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<第二十話>
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つぐみにとって涼介は、とても眩しい存在だった。いつも笑顔で誰かを笑わせるのが上手くて、元気にフィールドを駆け回るのが何より似合う、そんな少年だった。学校で誹謗中傷に晒されるつぐみが、唯一安心できる場所だったサッカークラブ。その中心にいていつも励ましてくれたのが涼介で。
ずっとそんな彼と一緒にいたいと、そう願って同じ高校に入り、進学した。高校になってしまえば同じサッカー部には入れないけれど、サッカーを通じていつも自分達は繋がっていると、そんな夢みたいなことを本気で信じていたのである。
恋だと自覚するまでは随分かかった。つぐみにとって、涼介への想いがどんな種類であるのか、自分自身が一番理解していなかったためである。なんせ、こんな気持ちになったことなどない。家族ではない誰かを、そう友愛とは別の感情で。愛しいと思うなんて、そんな気持ちは初めてだったのである。
理解してすぐ。少しだけ驚いた。自分はレズビアンなのかもしれないと本気で悩んでたせいもある。普通に男の子を好きになったことに、一番驚いたのはつぐみだったのだ。
――あぁ。アタシ、こいつのことが好きだなあ。
彼を自分のものにしたい。
自分だけの、ものにしたい。
男も女も、彼に誰かが近づけばハラハラしてしまう。自分の方を見てくれていると安心する。手を繋いでくれると、もっともっと近くに行きたいと思ってしまう。
皮肉にもここにきて初めてつぐみは、中学時代にはわからなかった同級生たちの嫉妬心を理解したのである。彼女たちはきっと、テレビの中のヒーローと自分が恋人であるかのような錯覚や妄想に浸っていて、自分こそが相応しいだなんて信じきっていて――だから、近づく女優に嫉妬して、攻撃してしまったのだろう。ほぼ危ないストーカーの発想ではないかと不安にもなるが、今ならその感情をまったく理解できないということはない。
だから。
『つ、付き合ってくんないかな!涼介!』
勇気を振り絞ったその言葉に。答える代わりに抱き締められた時。どれほどつぐみが嬉しかったか、解るだろうか。
手を繋いだりキスをしたりが精々で、ほとんどデートはサッカーというなんとも色気のない関係ではあったが。自分達はあの頃確かに、恋人と呼べるものであったと思う。地方から上京してきて独り暮らしをしていた涼介はよくつぐみの部屋に転がり込んで、料理や掃除を手伝ってくれた。ダメだなつぐみは!なんて笑いながら、彼に世話を焼かれるのは楽しくてならなかった。
涼介が得意だった、オムライス。今でも忘れられない味である。今彼は――どこかで、自分ではない誰かのために、料理を振る舞っていたりするのだろうか。もう何年も、連絡を取り合っていない。
全ては高校最後の年に――崩れさってしまったのだから。
――噂が流れた。涼介が中学時代に…クスリをやってて。危ないグループを抜けようとした同級生の一人をリンチして追い詰めて…あげく自殺させたんだって、そんな噂。
馬鹿げた噂だと思った。涼介がそんなことするはずがない。仮にクスリに手を染めたというのが事実だったとしても――だれかを苛めたり暴力を振るったりなんて、そんなことする人間ではないことは、つぐみが誰よりよくわかっていた。――そのはず、だったのだ。
だが、涼介は。つぐみの問いに対して否定も肯定もすることなく――その噂が流れ、彼に対してクラスメート達がひそひそと陰口を叩くようになり、部活の監督たちに問い詰められると。何も言わずに、部活をやめてしまった。それどころか、退学届けを提出し、学校そのものをやめてしまったのである。
『もうお前には二度と会わない』
どうして。なんで。本当のことを言って。そうすがり付いたつぐみを冷たく突き放し、涼介は言った。
『サッカーもやめる。潮時だろ、ここらへんが。俺の体格じゃ所詮プロなんて夢のまた夢だしな。いい機会だわ』
『なに、いってんの、ねえ……?涼介がサッカーやめるとか、マジありえない。わけわかんない。どうして、そんなこと……』
『俺のことなら自分が誰より知ってます!ってツラすんのいい加減やめてくれるか?目障りなんだけど』
『!?』
『もう我慢する必要もねーし。この際言わせてもらうけど』
そこに立っていた彼は。今まで見たことのないような冷たい顔で、冷たい眼で――つぐみを見下ろしていた。
そうだ、見下ろしていたのだ。身長の問題じゃない。心がつぐみをもう、対等なものとして見ていなかった。彼がそんな眼をできることなど――一生知りたくはなかったのに。
『お前なんかだいっキライだったんだよ。一番最初から!なんだよ、ちょっとサッカー上手いからって女のくせに偉そうにしやがって。馴れ馴れしくしてきやがって!最初からウザくてウザくてたまんなかったんだよ!!』
それは。
恋人だと信じていた相手から、聞きたくなどなかった、知りたくなどなかった――刃のように凍てついた言葉だった。
『ソバカスだらけのブサイク女!お前みたいにデカくてがさつでキモマッチョな女なんてそもそも俺の好みじゃないっての。そもそも控えめになるとか品性とか、そんなのの欠片もねーしさぁ!綺麗で華奢でおしとやかで上品で料理が上手い大和撫子!男はみーんなそういう女が好きなわけ!お前なんか誰も必要としてねーんだよ、俺だってそうさ!』
好みじゃない。
誰も必要としてない。
涼介が――涼介も?
信じたくない言葉がガラガラと頭上から降り注いで、その欠片がズタズタにつぐみを引き裂いていった。痛い。苦しい。辛い。息が――ああ、息が出来なくなりそうだ。重く鈍い音で世界が閉ざされていく。つぐみを囲いこみ、窒息させようと塞いでいく。
そして、知る。
本当に悲しくて、悲しいことさえ理解できないと人は――涙を流すことさえ、忘れてしまうということを。
『二度とそのブスな顔見せんな。俺の前に現れんな』
踵を返す、元恋人。
『嬉しいぜ。これでやっと俺は、自由の身なんだからよ……!』
つぐみは――その日のことを。一生後悔し続けることになる。
今から思うと、涼介の様子は明らかにおかしかった。過去に彼が本当は何をしたのか、していないのか。真実を知りたいと思うのは自由にせよ、それよりもまずつぐみにはするべきことがあったはずなのである。彼を本当に愛しているなら、そうしなければならなかったはずなのだ。
それは、彼を信じて。今の彼を、受け止めるということ。
あくまで噂は、涼介の中学時代のことだ。彼がどんな過去を抱えていたところで、それは今のことではないのである。今の彼が、そんな醜く愚かな真似などしていないことは、半同棲していた自分が誰よりよく知っていたはずではないか。
それなのに、自分がしたことは。無駄に真実を知りたがり、今の彼の苦悩を受け止めようともせず――追い詰めてしまった、それだけなのである。結果、彼には何より辛い選択をさせてしまった。サッカーは涼介にとって血であり、肉である存在。それを捨てることは、彼の存在意義を否定することと同じ議であったはずだというのに。
つぐみは去り行く彼に何も言えず、ただ見送って。ふらふらと家に帰り、そのまま感傷に浸るだけ浸って、何の行動も起こしはしなかった。自分の傷を見つめるだけで精一杯で、何故涼介があのような言葉を投げつけてきたのか、本当の意味を考えようともしなかったのである。
それはつまり、涼介を、恋人としての彼を信じきれなかったということ。
今から思えばあれは。涼介なりの精一杯のやり方で、つぐみを守ろうとした結果だったのだと思うのだ。自分を追い詰めようとしている誰かの悪意から、世間の冷たい目から。つぐみを巻き込まないために、わざとあんな酷い言葉を投げつけてきたのだろう。つぐみが、自分を嫌いになるように。もう二度と会いたいなんて願わないように、行方を探すことのないように。
あの時。つぐみの百倍も千倍も、涼介は辛くて苦しかったはずだった。自分はその痛みを理解してやるどころか、自分だけが被害者であるかのように悲劇に浸って――浸るばかりでなにもしなくて。そしてそれが本当に、あんなに愛したはずの彼との別れになってしまったのである。
――涼介。ねえ涼介。今何処にいるのかな。今は、誰のこと、想ってるのかな。
涼介と過ごした部屋に帰るたび泣き出しそうになる自分がいる。思い出が溢れすぎていた。涼介が大好きなオムライスを作ってくれたキッチンにフライパン。涼介が大好きだったFFクエストのゲームソフト。涼介が手品を披露しようとして失敗し、床にぶちまけた派手な絵柄のトランプ。それから――それから。
涼介と同じ夢を見て駆け回って、蹴りあった――ボロボロの、サッカーボール。
――忘れなきゃいけないのに。……忘れたいのに。
引っ越そうと思ったことは何度でもある。だけど、積み重なった思い出を捨てられなくて、こうして待っていればいつかまたひょっこり彼が現れるような、そんな気がして。結局、同じ場所で立ち止まり続けている、愚かな自分。
――そうだよ。アタシは、私は前を向かなきゃ。それがアタシらしいってことなんだ。……アタシは、そうでなきゃいけないんだ。
だから――つぐみは、恋人を申請することもなく。ホープ・コードを引き取って、番になることを決めたのだった。未だに消えてくれない男への未練を断ち切るために、ミリーを利用しようとしたのである。あまりにも情けなく、失礼な話ではないか。ミリーはミリーだ。努力家で、優しくて、可愛らしくて、真面目で、強くて。そんなあの子を自分は、失恋を忘れるための道具に、あるいは身代わりにしようとしているのである。
傷を埋めようと足掻けば足掻くほど、立てた爪が痛みを深くするだけだと、誰より自分がわかっているのに。
愚かな繰り返しは、やめられない。もう何処にも引き返すことなんて出来ないのだ。これ以外に正しい道なんて知らないのだから。これ以上に――自分が“ダレ”であるかなんた、わからないのだから。
――罪悪感と手を取り合って、歩いていくしかないんだ……アタシは。
「ねぇ、つぐみ」
クリスと万里子と出会った買い物が終わり。騒がしい一日も終わろうとしている夜。ミリーが作ってくれたしょうが焼きと味噌汁、サラダ、煮物をつつきながら夕食を取っていた時である。
ふいにミリーは橋を止めて、その言葉を口にしたのだ。
「私は、やっぱり。嘘をつくのはいけないと思うんだ」
「ん、どうしたのさ急に。そりゃ、アタシも嘘は嫌いだけど……」
「でも、つぐみは嘘をついてるよね」
誤魔化しなんてきくはずのない、まっすぐな瞳に。つぐみの殻はいとも容易く破られてしまう。
「本当は今でも待ってるんでしょう?……大切な人が帰ってくるのを」
跳ね上がった心臓がそのまま。つぐみの本心を表していた。
ずっとそんな彼と一緒にいたいと、そう願って同じ高校に入り、進学した。高校になってしまえば同じサッカー部には入れないけれど、サッカーを通じていつも自分達は繋がっていると、そんな夢みたいなことを本気で信じていたのである。
恋だと自覚するまでは随分かかった。つぐみにとって、涼介への想いがどんな種類であるのか、自分自身が一番理解していなかったためである。なんせ、こんな気持ちになったことなどない。家族ではない誰かを、そう友愛とは別の感情で。愛しいと思うなんて、そんな気持ちは初めてだったのである。
理解してすぐ。少しだけ驚いた。自分はレズビアンなのかもしれないと本気で悩んでたせいもある。普通に男の子を好きになったことに、一番驚いたのはつぐみだったのだ。
――あぁ。アタシ、こいつのことが好きだなあ。
彼を自分のものにしたい。
自分だけの、ものにしたい。
男も女も、彼に誰かが近づけばハラハラしてしまう。自分の方を見てくれていると安心する。手を繋いでくれると、もっともっと近くに行きたいと思ってしまう。
皮肉にもここにきて初めてつぐみは、中学時代にはわからなかった同級生たちの嫉妬心を理解したのである。彼女たちはきっと、テレビの中のヒーローと自分が恋人であるかのような錯覚や妄想に浸っていて、自分こそが相応しいだなんて信じきっていて――だから、近づく女優に嫉妬して、攻撃してしまったのだろう。ほぼ危ないストーカーの発想ではないかと不安にもなるが、今ならその感情をまったく理解できないということはない。
だから。
『つ、付き合ってくんないかな!涼介!』
勇気を振り絞ったその言葉に。答える代わりに抱き締められた時。どれほどつぐみが嬉しかったか、解るだろうか。
手を繋いだりキスをしたりが精々で、ほとんどデートはサッカーというなんとも色気のない関係ではあったが。自分達はあの頃確かに、恋人と呼べるものであったと思う。地方から上京してきて独り暮らしをしていた涼介はよくつぐみの部屋に転がり込んで、料理や掃除を手伝ってくれた。ダメだなつぐみは!なんて笑いながら、彼に世話を焼かれるのは楽しくてならなかった。
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馬鹿げた噂だと思った。涼介がそんなことするはずがない。仮にクスリに手を染めたというのが事実だったとしても――だれかを苛めたり暴力を振るったりなんて、そんなことする人間ではないことは、つぐみが誰よりよくわかっていた。――そのはず、だったのだ。
だが、涼介は。つぐみの問いに対して否定も肯定もすることなく――その噂が流れ、彼に対してクラスメート達がひそひそと陰口を叩くようになり、部活の監督たちに問い詰められると。何も言わずに、部活をやめてしまった。それどころか、退学届けを提出し、学校そのものをやめてしまったのである。
『もうお前には二度と会わない』
どうして。なんで。本当のことを言って。そうすがり付いたつぐみを冷たく突き放し、涼介は言った。
『サッカーもやめる。潮時だろ、ここらへんが。俺の体格じゃ所詮プロなんて夢のまた夢だしな。いい機会だわ』
『なに、いってんの、ねえ……?涼介がサッカーやめるとか、マジありえない。わけわかんない。どうして、そんなこと……』
『俺のことなら自分が誰より知ってます!ってツラすんのいい加減やめてくれるか?目障りなんだけど』
『!?』
『もう我慢する必要もねーし。この際言わせてもらうけど』
そこに立っていた彼は。今まで見たことのないような冷たい顔で、冷たい眼で――つぐみを見下ろしていた。
そうだ、見下ろしていたのだ。身長の問題じゃない。心がつぐみをもう、対等なものとして見ていなかった。彼がそんな眼をできることなど――一生知りたくはなかったのに。
『お前なんかだいっキライだったんだよ。一番最初から!なんだよ、ちょっとサッカー上手いからって女のくせに偉そうにしやがって。馴れ馴れしくしてきやがって!最初からウザくてウザくてたまんなかったんだよ!!』
それは。
恋人だと信じていた相手から、聞きたくなどなかった、知りたくなどなかった――刃のように凍てついた言葉だった。
『ソバカスだらけのブサイク女!お前みたいにデカくてがさつでキモマッチョな女なんてそもそも俺の好みじゃないっての。そもそも控えめになるとか品性とか、そんなのの欠片もねーしさぁ!綺麗で華奢でおしとやかで上品で料理が上手い大和撫子!男はみーんなそういう女が好きなわけ!お前なんか誰も必要としてねーんだよ、俺だってそうさ!』
好みじゃない。
誰も必要としてない。
涼介が――涼介も?
信じたくない言葉がガラガラと頭上から降り注いで、その欠片がズタズタにつぐみを引き裂いていった。痛い。苦しい。辛い。息が――ああ、息が出来なくなりそうだ。重く鈍い音で世界が閉ざされていく。つぐみを囲いこみ、窒息させようと塞いでいく。
そして、知る。
本当に悲しくて、悲しいことさえ理解できないと人は――涙を流すことさえ、忘れてしまうということを。
『二度とそのブスな顔見せんな。俺の前に現れんな』
踵を返す、元恋人。
『嬉しいぜ。これでやっと俺は、自由の身なんだからよ……!』
つぐみは――その日のことを。一生後悔し続けることになる。
今から思うと、涼介の様子は明らかにおかしかった。過去に彼が本当は何をしたのか、していないのか。真実を知りたいと思うのは自由にせよ、それよりもまずつぐみにはするべきことがあったはずなのである。彼を本当に愛しているなら、そうしなければならなかったはずなのだ。
それは、彼を信じて。今の彼を、受け止めるということ。
あくまで噂は、涼介の中学時代のことだ。彼がどんな過去を抱えていたところで、それは今のことではないのである。今の彼が、そんな醜く愚かな真似などしていないことは、半同棲していた自分が誰よりよく知っていたはずではないか。
それなのに、自分がしたことは。無駄に真実を知りたがり、今の彼の苦悩を受け止めようともせず――追い詰めてしまった、それだけなのである。結果、彼には何より辛い選択をさせてしまった。サッカーは涼介にとって血であり、肉である存在。それを捨てることは、彼の存在意義を否定することと同じ議であったはずだというのに。
つぐみは去り行く彼に何も言えず、ただ見送って。ふらふらと家に帰り、そのまま感傷に浸るだけ浸って、何の行動も起こしはしなかった。自分の傷を見つめるだけで精一杯で、何故涼介があのような言葉を投げつけてきたのか、本当の意味を考えようともしなかったのである。
それはつまり、涼介を、恋人としての彼を信じきれなかったということ。
今から思えばあれは。涼介なりの精一杯のやり方で、つぐみを守ろうとした結果だったのだと思うのだ。自分を追い詰めようとしている誰かの悪意から、世間の冷たい目から。つぐみを巻き込まないために、わざとあんな酷い言葉を投げつけてきたのだろう。つぐみが、自分を嫌いになるように。もう二度と会いたいなんて願わないように、行方を探すことのないように。
あの時。つぐみの百倍も千倍も、涼介は辛くて苦しかったはずだった。自分はその痛みを理解してやるどころか、自分だけが被害者であるかのように悲劇に浸って――浸るばかりでなにもしなくて。そしてそれが本当に、あんなに愛したはずの彼との別れになってしまったのである。
――涼介。ねえ涼介。今何処にいるのかな。今は、誰のこと、想ってるのかな。
涼介と過ごした部屋に帰るたび泣き出しそうになる自分がいる。思い出が溢れすぎていた。涼介が大好きなオムライスを作ってくれたキッチンにフライパン。涼介が大好きだったFFクエストのゲームソフト。涼介が手品を披露しようとして失敗し、床にぶちまけた派手な絵柄のトランプ。それから――それから。
涼介と同じ夢を見て駆け回って、蹴りあった――ボロボロの、サッカーボール。
――忘れなきゃいけないのに。……忘れたいのに。
引っ越そうと思ったことは何度でもある。だけど、積み重なった思い出を捨てられなくて、こうして待っていればいつかまたひょっこり彼が現れるような、そんな気がして。結局、同じ場所で立ち止まり続けている、愚かな自分。
――そうだよ。アタシは、私は前を向かなきゃ。それがアタシらしいってことなんだ。……アタシは、そうでなきゃいけないんだ。
だから――つぐみは、恋人を申請することもなく。ホープ・コードを引き取って、番になることを決めたのだった。未だに消えてくれない男への未練を断ち切るために、ミリーを利用しようとしたのである。あまりにも情けなく、失礼な話ではないか。ミリーはミリーだ。努力家で、優しくて、可愛らしくて、真面目で、強くて。そんなあの子を自分は、失恋を忘れるための道具に、あるいは身代わりにしようとしているのである。
傷を埋めようと足掻けば足掻くほど、立てた爪が痛みを深くするだけだと、誰より自分がわかっているのに。
愚かな繰り返しは、やめられない。もう何処にも引き返すことなんて出来ないのだ。これ以外に正しい道なんて知らないのだから。これ以上に――自分が“ダレ”であるかなんた、わからないのだから。
――罪悪感と手を取り合って、歩いていくしかないんだ……アタシは。
「ねぇ、つぐみ」
クリスと万里子と出会った買い物が終わり。騒がしい一日も終わろうとしている夜。ミリーが作ってくれたしょうが焼きと味噌汁、サラダ、煮物をつつきながら夕食を取っていた時である。
ふいにミリーは橋を止めて、その言葉を口にしたのだ。
「私は、やっぱり。嘘をつくのはいけないと思うんだ」
「ん、どうしたのさ急に。そりゃ、アタシも嘘は嫌いだけど……」
「でも、つぐみは嘘をついてるよね」
誤魔化しなんてきくはずのない、まっすぐな瞳に。つぐみの殻はいとも容易く破られてしまう。
「本当は今でも待ってるんでしょう?……大切な人が帰ってくるのを」
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