汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

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#7 気配

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 父親だろうか?
 それ以外、考えられない。
 やはり、虐待の中心は、こっちー父親のほうだったのだ。
 それにしても、この悪意…。
 よくない傾向だ。
 このままでは、あの子が危ない。
 まるで、肌がひりつくようなこの感覚。
 芙由子はぎゅっと目をつぶった。
 封印を破り、あの忌まわしい記憶があふれ出しそうになる。
 あの時も、ちょうどこんな感じだった。
 狭いバスの中。
 何も知らずにくつろぐ乗客たち。
 そこにひたひたと純粋の”悪意”が広がっていく…。
「な、なんでもない。ただの保険のセールスだから」
 女が部屋の中の誰かに弁解している。
「セールス?」
 低い男の声に、いぶかしげな響きが混じった。
「こんな夜中に、セールスか?」
 近づいてくる。
 芙由子は眼を開け、顔を上げた。
 どんな男か、ひと目見ておこうと思ったのだ。
「パパ、トイレ!」
 と、突然、幼い男の子の声がした。
 弟? 
 巧は、少女には幼い弟がいると言っていた。
 これがその子の声なのだろう。
 気配が薄れ、足音とともに、悪意が遠ざかっていった。
「わかったよ」
 芙由子たちのほうを振り向くなり、憎々しげに女が言った。
「もう帰っておくれよ。比奈はちゃんと中に入れるから」
「あ、ありがとうございます!」
 芙由子はもう一度、コンクリートに額をすりつけた。
 バタン。
 風が起こり、目の前でドアが閉まる音がした。

 念のため、道路側に回ると、ベランダからすでに少女の姿は消えていた。
「よかったですね」
 すがすがしい表情で、巧が言った。
「でも、正直、びっくりですよ。あなたが、あんなことするなんて」
「大したこと、ないですよ。私にできることなんて、ほかにないから…」
 が、芙由子は巧ほど楽観的な気分にはなれないでいる。 
 あの悪意の主が父親だとしたら、放っておいたら、大変なことになる。
 その強迫観念が、頭から離れない。
「これで終わったわけではないと思う」
 空のベランダを見つめたまま、誰にともなく、芙由子はつぶやいた。
「もっと、根本的な解決法を考えないと…。でないとあの子は、比奈ちゃんは…」
 くりくりした可愛い眼が、まぶたの裏に蘇る。
 助けなきゃ。
 なんとしてでも。
 何があっても。
「もしもの時のために、LINE交換しておきませんか?」
 そんな芙由子の思いが伝わったのか、ズボンのポケットからスマホを取り出して、巧が言った。
「また、きょうみたいなことがあったら、すぐにあなたに連絡します。家庭教師のバイトもひと段落したし、もうすぐ春休みなんで、僕、けっこう暇なんですよ。できるだけ、あの家、見張るようにしますから」
 大学2年生の巧は、芙由子から見れば、10歳近くも年下である。
 なのに、この時ばかりは、ずいぶんと頼もしく見えた。
 実際、芙由子ひとりでは、比奈の家に乗りこむなどという大胆な行動は、まずとれなかったに違いない。
「あ、ありがとう」
 芙由子は素直に頭を下げた。
 偶然とはいえ、この若者に会えて、本当によかったと思った。
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