情はいつものフィンだが気配が違う。
「怒っているのか」
「いいえ」
フィンは原型のないフライドポテトとピラフをフォークの背で押し固めた。もそもそと食べ始める。
「機密区域が嫌いなのか」
「苦手」の方がよかっただろうか。
「それとも、国家プロジェクトが嫌いなのか」
「……別に、嫌いじゃありません。気に入らないだけです」
嫌い、苦手、気に入らない。どれも微妙に意味が違う。フィンは感情を説明するのが下手だと言ったが、説明のための道具は豊富に持っている。
「どうして国家プロジェクトが気に入らないんだ」
「国家プロジェクトの選定基準はお金だけです。先生の海底遺跡調査も国家プロジェクトでした。国は遺跡を観光資源として開発したかったんです。開発資金の元が取れないという理由でプロジェクトは消えました」
フィンは早口に、ほとんど言葉を区切らず話した。やはり怒っているようだ。気に入らないと言ったが、本当は国家プロジェクトが嫌いなのだろう。
「国家プロジェクトでなくても先生の研究は素晴らしい。それでは駄目なのか」
「僕もそう思います。でも、みんなはそうじゃないんです」
「みんな?」
「研究所も、新聞も、国も、みんなです。国家プロジェクトだったときは、みんな先生の仮説を信じていました。国家プロジェクトでなくなった途端、みんな先生の説を否定しました」
どうやらフィンが気に入らないのは国家プロジェクトではなく、周囲の反応のようだ。誰もが国家プロジェクトという看板に踊らされる。肝心の研究内容については吟味されない。何が重要か知ろうとしない。ルートグーヴァが海底で聞かされていた人間像そのものだ。
「先生はたくさんの研究をしていて、たくさんの仮説を立てます。実証できる説も、できない説もあります」
同意を求めるようにフィンが視線を寄越したので、ルートグーヴァはうなずいた。
「先生の仮説は突飛です。だから、みんないつも信じません。でも、国家プロジェクトであるうちは信じたんです」
「私は先生から海底遺跡について何も聞いていない。先生はどんな仮説を立てたんだ」
「打ち捨てられた人魚の都市です」
詳しく場所を聞くと、確かに人魚と半魚人の一族の古都があった場所だ。人間が本格的に海に進出する以前、彼らは日の光が届く範囲に棲んでいた。
「建物の構造が、二足歩行で生活するには明らかに不便だそうです。陸上の街が沈んだのではないのも、周囲の地形から推測できると先生は言っていました。地質調査をすれば、もっとはっきりするはずです」
恐ろしい話だ。今はまだ一部の人間の洞察力でしかないが、いずれそこに技術が加わる。国家プロジェクトにならずとも、海のもっと深いところまで暴かれてしまう。一体どこまで潜っていけば平穏に暮らせるのか。暗い気分になる。
「ルートは、誰かに先生の研究を馬鹿にされたことはありますか」
「ない。フィンはあるのか」
フィンは周囲をはばかるように、小さく素早くうなずいた。
「夢物語、妄想、と言われます。実証できないと、反論もできません。先生は気にしなくていいと言ってくれますが、僕は」
フィンは空になった皿をじっと見つめている。頭を右側に傾けた。ペンが見つからなかったり、オムレツにマヨネーズをかけすぎてしまったりすると、フィンはこうして首を傾ける。困ったときの癖なのだろう。
「悔しい?」
「そうではなくて……いえ、そうなんですが、そうではないです」
フィンは言葉を探して首を左右に傾ける。その仕種がなんだかおかしかったが、笑っては気を悪くするかもしれないので、ルートグーヴァは頬杖をつく振りをして口元を隠した。
「実証できないという前提で、先生の研究を馬鹿にされたら、ルートはどうしますか」
難しい質問だ。経験がないし、経験する予定もない。見ず知らずの人間が馬鹿にされている様を想像するのは困難だ。よく知った相手ならどうだろう。例えば、ハイドラストイエなら。
ハイドラストイエはよく年長者に馬鹿にされる。友人を馬鹿にされれば気分はよくないが、たいてい本当に馬鹿なことをしているので、相手の反応ももっともだと思う。ハイドラストイエには言動に気をつけるよう注意をうながすが、響いた試しはない。
「少し待ってくれ」
想像の例として、ハイドラストイエは不適切だった。フィンならどうだろう。フィンの研究を馬鹿にする人間がいると仮定する。以前フィンに論文を読ませようとした研究員と同じ類の人間だ。腹が立つ、というのがルートグーヴァの最初の感想だった。
腹は立つが、実証できない前提なので分が悪い。フィンのために何もできない。悔しいし、もどかしい。相手にも自分にも腹が立つ。そんなときはどうするのが最善だろう。
「私なら、逃げる」
海で勝ち目のない戦いに固執すれば死につながる。研究を馬鹿にされても死にはしないが、精神的に消耗するだろう。相手から離れるのが一番いい。
「不快ではないんですか」
「不快だが、その場にとどまっていても不快なままだ」
「その場から離れても、不快なままではありませんか」
「しばらくはそうかもしれないが、やがて忘れるだろう」
そう言ってから、ルートグーヴァはフィンの記憶力を思い出した。相手から離れれば声は聞こえなくなるが、フィンの耳に残った音はいつまでも消えない。
「忘れられなくても、不快な気分は薄れると思う」
取ってつけたような物言いになってしまい、ルートグーヴァは後悔した。
「……ルートが正しいんだと思います。たぶん」
フィンはもう湯気の立っていないコーヒーを飲み干し、トレイの上に置いた。二人同時に立ち上がる。来たときよりもさらに閑散としたカフェテリアを横切り、食器を返却した。
「先生の研究を馬鹿にされて、証明できないと、僕は、孤独を感じます。ルートは、孤独を感じるときはありますか」
「意識したことがない」
孤独感はルートグーヴァには縁遠い。クラーケンは元来単独で生きる種族だ。タコのように何千という卵を産み、孵化してすぐに海流に乗って世界中に散っていく。ルートグーヴァも幼い頃はひとりで海をただよっていた。
ルートグーヴァは集団生活に抵抗がなかったが、どうしても群れというものに馴染めないクラーケンもいる。彼らはある日王国にやってきて、しばらくすると去っていく。一族の誰も彼らを引きとめない。種族の違うハイドラストイエの方が敏感で、ひとりでは淋しいだろうと背びれをたたみ、沈んだ声を出す。人魚と半魚人の一族は群れで生活しているので、孤独感や淋しさは染みついた感情のようだ。
「フィン、次に先生の研究を馬鹿にされたらいっしょに逃げよう」
フィンはルートグーヴァを凝視した。人間も群れを作って生活している。同じ種族とはいえ、味方がいなければ淋しいだろう。
「不快感を忘れさせられはしないが」
注釈を入れると、フィンは笑みをこぼした。
「でも、孤独は感じなさそうです。ルートといっしょに、逃げます」
ガラスのドアを開け、建物をつなぐ屋根つきの通路へ出る。日差しが強く、ルートグーヴァは遠くで光る波に目を細めた。
「乙女来たりて尾を振るい、男奏でし楽の音の」
フィンが小さく口ずさむ。言い回しは古いが、確かに海の国の言葉だ。なぜ、人間のフィンが話せるのだろう。
「フィン、それは?」
「赤道付近の島嶼に伝わる民謡です。尾のある女性は人魚だと、先生が言っていました。人魚はいるんです。絶滅してしまっているかもしれませんが、空想上の生物ではないんです」
島で使われている文字が、先生が見つけた遺跡に残されたものと似ているらしい。先生が送ってきた文字と発音の一覧表、聞き取り調査をした多くの単語、簡単な文法を元に、フィンは遺跡で見つかった文章を解読していた。
「発音までできるのか」
「実際に会話をしていないので、間違っているかもしれません。いつか先生の研究旅行についていって、通訳をしたいです」
「そうか。先生もきっと心強いだろう」
人間が海と適切な距離を保っていたのは遥か昔の話だ。彼らはよき隣人で、交易も盛んだった。王国には陸でしか採れない鉱石や、陸の動物を描いた器が宝物として保管されている。その島には海から伝わったものが残っているだろう。まさか、言語までとは思わなかった。
「国家プロジェクトではなくなりましたが、先生の海底遺跡の研究は続いているんです」
「それはよかった」
「新しい発見もあります。遺跡とは、座標も深度も違う場所ですが、明らかに加工された物を拾いました。先生が帰ってきたら、見てもらおうと思っています」
「何を見つけたんだ」
「これぐらいの」
フィンは両手を軽く丸め、手の間に人間の頭ほどの空間を作った。
「きれいに磨かれた球体です」
「カフェテリアに行くのか」
「はい。でも、その前に、寄り道をします」
フィンが寄ったのは玄関付近のポストだった。サンゴのように、同じ大きさ同じ形のポストが壁に備えつけられ、一つ一つに研究者の名前が書かれている。フィンは迷いなく先生のポストのダイヤルを回し、扉を開けた。郵便物の宛名を食い入るように読んでいる。フィンは小さくため息をつき、すべての郵便物を白衣のポケットに入れた。
昼時を過ぎたカフェテリアは閑散としていた。選べる料理も少ない。
「ため息をついていたが、よくない知らせでもあったのか」
テーブルにトレイを置きながら問うと、フィンは首を振った。
「先生の手紙が来ないんです。いつもはうちに届きます。全然来ないので、もしかしてこちらかと思いましたが、ありませんでした」
「忙しいのかもしれないな」
フィンはがっかりした様子だったが、手紙が来ないことには疑問を持っていないようだ。先生の手紙はフィンに渡らないよう、あらかじめ回収する手はずになっている。今はカモメが一通だけ巣に保管しているはずだ。あまり長期間手紙が届かないと、不審に思われるかもしれない。偽の手紙を届けるべきか。
「先生の手紙には何が書かれてるんだ」
「今いる場所の情報と、新しい仮説です」
「返事を書くのか」
「いいえ。僕は、手紙もうまく書けません。代わりに、先生が欲しそうな資料やデータを集めておきます。先生が帰ってきたときのために」
今いる場所と仮説。場所についてはごまかしがきくかもしれないが、仮説の捏造は難しそうだ。偽の手紙を送るのは最終手段だろう。
「ルートは先生から手紙をもらわないんですか」
「残念だが、一通もない。フィンがうらやましい」
そう言うと、フィンはコーヒーカップを空中で止めた。薄い皮膚の首から頬へ、徐々に赤みが登っていく。初めて見る反応だ。人間は恥ずかしいと顔が赤くなると習った。今のやり取りのどこが恥ずかしかったのだろう。
新しい話題もなく、それぞれに皿の上を片付ける。陸に来たばかりの頃は、沈黙が不安だった。フィンの思考が読めず、沈黙はすなわち拒絶に思えた。しばらくいっしょに暮らすうちに、フィンにとっては黙っている方が平常らしいとわかってきた。考えてみれば、フィンは先生がいない間、一人であの家に住んでいる。研究所には仲間らしい仲間がいない。必然的に話す機会がないのだろう。
朝、研究所まで一言もしゃべらない日は、ルートグーヴァは波の音やカモメの声を聞いている。夕食の席で、フィンが思い出したように
「今日はカモメがたくさん鳴いていましたね」
と言うと、会話がなくても同じ空間を共有していたとわかる。そのときの感情は、うまく表現できない。分厚いイソギンチャクの下でたっぷりと眠って目覚めた瞬間のような、卵の薄い皮を破って生まれたばかりのイカの子どもと目が合ったような気持ちになる。
感情を言葉で表すのは難しい。フィンほどではないが、自覚がないだけで実は自分も口下手なのではないか、とルートグーヴァは思う。
「フィンは、先生から機密区域の研究も任されているのか」
フィンが出入りできる部屋があるなら、先生の助手としていっしょに入れないだろうか。ルートグーヴァの期待に反し、フィンは首を振った。
「機密扱いになっているのは、国家プロジェクトがほとんどです。主に海洋資源の研究で、先生は関わっていません。プロジェクトメンバーだけが部屋の鍵を持っています。ルートは入れません。総務部にマスターキーがありますが、仮許可証では借りられないんです」
「そうか。残念だ」
仮許可証を受け取るときにも機密区域には入れないと言われたが、鍵を借りられないという意味だったらしい。正面から攻めるのは難しそうだ。
「ルートは国家プロジェクトに興味があるんですか」
フィンはピラフの米粒を皿の中央に集めながら、上目遣いでルートグーヴァを見た。急に機密区域の話をしたので、怪しまれたかもしれない。興味がないと答えてもよかったが、なるべく嘘はつきたくなかった。
「機密と言われたら気になるだろう。フィンは興味ないのか」
「ないです」
フィンは短く答え、フォークでフライドポテトを一センチほどに刻み始めた。ピラフと同様、皿の中央に集めている。不機嫌そうだ。表情はいつものフィンだが気配が違う。
「怒っているのか」
「いいえ」
フィンは原型のないフライドポテトとピラフをフォークの背で押し固めた。もそもそと食べ始める。
「機密区域が嫌いなのか」
「苦手」の方がよかっただろうか。
「それとも、国家プロジェクトが嫌いなのか」
「……別に、嫌いじゃありません。気に入らないだけです」
嫌い、苦手、気に入らない。どれも微妙に意味が違う。フィンは感情を説明するのが下手だと言ったが、説明のための道具は豊富に持っている。
「どうして国家プロジェクトが気に入らないんだ」
「国家プロジェクトの選定基準はお金だけです。先生の海底遺跡調査も国家プロジェクトでした。国は遺跡を観光資源として開発したかったんです。開発資金の元が取れないという理由でプロジェクトは消えました」
フィンは早口に、ほとんど言葉を区切らず話した。やはり怒っているようだ。気に入らないと言ったが、本当は国家プロジェクトが嫌いなのだろう。
「国家プロジェクトでなくても先生の研究は素晴らしい。それでは駄目なのか」
「僕もそう思います。でも、みんなはそうじゃないんです」
「みんな?」
「研究所も、新聞も、国も、みんなです。国家プロジェクトだったときは、みんな先生の仮説を信じていました。国家プロジェクトでなくなった途端、みんな先生の説を否定しました」
どうやらフィンが気に入らないのは国家プロジェクトではなく、周囲の反応のようだ。誰もが国家プロジェクトという看板に踊らされる。肝心の研究内容については吟味されない。何が重要か知ろうとしない。ルートグーヴァが海底で聞かされていた人間像そのものだ。
「先生はたくさんの研究をしていて、たくさんの仮説を立てます。実証できる説も、できない説もあります」
同意を求めるようにフィンが視線を寄越したので、ルートグーヴァはうなずいた。
「先生の仮説は突飛です。だから、みんないつも信じません。でも、国家プロジェクトであるうちは信じたんです」
「私は先生から海底遺跡について何も聞いていない。先生はどんな仮説を立てたんだ」
「打ち捨てられた人魚の都市です」
詳しく場所を聞くと、確かに人魚と半魚人の一族の古都があった場所だ。人間が本格的に海に進出する以前、彼らは日の光が届く範囲に棲んでいた。
「建物の構造が、二足歩行で生活するには明らかに不便だそうです。陸上の街が沈んだのではないのも、周囲の地形から推測できると先生は言っていました。地質調査をすれば、もっとはっきりするはずです」
恐ろしい話だ。今はまだ一部の人間の洞察力でしかないが、いずれそこに技術が加わる。国家プロジェクトにならずとも、海のもっと深いところまで暴かれてしまう。一体どこまで潜っていけば平穏に暮らせるのか。暗い気分になる。
「ルートは、誰かに先生の研究を馬鹿にされたことはありますか」
「ない。フィンはあるのか」
フィンは周囲をはばかるように、小さく素早くうなずいた。
「夢物語、妄想、と言われます。実証できないと、反論もできません。先生は気にしなくていいと言ってくれますが、僕は」
フィンは空になった皿をじっと見つめている。頭を右側に傾けた。ペンが見つからなかったり、オムレツにマヨネーズをかけすぎてしまったりすると、フィンはこうして首を傾ける。困ったときの癖なのだろう。
「悔しい?」
「そうではなくて……いえ、そうなんですが、そうではないです」
フィンは言葉を探して首を左右に傾ける。その仕種がなんだかおかしかったが、笑っては気を悪くするかもしれないので、ルートグーヴァは頬杖をつく振りをして口元を隠した。
「実証できないという前提で、先生の研究を馬鹿にされたら、ルートはどうしますか」
難しい質問だ。経験がないし、経験する予定もない。見ず知らずの人間が馬鹿にされている様を想像するのは困難だ。よく知った相手ならどうだろう。例えば、ハイドラストイエなら。
ハイドラストイエはよく年長者に馬鹿にされる。友人を馬鹿にされれば気分はよくないが、たいてい本当に馬鹿なことをしているので、相手の反応ももっともだと思う。ハイドラストイエには言動に気をつけるよう注意をうながすが、響いた試しはない。
「少し待ってくれ」
想像の例として、ハイドラストイエは不適切だった。フィンならどうだろう。フィンの研究を馬鹿にする人間がいると仮定する。以前フィンに論文を読ませようとした研究員と同じ類の人間だ。腹が立つ、というのがルートグーヴァの最初の感想だった。
腹は立つが、実証できない前提なので分が悪い。フィンのために何もできない。悔しいし、もどかしい。相手にも自分にも腹が立つ。そんなときはどうするのが最善だろう。
「私なら、逃げる」
海で勝ち目のない戦いに固執すれば死につながる。研究を馬鹿にされても死にはしないが、精神的に消耗するだろう。相手から離れるのが一番いい。
「不快ではないんですか」
「不快だが、その場にとどまっていても不快なままだ」
「その場から離れても、不快なままではありませんか」
「しばらくはそうかもしれないが、やがて忘れるだろう」
そう言ってから、ルートグーヴァはフィンの記憶力を思い出した。相手から離れれば声は聞こえなくなるが、フィンの耳に残った音はいつまでも消えない。
「忘れられなくても、不快な気分は薄れると思う」
取ってつけたような物言いになってしまい、ルートグーヴァは後悔した。
「……ルートが正しいんだと思います。たぶん」
フィンはもう湯気の立っていないコーヒーを飲み干し、トレイの上に置いた。二人同時に立ち上がる。来たときよりもさらに閑散としたカフェテリアを横切り、食器を返却した。
「先生の研究を馬鹿にされて、証明できないと、僕は、孤独を感じます。ルートは、孤独を感じるときはありますか」
「意識したことがない」
孤独感はルートグーヴァには縁遠い。クラーケンは元来単独で生きる種族だ。タコのように何千という卵を産み、孵化してすぐに海流に乗って世界中に散っていく。ルートグーヴァも幼い頃はひとりで海をただよっていた。
ルートグーヴァは集団生活に抵抗がなかったが、どうしても群れというものに馴染めないクラーケンもいる。彼らはある日王国にやってきて、しばらくすると去っていく。一族の誰も彼らを引きとめない。種族の違うハイドラストイエの方が敏感で、ひとりでは淋しいだろうと背びれをたたみ、沈んだ声を出す。人魚と半魚人の一族は群れで生活しているので、孤独感や淋しさは染みついた感情のようだ。
「フィン、次に先生の研究を馬鹿にされたらいっしょに逃げよう」
フィンはルートグーヴァを凝視した。人間も群れを作って生活している。同じ種族とはいえ、味方がいなければ淋しいだろう。
「不快感を忘れさせられはしないが」
注釈を入れると、フィンは笑みをこぼした。
「でも、孤独は感じなさそうです。ルートといっしょに、逃げます」
ガラスのドアを開け、建物をつなぐ屋根つきの通路へ出る。日差しが強く、ルートグーヴァは遠くで光る波に目を細めた。
「乙女来たりて尾を振るい、男奏でし楽の音の」
フィンが小さく口ずさむ。言い回しは古いが、確かに海の国の言葉だ。なぜ、人間のフィンが話せるのだろう。
「フィン、それは?」
「赤道付近の島嶼に伝わる民謡です。尾のある女性は人魚だと、先生が言っていました。人魚はいるんです。絶滅してしまっているかもしれませんが、空想上の生物ではないんです」
島で使われている文字が、先生が見つけた遺跡に残されたものと似ているらしい。先生が送ってきた文字と発音の一覧表、聞き取り調査をした多くの単語、簡単な文法を元に、フィンは遺跡で見つかった文章を解読していた。
「発音までできるのか」
「実際に会話をしていないので、間違っているかもしれません。いつか先生の研究旅行についていって、通訳をしたいです」
「そうか。先生もきっと心強いだろう」
人間が海と適切な距離を保っていたのは遥か昔の話だ。彼らはよき隣人で、交易も盛んだった。王国には陸でしか採れない鉱石や、陸の動物を描いた器が宝物として保管されている。その島には海から伝わったものが残っているだろう。まさか、言語までとは思わなかった。
「国家プロジェクトではなくなりましたが、先生の海底遺跡の研究は続いているんです」
「それはよかった」
「新しい発見もあります。遺跡とは、座標も深度も違う場所ですが、明らかに加工された物を拾いました。先生が帰ってきたら、見てもらおうと思っています」
「何を見つけたんだ」
「これぐらいの」
フィンは両手を軽く丸め、手の間に人間の頭ほどの空間を作った。
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