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#6 毒親
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105号室は、通路の一番奥に位置していた。
天井で裸電球がじいじいと音を立てる、薄暗い通路である。
洗濯機と三輪車の間をすり抜けて、塗装の剥げた木製のドアの前に立つ。
表札はなかった。
でも、配置からして、間違いなくこの部屋だ。
大きく息を吸い、インターホンを鳴らしてみる。
中に人は居るはずなのに、何の反応もない。
「夜分にすみません」
もう一度鳴らして、今度はノックしながら声をかけてみた。
さすがにこの夜更け、近所迷惑になると判断したのだろう。
ガチャリとロックのはずれる音がして、5センチほどドアが開いた。
「誰?」
貌をのぞかせたのは、大柄な若い女性だった。
髪はぼさぼさで、グレーのスウェットの上下を着ている。
芙由子はふうっと息をついた。
女の顔に、目立った”悪意”はない。
少なくとも、人に危害を加えるほどの悪意はため込んでいないようだ。
そう判断したからだった。
「あの、ベランダに居る女の子、お宅のお子さんですよね?」
女がドアを閉めないうちにと、早口で芙由子は言った。
単刀直入すぎるかと一瞬後悔の念が心をよぎったけれど、のんびり自己紹介から始める気分ではなかった。
「何なの? まさか、児相の人?」
女の口調が尖った。
警戒するような顔つきになっている。
「違います。ただの通りすがりの者ですが、どうしても気になって」
「何なの、それ? 児相でも警察でもないのに、なんで赤の他人がひとの家庭のことに首をつっこむわけ?」
女の眉間にしわが寄る。
こめかみに静脈が浮き出ていた。
「あのままじゃ、彼女、死んじゃいますよ」
芙由子の肩越しに、巧が言った。
「そうしたら、あんたは殺人者だ。それでもいいんですか?」
感情を押し殺した、冷たい声。
「はあ? あんなの、ただのしつけだよ。あいつが遊んでばかりで、ちっとも勉強しないから。死ぬなんて、何を大げさな」
女の眼が般若のそれのように吊り上がる。
だが、巧は引き下がらない。
「今夜は吹雪が舞っている。気温はおそらく零度近いでしょう。なんならあなたが代わりにベランダで一晩過ごしてみたらいかがですか?」
「な、なんだって?」
女はヒステリーを起こす寸前だ。
たとえ”悪意”に憑りつかれていなくとも、これは明らかによくない兆候だった。
若いせいか、巧はずけずけものを言い過ぎる。
単刀直入に用件を切り出した芙由子も悪いが、巧の言葉はほとんどむき出しの刃みたいなものだった。
まったく相手の気持ちを斟酌することなく、一方的に弱い部分を責め立てている。
「お願いです!」
ふと気がつくと、芙由子はドアの前に跪いていた。
「この通りです。あの子を中に入れてあげてください」
コンクリートの床に額をすりつけ、懇願した。
「朝比奈さん、何も土下座までしなくたって…」
呆れたように、巧がつぶやいた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ、そんなとこで。近所の人に見られたらどうすんの?」
女がうろたえ出す。
もう少しだ。
芙由子が心の中で、そう思った時である。
ふいに、煙草の匂いにする空気に混じって、冷たい何かが外に流れ出してきた。
芙由子はぞっとなった。
こ、これは…。
底冷えのするような、絶対零度の”悪意”。
と、その冷たい流れを追うように、部屋の中から低い声がした。
「誰だ? 明美、誰としゃべってる?」
天井で裸電球がじいじいと音を立てる、薄暗い通路である。
洗濯機と三輪車の間をすり抜けて、塗装の剥げた木製のドアの前に立つ。
表札はなかった。
でも、配置からして、間違いなくこの部屋だ。
大きく息を吸い、インターホンを鳴らしてみる。
中に人は居るはずなのに、何の反応もない。
「夜分にすみません」
もう一度鳴らして、今度はノックしながら声をかけてみた。
さすがにこの夜更け、近所迷惑になると判断したのだろう。
ガチャリとロックのはずれる音がして、5センチほどドアが開いた。
「誰?」
貌をのぞかせたのは、大柄な若い女性だった。
髪はぼさぼさで、グレーのスウェットの上下を着ている。
芙由子はふうっと息をついた。
女の顔に、目立った”悪意”はない。
少なくとも、人に危害を加えるほどの悪意はため込んでいないようだ。
そう判断したからだった。
「あの、ベランダに居る女の子、お宅のお子さんですよね?」
女がドアを閉めないうちにと、早口で芙由子は言った。
単刀直入すぎるかと一瞬後悔の念が心をよぎったけれど、のんびり自己紹介から始める気分ではなかった。
「何なの? まさか、児相の人?」
女の口調が尖った。
警戒するような顔つきになっている。
「違います。ただの通りすがりの者ですが、どうしても気になって」
「何なの、それ? 児相でも警察でもないのに、なんで赤の他人がひとの家庭のことに首をつっこむわけ?」
女の眉間にしわが寄る。
こめかみに静脈が浮き出ていた。
「あのままじゃ、彼女、死んじゃいますよ」
芙由子の肩越しに、巧が言った。
「そうしたら、あんたは殺人者だ。それでもいいんですか?」
感情を押し殺した、冷たい声。
「はあ? あんなの、ただのしつけだよ。あいつが遊んでばかりで、ちっとも勉強しないから。死ぬなんて、何を大げさな」
女の眼が般若のそれのように吊り上がる。
だが、巧は引き下がらない。
「今夜は吹雪が舞っている。気温はおそらく零度近いでしょう。なんならあなたが代わりにベランダで一晩過ごしてみたらいかがですか?」
「な、なんだって?」
女はヒステリーを起こす寸前だ。
たとえ”悪意”に憑りつかれていなくとも、これは明らかによくない兆候だった。
若いせいか、巧はずけずけものを言い過ぎる。
単刀直入に用件を切り出した芙由子も悪いが、巧の言葉はほとんどむき出しの刃みたいなものだった。
まったく相手の気持ちを斟酌することなく、一方的に弱い部分を責め立てている。
「お願いです!」
ふと気がつくと、芙由子はドアの前に跪いていた。
「この通りです。あの子を中に入れてあげてください」
コンクリートの床に額をすりつけ、懇願した。
「朝比奈さん、何も土下座までしなくたって…」
呆れたように、巧がつぶやいた。
「ちょ、ちょっと、やめてよ、そんなとこで。近所の人に見られたらどうすんの?」
女がうろたえ出す。
もう少しだ。
芙由子が心の中で、そう思った時である。
ふいに、煙草の匂いにする空気に混じって、冷たい何かが外に流れ出してきた。
芙由子はぞっとなった。
こ、これは…。
底冷えのするような、絶対零度の”悪意”。
と、その冷たい流れを追うように、部屋の中から低い声がした。
「誰だ? 明美、誰としゃべってる?」
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