日没の鴉 〜主従執愛破滅譚〜

天野翠里

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若き王と冥導師

第一話 王の鴉

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 「申せ」

 低い声が合間に落ちた。絹の敷き布に爪が立てられて、引き裂かれんばかりに皺を寄せる。

「お前は、誰のものだ」
「あ、う……っへい、ぅあッ……」

 帳の中、長い黒髪を枕に散らし、白い肌を仄かに赤く染める。
 腰より少し上には、黒く柔らかな翼があった。
 翼の隙間から小さな羽毛が抜け落ちて舞う。

「こ、の身っ……、んっ……すべて……っ!」

 肩が揺れ、のけ反る。
 そこへ組み敷いた男がさらに体重をかける。
 出来の悪い子供に正解を教え込むように、何度も同じ速度で繰り返す。
 突けば鳴き、命じれば応える。
 そうしていれば、この手から離れない。
 
 薄布の向こう側で、重なった影が揺れる。
 水音と荒い息が部屋を満たし、それを白く伸びる香で閉じ込めていた。

「……陛下の……ため、にッ……」

 喉奥から押し出された声が断続的に響く。
 月明かりに照らされた寝台は規則的に軋み、帳の布が波打った。
 
 腰の上に体重を掛けて乗せられた手のひらは、まるで男を杭で固定しているかのように逃げ道を塞いでいた。
 汗が一滴、腕を伝って背中へ流れる。
 
「官吏がお前の噂をしていたな。色目でも使ったか」
「ちが……! あ゛っ、ぅ、申し訳、ございっ……ま、あ、あ゙ぁあ……ッッ!!」

 嬌声とも悲鳴ともつかない声を上げながら、大きく弾ける。
 頬に伝うのが汗なのか、それとも涙なのかさえ最早判断がつかない。
 
 足の爪先は伸び、握った手が次第に脱力して、やがて部屋の中に息遣いだけが残った。

雀夜じゃくや、お前の身はこの羽一枚さえ、全て俺のものだ」

 僅かに熱の残った声色で降る声に、まだ整わない息を混ぜたまま返す。
 
「……仰せのままに。陛下」

 目に涙の余韻を溜めたまま、ほんの少し口の端を吊り上げた。
 その笑みを、王は愛と信じた。
 
 ***

 この煌玄国こうげんこくには、龍の背を思わせる山脈が連なり、都の中央には宮城が聳え立つ。
 この国では人とあやかしが並び立ち、ときに共に政を為し、ときに互いの領分を侵さぬよう距離を取る。
 
 玉座の奥、まだ若い王が腰掛ける場所は、均衡の中心。

 第八代皇帝、陽昊然よう こうぜんあざなは孔晃。
 冠礼してすぐ即位した、まだ五年目の若い王。
 孔晃の即位以降、北境の妖は静まり、南部の翡翠は潤い、国庫は安定している。
 若き王の治世は、少なくとも今のところ揺らいでいない。
 頭上の冠に恥じぬ、聡明な王であると誰もが評していた。

 そして、半歩後ろに黒い羽を背に携えた鴉の妖が立つ。

 歴代の王を見届けてきた影。雀夜。
 冥府より来たりて王を導く者として、職を冥導師と言った。王に次いでこの国の中枢となる妖である。
 
 二人はこの国の光であり、それを支える影であると、この国の民は信じていた。

「陛下、我らは陛下に背く意志はなく――」

 王宮地下、翡翠が四隅に結界を張り、霊気も妖気も封じる牢で、鬼が兵士に囲まれ、王の御前で跪いて恭しく頭を垂れている。
 
 孔晃は鬼の前に立ち、両手を組んで鬼を見下ろしていた。
 冥導師が証を示し、王が是非を決する。
 反逆の嫌疑が晴れぬ限り、判決はここで完結する。
 それが、この国の法だった。
 
「では、これはどう説明する」

 言葉と共に、隣の雀夜が滑るように一歩進むと、封を解いた書状と地図を広げた。

「お前の領にて、徴兵令状の発布、武具の製造、密使との接触が確認されている。随分準備が良いな」

 書状を手に取り、孔晃はそれをわざとらしく見ながら片眉だけを上げた。

「まるで何か……国でも相手取って戦でも仕掛けんとするようだが」

 鬼が慌てて頭を下げる。

「あれはあくまで、山賊の増加に備えた自衛で──!」

 孔晃は鬼の言葉に口の端を吊り上げた。
 愉快でも慈悲でもなく、王としての圧が滲む。

「ならばなぜ……王国軍ではなくお前の私兵を集める必要が?」
 
 鬼が言葉を詰まらせる。
 孔晃が右手を上げると、両脇の兵が鬼を取り囲んだ。

「口で忠誠を語るのは簡単だ。だが、行動は嘘をつかない」

 容赦のない言葉に、鬼の肩が震えた。
 雀夜が横から、追い打ちをかけるように鬼の耳元で囁く。

「あなたが呼んだ密使は、既に拘束されています」

 鬼の喉がひゅ、と鳴った。
 雀夜は一枚の書簡を孔晃に手渡し、腰の刃を抜く。
 鬼の喉元に銀色が突き立てられる。
 雀夜の瞳が、一瞬、孔晃を見た。
 孔晃が小さく頷くのを視線で捉え、鬼に向き直る。

「忠誠、というのは」

 声と共に、ぷつり、と切先に赤が滲む。
 部屋の隅の兵士が、目をきつく閉じ顔を背けた。
 震える鬼と対照的に、雀夜の口元には仄かな笑みを宿している。
 
「こうして示すのです」
 
 刃先が喉を割り、赤が一筋落ちる。
 抵抗しようとした肩が一瞬だけ強張り、次の瞬間、力が抜ける。
 魂がほどけて光へ変わると、雀夜は当然のようにそれを掌で受け止め、懐に収めた。

「これは後ほど冥府へ届けましょう。よろしいですね、陛下」
「任せる」
「御意」

 慈悲は無い。王に背けば刃が飛ぶ。
 侍臣達は鬼の器を処理しながら、その重さを痛感する。
 
 孔晃と雀夜は、互いに視線を交わした。
 それで十分に意志が通じる。

「雀夜、褒美を遣わす。望みを述べよ」
「では陛下」

 刃から血を拭い鞘に収めた後、雀夜は玉座の前に立った。

「この国で最も偉大な王に、お成りください。それが私の望みです」

 雀夜の睫毛が瞳に影を落とす。
 地下に残った血の匂いは、地上までは上がらない。
 玉座の間には朝の光だけが満ちていた。

 玉座の間の扉を近衛兵が開くと、金色に輝く陽射しが玉座へ差し込む。
 光の中から孔晃が姿を現すと、臣下、宰相達が一斉に拱手し、跪き頭を垂れた。
 臣下達の間を孔晃が進み、雀夜が続く。

 玉座についた孔晃が見渡す。
 この光景を目にするたび思う。自分は全てを手に入れているはずだと。

 孔晃は、雀夜がそこに居ると知り、一瞬安堵する。
 
「奏上せよ」

 孔晃の声が響くと、宰相が前に出た。

「申し上げます。北境、璃槻あきづき領、妖の国との交易は滞りなく。国境の警備も、静穏を保っております」
「南部、霊山瑞峰ずいほうの翡翠の採掘も滞りなく。王都周辺の治安も、特段の問題は報告されておりません」

 宰相が下がると、すかさず近衛将軍が前に出て跪く。
 
「近衛の鍛錬は予定通り。出動案件はございません」

 孔晃は玉座に身を預けたまま頷く。
 
「実に穏やかだな。喜ばしいが」
「陛下の御政の賜物にございます」
「退屈なくらいだ」
「おや、では火種のひとつでも起こしますか」

 孔晃が目を向けると、雀夜はいつもと変わらない、凪いだ顔で立っていた。

「この国に憂慮すべきことなど無い――そうだな?」
「ええ陛下。全て整ってございます」

 この国は澄み切って揺るがない。
 そう信じることに、孔晃は何の迷いもなかった。
 
 宰相の一人が、目だけを雀夜に向ける。
 雀夜は孔晃の後ろから宰相と視線を合わせると、口元だけで笑った。

 朝儀の後、孔晃は近衛に囲まれ、玉座から執務室へ移動する。
 その後ろで、身を屈めた宰相、文淵が雀夜に近付いて声を潜めた。

「……冥導師殿」

 雀夜は返事をせず、黙って玉座の間の裏手の部屋へと入る。
 文淵もそれに続いた。
 扉が閉まると、雀夜は体ごとくるりと反転して文淵に向かい合う。
 
「文淵殿、今度はいかがされました? 先日の阿片窟は全て“処理”したはずですが」

 雀夜が微笑みのまま告げる。
 指を組む仕草があまりに自然で、含みを探す方が野暮に思えるほどだ。

「過日のお取り計らい、感謝しております。お陰様で我が領地の不法者は、姿を消しました」
「ええ、私も、に良い手土産ができました」
「これはこれは……かの“閻魔大王”もさぞお喜びでしょう」
「して、今度は?」

 文淵は恭しく頭を下げる。
 喉を鳴らして一度だけ息を呑むと、ゆっくり言葉を続けた。
 
「我が領地は、妖の住まう隣国との国境ゆえに、妖が多く、人の法が……どうにも、通りにくい」

 雀夜は相槌を打たない。ただ静かに聞いている。

「こちらから何度か通達は出しておりますが、有力な妖が動かねば、下の者は耳を貸しません」

 言い終えてから、文淵は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。

「冥導師殿のお力添えを、頂けないかと」

 雀夜は軽く顎を引いて瞳を伏せる。
 
「相わかりました。有力な妖、というのは」
「……こちらで」

 差し出された一通の竹簡を開き、雀夜が目を通す。

「……では、私の方で」
「感謝いたします、冥導師殿」
「いえ、この程度」

 竹簡を懐へしまいながら、雀夜は呟いた。
 
「陛下のお耳に入れるまでもありません」

 雀夜はそれ以上、何も言わない。
 背を向けた後の顔に笑みは無かった。

 王宮に柔らかな羽がひとつ落ちた。
 光を浴びて、黒の奥で紫や緑に偏光する。
 燈の下、雀夜の影は回廊に長く伸びている。

「全て、この国のため……あなたのために」
 
 陽のない夜に、影がひとりでに動く。
 王がそれを知る由は無い。

 是は、この美しき国が破滅へ至るまでの主従譚――
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