上 下
22 / 77
第2章 謝肉祭

#3 杏里の家

しおりを挟む
 杏里の住むマンションまでは、学校から歩いて15分はかかるだろう。
 だが、頭が血の上った私にとって、そのくらいの距離はなんということもなかった。
 住宅街に入ると、私は以前杏里に聞いた”煉瓦色の7階建てのマンション”を探した。
 色と階数以外の特徴は、バームクーヘンみたいな形。
 くいしんぼうな私にぴったりでしょ。
 とその時杏里は笑ったものだったが、今はその笑顔すら憎かった。
 杏里は私を裏切ったのだ。
 私のこと、好きだといってくれたのに、あのデイープなキスは何なのだ。
 生まれて初めて他人に心を開いた直後なだけに、私の被ったダメージは激甚だった。
 こういう時、私はつくづく母の娘だな、と実感する。
 煮えたぎるような憎悪とともに、抑えようのない暴力衝動が湧いてくる。
 周りのものすべてをぶち壊してやりたい。
 私をこんな思いにさせる者は、バラバラに引き裂いてやりたい。
 その思いが止まらないのだ。

 マンションはすぐ見つかった。
 他よりその建物だけが、頭抜けて背が高いせいだった。
 建物の正面に立ち、私は杏里の住む6階を見上げた。
 確か、611号室。
 たぶん、あの通路の一番端だろう。
 入り口は呼び出し式のオートロックになっていた。
 杏里を呼び出そうかどうしようか迷っていると、扉を開けて中から老夫婦が姿を現した。
 チャンスだった。
 ドアが閉まる寸前、私はふたりの老人と入れ違いに、中に滑り込んだ。
 飛び跳ねながら脇をすり抜けた太郎を見て、ふたりは一瞬肝を潰したようだったけど、もう後の祭りだった。
 腰をかがめて管理人室の前を走り抜け、階段でいったん2階に上がり、そこから改めてエレベーターに乗り込んだ。
 6階に着いたところで、スマホを取り出し、母に電話を入れた。
「あ、ママ? ちょっと友だちのおうちで一緒に宿題することになってさ、私、きょう、帰り遅くなる。お米は炊いてあるから、夕飯は冷蔵庫の中のもの、適当にあっためて食べててよ。私はお友だちのおうちでおよばれしてくから。うん、太郎の散歩なら、大丈夫。実はね、今、太郎も一緒に連れてきてるの。そんなに怒らないでよ。これ、どうしても今日中に済ませなきゃいけない共同研究なの。あ、でも、その代わり、うまくいけば、おもちゃが手に入るかもしれないんだ」
 最後のひと言が効いて、怒鳴り始めていた母が、急に大人しくなった。
 ーしょうがないねえ。じゃ、おもちゃの手配、頼んだよ。あんまり待てないからねー
 通話を切って、肩でほっとため息をつく。
 母にうそをつくのは命がけだ。
 ばれたらどうなるかわからない。
 けど、こうなると、そろそろ本気で生贄の当てを探さねばならないだろう。
 もちろん、杏里以外の誰かを、である。
 目星はつけてあった。
 動画に映っていたあの女。
 杏里の唇を奪ったあの女が誰かを突き止めて、座敷牢に放り込んでやるのだ。
 ドアの前に立つと、母との会話で鎮静化していた怒りが、またこみあげてきた。
 表札を確かめる。

 小田切勇次
 笹原杏里

 間違いない。
 ふたりの名字が違うのが少し気になるけど、この際そんなことはどうでもいい。
 私はたぎる憤怒の情に任せて、インターホンを連打した。
 電気もついているし、中に居ることはわかっている。
 居留守なんて許さない。
 20回ほど押し続けると、ガチャリとドアが開く音がして、ぼさぼさの髪をした長身の青年が迷惑そうに顔を出した。
「何なんだ? ん?」
 私と太郎をひと目見るなり、あっけにとられたように目を見開いた。
 この男が、杏里の養父なのだろう。
 年の頃は20代後半か。
 繊細な風貌に、銀縁メガネがよく似合っている。
 髪型さえ整えれば、かなりのイケメンといっても通りそう。
「杏里はいますか? 私、大至急杏里に会わなきゃならないんです」
 閉められないうちにと、私はドアの隙間にスニーカーの先を突っ込んだ。
「杏里の友だちなのか?」
 男がしげしげと私の顔を見た。
 ブラジャーみたいなマスクに覆われたふたつの口。
 よく見れば、マスクの上からでもその奇形ぶりは一目瞭然だ。
 男はかなり長い間私の顔を眺めていたが、結局、それについては何も触れず、代わりにこう言っただけだった。
「杏里なら帰ってきているが、しかし、その犬は…」
 話題が自分に向いたことを察知したのか、突然太郎がうなり出した。
 腰を落とし、唇をめくって牙をむき出している。
 母の言葉通り、太郎は同類や女には甘いが、男にはとことん厳しいらしい。
「わかったわかった。今中に入れてやるから、その犬だけはなんとか大人しくさせてくれ」
 どうやら、クールな外見の割に、犬が大の苦手らしい。
「お邪魔します」
 私は太郎を引き連れたまま、土足で家の中に上がり込んだ。
「お、おい、こら」
 男が背中で叫んだが、無視して廊下をずんずん進んでいく。
 突き当りの洋間には誰もいなかった。
 ソファがふたつと、テーブル、そして食器棚。
 あとはテレビがあるくらいである。
 部屋の中を見回していると、カチリと音が響き、左手の壁のドアが開いた。
「…よどみ?」
 顔を出したのは、杏里だった。
 その杏里の姿に、私は思わず唾を飲み込んだ。
 杏里は大きめの白いTシャツを素肌の上に着こんでいるだけだった。
 ふくらんだ乳房の形がそのまま浮き出し、あまつさえ乳首の色まで透けて見えてしまっている。
 Tシャツの丈が十分でないため、裾から下に穿いた薄いピンクのパンティが半分覗いている。
 私は無言で杏里の肩を突いた。
 部屋の中に押し返すと、太郎と一緒に私も中に入った。
 カーペットもカーテンも柔らかな色調の、いかにも女の子らしいこじんまりとした部屋だった。
 窓際にベッド。
 反対側の壁に勉強机。
 あとはクローゼットと本の詰まったカラーボックス。
 それから私がきのう拾ったものとよく似た鏡台がひとつ。
 あちこちに飾ってある熊のぬいぐるみが、杏里の趣味なのだろう。
「どうして返事しないの?」
 後ろ手にドアを閉めると、私はかみつくような口調で言った。
「ラインしたよね? 既読になったから、杏里、読んだんだよね?」
「だって…」
 ベッド脇まで後退しながら、おびえた表情で私を見つめ、杏里が答えた。
「あんまりひどい言葉ばかりだったから、なんて返せばいいか、わかんなくて」
 裏切者。
 娼婦。
 ビッチ。
 淫乱。
 尻軽女。
 売女。
 私が送りつけたのは、そんな罵詈雑言の嵐だった。
 文にする心のゆとりもなく、ただ怒りに任せて吐き出したのだ。
「言い訳するんじゃないよ!」
 私は思いっきり、平手で杏里の頬を張った。
 空気が振動して、頬を押さえ、ベッドの上に倒れこむ杏里。
 太腿が跳ね上がり、Tシャツの裾がめくれあがる。
 そのあらわな下半身を指差して、私は言った。
「さ、太郎。出番だよ」 
 わん!
 太郎が元気よく吠えた。
 そして背中を弓のようにたわめると、一挙動で仰向けに倒れた杏里の上にのしかかっていった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

顔の良い灰勿くんに着てほしい服があるの

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:184pt お気に入り:0

『特別な人』― ダーリン❦ダーリン ―

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:626pt お気に入り:11

だから女装はしたくない

BL / 完結 24h.ポイント:177pt お気に入り:5

秘密の男の娘〜僕らは可愛いアイドルちゃん〜 (匂わせBL)(完結)

Oj
BL / 完結 24h.ポイント:156pt お気に入り:8

女装転移者と巻き込まれバツイチの日記。

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:127pt お気に入り:24

処理中です...