虎と僕

碧島 唯

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 あの日は急に雨の降った夕方だっただろうか。
 まだ小学生になったばかりの僕は、ダンボール箱の中で鳴いていた子猫を拾った。
 雨に濡れて震えている子猫を抱きかかえて、家に連れ帰ったら怒られるだろうか、捨てて来いと言われてしまうだろうかと迷いに迷って、家に着く頃には僕もずぶ濡れになってしまっていた。
「冬樹、何やってるの?
 ずぶ濡れじゃない早く家に入って……、あらそれは?」
 子猫が母に見つかって、怒られるかと思ったら、僕の腕の中から子猫を抱き上げてさっさと奥に入って行ってしまった。
「やーん、かわいー。
 目がくりくりしてる。
 あ、冬樹、風邪引くから早くお風呂に入りなさい。
 濡れた服は洗濯機の中に入れてね」
「……はぁい」
 子猫を母が気に入ったみたいなのに気が抜けて、そのまま風呂場に行くと洗面器がなくなっていた。
「お母さん、洗面器がない──」
 バスタオルで身体を巻いただけで母を捜すと、台所の床に洗面器が置かれ、お湯で子猫を洗っているのが見えた。
「あとで持っていってあげるから、早く入りなさい。
 風邪引くわよ」
 結局シャワーで身体を流してお風呂に入って待ってても、洗面器は戻って来なかった。 僕がお風呂から上がってパジャマで台所に行くと、母の腕の中でタオルで拭われていた
子猫がにゃーと鳴いていた。
 そして、洗面器はその母の足元にまだあった。
「あ、茶色の縞々だったんだ」
「そうね、汚れてて分からなかったけど、綺麗な縞模様ね」
「あのね、お母さん……。
 その子猫、飼ってもいい?」
「お母さんに名前付けさせてくれるならいいわよ」
 僕に笑いかけて頷く母に、飼ってもいいんだと、嬉しかったのを今でも覚えている。

「あの頃は可愛かったよなぁ……小さくてふわふわしてて──なぁ、虎さん」
 餌をやりながら、今ではすっかり大きくなった猫の背中に声をかける。
 食事してるとこを撫でると怒られるので、背中を眺めているとしっぽの先でピッピッと返事をしているのが目に入った。
 餌を食べ終わって満足したのか、前足を舐めながら僕を片目で見ている猫が立ち上がって膝の上でごろんと寝そべる。
『今でも可愛いと思うんだがねぇ、ほら撫でてもいいぞ?
 それより、さん付けはやめろ。
 まるでどこかのフーテンみたいに聞こえる』
 鳴き声の代わりに聞こえる声は、この膝で寝そべる猫からだ。
 長く生きてるからか、この家に住んでるからなのか、あの時拾った子猫は今ではすっかり人語を解する猫になってしまっていた。
 しっぽが分かれているのは見た事が無いので、猫又になったのかどうかまでは確認していない。
 そして、この虎の言葉が聞こえるのは今のところ、どうやら僕だけらしい。

 母が付けた名前は【虎】、見事なトラ縞の模様と、その年は阪神を応援していたから、らしい。
 でも、僕は覚えている。
「ちいと虎とどっちにしようかしら」
 芸能人のなんとかという人の、【ちいぶらり】とか言う町を散歩する番組を見ながら母がそう呟いていたのを。

「なぁ虎、お前さ、ちいって名前と虎って名前とどっちが良かった?」
『──虎で十分満足してる』
 ちら、と僕を見上げて欠伸をする猫。
 撫でろというようにしっぽで催促するので、頭の後ろから背中を撫でてやる。
『──冬樹の膝も飽きたな、秋音か夏海は帰ってないのか?』
「まだだよ」
『仕方ないな、冬樹で我慢しておこう』
「──我慢ね……いいけどさ」
 撫でて、足が重さで痺れそうになる頃に、秋音が帰って来た音が玄関からした。
「たっだいまー」
 パタパタとスリッパの音がして、台所に来た秋音が僕の背中から手を伸ばして虎を撫でる。
「ちょっと、秋姉っ、重いだろっ」
 背中に圧し掛かる重みに文句を言ってみた。
 だが、重さはしっかりとあるけど、背中に当たって痛いのはアバラの感触だろうか?
 にゃーと虎が鳴いて僕の膝から降りて、秋音の足元に擦り寄っていく。
「ただいまー虎ちゃん」
 虎をひょいと抱き上げてぎゅっと抱き締める秋音。
『うーん、やっぱり抱かれるなら女の子だねぇ』
 ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえる、このオヤジめ。
 秋音の胸でごろごろと頭を擦り付けて満足そうにしている虎、こうしていると飼い主に甘えている飼い猫にしか見えない。
『しかし、やっぱり秋音より夏海の方が抱かれ心地はいいよねぇ』
 この、スケベ。
 相変わらずオヤジだな、と思いながらも虎の言う通りではあると、秋音の胸元と虎の顔とを眺める。
 確かに虎のいうことにも一理ある、というか、悪いが秋音と夏海の胸では比べ物にならないだろう。
 あの二人は言わば両極端、巨乳と貧乳のいい例だ。
 まぁ、秋音を貧乳呼ばわりはあんまりかも知れない、虎が満足そうにごろごろしているんだ、真っ平らではない──はずだ。
 だから、かも知れないが虎が一番擦り寄っていくのは夏海だ。
 そして、重いとうちの姉たちが虎を抱くのを敬遠されないように、体重をいつもベストにして、毎日の散歩も雨の日以外は欠かさないというのを僕は知っている。
 そう、餌を入れすぎたりすると虎に怒られるのだ。
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