世界5分前仮説

うつけのはな

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五分前の世界

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五分前の世界

第一章 — 起動音

午前七時三十分、光(ひかる)はいつものように目を覚ました。時計の針は静かに動き、窓の外は淡い朝焼けで満ちていた。
だが、手にしたスマートフォンの画面に表示された時間は、起き上がる前の記憶とわずかにずれていた。
五分ほど遅れていた。設定を直した覚えはない。

キッチンへ向かう途中、カレンダーに貼られた写真に目が留まった。古い海辺の家族写真。だがその奥行きに、湿ったインクの匂いが漂うような錯覚を覚えた。ページをめくる指先に、まだ乾ききっていないような感触があるように思えた。

職場に着くと、同僚の佐知(さち)がコーヒーを差し出した。
「昨日の会議で出た案、まとめておきました」
佐知は笑って付箋を渡した。だが付箋をめくると、そこに書かれた言葉はまったく意味を成さなかった。数字が整列しているだけで、文脈が欠けている。
光は付箋を元に戻し、机の引き出しにしまった。胸の奥で、説明のつかない違和感が大きくなっていくのを感じた。

昼休みに街を歩くと、聞き慣れたメロディが路地から流れてきた。子どもの歌のように幼く、しかし歌詞の一節が欠けている。
店の看板に書かれた年号は「1873」とあったが、塗料は新しく乾いていた。ワインの瓶のラベルには古い創業年が印刷されているが、瓶のコルクは新品のように膨らんでいる。

夕方、自宅の机に座った光はノートを開いた。紙の表面には過去の出来事が走り書きされている。しかし文字の端々に、消えかけた痕跡が見えた。まるで筆跡が最初から揺らいでいたかのようだ。
思い出そうとすると、断片が手から滑り落ちた。五分前に置いたはずのペンが、今は違う場所にある。

「もしや」と光は考えたが、口には出さなかった。思考は音にならず、ただ胸のなかで固まった。



第二章 — 記録

夜になり、眠れない光は古い日記を取り出した。母が残したものだ。ページをめくると、母の筆致は確かだった。
子どもの遊び、雨の日の台所、初めての自転車──しかし、ページには測れぬ精度で「今」が刻まれている。日記の一行が示す出来事は、いま起きたばかりの出来事と重なっていた。

光はページをめくる手を止めた。日記の最後に、短い一文があった。

「すべては新しい。安心して。」

その言葉を指でなぞると、紙がわずかに温かい気がした。
光は日記を閉じ、時計に目を向けた。秒針が規則的に刻まれる音が、妙に大きく聞こえる。窓の外の世界はいつもどおりに回っているように見えるが、細部がずれていた。人々の会話はところどころ途切れ、過去を示す物が過剰に整えられているように感じられた。

翌日、光は図書館へ向かった。古い新聞のマイクロフィルムを映写すると、記事の日付と内容は合致しているのに、写真の中の人々の表情が一様に無垢だった。
記事の言葉は意味を伝えているが、裏にある時間の厚みが無い。

光はノートに小さな円を描き、その中に問いを書いた。
だが問いは自分へ向けることができなかった。ノートの端に、見知らぬ文字が現れては消える。インクは確かに乾いているのに、その渦のような痕跡は今ここで生成されたもののようだった。



第三章 — 他者

やがて光は、この違和感を共有する人間がいることに気づいた。
美雪(みゆき)──図書館で同じ棚の本を手に取ったとき、二人の視線が重なった。彼女の瞳は若いのに、どこか疲れていた。

「世界が、変です」
小さく呟くその声には確信があった。光は頷いた。説明はいらなかった。

美雪は語った。彼女の周囲の人々は動作がぎこちなく、過去の話になると口元が固まる。
彼女はポケットから写真を取り出した。古い建物の前に立つ父の姿。その隅に、白い光が滲んでいた。そこには不連続があった。

二人は街を歩き、ささやかな異常を集めた。
消えかけのポスター、会話から抜ける単語、歴史的な銘板の新しい傷。
断片を並べると、一つの仮説が立ち上がった。

「すべてが、ある瞬間に“整えられた”のではないか」

光は否定できなかった。だが言葉を越えた恐れがあった。
もし世界が一瞬前に生まれたのなら、誰がそれを決めたのか。記憶と物証は、どのようにして同時に作られたのか。



第四章 — 対価

二人は答えを求め、さらに深く掘り下げた。
古い時計職人の店、地質学者の論文、教会の地下倉庫──どれも整然としているのに、どこか“演出された”痕跡を感じた。
化石は層に埋まっているが、周囲の土が乾きすぎている。木の年輪は美しいが、成長の荒さが無い。

「もし作られたのなら、理由があるはずだ」と光は言った。
美雪は黙って頷いた。
彼らは思った。世界を“安定”させるために、何かが犠牲になったのではないか。

その夜、光は夢を見た。灰色の広間に機械が並び、無数の歯車が音もなく回っている。
その一つひとつが「今」を刻み、過去は薄布のように引き裂かれ、細い手がそれを縫い直していた。
機械のそばに黒いスーツの男が立っていた。顔は見えなかったが、存在は冷たかった。

目覚めると、手のひらに血のような跡があった。
美雪も同じ夢を見たと言った。二人は震えながら確信した。
夢は、単なる夢ではなかった。



第五章 — 選択

二人の探索は噂になった。嘲笑する者、恐れる者、無関心を装う者。
それでも少数の仲間が増え、一つの問いを共有した。

「もしこれが真実なら、どうする?」

選択は二つ。
真実を暴き、世界の根本を問い直すか。
あるいは沈黙を守り、安寧に留まるか。

「真実は痛みを伴うでしょう。でも、それが私たちの自由を取り戻す鍵かもしれません」
美雪の言葉に、光は沈黙した。安寧は魅力的だった。だが母の日記を思い出す。

「すべては新しい。安心して。」
その優しさの裏に、見えない意志を感じた。安心は真実と同義ではない。



第六章 — 接触

雨の晩、光と美雪は地下鉄の終着駅で待ち合わせた。
そこに、背の高い男が現れた。黒いコートの襟を立て、瞳は深く落ち着いていた。名刺には一行だけ——

「保全局」

「世界の整合性を守る部局です」
男の声は穏やかで、どこまでも理性的だった。

「皆さんは気づいた。不整合を。申し訳ないが、これは設計上の措置です。我々は秩序を維持しています。混乱を招くことは望みません。」

光は黙って男を見た。美雪の指が震える。

「真実の開示は、精神的安全保障の観点から推奨されません。」

男はそう言って微笑み、去っていった。雨音だけが残る。
光は美雪を見つめ、「私たちは、自分たちで決めなければなりません」と静かに言った。



第七章 — 生成の前

二人は決意した。保全局を暴くのではなく、自分たちの記憶を残すことを。
古い教会の地下室に集まり、蝋燭の灯の下で互いの記録を口述した。
写真を撮り、紙に書き、番号をつけて箱に入れる。箱の上には一行だけ記した。

「五分前を越えるための記録」

箱は夜明けに埋められた。結果を望まず、ただ自分たちの存在を刻むために。
もし未来の誰かが掘り出すなら、そこに彼らの声が残る。
たとえ世界が再生成されても、どこかに真実の断片が残ることを信じて。



終章 — 受容

時は流れ、世界は変わらなかった。
街は同じ調子で回り、人々は日常へ戻った。

光は歩きながら、夢で見た機械の音を思い出す。
胸の奥の違和感は消えないが、それはもう恐怖ではなかった。

美雪は旅立った。「自分なりの真実を見つける」とだけ言い残して。
光は箱のことを思い出し、微笑んだ。
それは抵抗でも革命でもない。ただ、静かな証しだった。

ある夕暮れ、光は母の日記を取り出した。最後のページの「安心して」という言葉を見つめ、筆を取り、ゆっくりと書き添えた。

「真実は短くとも、確かに、ここに在る。」

インクは乾いた。
窓の外の世界は、変わらず輝いていた。

光は夜気を吸い込み、歩き出した。
行き先は決まっていなかった。だがそれでよかった。

選択こそが、生を形づくる。

—終—
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