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エピローグー8
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続いて彼女の尻に、後ろのふすまが開く振動がした。楓が振り返ると、ワイシャツに礼服のズボンの、背の高い若い男が立っていた。
楓にはその男の正体が分からなかった。正確には、考えたり思い出したりする力が欠如していた。
男は楓に向かって前進を続ける。楓は尻に伝わる振動で、さっきの振動の主と同じ人物だと理解した。
男は楓の視線に合わせるように腰を落とすと、シャツの胸ポケットから何かを取り出した。縦長の黒い革製の手帳のようなもので、男はそれを中身が楓に見えるように開いた。
『愛知県警巡査 橋本隆』
手帳には男の顔写真とともにそう書かれていた。
楓が顔を上げると、男は少しぎこちなく微笑んでいた。そして男は手帳をポケットに戻し、手話を用いてこう伝えた。
一緒に暮らそう。
楓の人生で最も嬉しかった瞬間だった。
次に地主の金田が見たのは、自分の右腕に楓を抱きつかせながら出てきた橋本隆の姿だった。彼の目線は乗ってきた軽自動車にのみ向けられており、様子を見に駆けつけた、今日まで楓を世話してきた住民のことをまったく気にしていない様子だった。彼に抱きつく楓は、集落の人間が今まで誰も聞いたことのない声量で泣いていた。橋本隆は集落の誰にも何も言わずに楓を車に乗せ、足早に名古屋へと帰っていった。これがこの集落の住人が最後に見た二人の姿だった。
その後名古屋に戻った楓は、隆が事前に探しておいた、氷川智成が在籍するろうあ者支援団体を紹介され、すぐに就労に必要な簿記やパソコンの使い方を勉強させてもらった。支援団体の人々は、楓が健常者と違うことを認識しながらも、誰もそれをメリットのないただのハンディとして見ていなかった。耳が聞こえないからできないことを誰かにやってもらうこと。その代わりに自分にできることを探してやること。この当たり前のことを、楓は人生で初めて彼らから教えてもらった。
住む場所は、兄妹の願いを聞いた氷川が、自分が管理するアパートの一室を用意してくれた。隆は、自分はリビングのソファを寝床にして寝室だけは別々にすることを決めたが、それと仕事先以外は常に一緒にいると楓に約束した。
その後の二人は、六年という長すぎる時間を埋め合わせるように、忙しい警察官の仕事の合間に時間を見つけては色々な場所へ遊びに出かけた。水族館、動物園、字幕つきの洋画が流れる映画館、古書店、海水浴場、高原。二日以上の長期の休みを利用して北海道や沖縄にも行った。行っていないのは金銭的な問題が立ちはだかる海外くらいだった。
二〇一七年三月三日午前十時。仕事に向かう兄を送り出した後で、楓は部屋の掃除と洗濯物を済ませると、いつもと同じ道を歩いて仕事場へ向かった。
楓にはその男の正体が分からなかった。正確には、考えたり思い出したりする力が欠如していた。
男は楓に向かって前進を続ける。楓は尻に伝わる振動で、さっきの振動の主と同じ人物だと理解した。
男は楓の視線に合わせるように腰を落とすと、シャツの胸ポケットから何かを取り出した。縦長の黒い革製の手帳のようなもので、男はそれを中身が楓に見えるように開いた。
『愛知県警巡査 橋本隆』
手帳には男の顔写真とともにそう書かれていた。
楓が顔を上げると、男は少しぎこちなく微笑んでいた。そして男は手帳をポケットに戻し、手話を用いてこう伝えた。
一緒に暮らそう。
楓の人生で最も嬉しかった瞬間だった。
次に地主の金田が見たのは、自分の右腕に楓を抱きつかせながら出てきた橋本隆の姿だった。彼の目線は乗ってきた軽自動車にのみ向けられており、様子を見に駆けつけた、今日まで楓を世話してきた住民のことをまったく気にしていない様子だった。彼に抱きつく楓は、集落の人間が今まで誰も聞いたことのない声量で泣いていた。橋本隆は集落の誰にも何も言わずに楓を車に乗せ、足早に名古屋へと帰っていった。これがこの集落の住人が最後に見た二人の姿だった。
その後名古屋に戻った楓は、隆が事前に探しておいた、氷川智成が在籍するろうあ者支援団体を紹介され、すぐに就労に必要な簿記やパソコンの使い方を勉強させてもらった。支援団体の人々は、楓が健常者と違うことを認識しながらも、誰もそれをメリットのないただのハンディとして見ていなかった。耳が聞こえないからできないことを誰かにやってもらうこと。その代わりに自分にできることを探してやること。この当たり前のことを、楓は人生で初めて彼らから教えてもらった。
住む場所は、兄妹の願いを聞いた氷川が、自分が管理するアパートの一室を用意してくれた。隆は、自分はリビングのソファを寝床にして寝室だけは別々にすることを決めたが、それと仕事先以外は常に一緒にいると楓に約束した。
その後の二人は、六年という長すぎる時間を埋め合わせるように、忙しい警察官の仕事の合間に時間を見つけては色々な場所へ遊びに出かけた。水族館、動物園、字幕つきの洋画が流れる映画館、古書店、海水浴場、高原。二日以上の長期の休みを利用して北海道や沖縄にも行った。行っていないのは金銭的な問題が立ちはだかる海外くらいだった。
二〇一七年三月三日午前十時。仕事に向かう兄を送り出した後で、楓は部屋の掃除と洗濯物を済ませると、いつもと同じ道を歩いて仕事場へ向かった。
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