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#26 窮地

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 身体中にガラスの破片が突き刺さった。
 痛い。
 痛くてたまらない。
 芙由子は窓の桟からベランダに向かって、腰から上を突き出す格好になっていた。
 その上に男がのしかかり、両手で首を絞めてくる。
 男の肩越しに、部屋の真ん中に茫然と突っ立った女が見えた。
 おんなの胸に抱かれた幼児が、火がついたように泣きわめいている。
 その後ろのふすまの陰から、比奈がのぞいているのがわかった。
 比奈ちゃん。
 ごめん。
 かすむ頭の中で、少女に呼びかけた。
 お姉ちゃん、失敗しちゃったみたい…。
「死ね」
 男の指に力がこもる。
 みしっと首の骨がきしむ音がした。
 空気の流入を断ち切られ、芙由子は陸に上がった金魚のように喘いだ。
 目と鼻の先に、歪んだ男の顔がある。
 目も鼻も口も溶けて、コーヒーに垂らしたクリームみたいに渦を巻いている。
 男が悪意に支配されている証拠だった。
 吹きつけてくる悪意は、饐えたような匂いがする。
 そこに男の腐ったような口臭が混じり、芙由子は吐きそうになった。
 かすむ視界の中で、女が背を向けた。
 泣きわめく子どもをあやしながら、台所のほうへと去っていく。
 子どもの声が外に漏れるのを危ぶんだのか。
 夫の狂態を見るに耐えられなくなったのか。
 どちらにしろ、止める気はなさそうだった。
 いや、止められないことを知っているのだろう。
 人間、ここまで悪意に憑りつかれてしまっては、もう後戻りなんてできないのだ。
 男はおそらく芙由子を絞め殺すまで、この手を緩めないに違いない。
 目がかすみ、絶望で目尻に熱いものが沸き上がった、その時だった。
「うぐ」
 突然、芙由子の上で男が硬直した。
 初め、何が起こったのか、わからなかった。
 生温かいものが、裸の胸に落ちてきた。
 男の腕の力が緩んでいき、どっとばかりに空気が喉に流れ込んできた。
 薄目を開けた芙由子は、奇妙なものを見た。
 男の喉から、銀色に光る金属の刃が突き出ている。
 そこから血がにじみ出し、ぽとぽとと芙由子の胸にしたたっているのだ。
 な、なに、これ?
 芙由子は目をいっぱいに見開いた。
 眼前の出来事が、信じられなかった。
 と。
 ずぶり。
 ゆっくりと動いて、刃が消えた。
 何がどうなったのか、さっぱりわからなかった。
 あっと思った時には、白目を剥いた男が芙由子の上に、重しのように覆いかぶさってきた。
 次の瞬間、耳をつんざくような女の悲鳴が上がった。 
 それはほかならぬ、芙由子自身の声だった。
  
 
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