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第3章 百合たちの戦いは終わらない
#2 杏里、乗り出す
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「ね、どう思う?」
熱いカフェラテの入ったマグカップを口元に運びながら、杏里はたずねた。
公園で少女と出会った日の、翌日の夜のことである。
「そうだな」
テーブルを挟んで、零が頬杖をついている。
月齢のせいか、自慢のストレートヘアもくしゃくしゃで、なんだか寝起きの猫のような顔をしていた。
杏里は仕事から帰ってきたままの白いブラウスと黒のタイトスカート、零はグレーのスウェットの上下という出で立ちだ。
さっき杏里が入れたばかりなので、暖房はあまり効いていない。
「ちょっとまとめてみるね。私に調査を頼んできたのは、足立唯ちゃん、14歳。中村区にある八重山中学の2年生。失踪したのはその姉で、足立仁美さん、20歳。那古野外語大学の2年生。実家はすぐ近くなんだけど、20歳になった記念に一人暮らしをしたいというので、仁美さんだけ単身別のマンションに移ったってわけ。なんでも引っ越したのはつい4日ほど前のことで、唯ちゃんは荷物の整理のお手伝いに来てたところらしいの」
メモを片手に、杏里は説明を続けた。
「被害者の仁美さんだけど、姉妹の仲も両親との仲も良好。ボーイフレンドはいるけど、仁美さん失踪の時間帯には、20キロ離れたアルバイト先で家庭教師をしていたというアリバイあり。また、マンションの防犯カメラには、唯ちゃんが退出する姿は映っていたのに、仁美さんの出ていく姿は映っていない。部屋のドアと窓については、物理的な細工を施した痕跡はなかったわ。念のために換気扇も調べてみたけど、前の時みたいに、何かが通り抜けたみたいな跡はなかったなあ。プロペラにうっすらと埃がついたままだったもの」
「密室なんてものは、いくらでも可能性を論じることができるさ」
面倒くさげに言って、零がホットミルクをちびりと飲んだ。
「例えば?」
「合鍵があったかもしれないし、その妹が偽証しているって可能性も考えられる」
「合鍵を持ってたのは家族だけだし、唯ちゃんには偽証する理由がないよ」
「合鍵なんていくらでもつくれるだろ。妹にしたって、心の底では実は姉に恨みを抱いていて、殺した後合鍵で施錠して管理人室に駆け込んだとか」
「零は唯ちゃんに会ってないからそんな勝手なことが言えるんだよ。彼女はそんな二面性のある子じゃないよ」
「私は可能性について述べてみただけだ。それより杏里、いい加減、腹が減ったんだが」
零の瞳の真ん中で赤い点が大きくなっている。
杏里の血を求めている証拠だった。
「もう少し聞いて。怪しいのはこの先なんだから」
杏里はテーブルの上に身を乗り出した。
「まだあるのか」
とたんに零がうんざりした表情をする。
「いいから聞いてよ。きのうあれから唯ちゃんと一緒に仁美さんの部屋を調べたり、管理人さんに会って防犯カメラの録画映像とか見せてもらったんだけどさ、どうもその管理人さんってのが、何か隠してるみたいで気になって…。それで今日ね、署に出勤したついでに記録色々調べてみたら、なんと驚くなかれ、あのマンションに住んでた別の女子大生が、ちょうど1ヶ月前に失踪してるって記録が出てきたじゃないの」
「偶然じゃないのか。それこそ、親に無断で旅行に行ったとかさ」
「でも、部屋も同じなんだよ。その女子大生が住んでたのもメゾン曙の701号室。3週間経っても何の音沙汰もないから、気の短い管理人が一方的に契約を解除して、どうもその後にすぐ仁美さんを入れちゃったってことらしいの」
「法律に抵触しそうだから隠してたのかもな」
「だね。そのへんのことは私詳しくないからよくわかんないけど。とにかく、これ、絶対におかしいでしょ? 同じ部屋に住んでた女性が、わずか1ヶ月のうちにふたりも失踪するなんて、あり得ると思う? あ、それから、こんなのもあるんだ」
杏里は手帳に挟んだ2枚の写真を零の前に並べてみせた。
2枚とも、写っているのはワンルームマンションの一室である。
シングルベッド、電気炬燵、クローゼットだけでいっぱいの狭苦しい部屋だ。
「こっちが1か月前に失踪した佐藤亜由美さんの住んでいた頃の部屋。こっちが仁美さんが住んでからの部屋。佐藤さんのほうは、一応警察も調べたらしく、データベースに何枚か現場写真や本人の写真が上がってたんで、コピーしてきたの。仁美さんのは、きのう私がスマホで撮ったやつ。カーテンやクローゼット、それからベッドの種類と色が違うくらいで、どっちもそっくりだよね。どう見ても、部屋自体にはおかしいところはなさそうでしょ」
「そうかな」
低い声で零がつぶやいたのは、その時だった。
見ると、眠気が一気に吹っ飛んだのか、写真を見つめる瞳に何か妖しい輝きが宿っている。
「杏里、おまえ、得意技は囮捜査だったよな」
顔を上げると、いきなりそんなことを言った。
「う、うん」
要領を得ず、杏里は曖昧にうなずいた。
「じゃ、出番だ。これはおまえ向きの事件だよ」
零の唇がかすかに開き、先の割れた長い舌が現れる。
「となると…どうやら私も、体力をつけておく必要がありそうだ」
音もなく立ち上がる。
部屋を出る時、振り向きざまに杏里を見て、薄く笑った。
「寝室で待ってる。シャワーを浴びたらすぐ来てくれ。裸のままでいい」
熱いカフェラテの入ったマグカップを口元に運びながら、杏里はたずねた。
公園で少女と出会った日の、翌日の夜のことである。
「そうだな」
テーブルを挟んで、零が頬杖をついている。
月齢のせいか、自慢のストレートヘアもくしゃくしゃで、なんだか寝起きの猫のような顔をしていた。
杏里は仕事から帰ってきたままの白いブラウスと黒のタイトスカート、零はグレーのスウェットの上下という出で立ちだ。
さっき杏里が入れたばかりなので、暖房はあまり効いていない。
「ちょっとまとめてみるね。私に調査を頼んできたのは、足立唯ちゃん、14歳。中村区にある八重山中学の2年生。失踪したのはその姉で、足立仁美さん、20歳。那古野外語大学の2年生。実家はすぐ近くなんだけど、20歳になった記念に一人暮らしをしたいというので、仁美さんだけ単身別のマンションに移ったってわけ。なんでも引っ越したのはつい4日ほど前のことで、唯ちゃんは荷物の整理のお手伝いに来てたところらしいの」
メモを片手に、杏里は説明を続けた。
「被害者の仁美さんだけど、姉妹の仲も両親との仲も良好。ボーイフレンドはいるけど、仁美さん失踪の時間帯には、20キロ離れたアルバイト先で家庭教師をしていたというアリバイあり。また、マンションの防犯カメラには、唯ちゃんが退出する姿は映っていたのに、仁美さんの出ていく姿は映っていない。部屋のドアと窓については、物理的な細工を施した痕跡はなかったわ。念のために換気扇も調べてみたけど、前の時みたいに、何かが通り抜けたみたいな跡はなかったなあ。プロペラにうっすらと埃がついたままだったもの」
「密室なんてものは、いくらでも可能性を論じることができるさ」
面倒くさげに言って、零がホットミルクをちびりと飲んだ。
「例えば?」
「合鍵があったかもしれないし、その妹が偽証しているって可能性も考えられる」
「合鍵を持ってたのは家族だけだし、唯ちゃんには偽証する理由がないよ」
「合鍵なんていくらでもつくれるだろ。妹にしたって、心の底では実は姉に恨みを抱いていて、殺した後合鍵で施錠して管理人室に駆け込んだとか」
「零は唯ちゃんに会ってないからそんな勝手なことが言えるんだよ。彼女はそんな二面性のある子じゃないよ」
「私は可能性について述べてみただけだ。それより杏里、いい加減、腹が減ったんだが」
零の瞳の真ん中で赤い点が大きくなっている。
杏里の血を求めている証拠だった。
「もう少し聞いて。怪しいのはこの先なんだから」
杏里はテーブルの上に身を乗り出した。
「まだあるのか」
とたんに零がうんざりした表情をする。
「いいから聞いてよ。きのうあれから唯ちゃんと一緒に仁美さんの部屋を調べたり、管理人さんに会って防犯カメラの録画映像とか見せてもらったんだけどさ、どうもその管理人さんってのが、何か隠してるみたいで気になって…。それで今日ね、署に出勤したついでに記録色々調べてみたら、なんと驚くなかれ、あのマンションに住んでた別の女子大生が、ちょうど1ヶ月前に失踪してるって記録が出てきたじゃないの」
「偶然じゃないのか。それこそ、親に無断で旅行に行ったとかさ」
「でも、部屋も同じなんだよ。その女子大生が住んでたのもメゾン曙の701号室。3週間経っても何の音沙汰もないから、気の短い管理人が一方的に契約を解除して、どうもその後にすぐ仁美さんを入れちゃったってことらしいの」
「法律に抵触しそうだから隠してたのかもな」
「だね。そのへんのことは私詳しくないからよくわかんないけど。とにかく、これ、絶対におかしいでしょ? 同じ部屋に住んでた女性が、わずか1ヶ月のうちにふたりも失踪するなんて、あり得ると思う? あ、それから、こんなのもあるんだ」
杏里は手帳に挟んだ2枚の写真を零の前に並べてみせた。
2枚とも、写っているのはワンルームマンションの一室である。
シングルベッド、電気炬燵、クローゼットだけでいっぱいの狭苦しい部屋だ。
「こっちが1か月前に失踪した佐藤亜由美さんの住んでいた頃の部屋。こっちが仁美さんが住んでからの部屋。佐藤さんのほうは、一応警察も調べたらしく、データベースに何枚か現場写真や本人の写真が上がってたんで、コピーしてきたの。仁美さんのは、きのう私がスマホで撮ったやつ。カーテンやクローゼット、それからベッドの種類と色が違うくらいで、どっちもそっくりだよね。どう見ても、部屋自体にはおかしいところはなさそうでしょ」
「そうかな」
低い声で零がつぶやいたのは、その時だった。
見ると、眠気が一気に吹っ飛んだのか、写真を見つめる瞳に何か妖しい輝きが宿っている。
「杏里、おまえ、得意技は囮捜査だったよな」
顔を上げると、いきなりそんなことを言った。
「う、うん」
要領を得ず、杏里は曖昧にうなずいた。
「じゃ、出番だ。これはおまえ向きの事件だよ」
零の唇がかすかに開き、先の割れた長い舌が現れる。
「となると…どうやら私も、体力をつけておく必要がありそうだ」
音もなく立ち上がる。
部屋を出る時、振り向きざまに杏里を見て、薄く笑った。
「寝室で待ってる。シャワーを浴びたらすぐ来てくれ。裸のままでいい」
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