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第二話 潰れたい夜に
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あの夜から三日が過ぎた。
マスターが気を使ってくれて、一昨日は休みで良いと言われ、昨日は元々休みだった。
出勤前、大学から帰りシャワーを浴びていても、あの夜から渦巻いている――何か見てはいけないものを見てしまったという不気味さが消えずにいた。
マスターを知っていた、犯人と刑事。
機動隊員の前で見せた、年齢を感じさせないあの言い知れぬ気迫。
あの、聞き慣れない"がんぼたれら"という、言葉。
そして――店の名前と同じ、伊織という人物。
考えてみれば、オレはマスターのことを何も知らない。
知っているのは、Yの横山マスターの弟弟子である、ということ――横山マスターよりも相当に年上であるというのに――と、もうすぐ77歳になるというのに、今もまだ現役でカウンターに立ち続けている凄腕のバーテンダーであるということ。
そのくらいしかなかった。
オレが知らなかった、マスターの過去。
それに触れてしまった気がして――マスターの顔を見るのが怖くなっていた。
ioriに入って、半年近く――カクテルを覚え始めて楽しいと思っていた矢先だったのに――休んでしまおうか。頭を拭きながらそんなことを考えていた時だった。
携帯が震え、一拍遅れて鳴り響く。
Art Blakey & The Jazz Messengersの名曲、Moanin'がマスターからの着信を知らせている。
「――はい、フミトです。」
『おう、フミト。
今日ちょっと遅くなりそうだ。
お前が店を開けてくれ。
まだ出来ない、自信のないカクテルが出たら、断って構わん。
――頼む。』
マスターからそんなことを言われたのは初めてだった。
出来るかどうかなんて自信はない――だけど、出来るだけのことはやってみたい。
「分かりました――マスターが来るまで、オレがなんとかします。」
『すまんな。
じゃあ、また店でな。』
オレに――出来るだろうか。
夜は待ってはくれない。
焦る気持ちに蓋をして、オレは店を開けるために家を出た。
あの夜とは違って、細い雨が街を濡らしていた。
店に着いた頃には雨はほとんど降り止んで、傘をさす人もまばらになっていた。
小さな水溜まりを避けるように走る車が、時折水音を立てて通り過ぎて行く。
急いでバックヤードに回り鍵を捻る。
二十四時間消すことのない換気扇の音が、オレを出迎えてくれた。
そのままカウンターの中に入り、作業を確認する。
――おしぼりも丸氷も、慌てるほど減ってはいない。
昨日はそこまで忙しくなかったのかも知れない。
これなら十分に間に合う、そう思うと肩の力が抜けた。
リラックスして準備に臨めたからだろうか、いつもより二十分も早く準備を終えることができた。
開店まで少し休憩を取ろうと思って、BGMを付け水道の蛇口を捻る。
冷えた水がグラスに注がれたその時――
鍵の掛かったドアを開けようと踠く音がした。
酒場にはたまにあることだ。
一刻も早く酒にありつきたい客が、待ち切れずに開店前に来たのだろう。
もう今日は準備が終わっている。
看板を出すついでに、幸先よく口開けのお客様を確保してしまおう。
蛇口をもう一度捻り、一息に水を飲み干す。
ドアに向かい、内鍵を捻り蝶番を軋ませる。
「今開けますんで――えっ…。」
そこに立っていたのは――あの夜の、工藤刑事だった。
「すみません。
まだ、開店前でしたよね。」
あの夜と同じジャケット――どこかくたびれたような、少しだけ疲れた顔で、申し訳なさそうに聞かれる。
あの夜の、張り詰めたような雰囲気はない――それでも、すぐには言葉が出なかった。
「――いえ、もう準備は終わってますので。
中でお待ちください、今看板出して来ますので。」
そう告げて、ドアを大きく開けて中へ通す。
蝶番の軋みが、いつもより低く感じる。
工藤刑事と入れ違うようにして看板を外へ運ぶ。
いつもの位置に設置して、あの夜はここに――そこまで考えて、頭を振る。
もう、終わった話だ。
そう言い聞かせて、コンセントに繋ぐ。
いつも通り、看板が街を照らすのを背にして、もう一度蝶番を軋ませる。
「お待たせしました、今おしぼりをお持ちしますので。」
カウンターの、あの夜と同じ席に座っているのを目にして、理由もわからないまま心臓の鼓動が速くなった。
落ち着け、今日は何もない。あの夜とは違うんだ――。
一瞬、温かいおしぼりがいいか冷えたおしぼりがいいか逡巡して、結局タオルウォーマーを開ける。
メニューを置き工藤刑事の前に差し出す。
「いらっしゃいませ、工藤様。」
広げて出したおしぼりを受け取りながら、工藤刑事が周りを見渡す。
「ありがとう。
今日はマスターは?」
「申し訳ありません、私用で遅れるとのことで。
マスターが戻るまで私が対応させていただきます。」
困惑した表情でオレを見る。
「そうか…この間の事もあって、久しぶりに山根さんとゆっくり話したかったんだが…。」
とは言え、いないものは仕方がない。
「遅れる、とのことでしたので、出勤自体はされるはずですが…。」
「そうか。
何時くらいになるか分かるかい?」
「申し訳ありません。
遅くなる、としか聞いておらず。
どうなさいますか?」
「……いや、まあ、せっかくお邪魔したんだ。
何かいただきながら待たせてもらうとしようかな。
何にしようかな…。」
メニューを開いて目移りしている。
刑事ともなれば忙しくてゆっくり飲む時間なんてなかったのかも知れない。
「お食事はされましたか?」
「ああ、さっき駅前のラーメン屋でね。
何でだい?」
「いえ――マスターからは、相手の来店時間で食事の時間を推察してオススメを決めろ、と言われていまして。
ただ、刑事さんともなると生活リズムも不安定だろうから、聞いた方が早いかなと…。」
少しだけ驚いた顔を見せ、すぐにその表情を消す。
「そうか…山根さんはすごいな、そんなことまで教えてるんだね。
じゃあ、キミに任せてもいいかな?
正直、余りこういうお店に来た事はなくてね。」
「かしこまりました。
普段は何を飲まれる、とかございますか?
お酒でも、お酒でなくとも構いません。」
「そうだな…普段は…まあやっぱりビールかな?
仕事中は……うーん、その日の気分だけど、コーヒーとか麦茶かなぁ…。」
「かしこまりました。」
「こんなもので良いのかい?
そんなに大した情報にはならないんじゃないのかい?」
「いえ、十分ですよ。
ありがとうございます、すぐにお作りいたします。」
タンブラーグラスに氷を組み、軽くステアしてグラスを冷やす。
バースプーンで氷を抑えながら溶け出た水を捨て、少しだけ悩んでからグレンモーレンジィのオリジナル10を45ml。
カットライムを搾り、15ml。
もう一度ステアして、氷と馴染ませたところへカナタドライのジンジャーエールで満たして、バースプーンで持ち上げるように、二回。
コースターを置き、その上に重ねるようにグラスを置く。
「お待たせしました。
マミー・テイラーです。」
「ありがとう。
いただきます。」
丁寧に礼を述べてグラスを握り、そのまま口に運ぶ。
口に含んだマミー・テイラーを飲み込み、一瞬だけ目を見開き喉仏を鳴らして二度、三度と飲み干す。
ふぅ、と大きく息を吐き出してグラスを置いて――
「これ、すごいな!
香りも華やかさがあって、飲みやすいよ!」
「ありがとうございます。」
小さく頭を下げながら、気に入ってもらえた事に一人胸を撫で下ろす。
その時、バックヤードのロッカーから、くぐもったMoanin'が響く。
しまった、開ける予定ではなかったから携帯をマナーモードにするのを忘れていた。
「失礼します、少しお待ちくださいませ。」
バックヤードに戻り、ロッカーを開けて携帯を取り出す。
「お疲れ様です、マスター。」
『おう、悪いな。
大丈夫か?』
「はい、もう店開けてます。
あの、この間の工藤刑事がお待ちです。
どのくらいになりそうでしょうか?」
『工藤――正行か。
分かった。
すまん、まだ一時間はかかりそうだ。』
「分かりました。
あ、こっち雨降ってますので気を付けてお越しくださいね。」
『分かった。
すまんが頼むな。』
それだけを告げて電話が切れる。
マナーモードに変えロッカーに戻す。
「失礼致しました。」
カウンターに戻ると、欠伸をしながら身体を伸ばすようにストレッチをしていた工藤刑事と目が合った。気まずさだろうか、慌てるように言い繕う。
「いや、全然!大丈夫だよ。
――マスターかい?」
「あ、はい。
まだもう少し掛かるようです。」
「仕方ない、私が早く来すぎてしまっただけだしね。
しまったなぁ、せめて開店時間だけでも調べてから来るんだったよ。」
「いえ!
とんでもありません。
――それより、良くマスターからってお分かりになりましたね。」
ああ、と呟きマミー・テイラーをもう一口を口に含んで――グラスを置いてから口を開く。
「ああ――いや、あの曲はマスターが好きな曲だっただろ?」
そうだ。
マスターから教えてもらって気に入った曲。
マスターも好きだと聞いて、着信音にした曲だった。
「良くご存知ですね。」
「マスターからは何も聞いてないのかい?」
「いや…昨日一昨日とお休みしてたもので、マスターとは……。」
今度は、長い溜め息が漏れる。
「そうか……。
いやね、私と――貴弘は幼馴染でね。
マスターのご自宅の近くに住んでるんだ。
貴弘は途中で引っ越してしまったけどね。」
近所、というありふれた関係性――。
マスターはこの地に住まい、この地に生きていたのだから、大学でこの地に来たオレとは違って、地域の生活があって当然だ。
「小さい頃から山根さんと奥さんには良く面倒を見てもらっていてね――。
親と喧嘩して家出した時には、こっそり山根さんの家に泊めてもらったこともあったんだ。
その時にね、Moanin'を聴かせてもらったんだよ。」
――ちょっと待て。
「奥…さん……?」
しまった、という顔をして言葉を探すのが見える。
「すまん、余計なことを言った。
忘れてくれ。」
「いえ……もしかして、その奥さん、が――この店の、」
「覚えて……いたのか……!」
小さく頷く。
「余り…人が語らないことを話す趣味は無いんだけどな……。」
言いたくない過去なんて、誰にだってある――。
それは痛い程オレ自身が分かっていた。
「そう……ですね。
マスターが話さない、という事は……今はまだ知らなくて良いことなのかも知れません。
この話は、もう……。」
「ああ…そう、だな……
すまない、変なことを言ったね。
忘れてくれ。」
気まずい沈黙が流れる。
参ったな、次の言葉が浮かばない。
言葉を探していると――BGMが切り替わり、トミー・ドーシーの吹くトロンボーンがセンチメンタルな哀愁を歌い上げる。
「…懐かしいな……。」
工藤刑事が反応する。
「I'm getting sentimental over you、ですね――。
名曲ですよね。」
「詳しいね。
キミも好きなのかい?」
「ええ、最初はマスターに聴かされて、だったんですが。
今はすっかりハマってしまいまして。」
三口目を口に含み、少し細くなった目で懐かしむように語る。
「確か、この曲をシナトラが歌ってたテイクもあったよな?」
「ああ、I remember Tommy、でしたっけ。
ありますよ、CD。
掛けましょうか?」
「あるのか!
CDにもなっていたのか…流せるかい?」
「はい、少しお待ちくださいね。」
しゃがんで、レジの下のCDラックからお目当てのアルバムを探す――あった。デッキにCDを挿し込む。
それだけで、コンポが自然とラインを切り替えて再生を始める。
The Voiceと呼ばれた声が、故人の想い出に浸るようにしっとりと歌い上げる声が店内に満ちる。
「ああ…これだよ……。
マスターの家で聴いて以来だ。
懐かしいな……。」
シナトラの声と、氷が回るカラン……という音だけが、店内の空気をいつものioriにしていた。
「どこで……間違えたのかなぁ…。」
小さな呟きが聞こえてきた。
間違えた……何が、と聞くまでもなかった。
「貴弘とは……いつも一緒だったんだ――。
いつも二人で悪さをして、いつも二人で怒られて。
喧嘩もして、一緒に笑って……。」
グラスを持ち上げ、残りを飲み干して――空になったグラスを額に押し当てて。
言葉が、詰まる。
「山根さんは――優しかったよ。
オレたちが悪さをしたら、拳骨を落として、その後は必ず笑って、Jazzのアルバムを聴かせながら一曲一曲教えてくれてな――伊織さんが淹れてくれた麦茶を飲みながら、いつも縁側で遊んでくれたんだ……。」
フゥー、と胸の中の空気を全て吐き出すように……長い息を漏らして、グラスを置く。
「マスターは変わってませんね。
今もすぐに拳骨が飛んできますよ。」
またマスターの拳骨は痛いんだよな、と思い出して苦笑いになってしまう。
釣られたように工藤刑事も笑う。
力なく、小さく笑う彼の瞼が――少しだけ、重力に負けそうになっていた。
「まぁ、普段は伊織さんの方が怒ると広島弁が出てな、怒鳴られた時の迫力と言ったら…山根さんもタジタジになってたよ。」
細められた目が、一瞬遠くを見ているように感じた。
「なぁ…確か、シナトラの名前のカクテルがあったよな?」
シナトラの名前…アレか。だが、アレは……。
「フランシス・アルバートのことですね。
かなり強いお酒になりますが……。」
「そうそう、それだ。
強くて構わない。
今は――強い酒が飲みたいんだ。」
「――分かりました。」
ロックグラスを取り出し、丸氷を中に滑らせる。
バースプーンで氷を回して霜を落とし、溶け出した水を捨ててカウンターに置く。
タンカレーとワイルド・ターキー8年をメジャーカップで30mlずつ計り注ぐ。
もう一度、グラスの中でステアして――
「フランシス・アルバートです。」
小さなグラスに常温の水を注ぎ、コースターの横に置く。
「強いお酒ですので、チェイサーも合わせてお飲みくださいね。」
「ありがとう――。」
そう言いながらグラスを持ち上げ、口に含む。
瞼は強く閉じられ、喉を刺すようなアルコールの強さを物語っていた。
「ウ、ゲホッ!ゲホ、ゲホッ!」
途端に咽せ、慌てて水を口に含んでいた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「いや、すまん、大丈夫だ。
いやこれは――強いな、まだ喉が痛い……。」
「そりゃそうですよ!
ターキーのタンカレー割りってなんの冗談だって話ですから!」
空いたチェイサーグラスにもう一杯水を注ぐ。
「ありがとう、これは……でも、強いけど旨いな。
もうちょいチビチビやらせてもらうか。
流石シナトラだ、な。」
「ご無理はなさらないでくださいね。」
「ああ。
……シナトラといえばやっぱりMy Way、だよな――でもオレはGipsy KingsのMy Wayの方が好きなんだよな。」
Gipsy Kings版のMy Way…A Mi Maneraか。
あの曲の収録されたCDも、確か――
「掛けましょうか?
ありますよ、確か。」
「あるのか!
掛けてくれ、久しぶりに聴きたいね。」
「はい、お待ちくださいね。」
もう一度しゃがんで、CDラックから探し出す。
CDを入れ替えて、7曲目を選ぶ。
川の流れを思わせるスパニッシュ・ギターに合わせて、ニコラのどこか懐かしさを感じる歌声が力強く流れる。
「ああ…良いね、このバージョンのMy Wayも素晴らしい……。」
「良いですよね、このアルバム。
鬼平のエンディングテーマが聴きたくて買ったんですが、名盤ですよね。」
「これ、キミの、なのかい?」
「ええ、気に入って店に持って来ちゃいました。」
「中々に渋いねぇ、若いのに。」
もしかして、こういうのが好きなのもオレが老けて見られる原因なのだろうか。
つい、どうでも良いことを考えてしまう。
一層落ち掛けた瞼で、彷徨う手がグラスを探し当て、掴む。
「このMy Wayを初めて聴いた時ね――山根さんを思い出したんだ。」
「マスター…を?」
再びグラスに口を付ける。今度は、少しだけ口に含む。
「ああ…。
オレたちが……確か、小学校……、ヒック、三年、とかの時だったかな……。」
水をもう一口、飲む。
口の端から僅かに水が流れる。
「伊織さんが、亡くなって…その、すぐ後だよ、急に山根さんが仕事をね、辞めて……ヒック、バーテンダーに、転職してね、」
奥さんが、亡くなっていた――。
新しいおしぼりを差し出しながら、チェイサーのグラスをタンブラーグラスに差し替え、水を注ぐ。
CDも終わりが近いことを告げるインストゥルメンタルの曲が店内に響く。
「確か、大きな会社で、そこそこの地位にはね、ヒック、いたはずなんだ。
それがね、いきなり、水商売なんか始めて、なんてね、ヒック、
周りの大人たちが、口さがなく噂してたもんさ……。
もう、40も半ばを過ぎて、何を今さら、ってね……。」
マスターがバーテンダーとしてのスタートが遅かった、というのは聞いたことがあった。
隣町の、Yの横山マスターのところに連れて行ってもらった時。
マスターよりもずっとお若く見える彼が、マスターの兄弟子に当たると聞いた時にその話を伺っていたから。
マスターの転身の理由に、奥さんが亡くなったことは関係があったのだろうか。
「他に、マスターにご家族は……?」
「いや……山根さんと、ヒック……伊織さんには、お子さんが、ヒック、いなくてね……。」
しきりに水を飲みながら、記憶を辿るように言葉を続ける。
「オレと貴弘は……そんな山根さんがカッコよく見えてね……、いつか、山根さんが、店を出したら……ヒック、二人で、山根さんの作った酒を、飲むんだ、って約束して……。」
だから――あの夜、二人は……。
たった一杯の約束のために、工藤刑事は刑事としての立場をも捨ててこの席に座っていたことを考えると――胸が押し潰されそうになった。
「二人で……大人の酒、ってヤツをさ……並んで、飲みたかったんだよ――
なぁ――マティーニ、ってヤツを、くれないか。
飲ませてくれ。」
マティーニ……。
何度か試してみたはいいけれど、納得のいくレシピを見つけられずにいた。
何より、今はフランシス・アルバートで一気に酔いが回っている。
潰れたい――全てを忘れるまで、酒に溺れたい気持ちは伝わる。
それでも、今のオレには――
「申し訳ありません…。
私はまだ駆け出しで、マティーニは――その、お出しすることができず……。
マスターが戻ったら、改めてお願いしましょう。
それまでの繋ぎに、別のカクテルはいかがですか?」
「ああ…そう、なのか…。
それなら、仕方ない、な。
任せるよ……。」
「かしこまりました。」
マスターももうそろそろ来るはずだ。
それまでは繋いでおきたい。
コリンズグラスを取り出す。
シェーカーを裏返して氷を組む。
ウイスキーを選ぶ手が迷って――ザ・グレンリヴェットを掴む。
45――いや、40mlを計り、メジャーカップを傾けてシェーカーに落とす。
氷が小さく鳴く音が聞こえる。
レモンを搾り、20ml。そして、シュガーシロップを2tsp。
ストレーナーを被せ、キャップを嵌め、両手で押さえ付けるように掴んで作業台に打ち付ける。二回。
左肩の前に構えて、CDの日本盤ボーナストラックが奏でる軽快なフラメンコのリズムに乗せてシェイクを始める。
スパニッシュ・ギターのどこか哀愁を思わせるメロディに乗せてニコラがLai lai lai, lai lai lai la……と声を震わせている。
そしてその歌声が閉じる前に――シェイクが終わる。
キャップを外したシェーカーから、細かい泡とフレークを纏わせた、少しだけ濁った琥珀が流れ出す。
ストレーナーを開け、中の氷をトングで摘んでグラスに落とす。
ソーダを取り出し、グラスに満たしてバースプーンで氷を持ち上げるように――二回。
CDが終わったと同時に、グラスを入れ替える。
「ジョン・コリンズです。どうぞ。」
氷が溶け出して、随分と薄くなったロックグラスの中身は、丸い氷の下で名残惜しそうに揺蕩っていた。そのまま作業台の隅に置く。
タンブラーグラスに残ったチェイサーも、もう飲み干されていた。
少しはリカバリーできたようだ。
瞼をしきりにしばたかせながら、少し大きなコリンズグラスを掴む。
ゆっくりと口に運び、喉仏を上下させる様を見届け、有線に切り替えようとして――ふと、あの曲が聴きたくなって、CDを探す。
映画音楽のサントラ集の中にあった、はず――あった。
ブツ、ブツと小さなノイズが混じりながら、ドゥリー・ウィルソンが歌い上げるAs time goes by。
その曲を流そうとして――バックヤードの換気扇が唸りを上げる。
途切れたBGMの中で、その音はいつもより大きく聞こえた。
ロッカーを開け、衣擦れの音が微かにカウンターに届く。
選曲して再生を押し、工藤刑事の前に戻る。
「工藤様、お待たせいたしました。」
その言葉に重なるように、コツ、コツ、と革靴の硬い底が床を叩く足音がして――マスターが姿を現す。
「フミト、ご苦労さん。問題なかったか?」
「お疲れ様です。
はい、まだ工藤様だけでしたし。」
「そうか。
おう、待たせたな――って、
フミト、どれだけ飲ませたんだ?」
工藤刑事がノロノロと焦点の合わない目でマスターを見ながらグラスを持ち上げ、何事かを呟く。
それは既に明瞭な言葉にはなっていなかった。
マスターが近付いてくる。
横にズレようと体を入れ替えた時――微かに、線香の香りが鼻腔の奥を撫でる。
――思わず、ついさっき聞いてしまった話が頭をよぎり、顔を逸らしてしまった。
伝票を確認チラリと確認する。
「なんだ、これで三杯目か――。」
工藤刑事を見て、上から下まで何度も視線を往復させ、眉を顰める。
「……馬鹿タレが。」
タンブラーグラスを取り出し、氷を組む。
そのまま、高速でのステアでグラスを急冷させ、その上からトニックウォーターを注ぐ。
もう一度、氷を下から持ち上げ、二回――最後にライムの皮を削り、折り曲げて液面に香りを飛ばす。
「正行。
そっちはもっとゆっくり飲め。
今はこいつを飲め。
あと、少し待ってろ。」
そう言って、返事を待つこともなくバックヤードへ向かう。
工藤刑事はマスターの出したトニックウォーターを握り、そのまま口に含んで――一気に飲み干す。
そのグラスがカウンターに置かれる前に、マスターが平皿にジャーキーを並べて戻って来る。
「少し塩分を摂れ。
しっかり噛んで食うんだ。」
言葉は厳しい――だけど、何処か――苦しそうな声色に乗せて、工藤刑事への思いが溢れていた。
空いたグラスに、もう一杯のトニックウォーターを注ぎ、今度はカットライムを搾りグラスにそのまま落とす。
「すみません…山根さん……。」
「少しは落ち着いたか、正行。
それを飲んだら帰れ。」
「マスター……、それはあんまりにも、」
つい口を挟むオレを横目で見て、マスターは小さく溜め息を吐き出す。
「ダメだ。
コイツはもう今日は飲ませられない。
――これ以上は潰れるだけだ。」
なんでだよ…!
工藤刑事は、マスターに話したいことがあったはずなのに…!
「でも!
せっかくマスターを待っていたのに…!
マスターの、マティーニが飲みたい、って!」
「ダメだ。」
とりつく島もない。
それでも、工藤刑事の気持ちを考えたら――
「……潰れるまで飲みたい、そんな夜だって、」
マスターはオレを見ようともせず、伝票を切り工藤刑事の前に差し出す。
「潰れたい夜があってもいい。
それでも、潰さないのが――
バーテンダーだ。」
お前はまだ、バーテンダーという仕事の重さを知らない。
マスターのその態度が、そう語っているように思えた。
マスターが気を使ってくれて、一昨日は休みで良いと言われ、昨日は元々休みだった。
出勤前、大学から帰りシャワーを浴びていても、あの夜から渦巻いている――何か見てはいけないものを見てしまったという不気味さが消えずにいた。
マスターを知っていた、犯人と刑事。
機動隊員の前で見せた、年齢を感じさせないあの言い知れぬ気迫。
あの、聞き慣れない"がんぼたれら"という、言葉。
そして――店の名前と同じ、伊織という人物。
考えてみれば、オレはマスターのことを何も知らない。
知っているのは、Yの横山マスターの弟弟子である、ということ――横山マスターよりも相当に年上であるというのに――と、もうすぐ77歳になるというのに、今もまだ現役でカウンターに立ち続けている凄腕のバーテンダーであるということ。
そのくらいしかなかった。
オレが知らなかった、マスターの過去。
それに触れてしまった気がして――マスターの顔を見るのが怖くなっていた。
ioriに入って、半年近く――カクテルを覚え始めて楽しいと思っていた矢先だったのに――休んでしまおうか。頭を拭きながらそんなことを考えていた時だった。
携帯が震え、一拍遅れて鳴り響く。
Art Blakey & The Jazz Messengersの名曲、Moanin'がマスターからの着信を知らせている。
「――はい、フミトです。」
『おう、フミト。
今日ちょっと遅くなりそうだ。
お前が店を開けてくれ。
まだ出来ない、自信のないカクテルが出たら、断って構わん。
――頼む。』
マスターからそんなことを言われたのは初めてだった。
出来るかどうかなんて自信はない――だけど、出来るだけのことはやってみたい。
「分かりました――マスターが来るまで、オレがなんとかします。」
『すまんな。
じゃあ、また店でな。』
オレに――出来るだろうか。
夜は待ってはくれない。
焦る気持ちに蓋をして、オレは店を開けるために家を出た。
あの夜とは違って、細い雨が街を濡らしていた。
店に着いた頃には雨はほとんど降り止んで、傘をさす人もまばらになっていた。
小さな水溜まりを避けるように走る車が、時折水音を立てて通り過ぎて行く。
急いでバックヤードに回り鍵を捻る。
二十四時間消すことのない換気扇の音が、オレを出迎えてくれた。
そのままカウンターの中に入り、作業を確認する。
――おしぼりも丸氷も、慌てるほど減ってはいない。
昨日はそこまで忙しくなかったのかも知れない。
これなら十分に間に合う、そう思うと肩の力が抜けた。
リラックスして準備に臨めたからだろうか、いつもより二十分も早く準備を終えることができた。
開店まで少し休憩を取ろうと思って、BGMを付け水道の蛇口を捻る。
冷えた水がグラスに注がれたその時――
鍵の掛かったドアを開けようと踠く音がした。
酒場にはたまにあることだ。
一刻も早く酒にありつきたい客が、待ち切れずに開店前に来たのだろう。
もう今日は準備が終わっている。
看板を出すついでに、幸先よく口開けのお客様を確保してしまおう。
蛇口をもう一度捻り、一息に水を飲み干す。
ドアに向かい、内鍵を捻り蝶番を軋ませる。
「今開けますんで――えっ…。」
そこに立っていたのは――あの夜の、工藤刑事だった。
「すみません。
まだ、開店前でしたよね。」
あの夜と同じジャケット――どこかくたびれたような、少しだけ疲れた顔で、申し訳なさそうに聞かれる。
あの夜の、張り詰めたような雰囲気はない――それでも、すぐには言葉が出なかった。
「――いえ、もう準備は終わってますので。
中でお待ちください、今看板出して来ますので。」
そう告げて、ドアを大きく開けて中へ通す。
蝶番の軋みが、いつもより低く感じる。
工藤刑事と入れ違うようにして看板を外へ運ぶ。
いつもの位置に設置して、あの夜はここに――そこまで考えて、頭を振る。
もう、終わった話だ。
そう言い聞かせて、コンセントに繋ぐ。
いつも通り、看板が街を照らすのを背にして、もう一度蝶番を軋ませる。
「お待たせしました、今おしぼりをお持ちしますので。」
カウンターの、あの夜と同じ席に座っているのを目にして、理由もわからないまま心臓の鼓動が速くなった。
落ち着け、今日は何もない。あの夜とは違うんだ――。
一瞬、温かいおしぼりがいいか冷えたおしぼりがいいか逡巡して、結局タオルウォーマーを開ける。
メニューを置き工藤刑事の前に差し出す。
「いらっしゃいませ、工藤様。」
広げて出したおしぼりを受け取りながら、工藤刑事が周りを見渡す。
「ありがとう。
今日はマスターは?」
「申し訳ありません、私用で遅れるとのことで。
マスターが戻るまで私が対応させていただきます。」
困惑した表情でオレを見る。
「そうか…この間の事もあって、久しぶりに山根さんとゆっくり話したかったんだが…。」
とは言え、いないものは仕方がない。
「遅れる、とのことでしたので、出勤自体はされるはずですが…。」
「そうか。
何時くらいになるか分かるかい?」
「申し訳ありません。
遅くなる、としか聞いておらず。
どうなさいますか?」
「……いや、まあ、せっかくお邪魔したんだ。
何かいただきながら待たせてもらうとしようかな。
何にしようかな…。」
メニューを開いて目移りしている。
刑事ともなれば忙しくてゆっくり飲む時間なんてなかったのかも知れない。
「お食事はされましたか?」
「ああ、さっき駅前のラーメン屋でね。
何でだい?」
「いえ――マスターからは、相手の来店時間で食事の時間を推察してオススメを決めろ、と言われていまして。
ただ、刑事さんともなると生活リズムも不安定だろうから、聞いた方が早いかなと…。」
少しだけ驚いた顔を見せ、すぐにその表情を消す。
「そうか…山根さんはすごいな、そんなことまで教えてるんだね。
じゃあ、キミに任せてもいいかな?
正直、余りこういうお店に来た事はなくてね。」
「かしこまりました。
普段は何を飲まれる、とかございますか?
お酒でも、お酒でなくとも構いません。」
「そうだな…普段は…まあやっぱりビールかな?
仕事中は……うーん、その日の気分だけど、コーヒーとか麦茶かなぁ…。」
「かしこまりました。」
「こんなもので良いのかい?
そんなに大した情報にはならないんじゃないのかい?」
「いえ、十分ですよ。
ありがとうございます、すぐにお作りいたします。」
タンブラーグラスに氷を組み、軽くステアしてグラスを冷やす。
バースプーンで氷を抑えながら溶け出た水を捨て、少しだけ悩んでからグレンモーレンジィのオリジナル10を45ml。
カットライムを搾り、15ml。
もう一度ステアして、氷と馴染ませたところへカナタドライのジンジャーエールで満たして、バースプーンで持ち上げるように、二回。
コースターを置き、その上に重ねるようにグラスを置く。
「お待たせしました。
マミー・テイラーです。」
「ありがとう。
いただきます。」
丁寧に礼を述べてグラスを握り、そのまま口に運ぶ。
口に含んだマミー・テイラーを飲み込み、一瞬だけ目を見開き喉仏を鳴らして二度、三度と飲み干す。
ふぅ、と大きく息を吐き出してグラスを置いて――
「これ、すごいな!
香りも華やかさがあって、飲みやすいよ!」
「ありがとうございます。」
小さく頭を下げながら、気に入ってもらえた事に一人胸を撫で下ろす。
その時、バックヤードのロッカーから、くぐもったMoanin'が響く。
しまった、開ける予定ではなかったから携帯をマナーモードにするのを忘れていた。
「失礼します、少しお待ちくださいませ。」
バックヤードに戻り、ロッカーを開けて携帯を取り出す。
「お疲れ様です、マスター。」
『おう、悪いな。
大丈夫か?』
「はい、もう店開けてます。
あの、この間の工藤刑事がお待ちです。
どのくらいになりそうでしょうか?」
『工藤――正行か。
分かった。
すまん、まだ一時間はかかりそうだ。』
「分かりました。
あ、こっち雨降ってますので気を付けてお越しくださいね。」
『分かった。
すまんが頼むな。』
それだけを告げて電話が切れる。
マナーモードに変えロッカーに戻す。
「失礼致しました。」
カウンターに戻ると、欠伸をしながら身体を伸ばすようにストレッチをしていた工藤刑事と目が合った。気まずさだろうか、慌てるように言い繕う。
「いや、全然!大丈夫だよ。
――マスターかい?」
「あ、はい。
まだもう少し掛かるようです。」
「仕方ない、私が早く来すぎてしまっただけだしね。
しまったなぁ、せめて開店時間だけでも調べてから来るんだったよ。」
「いえ!
とんでもありません。
――それより、良くマスターからってお分かりになりましたね。」
ああ、と呟きマミー・テイラーをもう一口を口に含んで――グラスを置いてから口を開く。
「ああ――いや、あの曲はマスターが好きな曲だっただろ?」
そうだ。
マスターから教えてもらって気に入った曲。
マスターも好きだと聞いて、着信音にした曲だった。
「良くご存知ですね。」
「マスターからは何も聞いてないのかい?」
「いや…昨日一昨日とお休みしてたもので、マスターとは……。」
今度は、長い溜め息が漏れる。
「そうか……。
いやね、私と――貴弘は幼馴染でね。
マスターのご自宅の近くに住んでるんだ。
貴弘は途中で引っ越してしまったけどね。」
近所、というありふれた関係性――。
マスターはこの地に住まい、この地に生きていたのだから、大学でこの地に来たオレとは違って、地域の生活があって当然だ。
「小さい頃から山根さんと奥さんには良く面倒を見てもらっていてね――。
親と喧嘩して家出した時には、こっそり山根さんの家に泊めてもらったこともあったんだ。
その時にね、Moanin'を聴かせてもらったんだよ。」
――ちょっと待て。
「奥…さん……?」
しまった、という顔をして言葉を探すのが見える。
「すまん、余計なことを言った。
忘れてくれ。」
「いえ……もしかして、その奥さん、が――この店の、」
「覚えて……いたのか……!」
小さく頷く。
「余り…人が語らないことを話す趣味は無いんだけどな……。」
言いたくない過去なんて、誰にだってある――。
それは痛い程オレ自身が分かっていた。
「そう……ですね。
マスターが話さない、という事は……今はまだ知らなくて良いことなのかも知れません。
この話は、もう……。」
「ああ…そう、だな……
すまない、変なことを言ったね。
忘れてくれ。」
気まずい沈黙が流れる。
参ったな、次の言葉が浮かばない。
言葉を探していると――BGMが切り替わり、トミー・ドーシーの吹くトロンボーンがセンチメンタルな哀愁を歌い上げる。
「…懐かしいな……。」
工藤刑事が反応する。
「I'm getting sentimental over you、ですね――。
名曲ですよね。」
「詳しいね。
キミも好きなのかい?」
「ええ、最初はマスターに聴かされて、だったんですが。
今はすっかりハマってしまいまして。」
三口目を口に含み、少し細くなった目で懐かしむように語る。
「確か、この曲をシナトラが歌ってたテイクもあったよな?」
「ああ、I remember Tommy、でしたっけ。
ありますよ、CD。
掛けましょうか?」
「あるのか!
CDにもなっていたのか…流せるかい?」
「はい、少しお待ちくださいね。」
しゃがんで、レジの下のCDラックからお目当てのアルバムを探す――あった。デッキにCDを挿し込む。
それだけで、コンポが自然とラインを切り替えて再生を始める。
The Voiceと呼ばれた声が、故人の想い出に浸るようにしっとりと歌い上げる声が店内に満ちる。
「ああ…これだよ……。
マスターの家で聴いて以来だ。
懐かしいな……。」
シナトラの声と、氷が回るカラン……という音だけが、店内の空気をいつものioriにしていた。
「どこで……間違えたのかなぁ…。」
小さな呟きが聞こえてきた。
間違えた……何が、と聞くまでもなかった。
「貴弘とは……いつも一緒だったんだ――。
いつも二人で悪さをして、いつも二人で怒られて。
喧嘩もして、一緒に笑って……。」
グラスを持ち上げ、残りを飲み干して――空になったグラスを額に押し当てて。
言葉が、詰まる。
「山根さんは――優しかったよ。
オレたちが悪さをしたら、拳骨を落として、その後は必ず笑って、Jazzのアルバムを聴かせながら一曲一曲教えてくれてな――伊織さんが淹れてくれた麦茶を飲みながら、いつも縁側で遊んでくれたんだ……。」
フゥー、と胸の中の空気を全て吐き出すように……長い息を漏らして、グラスを置く。
「マスターは変わってませんね。
今もすぐに拳骨が飛んできますよ。」
またマスターの拳骨は痛いんだよな、と思い出して苦笑いになってしまう。
釣られたように工藤刑事も笑う。
力なく、小さく笑う彼の瞼が――少しだけ、重力に負けそうになっていた。
「まぁ、普段は伊織さんの方が怒ると広島弁が出てな、怒鳴られた時の迫力と言ったら…山根さんもタジタジになってたよ。」
細められた目が、一瞬遠くを見ているように感じた。
「なぁ…確か、シナトラの名前のカクテルがあったよな?」
シナトラの名前…アレか。だが、アレは……。
「フランシス・アルバートのことですね。
かなり強いお酒になりますが……。」
「そうそう、それだ。
強くて構わない。
今は――強い酒が飲みたいんだ。」
「――分かりました。」
ロックグラスを取り出し、丸氷を中に滑らせる。
バースプーンで氷を回して霜を落とし、溶け出した水を捨ててカウンターに置く。
タンカレーとワイルド・ターキー8年をメジャーカップで30mlずつ計り注ぐ。
もう一度、グラスの中でステアして――
「フランシス・アルバートです。」
小さなグラスに常温の水を注ぎ、コースターの横に置く。
「強いお酒ですので、チェイサーも合わせてお飲みくださいね。」
「ありがとう――。」
そう言いながらグラスを持ち上げ、口に含む。
瞼は強く閉じられ、喉を刺すようなアルコールの強さを物語っていた。
「ウ、ゲホッ!ゲホ、ゲホッ!」
途端に咽せ、慌てて水を口に含んでいた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「いや、すまん、大丈夫だ。
いやこれは――強いな、まだ喉が痛い……。」
「そりゃそうですよ!
ターキーのタンカレー割りってなんの冗談だって話ですから!」
空いたチェイサーグラスにもう一杯水を注ぐ。
「ありがとう、これは……でも、強いけど旨いな。
もうちょいチビチビやらせてもらうか。
流石シナトラだ、な。」
「ご無理はなさらないでくださいね。」
「ああ。
……シナトラといえばやっぱりMy Way、だよな――でもオレはGipsy KingsのMy Wayの方が好きなんだよな。」
Gipsy Kings版のMy Way…A Mi Maneraか。
あの曲の収録されたCDも、確か――
「掛けましょうか?
ありますよ、確か。」
「あるのか!
掛けてくれ、久しぶりに聴きたいね。」
「はい、お待ちくださいね。」
もう一度しゃがんで、CDラックから探し出す。
CDを入れ替えて、7曲目を選ぶ。
川の流れを思わせるスパニッシュ・ギターに合わせて、ニコラのどこか懐かしさを感じる歌声が力強く流れる。
「ああ…良いね、このバージョンのMy Wayも素晴らしい……。」
「良いですよね、このアルバム。
鬼平のエンディングテーマが聴きたくて買ったんですが、名盤ですよね。」
「これ、キミの、なのかい?」
「ええ、気に入って店に持って来ちゃいました。」
「中々に渋いねぇ、若いのに。」
もしかして、こういうのが好きなのもオレが老けて見られる原因なのだろうか。
つい、どうでも良いことを考えてしまう。
一層落ち掛けた瞼で、彷徨う手がグラスを探し当て、掴む。
「このMy Wayを初めて聴いた時ね――山根さんを思い出したんだ。」
「マスター…を?」
再びグラスに口を付ける。今度は、少しだけ口に含む。
「ああ…。
オレたちが……確か、小学校……、ヒック、三年、とかの時だったかな……。」
水をもう一口、飲む。
口の端から僅かに水が流れる。
「伊織さんが、亡くなって…その、すぐ後だよ、急に山根さんが仕事をね、辞めて……ヒック、バーテンダーに、転職してね、」
奥さんが、亡くなっていた――。
新しいおしぼりを差し出しながら、チェイサーのグラスをタンブラーグラスに差し替え、水を注ぐ。
CDも終わりが近いことを告げるインストゥルメンタルの曲が店内に響く。
「確か、大きな会社で、そこそこの地位にはね、ヒック、いたはずなんだ。
それがね、いきなり、水商売なんか始めて、なんてね、ヒック、
周りの大人たちが、口さがなく噂してたもんさ……。
もう、40も半ばを過ぎて、何を今さら、ってね……。」
マスターがバーテンダーとしてのスタートが遅かった、というのは聞いたことがあった。
隣町の、Yの横山マスターのところに連れて行ってもらった時。
マスターよりもずっとお若く見える彼が、マスターの兄弟子に当たると聞いた時にその話を伺っていたから。
マスターの転身の理由に、奥さんが亡くなったことは関係があったのだろうか。
「他に、マスターにご家族は……?」
「いや……山根さんと、ヒック……伊織さんには、お子さんが、ヒック、いなくてね……。」
しきりに水を飲みながら、記憶を辿るように言葉を続ける。
「オレと貴弘は……そんな山根さんがカッコよく見えてね……、いつか、山根さんが、店を出したら……ヒック、二人で、山根さんの作った酒を、飲むんだ、って約束して……。」
だから――あの夜、二人は……。
たった一杯の約束のために、工藤刑事は刑事としての立場をも捨ててこの席に座っていたことを考えると――胸が押し潰されそうになった。
「二人で……大人の酒、ってヤツをさ……並んで、飲みたかったんだよ――
なぁ――マティーニ、ってヤツを、くれないか。
飲ませてくれ。」
マティーニ……。
何度か試してみたはいいけれど、納得のいくレシピを見つけられずにいた。
何より、今はフランシス・アルバートで一気に酔いが回っている。
潰れたい――全てを忘れるまで、酒に溺れたい気持ちは伝わる。
それでも、今のオレには――
「申し訳ありません…。
私はまだ駆け出しで、マティーニは――その、お出しすることができず……。
マスターが戻ったら、改めてお願いしましょう。
それまでの繋ぎに、別のカクテルはいかがですか?」
「ああ…そう、なのか…。
それなら、仕方ない、な。
任せるよ……。」
「かしこまりました。」
マスターももうそろそろ来るはずだ。
それまでは繋いでおきたい。
コリンズグラスを取り出す。
シェーカーを裏返して氷を組む。
ウイスキーを選ぶ手が迷って――ザ・グレンリヴェットを掴む。
45――いや、40mlを計り、メジャーカップを傾けてシェーカーに落とす。
氷が小さく鳴く音が聞こえる。
レモンを搾り、20ml。そして、シュガーシロップを2tsp。
ストレーナーを被せ、キャップを嵌め、両手で押さえ付けるように掴んで作業台に打ち付ける。二回。
左肩の前に構えて、CDの日本盤ボーナストラックが奏でる軽快なフラメンコのリズムに乗せてシェイクを始める。
スパニッシュ・ギターのどこか哀愁を思わせるメロディに乗せてニコラがLai lai lai, lai lai lai la……と声を震わせている。
そしてその歌声が閉じる前に――シェイクが終わる。
キャップを外したシェーカーから、細かい泡とフレークを纏わせた、少しだけ濁った琥珀が流れ出す。
ストレーナーを開け、中の氷をトングで摘んでグラスに落とす。
ソーダを取り出し、グラスに満たしてバースプーンで氷を持ち上げるように――二回。
CDが終わったと同時に、グラスを入れ替える。
「ジョン・コリンズです。どうぞ。」
氷が溶け出して、随分と薄くなったロックグラスの中身は、丸い氷の下で名残惜しそうに揺蕩っていた。そのまま作業台の隅に置く。
タンブラーグラスに残ったチェイサーも、もう飲み干されていた。
少しはリカバリーできたようだ。
瞼をしきりにしばたかせながら、少し大きなコリンズグラスを掴む。
ゆっくりと口に運び、喉仏を上下させる様を見届け、有線に切り替えようとして――ふと、あの曲が聴きたくなって、CDを探す。
映画音楽のサントラ集の中にあった、はず――あった。
ブツ、ブツと小さなノイズが混じりながら、ドゥリー・ウィルソンが歌い上げるAs time goes by。
その曲を流そうとして――バックヤードの換気扇が唸りを上げる。
途切れたBGMの中で、その音はいつもより大きく聞こえた。
ロッカーを開け、衣擦れの音が微かにカウンターに届く。
選曲して再生を押し、工藤刑事の前に戻る。
「工藤様、お待たせいたしました。」
その言葉に重なるように、コツ、コツ、と革靴の硬い底が床を叩く足音がして――マスターが姿を現す。
「フミト、ご苦労さん。問題なかったか?」
「お疲れ様です。
はい、まだ工藤様だけでしたし。」
「そうか。
おう、待たせたな――って、
フミト、どれだけ飲ませたんだ?」
工藤刑事がノロノロと焦点の合わない目でマスターを見ながらグラスを持ち上げ、何事かを呟く。
それは既に明瞭な言葉にはなっていなかった。
マスターが近付いてくる。
横にズレようと体を入れ替えた時――微かに、線香の香りが鼻腔の奥を撫でる。
――思わず、ついさっき聞いてしまった話が頭をよぎり、顔を逸らしてしまった。
伝票を確認チラリと確認する。
「なんだ、これで三杯目か――。」
工藤刑事を見て、上から下まで何度も視線を往復させ、眉を顰める。
「……馬鹿タレが。」
タンブラーグラスを取り出し、氷を組む。
そのまま、高速でのステアでグラスを急冷させ、その上からトニックウォーターを注ぐ。
もう一度、氷を下から持ち上げ、二回――最後にライムの皮を削り、折り曲げて液面に香りを飛ばす。
「正行。
そっちはもっとゆっくり飲め。
今はこいつを飲め。
あと、少し待ってろ。」
そう言って、返事を待つこともなくバックヤードへ向かう。
工藤刑事はマスターの出したトニックウォーターを握り、そのまま口に含んで――一気に飲み干す。
そのグラスがカウンターに置かれる前に、マスターが平皿にジャーキーを並べて戻って来る。
「少し塩分を摂れ。
しっかり噛んで食うんだ。」
言葉は厳しい――だけど、何処か――苦しそうな声色に乗せて、工藤刑事への思いが溢れていた。
空いたグラスに、もう一杯のトニックウォーターを注ぎ、今度はカットライムを搾りグラスにそのまま落とす。
「すみません…山根さん……。」
「少しは落ち着いたか、正行。
それを飲んだら帰れ。」
「マスター……、それはあんまりにも、」
つい口を挟むオレを横目で見て、マスターは小さく溜め息を吐き出す。
「ダメだ。
コイツはもう今日は飲ませられない。
――これ以上は潰れるだけだ。」
なんでだよ…!
工藤刑事は、マスターに話したいことがあったはずなのに…!
「でも!
せっかくマスターを待っていたのに…!
マスターの、マティーニが飲みたい、って!」
「ダメだ。」
とりつく島もない。
それでも、工藤刑事の気持ちを考えたら――
「……潰れるまで飲みたい、そんな夜だって、」
マスターはオレを見ようともせず、伝票を切り工藤刑事の前に差し出す。
「潰れたい夜があってもいい。
それでも、潰さないのが――
バーテンダーだ。」
お前はまだ、バーテンダーという仕事の重さを知らない。
マスターのその態度が、そう語っているように思えた。
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