軌跡

ななち

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軌跡③

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「………え?」
「え?だから、藤原は転校しましたよ。」
「……そう、なんですか?」
「えぇ。春にね、父親を亡くしたんです。それで、母方の実家に帰ることになったそうです。」

 2学期に入り、しばらくしてから。
 気恥ずかしくて避けていた『生徒』を、全く見ないと気がついて、彼の担任に声をかけたら、あっさりとそんな言葉を返された。

「大人しい子でしたから、心配ですね。新しい場所でも、うまくやっているんでしょうか…。」
「……大丈夫ですよ、あいつなら。」
「え?」

 俺と一緒に、山を登ったあいつは。
 山の頂上へ向かうきつい坂道で、フラフラになった俺の手を黙って引いてくれた。
 昇る朝日に目を奪われ、その眩しさに大泣きしだした俺に、黙ってハンカチを差し出してくれた。

「あいつ、大人しくなんかないし。」

 何も話さないけれど、あいつの歩みは力強かった。

「多分、ああ見えて、優しい奴ですし。」

 励ましの言葉もなかったけれど、困っている人に手を貸してやれるような奴だ。

「俺なんかより、ものすごくしっかりしていますから。」

 ハンカチを差し出す彼の表情は、ぼやけていてよく見えなかったけれど。
 泣いている生徒を見つけた俺の内心なんかよりは実に大人な対応をしていたと思う。

「……藤原と交流があったんですか?先生は。」
「あぁ~~。まぁ、少しだけですが。」
「そうですか。そういえば、よく藤原も増田先生のことを見ていましたしねぇ。」
「………。…え?」
「あれ?だから声をかけてくださったんじゃないんですか?生徒たちと楽しそうに話をしているあなたのこと、よく見てましたよ、藤原は。」
「…………。」

 まともに話したことなんて、正直いって、ない。
 問題を起こさない、大人しい藤原は、俺の中では『あの日』の問題行動以外、印象は薄い生徒だった。
 授業を受け持ったことはあるけれど、担任になったことだってなかったし。

「…あ、でもそうなると、転校のことを話していなかったっていうのも変か…。」
「ははっ、そうですよ。俺、そんなに藤原と仲が良かったわけじゃありません。」

 これは事実だ。

 藤原が俺を見てくれていたのだとしても、俺はその視線には気付いていなかったし。
 山を登った『あの日』以降、交流が深まったわけでもない。

 あの山を降りた瞬間から、俺たちは『教師』と『生徒』に戻ったのだ。

「まぁ、でも。増田先生がおっしゃるなら、大丈夫なんでしょうね。藤原は。」
「え?」
「だって、『大人しくなくて』、『優しくて』、『しっかりした』子なんですよね?それなら、母親を支えて立派な大人になってくれますよ。」
「………そう、でしょうか?」
「あははっ、さっきそう仰ったのは、増田先生じゃないですか。」

 楽しそうに笑う、藤原の元担任。30代後半のこの男性教員を、俺は少しだけ苦手としていた。
 俺と違い、生徒たちに真摯に向き合う姿勢をみせる姿が、まるで俺を責めているようだったから。

「僕の印象とは全然違う藤原のこと、教えてくれてありがとうございました。」
「…いいえ、とんでもない……。」
「藤原は、本当に『良い生徒』でしたからね。その分、僕が気にかけてあげられる時間は少なかった。」
「…………。」

 藤原のいたクラスには、問題行動をする生徒や、家庭内に複雑な事情を抱える生徒がいた。その対応に追われている先生の姿を、「大変そうだな…」と他人事のように見ていた。

「正直、あなたに嫉妬もしています。あなたは僕に持っていないものをお持ちですから。」
「いえ、先生は立派な教師ですし、俺なんて、若いだけが取り柄ですから…。」
「その若さもまた、武器なんですよ。…今のあなたにこんなことを言っても、ご理解いただけないと思いますがね。」
「は、はぁ……。」

 苦笑して見せた後、先生は俺に真剣な目を向けてきた。

「今度、よかったら藤原の話を聞かせてもらえませんか?」
「え?いや、でも…。俺、本当に何もしていませんし、あいつから何か聞いたわけじゃないですし……。」
「いいんですよ。」

 にっこりと笑った先生は、いつもの俺の先輩教師という風ではなく、まして完璧な姿勢で生徒や他の教員と向き合う姿でもなかった。

「むろん、教師として、生徒の不利になるようなことは口外するつもりはありません。ですが、僕はあなたと教師としてではない、ただの人間として話をしたいんです。」
「え……?」
「僕らも人間ですから。教師なんて言っても、いつでも迷いと不安の連続です。」
「…………。」
「僕はね、それを生徒や他の先生に見せないのが『プロ』だと思うんです。そういう意味でも、増田先生のことは素晴らしい先生だと思っています。だからね?ぜひ、あなたが見た『藤原』を教えてくださいませんか?」

 にこにこと、穏やかな笑顔を浮かべる先生。
 その笑顔は、俺を導いてくれた先生によく似ていた。

「……はい。ぜひ。」

 そして、唐突に分かる。

 俺がこの先生をあまり好きじゃないと感じていたのは、彼が『教師』というプロであったためで。
 俺が慕った先生のことを今でも大好きなのは、あの人が『教師』としては不出来な『人間』だったからなのだ。

「それにほら。藤原、もう他校の生徒なんでね。」
「え?」
「だから、僕達にはもう関係ない子じゃないですか。別にどんな悪さをしていても、それはもうあちらの学校の先生方に対処していただいたらよろしい。」
「…………。」
「そうでしょう?」
「……ははっ………。」

 完璧と信じていた先輩教員の、思わぬ無責任発言に、俺は笑うことしかできなかった。

「では、近々。僕、結構良い店知っているんですよ。奢りますよ?先輩ですし。」
「あははっ、ここで先輩風を吹かせるんですか、先生。」
「そりゃあね。一応年長者ですし。先生なら、そういう時、うまく乗ってくださるでしょう?」
「はは…よくお見通しで。では、ご馳走になります。」

 同じ仕事に就く人間と飲みに行くことがこんなに楽しみだったことは初めてだ。
 そして、俺と先輩教員の内緒の飲み会は、先輩の完璧なスケジュール調整ですぐに実現することになる。
 その時、語った俺と藤原の物語に、彼はひとしきり大笑いした後にこう言った。

「教師としては失格ですが。人として、僕は好きですよ?あなたのような大人は。」

 「でもね、そういうことを目撃した場合には…」と、続いた先輩教員の指導は、残念ながら俺の耳に入ってはこなかった。
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