汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

文字の大きさ
10 / 58

#9 日課

しおりを挟む
 最初の「リン!」で目覚まし時計を止めた。
 それ以上鳴らすと叱られるからだ。
 押し入れのふすまを少し開け、こちらの部屋に誰もいないのを確かめると、比奈は四つん這いで外に出た。
 家族4人は奥の広いほうの部屋で眠っている。
 弟の翔太がよほどぐずらない限り、昼近くまで起きてこない。
 エアコンのないこちらの部屋は、息が白くなるほど寒かった。
 パジャマのまま洗面台に立つと、比奈は伸び上がって自分の歯ブラシを取った。
 ずっと使い続けているせいで、毛先が花びらみたいに開いたピンクの歯ブラシである。
 歯磨き粉は1ミリ程度しかつけない。
 つけ過ぎると、見つかった時、こわいからだ。
 丁寧に歯を磨き、手が切れるほど冷たい水で顔を洗う。
 赤い蛇口を回せばお湯が出ることは知っているが、それは比奈には禁止されている。
 鏡を見ると、幽霊のように青ざめた顔がうすあかりの中に浮かび上がった。
 眼ばかり大きい、悲しそうな少女の顔。
 きのう父親に殴られた時にできた目の周りの痣は、早くも消えている。
 それが更に父親を不機嫌にするだろうことを、経験上、比奈は知っている。
 痣の代わりにマジックで目の周りを塗っておこうかとも思ったが、ふざけていると思われるのがオチなので、やめておくことにした。
 トイレを済ますと、黄色のクマのぬいぐるみを抱き、部屋の隅の低い子供用テーブルの前に正座する。
 テーブルの上に置かれているのは、薄っぺらい算数のドリルと漢字練習帳。
 以前、父親がブックオフで買ってきて比奈に与えたものである。
 比奈は今年の春で8歳になるが、小学校には行ったことがない。
 ずっと昔、ここへ越してくる前は、一時保育園に通っていたことがあるが、今の父親が来てからそれも辞めさせられてしまった。
 ぬいぐるみを膝に乗せ、頬を手のひらでパンと叩いてから、ドリルの最初のページを開く。
 九九の一覧表のページである。
 まだ夜は明けていない。
 にもかかわらず、部屋の電気をつけなくとも見えるのは、窓のすぐ外に街灯が立っていて、その光で明るいからである。
 「にいちがに、ににんがし、にさんがろく、にしがはち…」 
 呪文のように唱えていくと、6の段でつっかえた。
 気を取り直し、初めからもう一度、やり直す。
 つっかえつっかえながら9の段まで終えたところで、家族の起きる気配がした。
 起き掛けで機嫌が悪いのか、1歳半になる翔太が泣きわめく。
 それをあやす母の声。
 翔太がいくら泣いても父は怒らない。
 なぜなら、父と母と翔太は本当の家族だからだ。
 家族の一員になると、温かい部屋で眠れるし、美味しいものを食べられる。
 でも、家族でない者はそうはいかない。
 まずは家族として認められることが先決なのだ。
 頑張っているところを見せようと、比奈はことさら声を張り上げて九九を暗唱する。
 そのうちに、喉がカラカラに乾き、空腹が耐えがたくなってきた。
 父の機嫌がいいときは、まれに朝ご飯がもらえることがある。
 が、翔太が大きくなってきたせいか、最近では残り物すらも回ってこなくなった。
「おまえを食わせる余裕なんて、うちにはない」
 それが父の口癖だ。
「腹が減ったら水でも飲めばいいだろう」
 食べ物をせがんでも、そう言われるのが関の山だった。
 だから、どうしてもという時には、比奈は蛇口に口をつけて、直接水道水を飲む。
 以前、空腹に耐えかねて翔太の離乳食に手をつけたら父に死ぬほど殴られた。
 あんなこわい思いは、二度としたくない。
 九九も3巡目になると、さすがに集中力が切れて眠くなってきた。
 生あくびばかり出て、暗唱が先に進まない。
 あふれた涙が鼻に入り、鼻水が出てならない。
 我慢できず、比奈はテーブルの上に突っ伏した。
 電池が切れたように動かなくなり、すうすうと寝息を立て始めた。
 どれほど眠ったのか。
 ふすまの開く音に、比奈はぎくりと顔を上げた。
「何をしている」
 背後で父の声がした。
 今、いちばん聞きたくない声だった。
「誰が寝ていいと言った?」

 
 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

女子切腹同好会

しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。 はたして、彼女の行き着く先は・・・。 この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。 また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。 マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。 世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...