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古代から中世へ
古代から中世へ 縄文の人口増加と減少
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縄文期の中期までの人口増加は、「定住生活」の確立による、比較的安定した食糧供給事情によります。また、7300年前に鬼界カルデラ破局噴火によって、大きな被害を受けたこともあって、日本の人口は、東国が多く西国が少ないという状況が続きます。縄文草創期から中期までの1万年ほどは、東国が文化文明の中心であったのです。縄文期は、石器時代ですから、石器の採掘地域、加工技術・技能の集積された地域が、文化文明の中心であったのです。
6500年前から6000年前をピークとして、地球環境の温暖化が進み、「縄文海進」と呼ばれる海面上昇が発生し、現在の海面が5mほど上昇しました。縄文期の人口増加は、こういった環境条件がもたらしたものでもあります。
縄文後期から弥生にかけて、人口減少がみられます。これは、4300年前から徐々に寒冷期に推移し、日本の植生が変化して言った時期と重なります。おそらくは、職制の変化により、「定住生活」の技術・技能が大きく変化し、対応できた地域と出来なかった地域があり、結果として人口減少が発生したとされています。
寒冷期そのものが継続する、縄文晩期には、人口が増加に転じていることから、陸稲や水稲を含めた「定住生活」の技術・技能が確立していったのが、縄文晩期から弥生期でありました。
“甲元眞之、2008、「気候変動と考古学」『文学部論叢』第97 号、1-52 頁、熊本大学文学部:熊本”によると、寒冷化現象は、紀元前3000年以降では、2170年(4189年前)、1800年(3819年前)、1450年前(3469年前)、1200年前(3219年前)、750年前(2760年前)、350年前(2369年前)にピークがあったと報告されている。
皇紀元年は紀元前660年と推定されていて、紀元前750年前のピークから紀元前350年前のピーク間に、皇紀紀元が来ることになる。この時期に、筑紫から畿内への移住が行われたということになる。日向から分かれたのが7300年前として、2760年から2369年前の間に、筑紫畿内が分かれたことになる。
当初、弱小勢力であった畿内は、河内湖周辺を拠点として、大規模な人員動員を可能とした土木工事や治水工事、墾田開発を遂行する能力を見せることで、畿内に生存圏を確保した。河内湖は、縄文海進で海中に没しへ、大和川や寝屋川といった生駒山系の川が流れ込んで、形成していった湖である。海進が後退していく中で、汽水域となり、葦原が覆い茂るようになって、葦原中ツ国の様子が見られるようになったのが、畿内が登場した時期の河内湖周辺の状況でありました。
記紀の伝承が、天孫降臨からが日向の頃で、筑紫に分かれたのが、山幸彦と海幸彦の頃であり、7300年前の鬼界カルデラ噴火時期であったとしている。山人と海人が、相互に助け合いながら、日向を従えて、5000年近くをかけて、筑紫を征覇していった。
人口の増加が、一定数以上になれば、食料の確保が難しくなり、新天地を求めなければならなくなる。人口の増加と寒冷化が、人口の減少を招き、2700年程前に起きた“東征”の原因となった。「出雲」や「備ノ国」の勢力圏では定住できず、難波の上町台地あたりに辿りつき、河内湖岸に居留地を確保できた。これは、先に述べた、縄文海進から寒冷期の後退に転じていて、河内湖周辺の水位が下がり新たな土地が生まれていたという“理由”が大きい。
琵琶湖線に乗っていると、川にかかる橋をいくつも越えていく風景が見られる。琵琶湖へと注ぎ込む川岸に堤防が作られているが、その内側(河川が増水時に水没する地域)に、建物や畑を見ることができる。つまり、安定した土地ではなく、常に氾濫が起きやすい危険地帯が、畿内の始まりとなった。治水灌漑、墾田開発事業は、最重要項目であった。
畿内が、勢力を拡大するのは、治水工事を遂行するとこで、土地無き土地を開墾できるようにして、食料生産力を確保したのである。治水事業や開墾事業を遂行する、大規模な人員動員や命令系統を確立するための組織整備能力が、畿内の強みであり、最大の技術・技能であった。
縄文の終焉、弥生の始まりの中で、知識・技術・技能を使った、建国と勢力圏拡大に成功したのが、畿内ということになる。河内を中心とし、川筋に勢力圏を拡大していった。民から労務を提供させることで、治水や開墾事業を進め、完成した田圃や畑を労務者に報償とする。これが、畿内のビジネスモデルである。
治水、開墾事業については、周辺豪族の協力を取り付けることで、人員を確保し、動員体制を確立していくこととなる。自分の部族だけでなく、周辺諸部族との連携による、動員体制拡大と墾田開発の推進は、畿内一帯の国力を増強し、「大王」と呼ばれる権威を確立していったのである。
血の契りを交わしつつ、各地で墾田開発をすすめることで、「大王」の地位確立を図っていったのである。
6500年前から6000年前をピークとして、地球環境の温暖化が進み、「縄文海進」と呼ばれる海面上昇が発生し、現在の海面が5mほど上昇しました。縄文期の人口増加は、こういった環境条件がもたらしたものでもあります。
縄文後期から弥生にかけて、人口減少がみられます。これは、4300年前から徐々に寒冷期に推移し、日本の植生が変化して言った時期と重なります。おそらくは、職制の変化により、「定住生活」の技術・技能が大きく変化し、対応できた地域と出来なかった地域があり、結果として人口減少が発生したとされています。
寒冷期そのものが継続する、縄文晩期には、人口が増加に転じていることから、陸稲や水稲を含めた「定住生活」の技術・技能が確立していったのが、縄文晩期から弥生期でありました。
“甲元眞之、2008、「気候変動と考古学」『文学部論叢』第97 号、1-52 頁、熊本大学文学部:熊本”によると、寒冷化現象は、紀元前3000年以降では、2170年(4189年前)、1800年(3819年前)、1450年前(3469年前)、1200年前(3219年前)、750年前(2760年前)、350年前(2369年前)にピークがあったと報告されている。
皇紀元年は紀元前660年と推定されていて、紀元前750年前のピークから紀元前350年前のピーク間に、皇紀紀元が来ることになる。この時期に、筑紫から畿内への移住が行われたということになる。日向から分かれたのが7300年前として、2760年から2369年前の間に、筑紫畿内が分かれたことになる。
当初、弱小勢力であった畿内は、河内湖周辺を拠点として、大規模な人員動員を可能とした土木工事や治水工事、墾田開発を遂行する能力を見せることで、畿内に生存圏を確保した。河内湖は、縄文海進で海中に没しへ、大和川や寝屋川といった生駒山系の川が流れ込んで、形成していった湖である。海進が後退していく中で、汽水域となり、葦原が覆い茂るようになって、葦原中ツ国の様子が見られるようになったのが、畿内が登場した時期の河内湖周辺の状況でありました。
記紀の伝承が、天孫降臨からが日向の頃で、筑紫に分かれたのが、山幸彦と海幸彦の頃であり、7300年前の鬼界カルデラ噴火時期であったとしている。山人と海人が、相互に助け合いながら、日向を従えて、5000年近くをかけて、筑紫を征覇していった。
人口の増加が、一定数以上になれば、食料の確保が難しくなり、新天地を求めなければならなくなる。人口の増加と寒冷化が、人口の減少を招き、2700年程前に起きた“東征”の原因となった。「出雲」や「備ノ国」の勢力圏では定住できず、難波の上町台地あたりに辿りつき、河内湖岸に居留地を確保できた。これは、先に述べた、縄文海進から寒冷期の後退に転じていて、河内湖周辺の水位が下がり新たな土地が生まれていたという“理由”が大きい。
琵琶湖線に乗っていると、川にかかる橋をいくつも越えていく風景が見られる。琵琶湖へと注ぎ込む川岸に堤防が作られているが、その内側(河川が増水時に水没する地域)に、建物や畑を見ることができる。つまり、安定した土地ではなく、常に氾濫が起きやすい危険地帯が、畿内の始まりとなった。治水灌漑、墾田開発事業は、最重要項目であった。
畿内が、勢力を拡大するのは、治水工事を遂行するとこで、土地無き土地を開墾できるようにして、食料生産力を確保したのである。治水事業や開墾事業を遂行する、大規模な人員動員や命令系統を確立するための組織整備能力が、畿内の強みであり、最大の技術・技能であった。
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