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#9 日課
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最初の「リン!」で目覚まし時計を止めた。
それ以上鳴らすと叱られるからだ。
押し入れのふすまを少し開け、こちらの部屋に誰もいないのを確かめると、比奈は四つん這いで外に出た。
家族4人は奥の広いほうの部屋で眠っている。
弟の翔太がよほどぐずらない限り、昼近くまで起きてこない。
エアコンのないこちらの部屋は、息が白くなるほど寒かった。
パジャマのまま洗面台に立つと、比奈は伸び上がって自分の歯ブラシを取った。
ずっと使い続けているせいで、毛先が花びらみたいに開いたピンクの歯ブラシである。
歯磨き粉は1ミリ程度しかつけない。
つけ過ぎると、見つかった時、こわいからだ。
丁寧に歯を磨き、手が切れるほど冷たい水で顔を洗う。
赤い蛇口を回せばお湯が出ることは知っているが、それは比奈には禁止されている。
鏡を見ると、幽霊のように青ざめた顔がうすあかりの中に浮かび上がった。
眼ばかり大きい、悲しそうな少女の顔。
きのう父親に殴られた時にできた目の周りの痣は、早くも消えている。
それが更に父親を不機嫌にするだろうことを、経験上、比奈は知っている。
痣の代わりにマジックで目の周りを塗っておこうかとも思ったが、ふざけていると思われるのがオチなので、やめておくことにした。
トイレを済ますと、黄色のクマのぬいぐるみを抱き、部屋の隅の低い子供用テーブルの前に正座する。
テーブルの上に置かれているのは、薄っぺらい算数のドリルと漢字練習帳。
以前、父親がブックオフで買ってきて比奈に与えたものである。
比奈は今年の春で8歳になるが、小学校には行ったことがない。
ずっと昔、ここへ越してくる前は、一時保育園に通っていたことがあるが、今の父親が来てからそれも辞めさせられてしまった。
ぬいぐるみを膝に乗せ、頬を手のひらでパンと叩いてから、ドリルの最初のページを開く。
九九の一覧表のページである。
まだ夜は明けていない。
にもかかわらず、部屋の電気をつけなくとも見えるのは、窓のすぐ外に街灯が立っていて、その光で明るいからである。
「にいちがに、ににんがし、にさんがろく、にしがはち…」
呪文のように唱えていくと、6の段でつっかえた。
気を取り直し、初めからもう一度、やり直す。
つっかえつっかえながら9の段まで終えたところで、家族の起きる気配がした。
起き掛けで機嫌が悪いのか、1歳半になる翔太が泣きわめく。
それをあやす母の声。
翔太がいくら泣いても父は怒らない。
なぜなら、父と母と翔太は本当の家族だからだ。
家族の一員になると、温かい部屋で眠れるし、美味しいものを食べられる。
でも、家族でない者はそうはいかない。
まずは家族として認められることが先決なのだ。
頑張っているところを見せようと、比奈はことさら声を張り上げて九九を暗唱する。
そのうちに、喉がカラカラに乾き、空腹が耐えがたくなってきた。
父の機嫌がいいときは、まれに朝ご飯がもらえることがある。
が、翔太が大きくなってきたせいか、最近では残り物すらも回ってこなくなった。
「おまえを食わせる余裕なんて、うちにはない」
それが父の口癖だ。
「腹が減ったら水でも飲めばいいだろう」
食べ物をせがんでも、そう言われるのが関の山だった。
だから、どうしてもという時には、比奈は蛇口に口をつけて、直接水道水を飲む。
以前、空腹に耐えかねて翔太の離乳食に手をつけたら父に死ぬほど殴られた。
あんなこわい思いは、二度としたくない。
九九も3巡目になると、さすがに集中力が切れて眠くなってきた。
生あくびばかり出て、暗唱が先に進まない。
あふれた涙が鼻に入り、鼻水が出てならない。
我慢できず、比奈はテーブルの上に突っ伏した。
電池が切れたように動かなくなり、すうすうと寝息を立て始めた。
どれほど眠ったのか。
ふすまの開く音に、比奈はぎくりと顔を上げた。
「何をしている」
背後で父の声がした。
今、いちばん聞きたくない声だった。
「誰が寝ていいと言った?」
それ以上鳴らすと叱られるからだ。
押し入れのふすまを少し開け、こちらの部屋に誰もいないのを確かめると、比奈は四つん這いで外に出た。
家族4人は奥の広いほうの部屋で眠っている。
弟の翔太がよほどぐずらない限り、昼近くまで起きてこない。
エアコンのないこちらの部屋は、息が白くなるほど寒かった。
パジャマのまま洗面台に立つと、比奈は伸び上がって自分の歯ブラシを取った。
ずっと使い続けているせいで、毛先が花びらみたいに開いたピンクの歯ブラシである。
歯磨き粉は1ミリ程度しかつけない。
つけ過ぎると、見つかった時、こわいからだ。
丁寧に歯を磨き、手が切れるほど冷たい水で顔を洗う。
赤い蛇口を回せばお湯が出ることは知っているが、それは比奈には禁止されている。
鏡を見ると、幽霊のように青ざめた顔がうすあかりの中に浮かび上がった。
眼ばかり大きい、悲しそうな少女の顔。
きのう父親に殴られた時にできた目の周りの痣は、早くも消えている。
それが更に父親を不機嫌にするだろうことを、経験上、比奈は知っている。
痣の代わりにマジックで目の周りを塗っておこうかとも思ったが、ふざけていると思われるのがオチなので、やめておくことにした。
トイレを済ますと、黄色のクマのぬいぐるみを抱き、部屋の隅の低い子供用テーブルの前に正座する。
テーブルの上に置かれているのは、薄っぺらい算数のドリルと漢字練習帳。
以前、父親がブックオフで買ってきて比奈に与えたものである。
比奈は今年の春で8歳になるが、小学校には行ったことがない。
ずっと昔、ここへ越してくる前は、一時保育園に通っていたことがあるが、今の父親が来てからそれも辞めさせられてしまった。
ぬいぐるみを膝に乗せ、頬を手のひらでパンと叩いてから、ドリルの最初のページを開く。
九九の一覧表のページである。
まだ夜は明けていない。
にもかかわらず、部屋の電気をつけなくとも見えるのは、窓のすぐ外に街灯が立っていて、その光で明るいからである。
「にいちがに、ににんがし、にさんがろく、にしがはち…」
呪文のように唱えていくと、6の段でつっかえた。
気を取り直し、初めからもう一度、やり直す。
つっかえつっかえながら9の段まで終えたところで、家族の起きる気配がした。
起き掛けで機嫌が悪いのか、1歳半になる翔太が泣きわめく。
それをあやす母の声。
翔太がいくら泣いても父は怒らない。
なぜなら、父と母と翔太は本当の家族だからだ。
家族の一員になると、温かい部屋で眠れるし、美味しいものを食べられる。
でも、家族でない者はそうはいかない。
まずは家族として認められることが先決なのだ。
頑張っているところを見せようと、比奈はことさら声を張り上げて九九を暗唱する。
そのうちに、喉がカラカラに乾き、空腹が耐えがたくなってきた。
父の機嫌がいいときは、まれに朝ご飯がもらえることがある。
が、翔太が大きくなってきたせいか、最近では残り物すらも回ってこなくなった。
「おまえを食わせる余裕なんて、うちにはない」
それが父の口癖だ。
「腹が減ったら水でも飲めばいいだろう」
食べ物をせがんでも、そう言われるのが関の山だった。
だから、どうしてもという時には、比奈は蛇口に口をつけて、直接水道水を飲む。
以前、空腹に耐えかねて翔太の離乳食に手をつけたら父に死ぬほど殴られた。
あんなこわい思いは、二度としたくない。
九九も3巡目になると、さすがに集中力が切れて眠くなってきた。
生あくびばかり出て、暗唱が先に進まない。
あふれた涙が鼻に入り、鼻水が出てならない。
我慢できず、比奈はテーブルの上に突っ伏した。
電池が切れたように動かなくなり、すうすうと寝息を立て始めた。
どれほど眠ったのか。
ふすまの開く音に、比奈はぎくりと顔を上げた。
「何をしている」
背後で父の声がした。
今、いちばん聞きたくない声だった。
「誰が寝ていいと言った?」
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