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第2章
第10話
しおりを挟む大空を切り裂き、黄金の翼が舞う。
竜の峰と呼ばれる山地を目指して。
セシル商会が居を構える群都タイモールからは、徒歩だと一月以上かかるらしいが、黄金竜の翼ならば三日とかからずに到着できる。
「すごい眺めだな。これは」
マルドゥクの巨大な背に乗ったナイルが呟いた。
高度は二百メートルほど。
地上からまったく見えないほどの高さではないが、わざわざそんな空の彼方を見上げる物好きはいないだろう。
「ニッポンでは、空を飛ぶ手段はなかったの?」
不思議そうにセシルが訊ねた。
とても文明の進んだ世界である。空くらい簡単に飛べるのではないかと思ってしまう。
「あったけどな。こうやって風を感じながら飛ぶっていう経験はないさ」
飛行機、ヘリコプター。
どちらも素人に操れるものではないし、密閉された空間である。
ハングライダーや気球などには、そもそも乗ったことがない。
「金もなかったしな」
空も海も開かれた世界ではない。
そもそも金がなくては旅行を楽しむことなどできないのだ。
「世知辛いねー」
「規模がでかくなっただけで、あっちもこっちも中身はあんまり変わらないな」
眼下に広がる風景。
どこまでも広がる草原は緑に輝き、怠惰な蛇のようにうねる街道が遠くへ遠くへと続いている。
エオスの大地。
少年が思い描くファンタジー世界そのままの光景。
そこには日本のような便利な暮らしはない。
清潔な街並み、栄養価の高い食事、充実した教育、安全な暮らし、溢れかえる情報、そんなものは何ひとつ存在しなかった。
共通して存在するのは、貧困。
明日の食べ物の心配しなくてはいけない生活。
それだけだ。
「まあ文明が進んだって、人間って種族そのものが成長するわけでもないしねー」
「もっともだ」
移動手段や通信手段が発達し、地球はどんどん狭くなってゆく。
だが人間は成長しない。
世界のどこかではいつだって戦争をしているし、平和で豊かだといわれる日本だって事件や事故のニュースに事欠かない。
それどころか、生活困窮から餓死する者までいる。
誰も泣かない世界なんて、たぶん絶対に作れない。
「けど、それが人の姿だと思うよー」
野心に身を焦がし、弱者を踏みにじり、それでも高みを目指す。
人のありよう。
全員が聖人君子貞婦になってしまったら、それはそれで気色の悪い世界だ。
「セシルにも、なにか野心があるのか?」
「んー? どうかなー?」
小首をかしげる赤毛の少女。
風がさらさらと赤毛をなびかせる。
「夢はでっかく、王様とか?」
「そりゃ壮大だな」
ナイルが笑う。冗談口と解釈したように。
「黙ってれば、国の半分くらいはもらえたかもなんだけどねー」
「なんだそりゃ?」
「あたしお姫様なんだよー」
「おいおい……」
「なんてー 女の過去なんて話す男によって変わるものなのさー」
冗談めかしてセシルが笑った。
からかわれたと悟り、ナイルが仏頂面を浮かべる。
徐々に高度を下げてゆくマルドゥク。
夕暮れという時間ではないが、陽はやや傾いている。
夜は飛ばない。
黄金竜にとって、べつに宵闇は怖れるべきものではない。
ただ、不眠不休での飛行は背に乗っている二人が参ってしまうから。
街道から少し離れた草原に、ドラゴンロードが着陸した。
少年と少女が飛び降りるのを待って、幼女の姿をとる。
「お疲れさまでした。お師匠さん」
「うむ」
ひとつ頷き、ナイルを手招いて抱き上げさせる。
幼女状態では歩幅も小さいため、行動速度を合わせるには誰かが抱えた方が良い。
「でもそれって、マルドゥクが成人に変身すれば解決する問題なんじゃないか?」
「そして知人と出会い、それは誰だ、という話になるのじゃな」
「あー」
「少しは考えて発言するのじゃ。ナイルよ。リカバリが容易いからといって、わざわざ面倒を背負う必要はない」
セシルはそれなりに名の知れた冒険者だし、トレードマークの赤毛はとにかく目立つ。
男連れなのだから、なおさらだ。
この上、さらに目立つ要素を追加する必要があるのか、という問題である。
いちいち説明が必要な関係を装うより、里帰りする姉妹と護衛の冒険者という、誰の目にも判りやすい構図を見せた方がよい。
「と、もっともらしいことを言ってますけど、お師匠さんは自分で歩くのが嫌なだけですよね」
くすくすとセシルが笑う。
幼女は否定しなかった。
「まあいいさ。マルドゥクは昼間がんばってくれたんだし、抱いて歩くくらい何も問題ない」
ナイルだって伊達に身体を鍛えてきたわけではない。
十歳くらいの女の子を抱えたところで、さほど負担になるわけではないのだ。
「良い子じゃな。ナイルは。褒美に新米をサービスしてやろう」
「新米っ!?」
「うむ。そろそろ一期目の収穫が終わっているじゃろうからの。それに、当日の朝に採卵した玉子をつけて、醤油は本醸造の特級品じゃ」
歌うように告げる金竜の淑女。
日本にいたってそう滅多にできない贅沢だ。
我知らずナイルの腹が鳴る。
「たぎるな……それは」
「楽しみじゃのぅ」
「何をそんなに期待しているのか、あたしにはさっぱりですね」
夢幻の園へと旅立とうとする二人を促し、街道にでるセシル。
人の姿はほとんどない。
もうすぐ夕暮れだから。
ランタンの光を頼りに夜道を急ぐ旅人、などというものはほとんど存在しない。
闇は、人間のテリトリーではないのだ。
「日が暮れないうちに宿場に入ってしまいましょう」
セシルの声に緊張感は含まれていなかったが、いつもの間延びした口調ではそれ以上になかった。
軽く頷き、ナイルがやや足を速める。
ゆっくり歩いても木戸が閉まる刻限までには充分間に合うが、疲労があるわけでもないのだから、急がない理由はない。
「宿場の飯はどうかのぅ? 美味いものが出れば嬉しいのじゃが」
姫抱きから移動して肩車の状態になったマルドゥク。
すでに心は夕食のことでいっぱいだ。
「期待薄ですよ? お師匠さんの作る料理に比べたら」
「我と比べるのは、いささか公平さに欠けよう。人の生などせいぜい七十年。そのうち幾年を修行に費やせることか」
なので、マルドゥクは不味い料理でもちゃんと食べる。
食通のように、ああだこうだと文句をつけることもしない。
セシルが作った、さほど上手ではない料理でも残さずに食べてくれる。
感想を求められた場合のみ、塩加減や火加減についてアドバイスをする程度である。
優しいのか突き放しているのか、良く判らない師匠なのだ。
「誰かが作った料理を食すというのは、それだけで心が躍るものじゃ。美味い不味いは、それほど重要ではない。むろん、どちらかというならば美味い方が良いがの」
「なんか徳の高い聖者みたいだな。マルドゥクは」
感心したように呟くナイル。
誇り高きドラゴンロードなのに、人間に対してとても理解がある。
竜種というのは、もっとこう、上から見下すような存在かと思っていた。
「千年も生きていればの。多少のことで腹を立てたりはしなくなるものじゃ」
「そういうもんか?」
「ああ。怒ったり仲違いしたりするには、人の生は短すぎるからの」
時間がもったいないじゃろうと笑う。
せっかく知り合った命短きもの。
未熟な彼らにいちいち腹を立てていては、親睦を深める機会を逸する。
「なんといったかの。ニッポンでは一期一会とかいう言葉があるそうじゃ」
この人とは一生のうちに、もう二度と会うことはないかもしれないのだから、今このときの出会いに感謝して大切にしよう。
というほどの意味である。
「良い言葉ですね。お師匠さん」
「そうじゃな。ゆえに我は感謝しておるよ。セシル。汝に出会えたことも、ナイルという知己を得たことも」
「感謝している割には、あたしオシオキされること多くないです?」
「それは汝が愚か者だからじゃな」
ナイルの肩の上。
黄金の竜王がからからと笑った。
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