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第5章 百合はまだ世界を知らない
#25 杏里と女医の謎③
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その個人病院は、大学病院の近くに位置していた。
これで、広大な舞鶴公園をはさみ、被害者の自宅と大学病院、そして摩耶の医院でちょうど三角形をなしていることになる。
「みんな、この一角に集中してるみたい」
JR駅に付随した定食屋で素うどんをすすりながら、杏里は言った。
窓から木々の梢越しに淡いピンクに塗られた建物の一部が見える。
赤い屋根といい、とても病院には見えないたたずまいだ。
敷居の高い外科というイメージを、院長が女性であるということをアピールして払拭しようというのだろうか。
そういう意味では、陣内総合外科は、産婦人科に近いアットホームな雰囲気を醸し出すのに、一応成功している様子である。
「そういえば、おまえが謎の人影を見たっていうのも、この公園だったしな」
かけそばを食べ終え、うまそうに煙草をくゆらせながら、韮崎が言う。
「ええ。あれはいったい、なんだったんでしょうね。臭跡も途中で消えてたっていうし」
「さあな。この公園には森も池もあるから、警察犬もあんまり役に立たなかったんだろうよ」
県内有数のここ舞鶴公園は、杏里にとって、因縁の深い場所である。
昨年の5月、初めて囮捜査官として任に就き、犯人と遭遇したのもこの公園だったのだ。
そしてその時、零と出会い、杏里は不思議な世界に引き込まれることになったのである。
箸を止めて、ふと、零はどうしているだろう、と思った。
この月齢では、昼間から寝ていてもおかしくはない。
朝早くから大学病院に出向くだけでも、さぞかし大儀だったに違いないからだ。
モウの出番だ、とか言ってたけど、夜になったらあの妖怪を連れて活動を再開するつもりなのだろうか。
杏里は、シェアハウスに住みついた、例のもふもふの黒い靄を思い出した。
あれのどこが犬なのだろう?
零はなんて呼んでたっけ?
トウテツ?
でも、トウテツって何?
「よし、行くか」
アルミの灰皿で吸殻をもみ消し、韮崎が腰を上げた。
昼食にこの店を選んだのは、禁煙ではなかったからだ。
だから店の中はあちこちから上がる紫煙でいがらっぽい。
公園の生垣に沿って数十メートル歩き、道なりに曲がって住宅地に入ったところに、正面入り口があった。
ガラス張りの小奇麗な入口に、『陣内総合外科クリニック』なる看板がかかっている。
「クリニックねえ。まあ、”医院”よりはそのほうが入りやすいってことか」
「”総合”ってことは、たぶん整形外科もやってるでしょうから、若い女性を意識してるのかも」
そんな会話を交わしながら、自動ドアをくぐり、受付に立った。
待合室のソファはあらかた埋まっている。
予想通り、女性の患者が多いようだ。
「こういうものだが。陣内摩耶先生はおいでかな」
警察手帳をかざして、韮崎が口を切った。
「申し訳ありません」
顔を上げたのは、眼鏡のよく似合う若い看護師だ。
「先生は先ほどから手術に入っておりまして…。別の刑事さんたちが午前中にお見えになりましたので、お話はもう済んだのかと」
別の刑事とは、当然、三上たちのことだろう。
「では、その手術が終わるまで、待たせてもらおうか」
「それが、けっこうな大手術ですから…終了は、深夜になるかと…」
「深夜?」
杏里は、反射的に壁の柱時計に目をやった。
今はまだ午後2時である。
10時間以上かかる大手術って、いったい何なのだろう…?
「しょうがねえな」
病院を出ると、韮崎が肩をすくめた。
「まあ、いいや。おい、笹原、おまえ、帰って寝ろ。ゆうべからほとんど寝てないだろう? 夜になったら連絡するから、出勤はその時でいい」
うれしい申し出である。
今朝がた仮眠室でうとうとしただけだから、正直疲労で肩も腰も頭もいたい。
「え? でも、ニラさんは?」
韮崎が鼻の頭をかき、しわしわと目をまたたかせた。
「俺は署の仮眠室で十分さ。年取ってよかった唯一の点はな、若え頃と違って、睡眠時間が短くて済むようになったことなんだよ」
これで、広大な舞鶴公園をはさみ、被害者の自宅と大学病院、そして摩耶の医院でちょうど三角形をなしていることになる。
「みんな、この一角に集中してるみたい」
JR駅に付随した定食屋で素うどんをすすりながら、杏里は言った。
窓から木々の梢越しに淡いピンクに塗られた建物の一部が見える。
赤い屋根といい、とても病院には見えないたたずまいだ。
敷居の高い外科というイメージを、院長が女性であるということをアピールして払拭しようというのだろうか。
そういう意味では、陣内総合外科は、産婦人科に近いアットホームな雰囲気を醸し出すのに、一応成功している様子である。
「そういえば、おまえが謎の人影を見たっていうのも、この公園だったしな」
かけそばを食べ終え、うまそうに煙草をくゆらせながら、韮崎が言う。
「ええ。あれはいったい、なんだったんでしょうね。臭跡も途中で消えてたっていうし」
「さあな。この公園には森も池もあるから、警察犬もあんまり役に立たなかったんだろうよ」
県内有数のここ舞鶴公園は、杏里にとって、因縁の深い場所である。
昨年の5月、初めて囮捜査官として任に就き、犯人と遭遇したのもこの公園だったのだ。
そしてその時、零と出会い、杏里は不思議な世界に引き込まれることになったのである。
箸を止めて、ふと、零はどうしているだろう、と思った。
この月齢では、昼間から寝ていてもおかしくはない。
朝早くから大学病院に出向くだけでも、さぞかし大儀だったに違いないからだ。
モウの出番だ、とか言ってたけど、夜になったらあの妖怪を連れて活動を再開するつもりなのだろうか。
杏里は、シェアハウスに住みついた、例のもふもふの黒い靄を思い出した。
あれのどこが犬なのだろう?
零はなんて呼んでたっけ?
トウテツ?
でも、トウテツって何?
「よし、行くか」
アルミの灰皿で吸殻をもみ消し、韮崎が腰を上げた。
昼食にこの店を選んだのは、禁煙ではなかったからだ。
だから店の中はあちこちから上がる紫煙でいがらっぽい。
公園の生垣に沿って数十メートル歩き、道なりに曲がって住宅地に入ったところに、正面入り口があった。
ガラス張りの小奇麗な入口に、『陣内総合外科クリニック』なる看板がかかっている。
「クリニックねえ。まあ、”医院”よりはそのほうが入りやすいってことか」
「”総合”ってことは、たぶん整形外科もやってるでしょうから、若い女性を意識してるのかも」
そんな会話を交わしながら、自動ドアをくぐり、受付に立った。
待合室のソファはあらかた埋まっている。
予想通り、女性の患者が多いようだ。
「こういうものだが。陣内摩耶先生はおいでかな」
警察手帳をかざして、韮崎が口を切った。
「申し訳ありません」
顔を上げたのは、眼鏡のよく似合う若い看護師だ。
「先生は先ほどから手術に入っておりまして…。別の刑事さんたちが午前中にお見えになりましたので、お話はもう済んだのかと」
別の刑事とは、当然、三上たちのことだろう。
「では、その手術が終わるまで、待たせてもらおうか」
「それが、けっこうな大手術ですから…終了は、深夜になるかと…」
「深夜?」
杏里は、反射的に壁の柱時計に目をやった。
今はまだ午後2時である。
10時間以上かかる大手術って、いったい何なのだろう…?
「しょうがねえな」
病院を出ると、韮崎が肩をすくめた。
「まあ、いいや。おい、笹原、おまえ、帰って寝ろ。ゆうべからほとんど寝てないだろう? 夜になったら連絡するから、出勤はその時でいい」
うれしい申し出である。
今朝がた仮眠室でうとうとしただけだから、正直疲労で肩も腰も頭もいたい。
「え? でも、ニラさんは?」
韮崎が鼻の頭をかき、しわしわと目をまたたかせた。
「俺は署の仮眠室で十分さ。年取ってよかった唯一の点はな、若え頃と違って、睡眠時間が短くて済むようになったことなんだよ」
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