異世界の猫は悪役令嬢に恋をする

N.R

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出会い

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草の匂いと、風の音がする。

風が枝葉を揺らし、涼やかに林を抜けていく音が、耳の奥に心地よく響いている。
足元の苔はしっとりと柔らかく、歩くたびにふわりと沈んだ。
銀色に近い白の毛並みが、風にそよぐ。

「……」

自分は――猫だった。
正確には、“猫だった存在”。

前世の記憶は、輪郭が曖昧になりつつあるけれど、忘れたくない場面がひとつだけある。
それは、自分が最期の瞬間を迎えたとき。
温かい部屋、淡く差し込む光。そして、小さな手が、ずっと自分を撫でていた。
あの子は泣いていた。何度も名前を呼びながら。

――さみしいよ、いかないで。

そう言われて、自分はなんとか手を伸ばした。鳴こうとしたけど、声は出なかった。

(……幸せだったなぁ)

思い返すたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。あたたかくて、ちょっとだけ、切ない。
やさしい日々。何気ない寝転がる午後。缶詰を開ける音に跳ね起きた夜。すべてが、宝物だった。

だけど――。

(……これからは、どうやって生きればいいんだろう)

もうあの子はいない。
あの世界にも戻れない。

銀に近い白の毛並みは、前世の面影をどこか残しているけれど、この世界の“自分”は、猫でもあり、猫ではない。
“ケットシーの血”が混じっているらしい、というのは、魔力の気配や森の精霊たちのささやきで知った。


猫と、ケットシー――この世界の精霊種のひとつ――の間に生まれた混血の存在。

魔法も、何となく使えるようになってきた。
風と氷が、特に馴染む。きっと、空と静けさが好きだからだ。

魔法を使う感覚は心地よく、自然と馴染んでいた。

けれど、何のために生まれ変わったのか、自分にはまだ見当もつかない。
魔法の使える猫だからといって、特別な使命があるとも思えない。

――そんなことを考えていたときだった。

「……!」

鼻がひくりと動いた。
風の中に、やわらかな香りが混じっていた。
薔薇の香り。でも、それだけじゃない。もっと深く、凛とした気配。魔力だ。相当なものを持っている。

――そして、なぜだろう。鼓動が早くなった。胸の奥が、ざわりと熱を帯びた。

その場にじっとしていられず、林を抜けて小道を進む。足音を殺しながら、風の流れを読む。

ほどなくして、視界が開けた。湖のほとり。水面が陽光を反射し、きらきらと輝いている。

そして――そこに、彼女はいた。

ふわりと揺れる金の髪。白と藤色のドレス。

背筋を伸ばした姿勢と、手にした杖の構え。

――美しい。冷たいほどに、美しい。
けれど、ただの貴族令嬢ではない。
杖の先には魔力の輪が生まれ、風が少女の周囲で渦を巻いていた。

魔法の訓練……いや、違う。
あれは、怒りだ。抑え込んだ感情が魔力となって、周囲を巻き込んでいる。
彼女の中にあるのは、悲しみ、悔しさ――そして、憎しみ。

「……!」

突然、風が暴走し始めた。彼女の魔力が、制御を失いかけている。

まずい――。

シエルは本能で動いていた。風の流れに逆らい、湖畔へ飛び出す。
魔力の波を読み、氷の魔法で空気を冷やし、揺れる魔素を押さえつける。

パァンッ、と音を立てて、風が弾けた。

湖面に波紋が走り、少女の足元から魔力が静まっていく。

沈黙。
水面の揺れが、遠くの木々に反射する。

「……誰?」

彼女が、こちらを見た。

凛とした表情。けれど、目元にほんのかすかに驚きが浮かぶ。

「……猫?」

ゆっくりと歩み寄り、しゃがみ込む。
シエルはその場に座ったまま、じっと彼女を見返した。

「……しゃべりは、しないのね」

ぽつりと、そう言って微笑んだ。

「魔法が使える猫、なんて初めて見たわ。でも、助けてくれたのは……あなたよね?」

声は穏やかだった。でも、その奥には、何かがこもっていた。
誰にも言えない何かを、ずっと胸の中に抱えている人の声だった。

「……いいわ。少しくらい、話し相手がいても」

少女はそっと、シエルの頭を撫でた。
その手の温かさに、シエルは懐かしさに似た何かを覚える。

「名前は?」

問いかけに、シエルは答えなかった。――答えられなかった。

少女は一瞬だけ首をかしげ、それからふと笑みを浮かべた。

「……じゃあ、私がつけてあげる」

少し考えてから、空を見上げる。

「“シエル”。空っていう意味よ。銀色の毛並みが風に揺れる様子が、空に似てると思ったの。……それに、なんとなくそんな雰囲気がしたから」

“シエル”――。そう呼ばれたその響きが、胸の奥にすっと染み込んでいく。
名をもらうということが、こんなにうれしいなんて思わなかった。

「ねぇ、シエル。今日から、あなたは私の猫よ」

少女――リラ・フィオナ・グランベルはそう言って、ふわりと笑った。

それは、心からの笑顔ではなかったかもしれない。
けれど、仮面のような微笑みの隙間から、わずかにのぞいた素の感情――それが、シエルには、何よりも美しく見えた。

(……この人のそばにいたい)

この胸の高鳴りはなんだろう。
それが恋なのか、忠誠なのか、まだわからないけれど――

シエルはゆっくりと、彼女の足元に身を寄せた。風がまた、やさしく吹いた。

こうして、リラとシエルの物語が始まった。

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