夜明けのエンジェル

はじめアキラ

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<第二十五話>

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 クラブ『Crazy-Crazy』は、音と光の洪水で空気を濁らせている。カウンターの付近は少しだけその喧騒がマシではあったものの、外の世界と比べて喧しいことには違いなかった。唇にピアスをした、どこかガラの悪そうなバーテンダーが作り笑いで客と世間話をしている。酔っ払った数人の男と女が、人目も憚らずにディープキスをかわしている。

――どういうことなの。

 そんな中で、つぐみは困惑しながら、ミリーと中年男の会話を盗み聞いている。
 常連らしいその男は、驚くほどあっさりとこのクラブの規則やら知っていることやらを話してくれた。男の口が軽いのもあるだろうが何より――ミリーの話術に感嘆すべきところだろうか。

――本当に、分からないんだけど……?

 つぐみは困惑しながら、一見すると楽しそうに男と会話しているミリーの姿を見る。

――落ちこぼれ?劣等生?……どのへんが?

 本気で疑問に思う。確かに、ミリーは対面日のアピールタイムで転んだり凡ミスを繰り返したりと、ろくな成績ではなかったことだろう。それはつぐみも見ていたからよく分かる。が、少くともつぐみの家に来てからのミリーは、あの時やらかしたような残念なミスなど一度も見せたことがない。精々、初日に不安そうな顔を見せたことぐらいだが、あんなものはミスだのなんだのの内に含まれないだろう。
 情けない姿を見せたのは、ミリーではなく自分の方だ。そして、その自分の情けない本当のところを、あの子は僅かな情報だけで見抜いてしまった。定期券と引越しからバレるだなんて、想像もしていなかったことだ。
 そして今も。

――あの中年男が、ミリーとの会話を本当に楽しんでいるように見える。初対面よ?いくらミリーの容姿が可愛いからといっても、こんなクラブに来る女なんてろくなもんじゃないことくらい分かってるだろうに……。

 初対面の人間に、まるで警戒心を抱かせない。これは武器としてかなり脅威だろう。確かにミリーは童顔で愛らしい顔をしている。虫も殺さない顔、なんていうのはミリーのような存在を言うのだろう。だとしても、初対面というのはそれだけでフィルターをかけずにはいられないもの。常連客なら尚更だ。
 その壁が当たり前のようになかったものにされているのはつまり。それだけミリーが、男の本質を見抜き、言葉巧みに誘導するのが上手いからにほかならない。

「へえ、上司の人が……それは大変でしたね」
「そうだろうそうだろう?俺はこんなに頑張って仕事やってんのによ……少し煙草吸いに行くことが多いからってたったそんだけのことでネチネチ言いやがって!俺ぁお前なんかよりずっと長いこと苦労して会社に貢献してんのによー……」

 今は、何やら男の会社の愚痴に話題がシフトしているらしい。必要な情報だけ聞くのでは警戒される。むしろ、男の聞いて欲しい話にそれとなく付き合って、自分は味方だとアピールすることに意味があるのだろう。理屈は分かる。しかし、つぐみにはどうあっても真似できそうにはないことだった。
 だって自分は、嘘がつけない。お世辞を言うのも上手くない。笑顔で、正直者の顔で、誘導尋問に真実と嘘を織り交ぜるなんて器用な真似。技術と手段を理解したところで、到底無理というものだ。

――ミリーは、アタシの前じゃ嘘なんてついてるように見えなかった。むしろ、嘘なんて全然得意じゃないって、そういう子に見えたのに……。

 ミリーの本質が、ここに来てわからなくなる。信じているし、信頼しているのは間違いない。それはこんなことでは揺らがない。だから、そういう問題ではないのだ。ただ――その演技力が、訓練の賜物なのか、ミリーが努力で意図的に身につけたものなのかが分からないのである。
 意図的に身につけたのだとしたら、それは何のために?そして、ここまでのことが出来るのにどうして、この子は劣等生だなんだと馬鹿にされ続けてきたのだろう。
 どのあたりが、落ちこぼれと判断されてきたのだろうか。本番に弱いから?いや、こうして土壇場で恐ろしい対話術を披露しているあたり、とてもそうには見えないのだが――。

――と、いけない。ぼんやりしている場合じゃない。

 つぐみはちらり、と後ろを振り返る。視線の先には、人々に遠巻きにされている本多政紀とシェルの姿がある。シェルがいることに、ミリーはとっくに気付いていた。だから、ミリーが中年男と会話している間、つぐみにシェルの方を見張っていてくれるように頼んだのだ。
 同時に、もう一つある仕事は。

――来た、合図だ。

「ミリー、いつまでソイツと話してんのさ」

 ちらり、とミリーが後ろ手でサインを送ってきたのを見てつぐみは声をかける。もうコイツから聞き出す情報はないから、会話を終わらせるきっかけを作ってくれ――というサインだった。もちろん、ミリー一人でも会話を終わらせるくらいどうということはないのだろうが、ここはつぐみがその役目を負った方がスムーズに行くだろう。
 中年男はすっかり酒と会話で上機嫌になり、ミリーのファンになっている様子である。ならば、今後も情報源として利用できるかもしれないし、機嫌を損ねる可能性は少しでも排除したい。ツレに呼ばれたのであれば、少くともミリーの印象がマイナスになることはないという打算があった。

「あ、ごめんねつぐみ!おじさん、ごめんなさい。私達そろそろ行かないと……」
「あー……ああ、そうか。残念だなあ。もっと話してたかったのに」

 男は何故か、つぐみを見て一瞬眼を泳がせた。なんだろう、その反応は。蔑んだでもなく、ただ驚いたといった顔である。もしかして何処かで会ったことでもあったのだろうか?まるで見覚えのない顔なのだが。

「私もです。また今度続き、お願いしますね?」

 しかしつぐみの疑念が形になるより先に、ミリーに微笑まれて男はまたデレデレ顔に戻ってしまう。男にひらひらと手を振ると、ミリーはこちらに駆け寄ってきた。そして、再び声をかけてくる。指向性スピーカーを使っているということは、人には聞かれたくない話ということだ。

「つぐみ、協力ありがとうね。おじさんのおかげで大分わかったよ。やっぱり本多政紀は、シェルを引き取ってすぐここに通いつめるようになったみたい。……来た時にはもう、シェルはあんな姿だったんだってさ」
「あんな……って包帯だらけってことか」
「そう。……元々いい噂のある男じゃなかったみたいだ。サディストで、女をとっかえひっかえしてるってのは有名な話だったらしいし。その上本人は小物というか小悪党というか。シェルを見せびらかして自慢するためだけにこのクラブにも来てるっぽいから、みんなに嫌われてるんだって。経営者のヤクザとコネもあるせいで、みんなあんまり関わり合いにもなりたくないみたい」

 クズだね、と。ミリーはあっさり切り捨てた。普段のミリーからは考えられないほど、冷たい声である。

「さっさと死ねばいいのに」

 思わず、つぐみは背筋が寒くなった。このクラブに来て、シェルの姿を見つけた時。ミリーはどうするのかと思ったら――しばらくシェルの姿を遠目で見つめて、ただそれだけで何もしなかった。てっきり声をかけると思っていただけに、意外ではあったのだけれど。
 一瞬。ほんの一瞬、腹の底から冷えるようなあの感覚は――つぐみは永遠に忘れられそうにない。
 ミリーはただ、シェルを、正確にはシェルの向こう側にいるであろう政紀の姿を見つめていただけだった。それだけだったのに――。握り締められた手と、視線と、全身から立ち上った殺気で、直接それを向けられたわけでもないつぐみが震え上がることになったのである。
 本物の憎悪というものを、つぐみは生まれて初めて知ったのだった。同時に――ミリーがあれほどまでに、誰かを憎むことができる存在であるということも。

「……どうするのさ、ミリー。シェルをこの場で連れ去るのは、さすがに無理でしょ?第一、シェルは契約で縛られてるし、あの首輪もあるし……」

 今日は本当のところ、聞き込みと情報収集ができればそれで良いくらいの気持ちだったのだ。実際にシェルと政紀の姿を確認できたのは運だったとしか言い様がない。よって、つぐみも本当に彼等に遭遇した場合どうするのかはミリーから聞いていなかったし、特に作戦も考えてはいなかったのである。
 というか。作戦立案とか、自分が一番苦手とする範疇にあるのだ。いかんせん、悲しいほどに頭脳戦に向いていないつぐみである。脳筋という言葉がこれほどまでに似合う女がいるだろうか、いやいまい。自分で言ってて切ないけども。

「……つぐみは、どうするのがベストだと思う?」
「それ、アタシに聞いちゃう?わかってて聞いちゃう?」
「あはは、ごめんごめん。一応聞いてみた方がいいかなって」
「もう、馬鹿にしてるだろー」
「だからごめんってばー」

 ミリーは笑っている。――眼がまったく笑顔でないのが、怖いったらない。

「手は考えてるよ、上手くいくかはわからないけどね」

 そんなつぐみの胸中を知ってか知らずか。ミリーは淡々とした声で告げる。――あれほどの憎悪を隠し持ちながら。どうしてそこまで平然とした風を装えるのだろう。仮面を被れるのだろう。
 辛くはないのか、なんて。聞くだけ野暮なことではあるが。

「ひとつだけ訊いていい、つぐみ」
「なに」
「……もし、私が。人を殺したらどうする?」

 つぐみは返答に詰まった。野暮だ。それこそ野暮な質問ではないか。もし、ではなくて。最初からきっと、ミリーはそれ以外の選択肢など考えてはいないのだろうに。

「アタシは……」

 そして野暮であっても。これは、答えなければいけない問題だとわかっている。

「アタシは、考えるよ。馬鹿だけど、馬鹿なりに。……どうすれば、あんたが幸せになれるか、考える。……多分その前に、動いちゃうんだろうけどさ」
「そっか」

 ミリーは何を思ったのだろう。つぐみのそんな答えを訊いて、今度は作った顔ではなくて――いつもの、どこか幼いような、頼りないような、呆れたような顔で、笑ってみせたのだった。

「やっぱりつぐみは、馬鹿だねぇ」

 その顔の方が、まだあんたらしいよ、と。心の中だけで、つぐみは呟いたのだった。正直に伝えることは美徳だ。褒める言葉であるなら尚更そうだ。つぐみはそう考えているし、嘘を吐くのはこれからもヘタなのだと思う。空気を読むのだって、きっとこれからも苦手なはずだった。
 それでも、分かってしまうことがあるのは、不幸なことであったのかもしれない。
 馬鹿という言葉で褒められるだなんて。その理由なんぞ、出来ることなら知りたくなかった、そんなつぐみがいた。

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