夜明けのエンジェル

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<第三十五話>

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 シェルはずっと、葛藤していた。
 ミリーが助けに来てくれる。そう信じて待つことは、希望と同時に絶望でもあったのだ。ずっと、誰かに助けを求めることは恥だと信じていたし、囚われのヒロインになどけしてなるまいという矜持もあったのである。自分を特別優れた存在だと思ったことなど一度もない。ただ特別尖った個性を持っていただけ、だからこそ。誰にも助けを求めず、自分の身は自分で守り、常に誰かを守り続ける側に立ち続けることが唯一絶対にして、シェルが誰かに誇れることであったのである。
 そもそも、だからこそ。自分は逃げることなく、本多政紀の元に来ることを選んだのだ。
 もしかしたら、拒否しようと思えばやり方はあったのかもしれない。それこそ、あの現場で本多政紀に怪我をさせてしまえば、きっと“出来損ないの廃棄処分”という形で逃げることができた。もしくは、対面日を理由をつけて無理矢理休むなり、成功したかどうかはともかく雄大に直談判して拒否させてもらうということもできなくはなかったのだ。それら全てをやめて、運命を受け入れようとしたのは。むしろ、世界に受け止められない運命を知ってしまっていたから。同時に、愛する存在を守りたかったからに他ならない。
 自分が本多政紀に選ばれれば、ミリーは難を逃れることができる。
 たとえ、自分が廃棄処分などの形で逃げられたとしてもだ。政紀が別のホープ・コードを選んで連れ帰ってしまうことは充分に有り得たのである。それはクリスだったかもしれないし、シオンだったかもしれない。ミリーだった可能性も充分にある。それだけは絶対、避けるべきことだったのだ。
 自分が小汚い手で穢されるより。ミリーが、あの純粋無垢で自分の聖域のような存在が穢される方が、千倍耐え難いことだと思った。それなら、二度とミリーに会えずとも、籠の鳥になろうとも、毎日暴力と拷問と陵辱の繰り返しで心が壊れようとも――その方がずっと、ずっとマシなことだと。守る側に立って壊れるなら、本望ではなかろうか、と。
 政紀の存在がなくとも、自分が愛する人とは未来永劫結ばれることなどないのだ。
 結局自分は、自らの恋を諦める理由が欲しかっただけなのかもしれない。だってそうだろう。結局、耐えられると思ったはずのことに耐えられていない。ミリーと一番最初に結ばれたかったのにそれが叶わなかったことも。望まない子供を身篭った挙句堕ろされたことも。毎日嗤いながら好き勝手に切り刻まれ続けることも。ミリーの代わりにと自ら被った筈のそれらに、自分はたった五ヶ月で耐えられなくなりそうなのである。
 死にたいなんて、考える資格もない。ただ、覚悟が足りていなかったからこんなことになったわけで――わかっている、全ては自業自得というものなのだ。結局こうして、守りたかったはずの人の助けを待ってしまうようでは本当にどうかしている。そう、最後まで自分に覚悟があったなら。ミリーから貰った発信機など、さっさと捨ててしまえば良かったのである。
 自分は弱い。この世の誰よりも、弱い。
 守ると決めた。助けなど求めぬと決めた。それなのにこんなにもあっさり心が折れそうになっている。そして――今。愛しい人の顔を見て、迎えにきてくれた存在を見て。嬉しいと思ってしまうなんて、愚かにもほどがあるではないか。



「シェル、ごめんね。……助けにきたよ」



 黒髪黒目に変装していても、美里屋と名乗った女がミリーであるとすぐに分かった。分からないはずがなかった。動揺を隠すために必死で目を逸らして、自分を保とうとしていたら――停電。暗闇の中で抱きしめられて、耳元で囁かれた。そして――自分は、歓喜と絶望に震えながら――その手をとったのである。
 そう、とってしまった。もう取り返しのつかないことなど山ほどあると、知っていたのに。



「み……ミリー、本当に……」



 政紀の屋敷は広かった。出口まで一直線で逃げるには、あまりにも障害が多すぎる。停電させて、その場にいた人間達の目をくらませたはいいものの。停電が続いた時間はさほど長くはない。二分程度で、予備電源がついてしまった。二人にできたことは、なるべく出口に近い物置部屋に身を潜めることくらいである。

「遅くなってごめんね、シェル。本当は、もっと早く助けに来たかったんだけど」
「な、何を……」
「五ヶ月。五ヶ月もだよ。……辛かったでしょう。頑張ったでしょう。もっと早く、助けてあげられなくて、ごめん」

 ミリーは声を潜めながら、本当に申し訳なさそうに言う。訳がわからなかった。シェルにとっては、助けが来たこと自体が奇跡だというのに。何より。

「……五ヶ月も?……違うだろう。私は、たった五ヶ月しか……耐えられていないんだぞ」

 政紀は得意げに何度も話をしてくれた。自分のまえの、二人のアンドロイドのこと。エレーンとカガリ。彼等もまた、自分と同じように暴行され、ストレスと欲のはけ口にされて死んでいったということを。
 特にカガリのことは、衝撃的すぎた。彼ないし彼女は、結局一度も助けを求めることなく、心を壊して処分されたのだという。一年だ。カガリは、心が壊れるまで一年間、理性を保ち続け、政紀に屈しなかったのだそうだ。――自分はそのようにはなれない。それと比べて自分はなんて弱いのかと、シェルは己に失望せずにはいられなかった。

「あの男が、対面日よりも前の時点で……私に興味を持っていることは分かっていた。奴は最初から、私を連れていくつもりでいたんだ。反抗的そうで、プライドの高そうな女をいたぶって心を折るのが大好きだと言っていた。私は高橋に予めそれを知らされていたが……逆らうことをしなかったんだ。私が逃げ出したら、お前達が……特にミリーが、奴の餌食になるかもしれないと思ったら、耐えられそうになかったから」
「知ってる。……私を護ろうとしてくれたんだよね。高橋さんから全部話は聞いたよ」

 そういえば、ミリーは高橋と一緒に来ていた。高橋を殴り倒してここにいることを考えるなら、てっきり高橋を騙してここに連れてこさせたのかと思っていたが。

「高橋さんはね、ずっと悩んでたんだって。シェルがきっと酷い目に遭わされてだろうってわかってたけど、何も出来ずに引き渡してしまったから。本当にこれで良かったのか、って。でも自分がいなくなったら、ホープ・コードは今まで以上にもっと、道具や機械人形としか扱われなくなる。心がある存在なのに、それだけは駄目だから……って」

 ミリーは語る。確かに、あの会社の中で、自分達を人間同等と扱ってくれていたのは雄大ただ一人だけだった。他の人間達は一様に、自分達をただの機械や道具として扱った。今なら、その理由も分からないことではない。
 自分達を人間と見なしたら、辛くなるだけだから。初めて会う相手に、無理矢理嫁がせ、あるいは婿入りさせ、子供を作らさせ、無償の奴隷のように働かせることも厭わない。人間だと思ったなら、人権侵害どころの騒ぎではないはずだ。自分達がそのような罪に加担していると思わないようにするためには――雄大の考え方はあまりにも、人間にとって苦しすぎるものだろう。

「だから、少しだけ協力してくれるようにお願いしたの。私に脅されて協力させられたって形にすれば、高橋さんはきっと罪には問われないからって。高橋さんは反対したよ。でも、私は高橋さんのことも……助けたかったから。わざと殴って、気絶させて、置いてきた。これできっと、状況から見ても……高橋さんは、脅された被害者ってことにできる。あとが本人が私を庇わないでくれたら、最高なんだけどね……」
「停電は……どうやったんだ」
「この屋敷の周りって、森とか田んぼばっかで他の建物なんて殆どないからね。巻き込まれたら申し訳ないと思いつつ、屋敷に繋がる電線を掘り返して、私のご主人様に切断してもらったの。今電線はほとんど埋め込み式になってるし、森の中のは土を掘り返して塗装剥がせばいいだけだったから簡単だったな。予備電源がつくまでに脱出できるのが理想ではあったんだけどね」

 あっさりとミリーは言ってのける。そう、言うだけなら簡単なのだが。実際はそんな単純な話ではないはずだ。念入りに準備して――いや、ミリーが自分を発見したのもせいぜい、二ヶ月そこら前だったはずである。たった二ヶ月程度で、ここまで準備を終えてきたということなのだろうか?だとしたら――怪物だとしか、言いようがない。

――やっぱりそうだ、こいつは……。

 知っていたはずのことを、改めて認識させられる。
 ミリーは怪物なのだ。大切な存在の為なら、自分以外の誰かの為なら、どこまでも非情になれるし凄まじいセンスを発揮してくれる。
 他人の為なら、悪役にもヒーローにもなれる。それが、ミリーという存在。一体この子の本質に、何人の人間が、アンドロイドが気付いていただろうか?

「私を、護ろうとしてくれたんだって。わかってたよ。……高橋さんに話を聞く前からなんとなく、そんな気はしてた。だってシェルがいつも一生懸命になってくれるのって、私のことばっかりだったんだもん。って、言ったら自惚れになるかなあ」

 そんなことはない、とシェルは首を振る。同時に、気づかれていたと知ってなんだか気恥ずかしくなった。いつもミリーのことばかり見て、ミリーのやることなすことに余計な口出しばかりしてきた自覚はあるのである。
 多分そのせいで。ミリーが自分自身のこととなると、無意識に気がゆるみすぎて――失敗がさらに増えてしまったのだろうなということも。

「嬉しかったよ。でも、同じくらい悲しかった。だってさ、シェルは……私がどんだけシェルのことが大事なのかって、大切なのかって、信じてくれなかったってことでしょ?」
「そんなことは……」
「だって信じてくれてたならさ、分かったはずじゃん。シェルが苦しんで、傷ついて、もしも壊れたりしたら。それで、シェルを大切に思う私が……ううん、私だけじゃない。私達みんなが、どれだけ悲しむことになるのか。……ねえ、思いつかなかった?」
「……」

 そう言われてしまうと、反論は難しい。
 彼らの心を信じていなかったわけではない、と思う。だが、彼等がそこまで自分のことで心を痛めてくれるのか、想像がついていなかったのは事実だ。ならばそれは、信じていなかった、と言われても仕方のないことなのかもしれない。



「私の世界の、一番最初にシェルがいるんだよ。シェルがいなかったらそこはもう、私の世界じゃないんだ」



 まだ、涙を流すには早いと知っている。
 それなのに、思わずにはいられない。視界が滲むのを止められそうにない。
 どうしてこの子は、こんなに自分の心を掬い上げて、救い出してくれるのだろかと。



「行こう、シェル。私達の世界を取り戻しに」



 部屋の外で、バタバタと人が走り回る音がする。ここが見つかるのも時間の問題だろう。チャンスはそう多くはない。シェルはただ、頷いて――滴り落ちた雫を拭った。
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