虹とスニーカーと僕

戸影絵麻

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 タマオがへその緒を持って浴室にこもってから、優に一時間は経っていた。その間次郎と麻美はお互い黙ったまま、部屋の隅でまんじりともせず待っていた。麻美はソファの上に寝転がり、ずっと天井を見上げている。次郎はというと、床のカーペットの上に座り込み、壁に背を持たせかけて麻美の貸してくれた文庫本を読んでいた。ドストエフスキーとかいう作家の、えらく分厚い本で、最初の十ページを何度読み返してみても、何が書いてあるかさっぱり頭に入ってこず、いい加減閉口していた。不幸中の幸いだったのは、麻美の態度が軟化し、とげとげしさがとれて妙にやさしい雰囲気になったことだった。一度だけ、麻美は言った。
「次郎、ごめんね」
「ああ」
 と次郎は答えた。
「もういいよ」 
 川に捨てられたスニーカーのことを思い出すと胸が痛んだが、ごめんね、と言ってくれただけで、本当にもう十分だと思ったのだ。
「できました」
 浴室からタマオの声がしたのは、外がすっかり暗くなり、次郎がうとうとまどろみかけた頃のことだった。がば、と麻美が飛び起き、浴室に走った。次郎もあわててあとを追う。
 浴室の中は暖かく、蒸気が立ち込めていた。そのもやの中からタマオの緑色の顔が現れ、言った。
「今、生成してる最中です。安定していないので、今のうちに会ってあげてください。僕の計算だと、おそらく五分ともたない」
 もやが薄れ、浴槽が見えてきた。寒天のような液体に満たされた広い浴槽の中に、肌色のものが沈んでいた。おそるおそる身を乗り出してのぞいてみると、それは海草のように黒髪を広げた女の人の顔だった。だが、目を凝らしてみてもそこに浮かんでいるのは顔と右腕だけで、他の部分はなかった。
「ごめんなさい。僕の今の機能では、ここまでが精一杯でした」
 タマオが泣きそうな声で言った。おそらく腹のあの電子レンジ状の装置からいろいろ出して努力してみたのだろうが、ドラえもん顔負けの科学力にもおのずと限界があったということなのだろう。
「いいの」
 麻美がつぶやいて、糸に引かれるようにふらふらと前に進み出た。
「ママ」
 浴槽の中に身を乗り出し、幼い子供のような声でそう呼ぶ。
 と、動きのなかった女の人の顔がゆっくりとほころんだ。そして、目を開くと、右腕が動き、水面から手首が現れた。
「ママ、会いたかったよ」
 その手をそっと自分の両の掌で包み込み、麻美が優しい声でささやいた。
 だが、そこまでだった。
 ふいにすべてが溶解した。腕も手首も突然粘土細工のように崩れ、顔は溶けて培養液の中に広がって、みるみるうちに薄れて消えてしまった。
 「ママ!」
 麻美が叫び、浴槽の中に両腕を伸ばした。浴槽の中に麻美の涙が滝のように落ちていった。
「ごめんなさい」
 タマオがつぶやいた。
 次郎は動けなかった。
 終わった、と思った。
 失敗だ。
 これですべておしまいなのだ。地球も、俺も、母さんも・・・。
 
「そういえば、宇宙船はどこにあるんだい?」
 タマオと並んで歩きながら、ふと思いついて次郎はたずねた。麻美の家からの帰りだった。
「もちろん、学校だよ」
 元のくだけた口調に戻って、タマオが答えた。
「学校にそんなもんなかったけどなあ」
「ジャングルジムに偽装してあるのさ。光学的カモフラージュってやつで。だって、よく思い出してみろよ、君の学校にもともとジャングルジムなんてなかっただろ?」
 そういえば、と次郎は納得した。公園じゃあるまいし、校庭にそんなものが存在すること自体、おかしいではないか。
「でも、リリジウムが手に入ってよかったよな」
「うん」
 すべてが終わった後、麻美は首からペンダントをはずし、タマオに渡したのだ。、実験がうまくいかなかったので、交渉決裂だと思い込んで意気消沈していたタマオと次郎が驚いたのは、いうまでもない。
 言葉の出ない二人に、麻美は掌を開いて見せ、こう言ったのだった。
「見てこれ。ママの爪。きれいでしょ」
 麻美の白い掌の中に並んでいたのは、桜貝のように美しい五枚の爪だった。
「これがあれば、もうペンダントなんていらないわ。これで明日からあたし、また生きていける」
「ほんとうに、いいのか?」
 今ひとつ信じられなくて、次郎は思わずそう訊いてしまったものだ。
 が、麻美は怒らなかった。それどころか、心の底から幸せに包まれたような笑顔を見せて、言ったのだ。
「ふたりとも、ありがとう。それから、次郎」
「え?」
「明日から、あたしたち、友達だよ。スニーカーは、絶対探して返すからね」
 
 たしかに、それはジャングルジムではなかった。校庭の隅に鎮座したそれは、アポロ宇宙船の月面探査機に似ていた。
 つい二時間ほど前、上ったばかりである。
 しかし、そのときはまるで気づかなかった。
 まさにおそるべし、宇宙人の科学力、だ。
「じゃ、地球を救うの、任せたからな」
 次郎は右手を差し出した。
 タマオのひんやりとやわらかいゴムのような手が、次郎の手を握り返してくる。
「OK。これさえあれば、もう大丈夫」
「あ、この変な靴も返しておくよ。ちょっと惜しい気もするけど、なんか持ってるとまた面倒なことになりそうで」
 次郎は言って、靴を脱ぎ、裸足になる。
 例の黄色い「魔法使いの靴」を差し出した。
「そうだね」
 タマオが目を細めた。これは笑っているのだ、と次郎にもわかるようになっていた。
「お母さんを、大切にね。ああ、それから」
 タラップを上りかけて、途中で次郎を振り返ると、タマオが言った。
「麻美さんのことも、よろしく頼むよ」
「うん」
 次郎は照れて頭をかいた。
「でも、女ってほんとに現金だよなあ」
「たしかに」
 タマオが今度こそ声を立てて笑った。
 次郎の目の前で、宇宙船は音もなく上昇し、学校の上空で一瞬停止したかと思うと、信じられない角度と速度で斜めに飛び、暮れなずむ蒼穹に消えていった。
 あいつ、本当に宇宙人だったんだ。
 次郎は今更のように思い、このことを家に帰ったらどう母に話そうかと考えた。
 たぶん、信じてもらえまい。いや、それどころか、スニーカーを無くしたことでしかられるのが関の山だろう。でも、それでいいのだ、と思い直した。たぶんそれが、俺たちが守った平和な日常ってやつの、あかしなのだろうから・・・。
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