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第1章 日本
11. 粘着質なおまじない
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頬に触れる優しい手の温もりで目覚めた灯雪は、おぼろげでぼんやりとしたまなこをその主人に向けた。
「父さん・・・。」
夜明け前、ほんのりと薄暗い灯雪の部屋。
ベッドの端に腰掛け灯雪の顔を覗いていた父親が微笑む。
「すまない。起こしてしまったな。」
「ん゛ー・・・随分早いんだな、もう出かけんの?」
傍の時計は4時過ぎを指している。
まだ鳥も寝静まる早朝に、父親はすでにいつも通り仕立ての良いスーツで身を固めていた。
「あぁ、朝一で片付けなくてはいけない案件が出来てな。」
「へぇ~、大変だな。」
灯雪は欠伸をしながら、半身を起こす。
「起きなくて良い。出かける前にお前の顔が見たかっただけだ。」
そう言って父親は、灯雪の顔に落ちる前髪を優しく搔き上げると、頭を引き寄せ額に長い口付けを落とした。
「今日はどこかへ出かけるのか?」
「あ~・・・、午前中に合気道の稽古に行って、午後は特に予定無いかな。今んとこ。」
「そうか。」
「父さんは最近忙しそうだな。夜も遅いみたいだし。」
「まぁ・・・、色々とな。あと1ヶ月もすれば落ち着くだろう。寂しいか?」
「・・・・。」
14歳の中学男子を相手に、本気で『寂しいか』と聞いてくる父親を灯雪はどう対処すれば良いか分からずにいる。
『寂しく無い』と言えば傷付くし、『寂しい』と言えば会社を休むと言いかねないのだ。
「父さん、ちょっと屈んで。」
「ん?何だ。」
灯雪は父親にいつもしてもらう様に額に口付けをした。
「これって俺がやっても効果あんのか?」
思わぬ行動に瞠目した父親が、蕩けるような笑顔で答える。
「もちろんだ。ただし、私限定だがな。」
名残惜しそうに片側の耳たぶを軽くつまんだ父親は、時間が迫っているのか「行ってくる」と言うと、思いを断ち切るかのように颯爽と部屋を出ていった。
灯雪はその背中をベッドの中で見送ると、ボスリと身体を沈め2度目の眠りを貪るのだった。
額への口付けは灯雪が幼い頃から続いている習慣だ。
父親は灯雪が赤築家に迎え入れられた翌日の朝から、顔を合わせると必ず額へ口付けていた。
幼い灯雪はそれが不思議で、ある日何気なく父親に聞いたことがある。
「なんでデコにキスすんの?」
聞かれた父親は、顎に手を当て眉間にしわを寄せ、本気で分からないという風にかなり長考した末、ようやくこう答えた。
「おまじないだ。」
当時、それを聞いた周りの使用人たちは一同度肝を抜いたという。
二度見、三度見をする者、花を生け替えたばかりの花瓶をぶちまけそうになった者、ボールに入った大量の小麦粉を危うくひっくり返しそうになり「あっぶねぇ!」と冷や汗をかく者。
冷酷無慈悲で名を通していたこの家の主人は、合理主義者で非生産的な物事が大嫌いであった。
信仰心や道徳心を一部の下等生物による現象と捉え、占いや願掛けなどは歯牙にも掛けていなかった。
はたからは、まるで信じる神は自分のみというような、とんでもない傲慢な人間と認識されていたが、その突き抜けた能力の高さと恵まれた出生、恵まれた容姿を前にすると誰もが気圧され萎縮してしまうのが現実であった。
それ故、彼の生ぬるい発言は天変地異がひっくり返った様な動揺を赤築家に与えていた。
「おまじない?」
まだ、おまじないという言葉の意味を知らない幼い灯雪は首をかしげる。
「そうだ。灯雪が今日も健やかに過ごせますように、という朝のおまじないだ。」
目の前を駆け抜けた小さな子供が、足をもつれさせてすっ転ぶ。
膝を擦りむいた子供は大泣きをし、慌てて駆けつけた母親が、しゃがみ込んで慰めている。
「痛いの痛いの飛んでいけ~。」
膝小僧の上に手をかざした母親が、パッと空に向かって腕を振る。
それを見ていた灯雪は、世の中の親は色々なおまじないを持っているんだなぁ~と感心していた。
「坊ちゃん、お待たせしました。」
「売り切れていなくて、本当に良かったですわ。」
支払いを終えた、源さんとトメさんがお店から出てくる。
近所にあるこぢんまりとした商店街。
灯雪はそこに昔からあるという洋菓子店の喫茶室で、源さんとトメさんと一緒にエクレアを食べに来ていた。
「でもまさか昔食べた幻のエクレアが一日限定で復活するなんて、兄さんが教えてくれなければ知らなかったわ。」
「まさに神の采配、庭にいた私のところにこのチラシが風に乗って飛んできたのだよ。」
「だけど、1人1個までだなんて・・・残念ね。」
「こらこらトメ、欲張ってはいけないよ。」
72歳になる兄が、69歳の妹をたしなめる。
2人の幼い頃の様子が、なんとなく窺い知れる光景だ。
「でも、これでは坊っちゃまには物足りなかったのではないかしら。」
「そんな事ないって。2人から聞いていた幻のエクレアが食べられて俺は大満足だよ。マジで美味かったし。」
「それは良かった。私たちも嬉しいですよ。」
「坊っちゃま、任せてくださいまし!わたくし、このエクレアの味をしっかり堪能しましたから、笹本さんに頼んで幻のエクレアを必ず再現させてみせますわ!」
握り拳を掲げて意気込むトメさん。
笹本さんとは赤築家専属のパティシエである。
「ははは・・・、こりゃ笹本さんも大変だ。」
そう笑う源さんこそが、実は一番期待していたりもする。
帰りの商店街は、夕飯の買い出しに来る人々でだんだんと賑わいを見せ始めていた。
赤築家の今晩の調理担当は中華料理の趙さんだ。
3人はそれぞれに今日の夕飯のメニューを予想し合いながら、のんびりと帰路を歩いて行ったのであった。
「父さん・・・。」
夜明け前、ほんのりと薄暗い灯雪の部屋。
ベッドの端に腰掛け灯雪の顔を覗いていた父親が微笑む。
「すまない。起こしてしまったな。」
「ん゛ー・・・随分早いんだな、もう出かけんの?」
傍の時計は4時過ぎを指している。
まだ鳥も寝静まる早朝に、父親はすでにいつも通り仕立ての良いスーツで身を固めていた。
「あぁ、朝一で片付けなくてはいけない案件が出来てな。」
「へぇ~、大変だな。」
灯雪は欠伸をしながら、半身を起こす。
「起きなくて良い。出かける前にお前の顔が見たかっただけだ。」
そう言って父親は、灯雪の顔に落ちる前髪を優しく搔き上げると、頭を引き寄せ額に長い口付けを落とした。
「今日はどこかへ出かけるのか?」
「あ~・・・、午前中に合気道の稽古に行って、午後は特に予定無いかな。今んとこ。」
「そうか。」
「父さんは最近忙しそうだな。夜も遅いみたいだし。」
「まぁ・・・、色々とな。あと1ヶ月もすれば落ち着くだろう。寂しいか?」
「・・・・。」
14歳の中学男子を相手に、本気で『寂しいか』と聞いてくる父親を灯雪はどう対処すれば良いか分からずにいる。
『寂しく無い』と言えば傷付くし、『寂しい』と言えば会社を休むと言いかねないのだ。
「父さん、ちょっと屈んで。」
「ん?何だ。」
灯雪は父親にいつもしてもらう様に額に口付けをした。
「これって俺がやっても効果あんのか?」
思わぬ行動に瞠目した父親が、蕩けるような笑顔で答える。
「もちろんだ。ただし、私限定だがな。」
名残惜しそうに片側の耳たぶを軽くつまんだ父親は、時間が迫っているのか「行ってくる」と言うと、思いを断ち切るかのように颯爽と部屋を出ていった。
灯雪はその背中をベッドの中で見送ると、ボスリと身体を沈め2度目の眠りを貪るのだった。
額への口付けは灯雪が幼い頃から続いている習慣だ。
父親は灯雪が赤築家に迎え入れられた翌日の朝から、顔を合わせると必ず額へ口付けていた。
幼い灯雪はそれが不思議で、ある日何気なく父親に聞いたことがある。
「なんでデコにキスすんの?」
聞かれた父親は、顎に手を当て眉間にしわを寄せ、本気で分からないという風にかなり長考した末、ようやくこう答えた。
「おまじないだ。」
当時、それを聞いた周りの使用人たちは一同度肝を抜いたという。
二度見、三度見をする者、花を生け替えたばかりの花瓶をぶちまけそうになった者、ボールに入った大量の小麦粉を危うくひっくり返しそうになり「あっぶねぇ!」と冷や汗をかく者。
冷酷無慈悲で名を通していたこの家の主人は、合理主義者で非生産的な物事が大嫌いであった。
信仰心や道徳心を一部の下等生物による現象と捉え、占いや願掛けなどは歯牙にも掛けていなかった。
はたからは、まるで信じる神は自分のみというような、とんでもない傲慢な人間と認識されていたが、その突き抜けた能力の高さと恵まれた出生、恵まれた容姿を前にすると誰もが気圧され萎縮してしまうのが現実であった。
それ故、彼の生ぬるい発言は天変地異がひっくり返った様な動揺を赤築家に与えていた。
「おまじない?」
まだ、おまじないという言葉の意味を知らない幼い灯雪は首をかしげる。
「そうだ。灯雪が今日も健やかに過ごせますように、という朝のおまじないだ。」
目の前を駆け抜けた小さな子供が、足をもつれさせてすっ転ぶ。
膝を擦りむいた子供は大泣きをし、慌てて駆けつけた母親が、しゃがみ込んで慰めている。
「痛いの痛いの飛んでいけ~。」
膝小僧の上に手をかざした母親が、パッと空に向かって腕を振る。
それを見ていた灯雪は、世の中の親は色々なおまじないを持っているんだなぁ~と感心していた。
「坊ちゃん、お待たせしました。」
「売り切れていなくて、本当に良かったですわ。」
支払いを終えた、源さんとトメさんがお店から出てくる。
近所にあるこぢんまりとした商店街。
灯雪はそこに昔からあるという洋菓子店の喫茶室で、源さんとトメさんと一緒にエクレアを食べに来ていた。
「でもまさか昔食べた幻のエクレアが一日限定で復活するなんて、兄さんが教えてくれなければ知らなかったわ。」
「まさに神の采配、庭にいた私のところにこのチラシが風に乗って飛んできたのだよ。」
「だけど、1人1個までだなんて・・・残念ね。」
「こらこらトメ、欲張ってはいけないよ。」
72歳になる兄が、69歳の妹をたしなめる。
2人の幼い頃の様子が、なんとなく窺い知れる光景だ。
「でも、これでは坊っちゃまには物足りなかったのではないかしら。」
「そんな事ないって。2人から聞いていた幻のエクレアが食べられて俺は大満足だよ。マジで美味かったし。」
「それは良かった。私たちも嬉しいですよ。」
「坊っちゃま、任せてくださいまし!わたくし、このエクレアの味をしっかり堪能しましたから、笹本さんに頼んで幻のエクレアを必ず再現させてみせますわ!」
握り拳を掲げて意気込むトメさん。
笹本さんとは赤築家専属のパティシエである。
「ははは・・・、こりゃ笹本さんも大変だ。」
そう笑う源さんこそが、実は一番期待していたりもする。
帰りの商店街は、夕飯の買い出しに来る人々でだんだんと賑わいを見せ始めていた。
赤築家の今晩の調理担当は中華料理の趙さんだ。
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