汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

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#15 急転

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 くもったガラスの向こうにピンク色が見えた時には、息がとまるかと思った。
 更にその小さな体が動いて、細い指が曇りを拭い、つぶらな瞳がのぞいた時には、安堵で涙がこぼれそうになった。
 芙由子は柵を乗り越え、狭いベランダにしゃがみこんでいる。
 半分ほど開いたサッシ窓の向こうには比奈がちょこんと座り、ガツガツと菓子パンにかじりついていた。
 よほどおなかが空いていたのだろう。
 次から次へと包装を破っては、貪るように口の中に詰め込んでいく。
 立て続けに3つほど食べ終えてパックの牛乳をごくりと一口飲むと、比奈は可愛らしくゲップをした。
 目の周りのパンダみたいな痣はなくなっていたが、その代わりに唇の端が切れて乾いた血がカサブタになっている。
 やはりあれから折檻されたのだ。
 そう思うと、胸が苦しくなった。
 どうしたら、この子を助けてあげられるのだろう。
 私にしてあげられることは、何なのか。
「きょうは時間がないから、もう行くけど」
 芙由子は手を伸ばして、比奈の小さな手を包み込んだ。
 やわらかいけど、ひどく冷たい手だった。
「でも、ひとつだけ、覚えておいて。どんなにつらいことがあっても、私は火奈ちゃんお味方だから」
 比奈が顔を上げ、不思議そうに芙由子を見た。
 お姉ちゃん、誰?
 そう言いたげなまなざしだ。
「私、近所に住んでるの。だから、また様子を見に来るから。でも、きょうのことは、おとうさんとおかあさんには、内緒だよ」
 長い睫毛をゆっくりしばたたき、比奈がこっくりとうなずいた。
 後ろ髪惹かれる思いで、芙由子は外からサッシ窓を閉めてやった。
 腕時計に目をやった。
 12時35分。
 もう、時間がない。
 休憩は1時までなのだ。
 ベランダから降りようと、おそるおそる鉄柵にまたがった時だった。
 ふいにブロック塀の角から、男が現れた。
 30代半ばくらいの、眼鏡をかけたやせた男である。
 蛇のような眼が、不自然な姿勢で固まっている芙由子の上で止まった。
 その瞬間、芙由子は、背筋が凍りつくような悪寒に襲われた。
 まさか…。
 そんな…。
 が、本能的に悟っていた。
 よりによって、一番まずい相手に見つかってしまったのだ。
 あなた…動物園に行ったんじゃ、なかったの?
「誰だ?」
 つかつかと近付いてくると、芙由子を見上げて男が言った。
「そんなところで、何をしている?」
 間違いなく、ゆうべ聞いたあの声だった。

 
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