Boundary Clash

菱公太

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第1章 深緋の衝撃

第8話

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あきらはこの後どうする? 弓道場に行くなら、途中まで一緒に行こうぜ」

「最近は顔出してない。それに、これから照音寺しょうおんじに行くんだ」

 放課後、といっても終業時刻にはかなり早い午後二時。一、二年生と三年生の若干一名はこれから部活動に励むのだろうが、慧たち三年生は下校する者がほとんどだ。
 
 多くが塾に向かう一方で、就職予定の者やサボり魔たちは、これから仲富なかとみに繰り出そうなどと平日午後の素晴らしい過ごし方について激論を交わしていた。

「そうか……今日はか。悪い、気付かないで」

「全然。気にすんな。部活頑張れよ」

「おう。じゃあな!」

 ばつの悪そうな顔も、別れの挨拶は必ず笑顔でするのが誠也せいやの流儀だ。

 軽く手を振って踵を返す。背負っているエナメルバッグは、どうやってファスナーを閉めたのか分からないほどギチギチに膨らんでいた。

 それでも彼の健脚を阻むほどの重さはないようで、誠也は「今日はこれからだ」と言わんばかりに、颯爽と駆けていく。

 部活に向かう親友を見送る。背中で語る男に憧れはあるものの、威厳や強さ、ましてや魅力などを感じさせる自分の後ろ姿を、まるで想像できない慧だった。

 誠也のエナメルほどではないが、慧は隙間なく教科書を詰めたスクールバッグを肩にかける。重みでバランスを崩しそうになった。

 ふと、屋上で後輩から言われたことを思い出す。


 ”今のうちに聞いておいた方がいいですよ”


 目だけで件の少女を探した。友人たちと談笑中で、しばらく動きそうにない。

「…………」

 一瑠いちるの進路。

 慧が尋ねなくとも遅かれ早かれ知ることになるだろう。もしかしたら、明日の送別会で後輩の誰かが訊くかもしれない。
 
 ただ、知ったところでどうするのか。どうすればいいのか。どうするべきなのか。どうしたいのか。
 
 自分の「おもい」が一体どういう形をしているのか。それをどう扱ったらいいのか。

 なに一つ分からないまま、決めないままここまできた慧は諦めるように、昇降口へ向かって引きずるように足を踏み出した。


 階段を下っていく慧。数人の生徒が横を追い越していった。

 いつもより足取りが遅く肩の荷が重いのは、教科書を満載したバッグのせいだと自分に言い聞かせる。
 
 それでも階段が午後の太陽光を反射するたび、生意気な後輩の言葉が頭の中でこだました。

 今日という日とこれから向かう場所のことを考えると、いい加減不謹慎なのかもしれない。俯いて、長い長い下り坂と自分の情けなさにうんざりした。

ようやく最初の踊り場に到着し、折り返したところで、タッタッタと特別耳に響く足音が聞こえた。

「慧」

 一つ上の踊り場。そこには、友人たちと談笑していたはずの一瑠がひとりで立っていた。

 肩にかけたスクールバッグは膨らみがなく綺麗な直方体を保っており、ほんの少しだけ上下しているように見える。

「おう、どうした?」

「たまたま。帰るのが見えたから」

 そう言って、一瑠は早足で階段を降りてくる。ほんの数秒ではあるが、一瑠を待つ時間が気恥ずかしくて、慧はバッグを持ち換えて時間を稼いだ。

 彼女が来るのを見計らって歩き出す。


 放課後の校舎は生徒たちの気配で溢れかえっていた。学校から解き放たれた桐葉生たちは部活や塾、遊び場などそれぞれの目的地へ向かって動き出している。

 制服を着て一体感を出しながらも、生徒たちがバラバラに校舎を闊歩する光景は、空港やターミナル駅のような賑やかさがあった。
 
そんな雑多な雰囲気も、真横にいる少女の気配に上書きされてしまい、慧は全く感じ取れない。

 視界の端に見え隠れするスカートと綺麗な黒髪。小さな上履きが階段に刻む二拍子。うっすらと漂う日焼け止めの香り。

 高校生の慧にとっては、どれもありふれた日常の一部だ。それでも、押し寄せてくる瀬理町一瑠の気配は、彼が普段感じている“個の刺激”とは異質なものであると、早まる動悸が訴えかける。

 高校生最後の夏休み、その二日前。この特別を自覚し、名前を付けるにはいささか遅すぎたのかもしれない。慧はふと、そんなことを思う。

「あのさ」

「あのね」

 慧と一瑠は同時に口を開いた。周囲の喧噪に埋もれそうな弱い声だったが、お互いに聞こえていたようで思わず顔を見合わせた。

「お先にどうぞ」

「ううん。慧からおねがい。そっちのほうがいい気がするの」

「──そうか。じゃあ」

 一瑠にバレないよう、静かに息をしてから尋ねる。

「……進路。そういえば一瑠の進路を聞いてないなと思って。志望校とか、もう決まってるのか?」

「……うん。決まってるよ」

 一瑠の勿体つけたような答えに違和感を覚えつつも、後に退けない慧はさらに続ける。

「どこか聞いてもいいか? ちなみに俺は──」

「地元の国立、でしょ」

「知ってたのか? いや……誠也から聞いたな」

 慧は屋上での誠也の態度を思い出した。一秒後に待ち受ける未来に、心の内から不安が湧き出るのを感じる。


「実はわたし、留学しようと思ってるの。アメリカ」


 停止する思考。「留学」という言葉がしきりに頭の中で反響する。慧の頭と心がを示していた。

「…………へえ、留学か。すごいな」

 慧は人生で初めて「頭が真っ白になる」ということを経験した。仮に別々の進路だとしても、県外の大学くらいだろうと思っていたからだ。

 階段を下る間、一瑠は留学を決めた理由や詳しい時期について話していたようだったが、慧の頭にはその一切が入ってこなかった。

 相づちも返事も、歩くのでさえも慧の意識の外で自動的に行われていた。


 気が付いた時には昇降口にいた。

一瑠が下駄箱の蓋を閉めるバタン、という音で慧はようやく我に返る。

「だから、大丈夫。時間があれば帰ってくるし、連絡もする。だから、大丈夫だよ」

「そう……だよな。お土産、期待してる」

「ふふっ、任せて」

 明かりが消されて薄暗い昇降口は、放課後とは思えないほど静かで、周囲には二人だけ。ローファーを履いた一瑠が、つま先で地面を軽く叩く音だけが響いた。


 情報化が進む現代社会において、コミュニケーションの手段は多く、地理的な制限は少ない。離れた場所にいても気軽に誰とでも会話し、関わりを持つことができる。

 だが、海外ともなれば話は別だ。距離が遠いだけでなく、時間や環境、そこで暮らす人々の価値観がまるで違う。

 数秒の遅延で繋がれるとしても、互いに共通・共有するものが少なくなれば、おのずと心の距離は開いていく。

 そんな、誰でも想像できるような現実を振り払った慧は、一瑠の「大丈夫」という言葉に言い表せない寂しさを感じ、急いで靴に履き替え彼女の後を追う。

 しかし、一瑠は既に昇降口を出ていて、真夏の日差しの下にいた。慧の方を振り返っているようだが、光が強くて表情が窺えない。
 
 目は合っているはずだが、肝心の黒曜の双眸は見えず、髪が風になびいてキラキラと乱反射している。

 一瞬、普通にしていても光の靄が見えるようになってしまったのかと思ったが、慧の目に痛みはなく、ただ眩しいだけのようだ。

「わたしは部活に顔出してから帰る。今日は慧のお母さんとお父さんの命日でしょ。これからお墓に行くの?」

「──っ、ああ。このまま行こうと思ってる」

「そう。じゃあまた明日」

「……ああ。また明日」

 別れの挨拶を静かに交わすと、一瑠は光の中へ消えていった。慧はしばらくその場に立って外を見つめていたが、その眩しさに目が慣れることはついぞなかった。
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