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前編

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「っ…っ…ん」
「シッ…みんなに聞こえちゃうよ」
シンと静まったバスの一番後ろの座席で、濃密な空気が流れる2つの影。

――なんでこんなことに…
与えられる愛撫に溺れながら、彼氏が居ない私に起きた甘いひと時の始まりを思い出した。



***************



新卒で入った会社に勤め始めて10年。ベテラン正社員として仕事に行って帰って寝るだけの生活に慣れた頃、私――富士川紗英ふじかわさえは、リフレッシュを兼ねて1人で思い切って旅行に行く事にした。
"贅沢2度の葡萄狩りとワインの王国へ 夢のひとときを"
きっかけは…ポストに入れられたチラシにはそう書いてあって、そういえば最近旅行にも行っていないな、と気がついたらチラシに記載されているホームページに応募していた。

8月下旬のまだまだ日差しが強く、暑さが濃いある日の早朝。麦わら帽子に白いシャツと肩紐のある青いロングスカート、高さのある厚底のサンダルを履いて、ナチュラルブラウンのセミロングをおろしたままの私は、キャリーバック片手に駅の中を歩いていた。
今日はバスツアーの日で、平日に行われるツアーの日は溜まっていた有給を消化して参加する。
「近未来観光のバスツアー参加の方はこちらでーす!」
大きな駅のバスターミナルに到着すると、大型バスがいくつかあった。メールを見ながら、指定された場所へと向かうとツアー客を呼び込むバスガイドさんがいた。
赤い制服に帽子を被ったバスガイドさんは、"近未来観光"と書かれた黄色い三角の旗を掲げて、大型バスの出入り口で待っていた。バスガイドさんの前まで行き、予約した時に送られてきたメールを見せると、
「…富士川様…富士川様…はい、ありました…では、キャリーケースはお預かりいたしますので、バスにお乗りくださいませ、出発は30分後を予定しております…バスの座席は好きな所へと座ってください」
30名ほど載っているリストの紙から、私の名を探して蛍光マーカーで印を付けた。
バスに乗るとツアー客がまだ集まっておらず、数名いるだけだった。横に2列の座席は細い通路を挟んでもう2列あり、縦にも10列ぐらいの長さがあって所々に折り畳まれた補助席が付いている。一番後ろは1列にくっついており、私は空いていた一番うしろの右手の後部座席へと座る事にした。窓際に座り隣の席に手荷物を置くと、私の反対側の窓際に男性の乗客が座っている事に気がついた。
バチッと目が合ってしまったので軽く会釈をすると、相手も会釈をする。30代後半くらいの男性は、キリッとした眉と一重の目、少し大きな鼻、熱い唇と太い首、座席よりも大きな体格を窮屈そうにして座っていて、白いポロシャツと黒いスキニーパンツを履いている。白いポロシャツから覗く腕は太くて黒い腕時計をして、乗客の腕も足も太くて私の2倍はありそうだ。
あまりじろじろと見るのも失礼かと思い、出発時間までまだ時間があったので、前を向いて自分の身なりを整える事にした。




「間もなく、山梨県へと入ります、これから向かう先は――」
バスが出発する事2時間、途中高速道路のパーキングエリアで休憩を挟みつつ、目的地の山梨県へと入った。バスガイドさんの名は吉田よしださんで、このツアーの添乗員として同行する。
これからの予定は葡萄狩りの後にお昼を食べて、ワイナリーに行ってお土産を見て、最後にホテルへと向かう流れとなっていて、そのまま翌日まで個人のフリータイムとなる。
大きな片道二車線道路から、市内へと行くにつれニ車線道路に変わっていく。景色も山々から葡萄狩りや桃、梨の直売所の看板が増えていく。
減速したバスが左へと曲がると、緩やかな傾斜を上りきり駐車場で停車した。
「では、本日葡萄狩りをします"あすなろ葡萄園"さんに到着しました、前列の方からのゆっくりと下車してください」
吉田さんの言葉で立ち上がったり、乗客の声で騒がしくなった車内。私もおりる準備を始めて立ち上がると、反対側に座っていた彼も立ち上がった。ほぼ同時に通路へと足を入れてしまい、ぶつかりそうになる。
「っ!」
「おっと」
驚いて後ろへと足を踏むとバランスを崩してしまい、座席へと身体が倒れそうになる。その時に私の右側から背後へと回った逞しい腕が、座席に倒れそうになった私を支えてくれた。
「…あ、ありがとうごさいます」
両手を胸の前に曲げていた私は、顔を上げた。すると、目の前には反対側に座っていた彼の顔を間近に見て、驚きで目を見開いた。
「…大丈夫ですか?」
――すごい…推しの声に似てる…低い声が心地いい…ずっと聞いていたい…
私が大好きでハマっているアイドルグループの低音担当の子の声にとても似ていて、胸がドキドキとする。
先に行くように促され、ペコリと頭を下げて先に通路を歩く。
バスを降りると、すでに葡萄園の入り口には人が集まっていて、吉田さんが説明をしている。
「籠とハサミを受け取ってくださーい!葡萄の見分け方ですが、ハサミを入れる時に房の付け根の枝を見てください!枝が茶色くなっているのが完熟の証です!緑色も大丈夫です!では…こちらを」
軽く葡萄狩りのポイントを告げた吉田さんは、葡萄園の人と一緒になって籠とハサミを参加者に配っていく。バス側に居た私と彼にも渡すと、吉田さんが
「わからない事があったら声掛けてください」
そう言ってまた葡萄園の入り口へと立った。
「今から1時間、葡萄狩りを始めまーす!食べれる量だけ取ってください!後ほどお土産に葡萄を別に渡しますので!食べれる量だけ取ってください!」
ゾロゾロと参加者が入り口横から、葡萄の並ぶ木へと移動を始めて葡萄狩りがスタートしたのだった。


いくつか葡萄がある木を見て、一房取ってはその場でもぐもぐと食べる。
――小ぶりを選んだけど、一房食べたらお腹いっぱいになるなぁ
もう一房食べたら終わりにしようかと思って、美味しそうな葡萄を探して見つけたら、葡萄と枝の間にハサミを入れた。が、最初にハサミで切った時とは違い、とても堅くて枝が切れない。枝が上にあるから腕を伸ばさなくちゃいけないし、ちゃんと挟めているか見えない。切るのに苦戦していると、私の手の横からハサミを持った大きな腕が2本伸びて、私が切ろうとしていた葡萄の枝がパチンと切れた。
落下する葡萄を大きな手が受け止めて、私の前に出された。
「…え…?」
葡萄から背後へと視線を向けて振り返ると、大きな胸板が視界に入った。視線を上げるとそこにいたのは、さっきのバスの中で私を支えてくれた人で、
「…これ、欲しかったヤツですよね」
「…あ…ありがとう…ございます」
葡萄を受け取り籠へと置くと、彼の籠には葡萄があった。
「…良かったら、一緒に食べませんか?…その、1人じゃ肩身狭くて」
と頭を掻いた彼に言われ、周りを見渡すと、殆どがペアで行動していた。
「…はい」
気まずいとか、寂しいとか思ってなかった私は、1人ぼりぼり葡萄を食べている所を見られたと思って、顔が赤くなり恥ずかしくなった。


「…金田郁也かねだいくやです、よろしく」
「富士川紗英です、よろしくお願いします」
葡萄園の入り口付近に設置された、丸い白いテーブルに籠を置いて、お互いの自己紹介をした。
金田さんは今年34歳の酒の卸売の営業マンで、仕事に夢中にならずに、溜まった有給休暇を消化するようにと、上司に言われ、なら、お酒関連の勉強も兼ねてリフレッシュしようと、このツアーに参加したらしい。
――営業マンにしては、怖い顔だけど
「…お酒の卸売先は繁華街もあるので、タッパあった方がいいんですよ」
疑問に思っていた事が私の顔に表れてしまったのか、金田さんはそう説明した。
「すいません…そんなつもりじゃ」
「はは、いつもここまでがよくあるやりとりですので…富士川さんは…?」
と言われ、私も軽く自己紹介をした。
「私は今年33歳の商社で働く事務員です、私も有給休暇でリフレッシュしたいと思ってこのツアーに参加しました」
その他にも今彼氏が居ない独身だったり、趣味は映画鑑賞と推しのグループを言った所で、喋りすぎたと反省した。
「って…すいません、私ばっかり」
営業マンって話が得意な人のイメージだったけど、聞き上手でもないとお客の要望が分からないらしい。
「いや楽しいですよ」
その後に彼も恋人が居ない事、趣味は利き酒と淡々と言って、私達は葡萄を食べながら他愛のない話を続けた。


「紗英…隣いい?」
葡萄狩りも終わり、バスに乗ると自分の座席に戻ってすぐに、郁也から隣の席に座っていいかを聞かれた。乗り込む時に吉田さんと話していたのは、この事だろうか。
お互い歳も近い事から、今日会ったばかりだと言うのに、自然と名前で呼び合うようになったのだ。
「…うん、私は大丈夫だけど…郁也、席移動いいの?」
「ああ、さっき吉田さんに確認した」
郁也が私の隣に座ったら、彼の太い太ももが膝掛けの下まで広がり、肘掛けが少し上がる。私がもう少し動いたら、彼の足に触れそうだ。そして、肘掛けに腕を置いた彼の腕にも触れそうになって、なんだかドキドキする。
「みなさん、揃いましたので、出発をします!シートベルトの着用を忘れないで下さい」
そう言ってバスが出発をした。

「学生時代はラグビーをやっていて、筋トレはもう生活習慣みたいになってるな」
「だからすごい筋肉なんだ」
バスが出発してしばらくすると、さっきの葡萄園の話の続きになり、彼の腕が私の右側に少しだけ出ているので、二の腕に触れたら固くなっている。肘を掛けたまま彼の左手がパーに開いたので、何となく彼の手のひらの上に私の手のひらを重ねたら、私の手よりも2回りも大きくて驚いて、くすくすと笑っていると、彼の手の指が曲がり私の手を包んだ。
「小さっ」
そう言って私の手をぎゅっ、ぎゅっと握る。固い皮膚が私の手に当たり、自分とは違う感触に変な気持ちになる。指を少し動かすと指の隙間から郁也の指が入り、指が絡まって私の手の甲に彼の指先が当たる。恋人繋ぎになったけど嫌な気持ちなど起きなく、むしろ照れ臭い感じがする。お互い無言でぎゅっ、ぎゅっ、と指先に力を入れてると、肘を曲げた郁也が、私の手の甲にキスをした。私は擽ったくて彼の腕に頭を寄せると、私の手の甲への口づけは再開された。
ちゅっ、ちゅっ、と離れては、くっついていた唇から、私の指先へと移動して口づけが始まる。指1本1本軽く触れて、彼の口の中へ指の爪が入る。5本の指が彼の口の中に順に入り出て、手の甲に移動して舌を這わす。熱くてヌルッとした感触が、ゾクゾクと背筋に悪寒が走る。彼の腕から頭を上げて彼を見上げると、じっと私を見つめていた彼の瞳と視線が絡まる。熱のこもった眼差しに、ぼうっと見惚れていると彼の顔が近寄り、私はそっと瞳を閉じた。
最初から私の口内に入った彼の舌は、ブラックコーヒーと微かに食べた葡萄の味が混ざる。私の内頬と上顎に舌を這わし、傍若無人に動き回る彼の舌に自分の舌を絡めると、強く吸われ舌の付け根が痛い。
「っ、ん」
くちゅくちゅと水音が聞こえ、頭の中に響いてこのキスしか考えられなくなる。息をしようと顔を動かすと、郁也の右手が私の頬に添えられ、動かせないようになった。キツく吸われた舌が痛い、けど濃厚なキスを止めようとは思わなかった。私も左手を上げると、私の頬に触れる彼の右手首を掴んだ。
じゅるっと、口内の唾液を飲まれて、彼の口が私の口から離れると、肩で息をしながらお互い見つめ合った。郁也の親指の腹が私の濡れた唇のラインをなぞると、軽く触れるだけのキスをして郁也の顔が私から離れた。前を向いた彼は、何度か座り直すと、背もたれに背を預けた。郁也の左手と私の右手は繋いだまま彼の腕に頬をつけて、次の昼食会場へ到着するまで頬の熱を冷ましていた。


「…美味しい!」
ほぼ貸切状態のレストランの食堂で、山梨県名物の熱々のほうとうを食べる。郁也は豚肉のほうとうとおにぎり(梅・鮭・おかか)3個セットで、私はかぼちゃのほうとうを注文した。ほうとうはツアー料金の中に入っているが、他を注文する場合別途支払う仕組みだ。
お茶碗の取り皿にほうとうを入れ冷ましながら食べていると、直接小鍋から豪快にほうとうを食べる郁也を見惚れてしまう。
「…どうした?」
「…その取り皿貸して」
私の視線に気がつくと、彼からお茶碗の取り皿を受け取り、自分のかぼちゃのほうとうをよそった。彼に渡すと、
「ありがと」
と言って受け取る。
「…うまいな、濃厚だな」
「そそ、美味しいんだよ」
私があげたかぼちゃのほうとうを急いで食べた郁也は、空になった取り皿に自分の注文した豚肉のほうとうを入れて私に渡す。
「…ありがとう…ん!美味しいっ!」
私が注文したほうとう料理とは違った味を堪能しながら、楽しい昼食は過ぎていった。


「こちらのワイナリーは、1976年――」
本日の最終目的地のワイナリーに来たバスツアー客は、ワイン醸造所に来た。ワインの歴史と製作過程を説明を聞きながら、オレンジ色の明かりしかない薄暗い地下の少し肌寒いワイン貯蔵庫へと移動していく。何十個も横になった大きな樽が並べられ、樽には数字が印刷され蛇口がそれぞれついている。バスの座席順みたいに、私と郁也は後ろから付いていく。もちろん、恋人繋ぎをしている。トイレに行く以外はほとんど一緒に居て、身体のどこかは密着している。
――なんだろこれ…今までの彼氏とは違う…嫌にならないし離れていると寂しいし、落ち着かない
5年ほど彼氏が居なくて、独り身が長すぎたせいだろうか。チラッと彼を見上げると、ワイナリーの案内人の話を聞いている。なんとなく彼の腕に自分の腕を絡めて寄りかかった。

壁際にはワインがずらりと並ぶ。樽をテーブル代わりにして立ち飲みをしているツアー客。私と郁也は壁際の樽テーブルの前で、並んでワインを飲んでいた。
「こちらはこのワイナリーのオリジナルブランドの白ワインでございます」
ソムリエがワインを手に持って各テーブルに置かれた、試飲用のプラスチックのミニワイングラスに注いでいく。
「…どれも美味しいな」
「うん…迷うな」
全6種類の試飲ワインはどれも美味しいけど、購入しても全ては飲めない。どれにしようか迷っていると、樽テーブルの上に置いた手の上から彼の手が重なった。
「これ、記念に全種類買おうか…2人で会う度にあけよう」
耳元にそっと囁く声は、色っぽくて頬が赤くなってしまう。
「…一緒に…?」
思わず甘えた声が出てしまい、彼を見上げる。
「そうだ」
そう言って彼は、さっと私の唇に軽く口づけをすると、部屋の隅に控えていた黒いベスト姿の従業員に声を掛けた。



「この後の予定ですが、夕飯は19時から3階の"菊の大広間"
で始まります…先程渡したチケットをお持ちください、でないとブッフェ会場には入れません、そして明日は10時にチェックアウトなので、明日の10時にここで集合いたします」
駅に程近い近代的な20階建のホテルに16時を少し過ぎた時に到着して、ルームカードキーと部屋の説明が書かれているしおり、そしてブッフェ会場の参加券を貰い、ツアー客はホテルのロビーで解散した。
わらわらと居なくなったツアー客。隣にいた郁也は自分のボストンバッグを肩に掛けて、右手に私のキャリーケースを持って歩き出したので、私は彼に付いていった。
「同じ…階だな」
「そうだね」
と話しながら歩きエレベーターに乗り込むと、2人きりになった途端に腰を引かれ郁也密着する。当たり前となった彼の腰に腕を回して、逞しい胸板に頬をつけると何故か安心した。
特に何か喋るわけでもなく目的の階に到着すると、まずは彼の部屋へと向かった。

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