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第13章
後始末を終えると、フィンはすぐに眠ってしまった。ルートグーヴァは服を着てフィンを見下ろした。触れようとして、思いとどまる。ルートグーヴァは音がしないようにドアを閉めた。
ハイドラストイエは海沿いの道で待っていた。泡沫の精霊たちが飛び回り、交代でえらに入っている。水分補給をしているようだ。
「地面って硬いんだな。足痛ぇ。体重い。疲れた」
「しゃべると余計に疲れるぞ」
月の高度を気にしつつ、ハイドラストイエの歩調に合わせて坂を登る。人間たちは皆眠り、街は静まり返っていた。ハイドラストイエは肩で息をしながらも雑談をやめなかった。肝心な部分には触れない。友の気遣いにどう反応していいかわからず、ルートグーヴァは普段通りに返事をする。研究所の灯りが見え、会話は途切れた。
研究員がよく使うドアや通路と、警備員の巡回経路はあらかじめ調べてある。ルートグーヴァは危険な道を避け、資料庫へ向かった。ハイドラストイエは丘の傾斜がつらいらしく、ほとんど這いつくばっている。精霊たちに叱咤されて登りきったが、座り込んでしまった。
「もう無理。えらが乾いてなくても死ぬ」
「この下だ。あと少しだからがんばれ」
「なあ、オレいらないんじゃね? そっちの崖の下で待ち合わせでよかったんじゃね?」
「念のためと言っただろう。ほら、立て」
月はほとんど中天にかかろうとしている。ルートグーヴァは取っ手を引いて丸い扉を持ち上げた。ハイドラストイエは階段に苦戦しながらついてきた。先生の資料室はもちろん鍵がかかっていない。ルートグーヴァは持ち出していた本を書棚に返した。貸出簿に日付を書き、署名する。何度見てもフィンの字は汚い。指でなぞると、紙の上のわずかな凹凸が感じられた。
「ルート、ここ開けっ放しでいいのか」
「一応閉めてくれ」
ハイドラストイエに呼ばれ、ルートグーヴァは貸出簿を閉じた。金庫の前で月を待つ。ハイドラストイエは落ち着かない様子で背びれをぱたぱたと動かしている。窓のない部屋でも、その瞬間はすぐにわかった。ひどい頭痛と立っていられないほどの眩暈が始まる。下肢に力が入らず、ルートグーヴァは膝を着いた。
「おい、大丈夫か」
ハイドラストイエの声が何重にも聞こえる。吸っても吸っても息苦しい。内臓がせり上がってきているようにも、脳がずり落ちてきているようにも思える。歪んだ視界を遮断しようとしたが、まぶたが下りない。色が失われていく。代わりに押し寄せるのは微細な空気の流れと、鼻で嗅ぐよりもずっと強烈なカビや古い本の匂いだ。関節の軋みが消え、蠢いていた内臓が収まっていく。ようやく周囲の様子に注意を向けられるようになったが、息ができない。すがるように腕を伸ばすと、体の中に精霊たちが飛び込んできた。
「なあ、生きてるか」
腕の先をつかまれ、ハイドラストイエの声が皮膚を震わせる。そう言えばこんな声だった、と数ヶ月前を思い返す。
「なんとか」
答える声も先ほどとは違って聞こえ、我が身ながら不思議な感覚だった。吐き気がひどい。内臓が圧迫されて苦しかった。精霊たちが頻繁にえらを出入りしてくれるので、呼吸だけは楽にできる。
「めちゃくちゃ痛そうだったけど、痛いのか」
「痛くはないが、とにかく苦しい」
「オレ、選ばれなくてよかった。見てるだけで無理だと思った」
ルートグーヴァは金庫に腕を這わせ、ダイヤルを回した。最初は右だ。扉の奥で微かに何かが動いている。割れた貝が波に遊ばれて砂と擦れ合うような音が聞こえる。ルートグーヴァはすべての感覚を吸盤に集中した。慎重にダイヤルを動かしていくと、カチ、と音がした。次は左に回す。次が右。さらに右。ひとつずつ解除する。あと二回。外れた。あと、一回。最後の音は大きかった。ハンドルを回すと扉が開いた。ハイドラストイエがそっと宝玉を取る。
「あ、これすげぇすべる。落としそう」
落とすくらいでは壊れないだろうが、落としていいはずはない。ルートグーヴァはハイドラストイエから宝玉を受け取った。用心のため、もっとも制御しやすい利き腕に持ち替え、吸盤でしっかりと固定する。「誰かが心を込めて磨いた」と言ったフィンの顔が頭をよぎる。
「よし、帰ろうぜ」
ハイドラストイエはルートグーヴァの目の間に手を置いて言った。宝玉は取り戻した。あとは王に届けるだけだ。
「待て」
ルートグーヴァはハイドラストイエの手を引いて止めた。かすかな擦過音が床から伝わった。ドアが少し開いている。さっきハイドラストイエが閉めたはずだ。
「誰かいる」
「おい、嘘だろ。勘弁してくれよ」
ハイドラストイエが後ずさる。警備員だろうか。一人や二人なら、押さえこめる。宝玉はハイドラストイエにあずければいい。やはり海では死ねないのか、とルートグーヴァは身構えた。ドアの隙間が少しずつ大きくなる。
「フィン」
フィンは研究所に行くときと同じ服を着ていた。フィンが口を開く。何かしゃべっているが、耳がないのでルートグーヴァには聞こえない。
「は? 何言ってんだ。お前らの言葉なんかわかるわけないだろ」
どうして。眠っていたはずだ。起こさないように触れなかった。
「お前、人間のくせに何でしゃべれるんだよ。あのな、これはオレらのもんだぞ。お前が勝手に持ってっ……知らねぇよ! な、なんだよ! 退けよ!」
ハイドラストイエは大声を出したが、腰が引けている。フィンは後ろ手にドアを閉めた。
「だから、これはオレたちのなんだって。それこっちの台詞だからな」
「ハイドラストイエ、このまま進め。間合いに入ったら私が押さえる。お前は宝玉を持って先に行け」
「あいつが武器持ってたらどうすんだよ」
「持っていない。それから、たぶん一人だ」
持っていたとしても、包丁や解剖用のメスくらいだろう。飛び道具は家になかった。散々宝玉を探し回ったので断言できる。一人では敵わないことくらい、フィンにはわかっている。それでもドアを閉めたのは、外へ出られては困るからだ。外に、フィンの協力者はいない。
ハイドラストイエの背を押すように、ルートグーヴァはずるりと前へ進んだ。フィンはズボンの横を握りしめていた。手が震えている。
「おい、何してんだよ」
ルートグーヴァは宝玉を持った腕をフィンへ伸ばした。フィンはためらいつつも一歩踏み出す。また、一歩。こちらから近づけば警戒させてしまう。囮を使って獲物を引き寄せる生物は多い。当然フィンは知っているが、自分が獲物扱いされているとは気づかないだろう。そのように人間を狩る動物は存在しない。
「外に出てもしも別の人間がいたら、戻ってこい」
「お前さっき一人だって言ったよな。なんでそういう怖いこと平気で言うわけ」
ルートグーヴァは宝玉をハイドラストイエに押しつけた。フィンは咄嗟にハイドラストイエに向かっていったが、ルートグーヴァの腕の方が速い。腰をつかまえ、引き寄せる。ハイドラストイエは体をひねってフィンの手を避け、壁際に逃げた。腕を振って何か言っているが、触れていないので聞こえない。とりあえず廊下へ出ていったので、宝玉は安全だろう。
「待って! 返して!」
海の言葉だ。皮膚を通ったフィンの声は鈍く、くぐもっていた。フィンはルートグーヴァの腕を引きはがそうともがいている。腕をつかむフィンの手が熱い。初めて、フィンの体温を熱いと感じた。若干の発汗。脈が速い。焦っている。怒っている。
「離してください」
フィンはルートグーヴァを振り返った。言葉を覚えたばかりの子どものような話し方だ。紙の上ですべてを学んだフィンの限界を垣間見る。
「返してください」
ルートグーヴァは沈黙した。
「ルート」
腕の先がぴくりと動いた。皮膚がざわめく。
「……いつから、見ていたんだ」
人間の言葉に聞こえるよう、ルートグーヴァは音波を変えた。
「あなたが人間じゃなくなるところから」
どうりで気づけないはずだ。姿が変わっている間は周囲の状況などまるで入ってこなかった。それからすぐに金庫に集中してしまった。失態だ。
「僕を、だましたんですか」
ハイドラストイエは階段を登り切っただろうか。
「食堂で、論文を読むの、助けてくれたのも」
丘の上は舗装されていない。海まで行くには時間がかかるはずだ。
「ミアのことも、ご飯を作ってくれたのも、いっしょに、逃げようって言って、くれたの、も、市場で、手を、つないでくれたのも、いっしょに寝てくれたのも、今夜はいっしょにいていいかって、聞いてくれたのも」
フィンはもう怒っていなかった。流れ込んでくるのは純粋な悲しみだけだ。クラーケンの体であれば、といつも思っていた。触れればわかる。フィンを知りたかった。
「最初から、ぜんぶ」
フィンの顔が歪む。
「嘘つき」
知りたくなかった。
「返して!」
ハイドラストイエは海に辿り着いただろうか。ルートグーヴァ自身もあまりぐずぐずしてはいられない。精霊たちのおかげで呼吸はできるが、皮膚はどんどん乾いていく。ルートグーヴァは別の腕をフィンの首に巻きつけた。人間の皮膚は薄いので、動脈の位置がすぐにわかる。徐々に力を込め、動脈だけを圧迫する。
「ルート」
海の色の目が濡れている。フィンの手から力が抜け、だらりと落ちた。呼吸はある。脈も止まっていない。ルートグーヴァはフィンを床に横たえ、腕の先で頬にかかった髪を横へ払った。
廊下を這い進み、螺旋階段を登る。階段が軋んでひやりとさせられたが、なんとか出口に腕をかけた。
「遅ぇ! 何やってんだ! もうちょっとで助けに行くとこだったぞ!」
ハイドラストイエは宝玉を小脇に抱えたまま、ルートグーヴァの腕をつかんだ。非力な半魚人にクラーケンを引き上げられるはずはなく、ルートグーヴァは自力で丘の上に出た。
「お前こそなぜここにいるんだ。先に行けと言っただろう」
「友だち置いて行けるかよ。あいつは?」
「気絶している」
「そっか。よし、今度こそ帰るぞ」
ハイドラストイエはルートグーヴァに宝玉を押しつけた。ルートグーヴァは宝玉を抱え、よたよた歩くハイドラストイエについていく。雑草がくすぐったい。陸の土は海底とは違う味と匂いがする。鉄製のベンチを通り過ぎる。フィンと並んで座って海をながめた。先生がいなくてさびしいかと聞いたら、フィンはルートがいるから平気だと答えた。小さな記憶がこぼれ落ちてくる。体をひねって背後を見たが、誰もいない。
崖際でハイドラストイエが待っている。腕が一本、地面をつかんで離さない。無理に腕を引きはがし、ルートグーヴァは海へ身を躍らせた。
ハイドラストイエは海沿いの道で待っていた。泡沫の精霊たちが飛び回り、交代でえらに入っている。水分補給をしているようだ。
「地面って硬いんだな。足痛ぇ。体重い。疲れた」
「しゃべると余計に疲れるぞ」
月の高度を気にしつつ、ハイドラストイエの歩調に合わせて坂を登る。人間たちは皆眠り、街は静まり返っていた。ハイドラストイエは肩で息をしながらも雑談をやめなかった。肝心な部分には触れない。友の気遣いにどう反応していいかわからず、ルートグーヴァは普段通りに返事をする。研究所の灯りが見え、会話は途切れた。
研究員がよく使うドアや通路と、警備員の巡回経路はあらかじめ調べてある。ルートグーヴァは危険な道を避け、資料庫へ向かった。ハイドラストイエは丘の傾斜がつらいらしく、ほとんど這いつくばっている。精霊たちに叱咤されて登りきったが、座り込んでしまった。
「もう無理。えらが乾いてなくても死ぬ」
「この下だ。あと少しだからがんばれ」
「なあ、オレいらないんじゃね? そっちの崖の下で待ち合わせでよかったんじゃね?」
「念のためと言っただろう。ほら、立て」
月はほとんど中天にかかろうとしている。ルートグーヴァは取っ手を引いて丸い扉を持ち上げた。ハイドラストイエは階段に苦戦しながらついてきた。先生の資料室はもちろん鍵がかかっていない。ルートグーヴァは持ち出していた本を書棚に返した。貸出簿に日付を書き、署名する。何度見てもフィンの字は汚い。指でなぞると、紙の上のわずかな凹凸が感じられた。
「ルート、ここ開けっ放しでいいのか」
「一応閉めてくれ」
ハイドラストイエに呼ばれ、ルートグーヴァは貸出簿を閉じた。金庫の前で月を待つ。ハイドラストイエは落ち着かない様子で背びれをぱたぱたと動かしている。窓のない部屋でも、その瞬間はすぐにわかった。ひどい頭痛と立っていられないほどの眩暈が始まる。下肢に力が入らず、ルートグーヴァは膝を着いた。
「おい、大丈夫か」
ハイドラストイエの声が何重にも聞こえる。吸っても吸っても息苦しい。内臓がせり上がってきているようにも、脳がずり落ちてきているようにも思える。歪んだ視界を遮断しようとしたが、まぶたが下りない。色が失われていく。代わりに押し寄せるのは微細な空気の流れと、鼻で嗅ぐよりもずっと強烈なカビや古い本の匂いだ。関節の軋みが消え、蠢いていた内臓が収まっていく。ようやく周囲の様子に注意を向けられるようになったが、息ができない。すがるように腕を伸ばすと、体の中に精霊たちが飛び込んできた。
「なあ、生きてるか」
腕の先をつかまれ、ハイドラストイエの声が皮膚を震わせる。そう言えばこんな声だった、と数ヶ月前を思い返す。
「なんとか」
答える声も先ほどとは違って聞こえ、我が身ながら不思議な感覚だった。吐き気がひどい。内臓が圧迫されて苦しかった。精霊たちが頻繁にえらを出入りしてくれるので、呼吸だけは楽にできる。
「めちゃくちゃ痛そうだったけど、痛いのか」
「痛くはないが、とにかく苦しい」
「オレ、選ばれなくてよかった。見てるだけで無理だと思った」
ルートグーヴァは金庫に腕を這わせ、ダイヤルを回した。最初は右だ。扉の奥で微かに何かが動いている。割れた貝が波に遊ばれて砂と擦れ合うような音が聞こえる。ルートグーヴァはすべての感覚を吸盤に集中した。慎重にダイヤルを動かしていくと、カチ、と音がした。次は左に回す。次が右。さらに右。ひとつずつ解除する。あと二回。外れた。あと、一回。最後の音は大きかった。ハンドルを回すと扉が開いた。ハイドラストイエがそっと宝玉を取る。
「あ、これすげぇすべる。落としそう」
落とすくらいでは壊れないだろうが、落としていいはずはない。ルートグーヴァはハイドラストイエから宝玉を受け取った。用心のため、もっとも制御しやすい利き腕に持ち替え、吸盤でしっかりと固定する。「誰かが心を込めて磨いた」と言ったフィンの顔が頭をよぎる。
「よし、帰ろうぜ」
ハイドラストイエはルートグーヴァの目の間に手を置いて言った。宝玉は取り戻した。あとは王に届けるだけだ。
「待て」
ルートグーヴァはハイドラストイエの手を引いて止めた。かすかな擦過音が床から伝わった。ドアが少し開いている。さっきハイドラストイエが閉めたはずだ。
「誰かいる」
「おい、嘘だろ。勘弁してくれよ」
ハイドラストイエが後ずさる。警備員だろうか。一人や二人なら、押さえこめる。宝玉はハイドラストイエにあずければいい。やはり海では死ねないのか、とルートグーヴァは身構えた。ドアの隙間が少しずつ大きくなる。
「フィン」
フィンは研究所に行くときと同じ服を着ていた。フィンが口を開く。何かしゃべっているが、耳がないのでルートグーヴァには聞こえない。
「は? 何言ってんだ。お前らの言葉なんかわかるわけないだろ」
どうして。眠っていたはずだ。起こさないように触れなかった。
「お前、人間のくせに何でしゃべれるんだよ。あのな、これはオレらのもんだぞ。お前が勝手に持ってっ……知らねぇよ! な、なんだよ! 退けよ!」
ハイドラストイエは大声を出したが、腰が引けている。フィンは後ろ手にドアを閉めた。
「だから、これはオレたちのなんだって。それこっちの台詞だからな」
「ハイドラストイエ、このまま進め。間合いに入ったら私が押さえる。お前は宝玉を持って先に行け」
「あいつが武器持ってたらどうすんだよ」
「持っていない。それから、たぶん一人だ」
持っていたとしても、包丁や解剖用のメスくらいだろう。飛び道具は家になかった。散々宝玉を探し回ったので断言できる。一人では敵わないことくらい、フィンにはわかっている。それでもドアを閉めたのは、外へ出られては困るからだ。外に、フィンの協力者はいない。
ハイドラストイエの背を押すように、ルートグーヴァはずるりと前へ進んだ。フィンはズボンの横を握りしめていた。手が震えている。
「おい、何してんだよ」
ルートグーヴァは宝玉を持った腕をフィンへ伸ばした。フィンはためらいつつも一歩踏み出す。また、一歩。こちらから近づけば警戒させてしまう。囮を使って獲物を引き寄せる生物は多い。当然フィンは知っているが、自分が獲物扱いされているとは気づかないだろう。そのように人間を狩る動物は存在しない。
「外に出てもしも別の人間がいたら、戻ってこい」
「お前さっき一人だって言ったよな。なんでそういう怖いこと平気で言うわけ」
ルートグーヴァは宝玉をハイドラストイエに押しつけた。フィンは咄嗟にハイドラストイエに向かっていったが、ルートグーヴァの腕の方が速い。腰をつかまえ、引き寄せる。ハイドラストイエは体をひねってフィンの手を避け、壁際に逃げた。腕を振って何か言っているが、触れていないので聞こえない。とりあえず廊下へ出ていったので、宝玉は安全だろう。
「待って! 返して!」
海の言葉だ。皮膚を通ったフィンの声は鈍く、くぐもっていた。フィンはルートグーヴァの腕を引きはがそうともがいている。腕をつかむフィンの手が熱い。初めて、フィンの体温を熱いと感じた。若干の発汗。脈が速い。焦っている。怒っている。
「離してください」
フィンはルートグーヴァを振り返った。言葉を覚えたばかりの子どものような話し方だ。紙の上ですべてを学んだフィンの限界を垣間見る。
「返してください」
ルートグーヴァは沈黙した。
「ルート」
腕の先がぴくりと動いた。皮膚がざわめく。
「……いつから、見ていたんだ」
人間の言葉に聞こえるよう、ルートグーヴァは音波を変えた。
「あなたが人間じゃなくなるところから」
どうりで気づけないはずだ。姿が変わっている間は周囲の状況などまるで入ってこなかった。それからすぐに金庫に集中してしまった。失態だ。
「僕を、だましたんですか」
ハイドラストイエは階段を登り切っただろうか。
「食堂で、論文を読むの、助けてくれたのも」
丘の上は舗装されていない。海まで行くには時間がかかるはずだ。
「ミアのことも、ご飯を作ってくれたのも、いっしょに、逃げようって言って、くれたの、も、市場で、手を、つないでくれたのも、いっしょに寝てくれたのも、今夜はいっしょにいていいかって、聞いてくれたのも」
フィンはもう怒っていなかった。流れ込んでくるのは純粋な悲しみだけだ。クラーケンの体であれば、といつも思っていた。触れればわかる。フィンを知りたかった。
「最初から、ぜんぶ」
フィンの顔が歪む。
「嘘つき」
知りたくなかった。
「返して!」
ハイドラストイエは海に辿り着いただろうか。ルートグーヴァ自身もあまりぐずぐずしてはいられない。精霊たちのおかげで呼吸はできるが、皮膚はどんどん乾いていく。ルートグーヴァは別の腕をフィンの首に巻きつけた。人間の皮膚は薄いので、動脈の位置がすぐにわかる。徐々に力を込め、動脈だけを圧迫する。
「ルート」
海の色の目が濡れている。フィンの手から力が抜け、だらりと落ちた。呼吸はある。脈も止まっていない。ルートグーヴァはフィンを床に横たえ、腕の先で頬にかかった髪を横へ払った。
廊下を這い進み、螺旋階段を登る。階段が軋んでひやりとさせられたが、なんとか出口に腕をかけた。
「遅ぇ! 何やってんだ! もうちょっとで助けに行くとこだったぞ!」
ハイドラストイエは宝玉を小脇に抱えたまま、ルートグーヴァの腕をつかんだ。非力な半魚人にクラーケンを引き上げられるはずはなく、ルートグーヴァは自力で丘の上に出た。
「お前こそなぜここにいるんだ。先に行けと言っただろう」
「友だち置いて行けるかよ。あいつは?」
「気絶している」
「そっか。よし、今度こそ帰るぞ」
ハイドラストイエはルートグーヴァに宝玉を押しつけた。ルートグーヴァは宝玉を抱え、よたよた歩くハイドラストイエについていく。雑草がくすぐったい。陸の土は海底とは違う味と匂いがする。鉄製のベンチを通り過ぎる。フィンと並んで座って海をながめた。先生がいなくてさびしいかと聞いたら、フィンはルートがいるから平気だと答えた。小さな記憶がこぼれ落ちてくる。体をひねって背後を見たが、誰もいない。
崖際でハイドラストイエが待っている。腕が一本、地面をつかんで離さない。無理に腕を引きはがし、ルートグーヴァは海へ身を躍らせた。
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