花びらは掌に宿る

小夏 つきひ

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赤①

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「隣、いいですか?」
声を掛けてきたのは紺色のスーツを着た30代くらいの男だった。カフェのカウンター席で夜景を眺めていた時だ。他に席が空いているにも関わらずわざわざ断りを入れてから隣に座ろうとする事を嫌に感じた。数分経つと男は話し掛けてきた。
「出張で今日来たばかりなんですけど、この辺でいい店知りませんか?」
「知らない」
「そっか、残念だな」
腕時計で時間を見ると9時すぎだった、10時の閉店時間まではここに居るつもりだったのにまた話し掛けられるのを避けたくて席を立つことにした。
「ちょっと待って」
快活な声で呼び止められた。
男は手に青いポーチを持っていた、それは私の物だった。いつのまにか落としていた。受け取ろうと手を伸ばすと男は笑みを見せて、席に再び座るよう掌で促した。返す様子がないため一旦席に座った。
男は鞄から小さなノートを取り出して何かを書き始めた。
“ 佐伯 洋介 ”という名前が見えた。
携帯電話の番号まで書き終えるとその1枚をちぎり取り私のポーチを勝手に開けて中に入れた。
はい、どうぞと言って差し出す笑顔の男を睨みつけてポーチを片手で掴み取った。
「あっ」
奪ったポーチが当たってアイスコーヒーのカップが床に勢いよく落ちた。跳ね返ったコーヒーが男のズボンと靴を濡らしてしまった。
「そっちが悪いんだから」
余計な事をするからだ、という視線を浴びせてその場を後にした。
男と再び会う事になったのは1週間経ってからだった。あの手のナンパはこれまで何度もあった、いつもならコーヒーを引っ掛けようが何とも思わない。でも、そっちが悪いと言ったもののやはりあれはまずかったと後悔する自分がいた。ポーチに入れたメモを捨てられず電話を掛けた。スーツを汚したクリーニング代を渡すと言って会う約束をした。


「また会えて嬉しいよ」
「これ、いくらか分からなかったから大体だけど」
そう言ってお金を入れた封筒を渡した。 
「これは要らない。けど、お詫びにランチ付き合ってくれない?」
「そんな事言われても」
封筒をもう一度差し出したが男は受け取ろうとしなかった。結局食事することになり、次に会う約束までしてしまった。
「出張で来てるって言ってたけど、いつ帰るの?」
「ああ、あれは嘘」
「嘘?」
「話し掛ける口実。あのカフェで後ろ姿を見たときにピンときたんだよ。顔を見て当たりだって思った」
「何それ」
「言っとくけど、しょっちゅうしてる訳じゃないよ。足元にポーチが落ちてたのはラッキーだったな。あれがなかったらこうして会う事はなかったかも」
「要するにナンパだったって事ね」
呆れた顔をして見せたが、心のどこかでほっとしていた。何度か会ううちに私達は交際し始めた。2年経った頃、洋介は言った。
「あゆみ、今度うちの両親に会わないか?」
「それって…」
「結婚考える年齢だろ?俺ももう34だし、良い頃合いじゃないかと思って」
素直に嬉しかった。言葉に出さないでいたけど、我が儘な自分を受け入れてくれる洋介には感謝していた。断る理由などなかった。
「来週あたりどうかな?うちの両親に紹介してから、あゆみの家へ挨拶に行くよ」
「わかった」
それからは今までになく心穏やかな日が続いた。洋介とこれからずっと一緒に居られる。こんなに幸せな事はない、そう喜びを噛み締めていたーーーーー


日曜日なら父親も家にいると聞き、翌週には手土産を持って洋介の実家に向かった。想像していたよりも立派な家構えを見て緊張した。
「ねえ、この服で良かったかしら」
「大丈夫だよ。意外とそんな事気にするんだな」
洋介はからかうように笑った。
「気にするわよ」
インターホンを鳴らして暫くすると女性の声で応答があった。ドアが開くと上品な格好の母親が出てきた。優しそうな顔を見て少し安心した。
「いらっしゃい、待ってたのよ」
「初めまして、横山あゆみと申します」
「綺麗な人ね。さあ入って」
「お邪魔します」
リビングに案内されて手土産を渡すと母親はお茶を淹れると言ってキッチンに入って行った。掃除が徹底された綺麗な室内にはアンティークな調度品が並んでいる。壁には花々が描かれた絵画が飾ってあり洋介の普段のイメージからはかけ離れている。
「親父は?」
洋介はジャケットを脱ぎながらキッチンの母親に声を張って尋ねた。
「急な会合が入ったとか言ってさっき出て行ったわ。あゆみさんでしたっけ、紅茶は好き?」
「はい、好きです」
端々に彫刻が施された深い茶色をしたテーブルに母親はティーポットとカップを3人分置いた。
「なんだよ、親父いないのかよ。何のために来たんだか」
洋介は足を伸ばして腕組みをした。
「仕方ないでしょ、大事な取引先との話なんだから。それに私がいるじゃない」
「まあ、そうだな。親父とはまた今度ゆっくり会えばいいか」
足に何かが擦れる感触がして思わず洋介の方に身を寄せた。その正体は猫だった。真っ白な長い毛並みに青い瞳、所々グレーが混じり尾を煙のように揺らめかせている。ゆったりとした動きで母親の元へ近付き見上げるとひと声鳴いて何かを求めた。
「あらアリスちゃん、お昼寝から覚めたのね」
母親はソファに座ると紅茶をカップに注ぎ始めた。「用意しておいたケーキ、すごく美味しいから是非召し上がって」
「ありがとうございます」
父親が不在だと知って洋介は気を緩めているようだ。猫は母親の両手が塞がっているのを見て洋介の膝に飛び乗った。私は自分から何かを話した方がいいのか迷いながら紅茶を淹れる母親の顔を遠慮がちに見た。さっき猫に驚いて身を寄せた時、母親の目つきが一瞬冷酷なものに変わったような気がしてならない。

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