日ノ本の歴史 始まりの話

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「国号・国体」成立

日本成立 「行基」は、中央官僚の私的機関員?

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 仏教の浸透には、もう一つの仕掛けがありました。「行基(668-749)」が、地方を巡ることで、治水土木事業や福祉医療行為を行い、困窮者のための布施屋を設置するといった、福祉事業を展開していました。民衆への仏教伝承は違法であり、行基の行動そのものは、罪に問われることでもありました。

 行基の行動は、中央政権にとっては、国家体制の秩序を乱すものであった。地方政権にとっては、墾田開発の推進、溜池の設置等による生産量の拡大、民間による社会福祉事業推進という効果があり、歓迎する内容となっていた。地方豪族に受け入れられた行基は、国家体制秩序を守る側の立場として、地域の福祉体制を確立させていったのである。

 中央政権からすれば、歓迎すべきことではないし、「僧尼令違反」に問われたとあるが、実質として罪に問われたことはなく、地域に仏教が浸透する貢献をおこなった。

「日本国現報善悪霊異記」が民間伝承で語られたのは、「国号・国体」の確立期であり、「行基」の活動結果であったともいえます。
「日本国現報善悪霊異記」で語られる、「善因善報、悪因悪報」は、行基の説話で用いられた「因果罪福」と繋がります。





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 国家の権威を示すための仏教から民間宗教への変化は、国家仏教の確立期に始まっています。
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 聖武天皇の御世、国家主導による社会福祉事業は、皇后(701-760)によって確立されていきます。困窮者への支援として「悲田院」を建立、医療施設として「施薬院」を建立しています。らい病患者の膿を、自ら吸ったとされることは、伝説として伝えられて、国立ハンセン病療養所「邑久光明園」と命名されています。
 仏教の伝播が、国家主導でおこなう先頭で活動されたのが、光明皇后であり、支援していたのが聖武天皇ということになります。

 行基(668-749)
 皇后(701-760)

 国家主導は、「記紀」の記述だけでなく「風土記」の記述にも現れています。地誌としての性格から、政治的な話は記載していませんが、地域伝承については記載されているのが「風土記」となります。それでも、国府によって編纂されている以上は、ある程度のフィルターがかかります。

 民間主導で仏教伝承されたのが、「日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)」であり、纏められたのが800年代に入ってからとなります。800年以降は、僧侶であったとしても、一般庶民が文章を記述できる程度まで、教育宣伝が進んだということになります。国分寺そのものは、経費がかかることもあり、中央の財政が苦しくなれば、移転等によって民間活用され、民間教育宣伝機関ということになります。
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