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Kapitel 05
受難 04
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ビシュラが目を覚ましたとき、全身を柔らかいものに包まれていた。風を感じることはなく冷たくも寒くもなく、両肩がじんわりと温かい。柔らかいものは、肩までかけられた羽毛布団の感触だ。
パチパチッと暖炉にくべられた木が弾ける音が聞こえ、温かさを嵩増しする。雪原の冷気と比較して屋内の暖かさは別世界であり、ビシュラの体は正常な感覚を取り戻した。指先の痺れは消え、身体は動かそうと思えばすぐにでも動かせる。
此処は何処だっけ、と起き抜けの頭で現時点に至った順序を思い出そうとしてみた。最後に覚えているのは雪の上に倒れたこと。しかし、今はベッドの上に横たわっているのは何故だ。意識も無いのに自力で辿り着いたとは考えにくい。
ようやく、ビシュラは掛け布団の下で誰かに手を握られていることに気がついた。頭を動かしてその人物を確かめる。
「アキラさん……」
アキラがベッドに突っ伏して眠っていた。ビシュラの手を握ったまま寝息を立てている。
ビシュラがぼーっとアキラを眺めていると、或る時ピクッとアキラの肩が跳ねた。
覚醒したらしいアキラは、上半身を起こした。意識を取り戻したビシュラと目が合うと、じんわりと表情を緩めた。
「よかった……ビシュラさん……無事で」
アキラはビシュラの手をぎゅうっと握り直して体温を確かめた。
フローズヴィトニルソンの兵士によって雪原から連れ戻された直後のビシュラは、意識はなく顔面蒼白で全身が冷え切っており、まるで死人のようだった。そのときに比べれば、手は体温を取り戻し、頬には赤みが戻った。
「痛いところはないですか? 指とかちゃんと動かせます?」
「大丈夫です。外で気を失っていたのはそれほど長い時間ではなかったようです。指も手足もちゃんと動かせます」
そこまで確認してビシュラはハッとした。
指や手足といった末端、そして獣耳も自在に動かせる感覚があった。つまり〝収納〟できていないのだ。極度に興奮したり疲労したりすると制御できなくなり、意思とは関係なく露見する。獣耳や尻尾こそが本来の姿であるという証拠だ。
「よかったあ~~……」
アキラは、はあ~~、と長めの息を吐き出した。
ビシュラは、アキラが心から案じてくれたのだと知った。アキラと過ごした期間は決して長いものではない。文字どおり、住む世界が違うという決定的な相違点がある。しかし、嘘のない善の心を持つ人だと思った。そして、そのようなアキラを偽っていたのが申し訳なくなった。
あのアキラさん、とビシュラは言いにくそうにと口を開いた。
「今までお話しできず申し訳ございません。わたしは……〝四ツ耳〟なのです。本当は、大隊長の婚約者さまで在られるアキラさんの傍になんていられるはずが……」
「そんなの知りません」
アキラはすぐさまハッキリと言った。ビシュラの手をベッドのなかから引っ張り上げて両手で握った。
「よつみみなんて何のことか分からない。ティエンのことなんて関係ないです。ビシュラさんに何かあったらわたしが嫌です」
アキラならそう言ってくれる気がしていた。だから、自身の大嫌いな部分を打ち明けられた。そう言ってくれると期待して、肯定される保険があって、ようやく暴露する自分を小心者だと思う。小心者で、卑怯で、臆病者で、傷つきやすく傷つきたくない、ズルイ。けれどもアキラは、それをすべて許してくれる。大嫌いな部分もズルイ部分もすべてひっくるめて。
「で、よつみみって何ですか?」
「これ、です……」
ビシュラは恥ずかしそうにアキラから目線を逸らし、獣耳をピクピクと動かした。
アキラはビシュラの頭上の獣耳を見て首を傾げた。
「何が問題なんですか? かわいい、ですけど」
「そのようなことはございません! わたしのようなものはお役に立てなければ、何の存在意義も無い……ッ」
ビシュラは激しく頭を左右に振った。
アキラは、ビシュラがここまで卑下する理由が分からず少々困惑した。ルディはビシュラの正体を知った途端、非情に排斥しようとまでした。この世界で〝四ツ耳〟であるということが何を意味するのか、アキラには理解ができなかった。
ビシュラが目覚めて程なくして、王子がいらっしゃいましたと部屋の見張り番から伝えられた。
ほんの少しだけアキラの表情筋が強張り、ビシュラは不思議に思った。王子ウルリヒは我々を信用しているとアキラ自身が言っていたのに、何を警戒するのだろうかと。
ウルリヒはルディを伴って現れた。ルディはベッドにいるビシュラを一瞥し、憎々しげな表情をして目を逸らした。ビシュラを放逐したと告げたときよりもさらに冷淡な態度だった。先日までの紳士的な態度と比べるとまるで別人のようだ。
アキラ、とルディは目線を移動させた。
「これで、お約束は果たしました。さあ、貴女様もどうか、レディ・アキラ」
アキラの目には迷いが無かった。ルディは期待通りの展開にニヤリとほくそ笑んだ。
ビシュラはアキラの衣服の袖を捕まえた。
「何を約束されたのですか、アキラさま」
大丈夫ですよ、とアキラはビシュラの手の甲に手を添えた。手の甲をぽんぽんと撫で、自分から手を離させた。それから、ベッド脇の椅子から立ち上がり、ウルリヒとルディのほうへ近づいた。
ウルリヒの前に立ったアキラは、やはり小さかった。小さく非力な存在でありながらなんともまあ潔い。今まさに交換条件を口にしようとするウルリヒのほうが少々気後れするほどに、高潔だ。
「よいか? アキラ」
「ここで、いいの?」
「ええ」とルディが答えた。
「場所は関係ありません。重要なのは行為そのものです」
「何を……何をなさるおつもりですか、アキラさま!」
「本来なら〝四ツ耳〟などに説明してやる義理はないが、貴様は今後もレディの侍女として仕えることを許す。故に話しておいてやろう」
ルディの尻尾が何処となく得意げにくるっと円を描いた。
「これより我が君はフローズヴィトニルソンの誓いの儀を行う。簡素だが歴史は古い。男の血を女が飲む。つまり男の一部を女が受け容れるということ、伴侶になるという誓いだ」
「ダ、ダメです!」
ビシュラは血相を変えてベッドから飛び降りた。
アキラに駆け寄ろうとしたビシュラをルディの腕が阻止した。ビシュラを制止するにはルディの片手で充分だった。
「獣人の血を飲むなどいけません! 我々でも肉体の弱い者では受けつけません! そのようなものをアキラさまが口になさったらどうなるかッ……!」
ビシュラはルディの腕のなかで藻掻きながらアキラに手を伸ばした。必死に伸ばすのに、アキラは振り返ってはくれなかった。潔さしかない、追い縋る此方が身震いするほどに。
「いいんです、約束ですから。きっと大丈夫ですよ」
アキラはウルリヒを見上げて真っ直ぐに見詰める。大丈夫というその自信には何の根拠も無い。否、根拠など必要無い。ウルリヒは約束を守った。故に自分も約束を果たさなければならないという義務感さえあれば、覚悟は決まる。
「ウルリヒくん。もうひとつ、約束してくれる?」
「何でも約そう。お前がこの先ずっと俺の傍にいてくれるなら」
「わたしの侍女はビシュラさんだけ。ビシュラさんしか必要ない。だから、ビシュラさんに酷いことはしないこと、絶対に」
ビシュラは大きく目を見開いた。心の底から驚いたから。
(この人は、自分自身と引き替えにわたしの安全を守るつもりで……ッ。わたしにそんな価値はないのに――……!)
ウルリヒは自身の手の平をその鋭利な爪で引っ掻いた。すぐに赤い雫が浮いてきて、玉となって滴った。手の平を上に向けてアキラにゆっくりと差し出した。
「俺はアキラとの約束を、必ず守る」
コクッとアキラは小さく頷いた。
ウルリヒに一歩近づき、手の平に顔を近づける。瞳を閉じて口付けをするように手の平に触れた。
ウルリヒは、柔らかいものが傷口に触れる感触に、舌で舐められているわけでもないのに、むず痒さを感じた。むず痒さのなかからじんわりと生じる充足感。欲しくて仕方がなかったものを、ようやく独占できたのだという実感がふつふつと湧いてきた。
ウルリヒの手の平から顔を上げたアキラの唇は、まるで紅を引いたかのように真っ赤だった。
ウルリヒは、ぷっくりとした真紅の唇を親指の腹で拭ってやった。そうすると突如として突き上げてくる情動。腰を折って身を屈め、アキラの唇に引き寄せられるように顔を近づけた。
ウルリヒの口が触れようかという瞬間、アキラの身体がビクンッと撥ねた。
「あッ……かはッ……!」
アキラは一度身を仰け反った後、フッと膝を折った。
ウルリヒは咄嗟にアキラの体を受け止めた。
「アキラさま! アキラさま!」
ビシュラは悲鳴のような声を上げ、懸命にアキラを呼んだ。
しかしながら、アキラから返事は無かった。ウルリヒが身体を揺さぶって何度も呼んでも同様だ。
「医者を呼べルディ!」
「エンブラを看ることのできる医師など我が国にはおりませんッ」
ウルリヒに呼び掛けられルディの腕が緩んだ。その隙にビシュラは其処から逃れ、アキラに駆け寄った。
アキラの顔面は蒼白で明瞭な意識は無く、ヒュッ、ヒュッと短い吐息が漏れるばかり。
「アキラさん呼吸をしてください! 落ち着いて息を吸って!」
アキラの身体は小刻みに震え、ビシュラの声に返事もなかった。ウルリヒともビシュラとも目が合わず虚空を見詰めていた。
「筋肉の硬直……痙攣ッ? 呼吸が上手くできていない。呼びかけても反応が無い。意識が落ちる……! このままじゃ呼吸困難で――……」
ビシュラはキュッと唇を噛んだ。情況を理解するとぶわっと嫌な汗が噴き出した。
(おそらくは、フローズヴィトニルソンの血への拒絶反応! すぐに措置を開始しないと手遅れになります。この国にはお医者様はいない、ここにはわたししかいない。専門的な医療の知識なんてない。ですが、それでも、わたしがやらなくちゃ。わたしのネェベルで足りなかったら……短剣のネェベルを使わざるを得ません。そうなったらいざという時にプログラムを起動できなく……ッ)
ビシュラが必死に思考をまとめようとしている意識の外では、ウルリヒとルディが何やら騒がしく相談している。周囲が慌ただしいと此方まで焦燥感が弥増す。味方は誰ひとりいない、相談すべき相手もいない、余裕の無いこのようなシーンで重大な決断をしなければならないとは運が悪い。否、おそらくは重大であればあるほど時間にも情況にも余裕など無く、勇気を要する。そう、充分に思考した後に必要なのは、勇気だけなのだ。
ビシュラはカッと目を見開いた。
(いいえ、今がそのときです! いざという時なんて待ってても、アキラさんを死なせてしまったら全部無意味!)
ビシュラはアキラに向かって両手を掲げた。ウルリヒとルディの目も憚らずプログラムを起動した。
「絶対に、助けます……ッ」
パチパチッと暖炉にくべられた木が弾ける音が聞こえ、温かさを嵩増しする。雪原の冷気と比較して屋内の暖かさは別世界であり、ビシュラの体は正常な感覚を取り戻した。指先の痺れは消え、身体は動かそうと思えばすぐにでも動かせる。
此処は何処だっけ、と起き抜けの頭で現時点に至った順序を思い出そうとしてみた。最後に覚えているのは雪の上に倒れたこと。しかし、今はベッドの上に横たわっているのは何故だ。意識も無いのに自力で辿り着いたとは考えにくい。
ようやく、ビシュラは掛け布団の下で誰かに手を握られていることに気がついた。頭を動かしてその人物を確かめる。
「アキラさん……」
アキラがベッドに突っ伏して眠っていた。ビシュラの手を握ったまま寝息を立てている。
ビシュラがぼーっとアキラを眺めていると、或る時ピクッとアキラの肩が跳ねた。
覚醒したらしいアキラは、上半身を起こした。意識を取り戻したビシュラと目が合うと、じんわりと表情を緩めた。
「よかった……ビシュラさん……無事で」
アキラはビシュラの手をぎゅうっと握り直して体温を確かめた。
フローズヴィトニルソンの兵士によって雪原から連れ戻された直後のビシュラは、意識はなく顔面蒼白で全身が冷え切っており、まるで死人のようだった。そのときに比べれば、手は体温を取り戻し、頬には赤みが戻った。
「痛いところはないですか? 指とかちゃんと動かせます?」
「大丈夫です。外で気を失っていたのはそれほど長い時間ではなかったようです。指も手足もちゃんと動かせます」
そこまで確認してビシュラはハッとした。
指や手足といった末端、そして獣耳も自在に動かせる感覚があった。つまり〝収納〟できていないのだ。極度に興奮したり疲労したりすると制御できなくなり、意思とは関係なく露見する。獣耳や尻尾こそが本来の姿であるという証拠だ。
「よかったあ~~……」
アキラは、はあ~~、と長めの息を吐き出した。
ビシュラは、アキラが心から案じてくれたのだと知った。アキラと過ごした期間は決して長いものではない。文字どおり、住む世界が違うという決定的な相違点がある。しかし、嘘のない善の心を持つ人だと思った。そして、そのようなアキラを偽っていたのが申し訳なくなった。
あのアキラさん、とビシュラは言いにくそうにと口を開いた。
「今までお話しできず申し訳ございません。わたしは……〝四ツ耳〟なのです。本当は、大隊長の婚約者さまで在られるアキラさんの傍になんていられるはずが……」
「そんなの知りません」
アキラはすぐさまハッキリと言った。ビシュラの手をベッドのなかから引っ張り上げて両手で握った。
「よつみみなんて何のことか分からない。ティエンのことなんて関係ないです。ビシュラさんに何かあったらわたしが嫌です」
アキラならそう言ってくれる気がしていた。だから、自身の大嫌いな部分を打ち明けられた。そう言ってくれると期待して、肯定される保険があって、ようやく暴露する自分を小心者だと思う。小心者で、卑怯で、臆病者で、傷つきやすく傷つきたくない、ズルイ。けれどもアキラは、それをすべて許してくれる。大嫌いな部分もズルイ部分もすべてひっくるめて。
「で、よつみみって何ですか?」
「これ、です……」
ビシュラは恥ずかしそうにアキラから目線を逸らし、獣耳をピクピクと動かした。
アキラはビシュラの頭上の獣耳を見て首を傾げた。
「何が問題なんですか? かわいい、ですけど」
「そのようなことはございません! わたしのようなものはお役に立てなければ、何の存在意義も無い……ッ」
ビシュラは激しく頭を左右に振った。
アキラは、ビシュラがここまで卑下する理由が分からず少々困惑した。ルディはビシュラの正体を知った途端、非情に排斥しようとまでした。この世界で〝四ツ耳〟であるということが何を意味するのか、アキラには理解ができなかった。
ビシュラが目覚めて程なくして、王子がいらっしゃいましたと部屋の見張り番から伝えられた。
ほんの少しだけアキラの表情筋が強張り、ビシュラは不思議に思った。王子ウルリヒは我々を信用しているとアキラ自身が言っていたのに、何を警戒するのだろうかと。
ウルリヒはルディを伴って現れた。ルディはベッドにいるビシュラを一瞥し、憎々しげな表情をして目を逸らした。ビシュラを放逐したと告げたときよりもさらに冷淡な態度だった。先日までの紳士的な態度と比べるとまるで別人のようだ。
アキラ、とルディは目線を移動させた。
「これで、お約束は果たしました。さあ、貴女様もどうか、レディ・アキラ」
アキラの目には迷いが無かった。ルディは期待通りの展開にニヤリとほくそ笑んだ。
ビシュラはアキラの衣服の袖を捕まえた。
「何を約束されたのですか、アキラさま」
大丈夫ですよ、とアキラはビシュラの手の甲に手を添えた。手の甲をぽんぽんと撫で、自分から手を離させた。それから、ベッド脇の椅子から立ち上がり、ウルリヒとルディのほうへ近づいた。
ウルリヒの前に立ったアキラは、やはり小さかった。小さく非力な存在でありながらなんともまあ潔い。今まさに交換条件を口にしようとするウルリヒのほうが少々気後れするほどに、高潔だ。
「よいか? アキラ」
「ここで、いいの?」
「ええ」とルディが答えた。
「場所は関係ありません。重要なのは行為そのものです」
「何を……何をなさるおつもりですか、アキラさま!」
「本来なら〝四ツ耳〟などに説明してやる義理はないが、貴様は今後もレディの侍女として仕えることを許す。故に話しておいてやろう」
ルディの尻尾が何処となく得意げにくるっと円を描いた。
「これより我が君はフローズヴィトニルソンの誓いの儀を行う。簡素だが歴史は古い。男の血を女が飲む。つまり男の一部を女が受け容れるということ、伴侶になるという誓いだ」
「ダ、ダメです!」
ビシュラは血相を変えてベッドから飛び降りた。
アキラに駆け寄ろうとしたビシュラをルディの腕が阻止した。ビシュラを制止するにはルディの片手で充分だった。
「獣人の血を飲むなどいけません! 我々でも肉体の弱い者では受けつけません! そのようなものをアキラさまが口になさったらどうなるかッ……!」
ビシュラはルディの腕のなかで藻掻きながらアキラに手を伸ばした。必死に伸ばすのに、アキラは振り返ってはくれなかった。潔さしかない、追い縋る此方が身震いするほどに。
「いいんです、約束ですから。きっと大丈夫ですよ」
アキラはウルリヒを見上げて真っ直ぐに見詰める。大丈夫というその自信には何の根拠も無い。否、根拠など必要無い。ウルリヒは約束を守った。故に自分も約束を果たさなければならないという義務感さえあれば、覚悟は決まる。
「ウルリヒくん。もうひとつ、約束してくれる?」
「何でも約そう。お前がこの先ずっと俺の傍にいてくれるなら」
「わたしの侍女はビシュラさんだけ。ビシュラさんしか必要ない。だから、ビシュラさんに酷いことはしないこと、絶対に」
ビシュラは大きく目を見開いた。心の底から驚いたから。
(この人は、自分自身と引き替えにわたしの安全を守るつもりで……ッ。わたしにそんな価値はないのに――……!)
ウルリヒは自身の手の平をその鋭利な爪で引っ掻いた。すぐに赤い雫が浮いてきて、玉となって滴った。手の平を上に向けてアキラにゆっくりと差し出した。
「俺はアキラとの約束を、必ず守る」
コクッとアキラは小さく頷いた。
ウルリヒに一歩近づき、手の平に顔を近づける。瞳を閉じて口付けをするように手の平に触れた。
ウルリヒは、柔らかいものが傷口に触れる感触に、舌で舐められているわけでもないのに、むず痒さを感じた。むず痒さのなかからじんわりと生じる充足感。欲しくて仕方がなかったものを、ようやく独占できたのだという実感がふつふつと湧いてきた。
ウルリヒの手の平から顔を上げたアキラの唇は、まるで紅を引いたかのように真っ赤だった。
ウルリヒは、ぷっくりとした真紅の唇を親指の腹で拭ってやった。そうすると突如として突き上げてくる情動。腰を折って身を屈め、アキラの唇に引き寄せられるように顔を近づけた。
ウルリヒの口が触れようかという瞬間、アキラの身体がビクンッと撥ねた。
「あッ……かはッ……!」
アキラは一度身を仰け反った後、フッと膝を折った。
ウルリヒは咄嗟にアキラの体を受け止めた。
「アキラさま! アキラさま!」
ビシュラは悲鳴のような声を上げ、懸命にアキラを呼んだ。
しかしながら、アキラから返事は無かった。ウルリヒが身体を揺さぶって何度も呼んでも同様だ。
「医者を呼べルディ!」
「エンブラを看ることのできる医師など我が国にはおりませんッ」
ウルリヒに呼び掛けられルディの腕が緩んだ。その隙にビシュラは其処から逃れ、アキラに駆け寄った。
アキラの顔面は蒼白で明瞭な意識は無く、ヒュッ、ヒュッと短い吐息が漏れるばかり。
「アキラさん呼吸をしてください! 落ち着いて息を吸って!」
アキラの身体は小刻みに震え、ビシュラの声に返事もなかった。ウルリヒともビシュラとも目が合わず虚空を見詰めていた。
「筋肉の硬直……痙攣ッ? 呼吸が上手くできていない。呼びかけても反応が無い。意識が落ちる……! このままじゃ呼吸困難で――……」
ビシュラはキュッと唇を噛んだ。情況を理解するとぶわっと嫌な汗が噴き出した。
(おそらくは、フローズヴィトニルソンの血への拒絶反応! すぐに措置を開始しないと手遅れになります。この国にはお医者様はいない、ここにはわたししかいない。専門的な医療の知識なんてない。ですが、それでも、わたしがやらなくちゃ。わたしのネェベルで足りなかったら……短剣のネェベルを使わざるを得ません。そうなったらいざという時にプログラムを起動できなく……ッ)
ビシュラが必死に思考をまとめようとしている意識の外では、ウルリヒとルディが何やら騒がしく相談している。周囲が慌ただしいと此方まで焦燥感が弥増す。味方は誰ひとりいない、相談すべき相手もいない、余裕の無いこのようなシーンで重大な決断をしなければならないとは運が悪い。否、おそらくは重大であればあるほど時間にも情況にも余裕など無く、勇気を要する。そう、充分に思考した後に必要なのは、勇気だけなのだ。
ビシュラはカッと目を見開いた。
(いいえ、今がそのときです! いざという時なんて待ってても、アキラさんを死なせてしまったら全部無意味!)
ビシュラはアキラに向かって両手を掲げた。ウルリヒとルディの目も憚らずプログラムを起動した。
「絶対に、助けます……ッ」
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