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残されたグラス
ビロードの喪服
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オレには、何もできないのか。
そんな迷いが、顔に出てしまっていたのだろうか。
「悪いね。いつもならもっとちゃんと味わいたいんだけどさ。」
辛いはずなのに、こちらを気遣う――その言葉に、胸の痛みが大きくなる。
「今は……ただ酔いたいんだ。」
役目を終えたグラスを、そっとコースターから外すようにどけたお客様の唇が、吐き捨てるみたいに動く。
ただ酔いたいんだ、という言葉が、胸に突き刺さる。酒なら何でもいい。そう言われているようだった。
酒が、泣いている――。
かつてマスターからかけられた言葉が、胸の奥を抉る。
「いえ……別れを惜しむ時間も、痛みに身を任せる事も。時には必要な事ですから。」
伏せた顔の影で、唇を噛む。オレは――無力だ。
「そう言ってくれると助かるよ。なぁ、死を悼むカクテル、なんてのはあるのかい?」
死を、悼む……。
その言葉を聞いた瞬間、一つの記憶が脳裏に蘇る。
――このお客様に差し出した、"人生で一度きりの特別な一杯"。ただ、目の前のお客様の事だけを思って作った、あの一杯を。
お客様をよく見ろ。
マスターの口癖が、ようやく胸の奥へ降りてくる。
オレは……少し作れるようになっただけで、ただ自分の未熟な技術を誇示することしか、考えてなかった。
目の前のお客様を見ず。お客様の悲しみを理解しようともせず――そんな一杯がお客様に届くはずがない。
届かなかった理由が、ようやく腑に落ちた。
今、オレが作るべきなのは……痛みに寄り添い、見送られた方を共に偲ぶ。
そのための、一杯。
拙い知識をフル回転させ、これまでに読んだレシピブックの記述を紐解いていく。そして、ロンドンの伝説のカクテルを思い出す。
「有名どころですと……ブラックベルベット辺りでしょうか。」
「聞いたことがある名前、だな。」
「はい。ヴィクトリア女王の夫、アルバート公を偲んで作られたカクテル、とされています。」
「そんな逸話があったのか。じゃあ、そいつをくれるか?」
「かしこまりました。少しお待ちくださいませ。」
「珍しいな、待てだなんて。」
他に誰もいない中で、待て、と言われたことに驚くのも当然だろう。
「いやぁ、自分で提案していてなんですが……このカクテル、緊張するんですよ。シンプルなんですが、難しくて。」
「え? キミでも難しいカクテルなのかい?黒ビールとシャンパンだけ、じゃなかったっけ?」
「ご存知でしたか。ただ、だからこそ難しいというか……ご覧になるとわかるかと。」
そう言いながら、フルート型のシャンパングラスを出す。
そう、お客様が仰る通り、レシピは単純。
黒ビールとシャンパンを同量、それを注ぐだけ。
このブラックベルベットには、作り方が三つある。
一つは黒ビールを先に注ぎ、シャンパンをその後に注ぐ。
その逆にシャンパンから注ぐのが、二つ目。
これからオレが用いるのは、そのどちらでもない、三つ目の作り方。
シャンパンと黒ビールを開け、片手にそれぞれのボトルを持つ。
そして。シャンパングラスの上から、"同時に"注ぐ。
「へぇ、器用なもんだ!確かにこいつは難しそうだな。」
その言葉に、返事をする余裕はない。
本来ならパフォーマンス用のスタイル。
ただ、泡立ちも違うし、注ぎ口も違う。流量を見ながら同量を、泡立てて吹きこぼれないように注ぐ。一瞬たりとも気が抜けない。
ゆっくりとグラスの中で混ざり合う、黒と金。二つの液体を見つめる。
グラスの縁からこぼれ落ちそうな泡を押さえ込むように、ボトルを持ち上げる。
「お待たせいたしました。ブラックベルベットでございます。」
ブラックレインとブラックベルベット。二つの黒を引き換えにする。
その漆黒は――アルバート公を亡くしたヴィクトリア女王が、生涯脱ぐことがなかったとされる喪服を思わせる、哀悼の黒。
「おお、こいつはさっきのブラックレインとはまた違った黒さだね。どれどれ……。」
お客様の手が、グラスの脚を摘む。
持ち上げられたグラスがお客様の唇に触れ、漆黒色のビロードがお客様の喉を通り過ぎる。
「うん、うまいじゃないか!」
今日、初めてお客様の笑顔を見れた気がした。
「ありがとうございます。うまくいくかヒヤヒヤしましたよ。」
おしぼりで掌の汗を拭う。
「いやぁ~、緊張しました。最初に練習する時は水でやるんですが。手はプルプル震えるし、ついどっちかの方が多くなっちゃったりして。」
何度マスターの拳骨を喰らったことか。思い出しただけで、痛みが甦る。
「やっとできるようになったと実際に作ってみると、泡が吹きこぼれるしで。何回失敗したことか。」
「そうなんだ!そんな難しいカクテルだったとは知らなかったよ!」
「いえ、実際には、ほとんどのバーでは別々に注ぐそうです。ウチも普段はそうですね。」
「そうなのかい?じゃあ、わざわざ難しいやり方で……なんでまた、そんな面倒なことを?」
「……お客様にとって大切な、その方へ。私からの弔いの思いを、少しでも、この一杯に込めたい――そう思ったんです。」
お客様が俯く。唇を噛み締めるのが見える。
「それに……何より、差し出がましいようですが。せっかくこのカウンターに座っていただけるのなら、少しでも。お気持ちを、その……楽にしていただければ、と。すみません、出過ぎた真似を。」
「そうかい……。すまないな、気を使わせちまったか。オレもまだまだだな~、うん。」
「いえ!マスターにはいつも言われるんです。もっと気を使えって。」
「あ~、マスター厳しいもんな~?」
「ええ、もうちょっと優しくして欲しいですね、あとお給料も上げて欲しいです……。」
肩をすくめて見せる。
「そんなこと言ってるとまた怒られるぞ?」
「マスターには内緒にしていてくださいね?」
二人で顔を見合わせて笑う。
――笑える、という事実だけで、少し救われる。
当初よりは柔らかい、温かな空気が流れていくのがわかる。
良かった。
少しは、いつもの雰囲気に戻ってくれた。
そう、思っていた。
そんな迷いが、顔に出てしまっていたのだろうか。
「悪いね。いつもならもっとちゃんと味わいたいんだけどさ。」
辛いはずなのに、こちらを気遣う――その言葉に、胸の痛みが大きくなる。
「今は……ただ酔いたいんだ。」
役目を終えたグラスを、そっとコースターから外すようにどけたお客様の唇が、吐き捨てるみたいに動く。
ただ酔いたいんだ、という言葉が、胸に突き刺さる。酒なら何でもいい。そう言われているようだった。
酒が、泣いている――。
かつてマスターからかけられた言葉が、胸の奥を抉る。
「いえ……別れを惜しむ時間も、痛みに身を任せる事も。時には必要な事ですから。」
伏せた顔の影で、唇を噛む。オレは――無力だ。
「そう言ってくれると助かるよ。なぁ、死を悼むカクテル、なんてのはあるのかい?」
死を、悼む……。
その言葉を聞いた瞬間、一つの記憶が脳裏に蘇る。
――このお客様に差し出した、"人生で一度きりの特別な一杯"。ただ、目の前のお客様の事だけを思って作った、あの一杯を。
お客様をよく見ろ。
マスターの口癖が、ようやく胸の奥へ降りてくる。
オレは……少し作れるようになっただけで、ただ自分の未熟な技術を誇示することしか、考えてなかった。
目の前のお客様を見ず。お客様の悲しみを理解しようともせず――そんな一杯がお客様に届くはずがない。
届かなかった理由が、ようやく腑に落ちた。
今、オレが作るべきなのは……痛みに寄り添い、見送られた方を共に偲ぶ。
そのための、一杯。
拙い知識をフル回転させ、これまでに読んだレシピブックの記述を紐解いていく。そして、ロンドンの伝説のカクテルを思い出す。
「有名どころですと……ブラックベルベット辺りでしょうか。」
「聞いたことがある名前、だな。」
「はい。ヴィクトリア女王の夫、アルバート公を偲んで作られたカクテル、とされています。」
「そんな逸話があったのか。じゃあ、そいつをくれるか?」
「かしこまりました。少しお待ちくださいませ。」
「珍しいな、待てだなんて。」
他に誰もいない中で、待て、と言われたことに驚くのも当然だろう。
「いやぁ、自分で提案していてなんですが……このカクテル、緊張するんですよ。シンプルなんですが、難しくて。」
「え? キミでも難しいカクテルなのかい?黒ビールとシャンパンだけ、じゃなかったっけ?」
「ご存知でしたか。ただ、だからこそ難しいというか……ご覧になるとわかるかと。」
そう言いながら、フルート型のシャンパングラスを出す。
そう、お客様が仰る通り、レシピは単純。
黒ビールとシャンパンを同量、それを注ぐだけ。
このブラックベルベットには、作り方が三つある。
一つは黒ビールを先に注ぎ、シャンパンをその後に注ぐ。
その逆にシャンパンから注ぐのが、二つ目。
これからオレが用いるのは、そのどちらでもない、三つ目の作り方。
シャンパンと黒ビールを開け、片手にそれぞれのボトルを持つ。
そして。シャンパングラスの上から、"同時に"注ぐ。
「へぇ、器用なもんだ!確かにこいつは難しそうだな。」
その言葉に、返事をする余裕はない。
本来ならパフォーマンス用のスタイル。
ただ、泡立ちも違うし、注ぎ口も違う。流量を見ながら同量を、泡立てて吹きこぼれないように注ぐ。一瞬たりとも気が抜けない。
ゆっくりとグラスの中で混ざり合う、黒と金。二つの液体を見つめる。
グラスの縁からこぼれ落ちそうな泡を押さえ込むように、ボトルを持ち上げる。
「お待たせいたしました。ブラックベルベットでございます。」
ブラックレインとブラックベルベット。二つの黒を引き換えにする。
その漆黒は――アルバート公を亡くしたヴィクトリア女王が、生涯脱ぐことがなかったとされる喪服を思わせる、哀悼の黒。
「おお、こいつはさっきのブラックレインとはまた違った黒さだね。どれどれ……。」
お客様の手が、グラスの脚を摘む。
持ち上げられたグラスがお客様の唇に触れ、漆黒色のビロードがお客様の喉を通り過ぎる。
「うん、うまいじゃないか!」
今日、初めてお客様の笑顔を見れた気がした。
「ありがとうございます。うまくいくかヒヤヒヤしましたよ。」
おしぼりで掌の汗を拭う。
「いやぁ~、緊張しました。最初に練習する時は水でやるんですが。手はプルプル震えるし、ついどっちかの方が多くなっちゃったりして。」
何度マスターの拳骨を喰らったことか。思い出しただけで、痛みが甦る。
「やっとできるようになったと実際に作ってみると、泡が吹きこぼれるしで。何回失敗したことか。」
「そうなんだ!そんな難しいカクテルだったとは知らなかったよ!」
「いえ、実際には、ほとんどのバーでは別々に注ぐそうです。ウチも普段はそうですね。」
「そうなのかい?じゃあ、わざわざ難しいやり方で……なんでまた、そんな面倒なことを?」
「……お客様にとって大切な、その方へ。私からの弔いの思いを、少しでも、この一杯に込めたい――そう思ったんです。」
お客様が俯く。唇を噛み締めるのが見える。
「それに……何より、差し出がましいようですが。せっかくこのカウンターに座っていただけるのなら、少しでも。お気持ちを、その……楽にしていただければ、と。すみません、出過ぎた真似を。」
「そうかい……。すまないな、気を使わせちまったか。オレもまだまだだな~、うん。」
「いえ!マスターにはいつも言われるんです。もっと気を使えって。」
「あ~、マスター厳しいもんな~?」
「ええ、もうちょっと優しくして欲しいですね、あとお給料も上げて欲しいです……。」
肩をすくめて見せる。
「そんなこと言ってるとまた怒られるぞ?」
「マスターには内緒にしていてくださいね?」
二人で顔を見合わせて笑う。
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当初よりは柔らかい、温かな空気が流れていくのがわかる。
良かった。
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