汚れちまった悲しみに、きょうも血潮が降り注ぐ

戸影絵麻

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#40 危惧

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「お気持ちはわかります。でも、相手が悪かったですね」
 帰りの車の中、ハンドルを握って真っすぐ前を見たまま、巧が言った。
「さっきスマホで調べてみたんですが、松村製薬というのは老舗の医薬品メーカーで、主に漢方の成分を取り入れたサプリメントを扱っていて、最近の健康ブームを追い風にかなり業績を伸ばしているみたいです。規模の小さな地方企業ではあるけれど、あの女社長、きっとお金は有り余るほど持ってるんじゃないですかね」
「私が言いたいのは、そういうことじゃないの」
 長い沈黙の後、芙由子はようやく口を開くことができた。
 めまいがする。
 嫌な予感で胸がふさがれそうなのだ。
「そりゃ、裕福な家庭にもらわれたほうが、比奈ちゃんも幸せに決まってる。でも、お金があればいいってものじゃない。現に、あのひとたちは、どこか変…。特に、息子のほう…」
「ハルト、とか呼ばれてましたね」
 巧がすぐに言葉を返してきた。
「芙由子さんも、気がついてましたか」
「あの男の眼…あれは、比奈ちゃんの父親と同じ…悪意が溢れてた」
「悪意?」
「ええ。閾値を超えた悪意は、外にあふれ出す…。そして、私にはそれが見えるから」
 アーミールックのあの小太りの男、顔はよく見えなかった。
 フードの奥に”悪意”が渦巻いていて、正視できなかったからである。
「悪意が、見える…?」
 おうむ返しに巧がつぶやいた。
 ルームミラー越しに、後部座席の芙由子をうかがっている。
「比喩の類いではありません。昔からそうなんです」
 ため息交じりに芙由子は言った。
「そのことはいずれ詳しくお話しします。それより、巧君もあの男に何か感じたわけですか?」
「なんとなく、ですけど」
 ルームミラーの中で、巧の整った顔がかすかに歪んだようだった。
「あいつの、比奈ちゃんを見る眼…。ちょっと変質者っぽかったから」
「変質者?」
 冷たいものが、芙由子の背筋を駆け抜けた。
「今は、小児愛好者っていうんでしょうか。要するに、ロリコンですね。男の中には、幼児にしか性的興味を覚えない者が、一定数存在する。僕の偏見かもしれないけど、あいつはそんなタイプに見えました。母親のほうは、まともな人みたいでしたけど」
「どうしよう…」
 芙由子は青ざめた顔で、ルームミラーの中の巧を見返した。
「あんな目に遭って、また異常者の家にもらわれていくなんて…。いくらなんでも、比奈ちゃんが可哀想。悪いことが起こらないうちに、なんとかしなきゃ。なんとか…」
「法的にはどうしようもないですね。まだ、何か事件が起こったわけじゃないし。これはあくまで、僕らの憶測にすぎないですから。それに、芙由子さんのその、”悪意を見る能力”ってのも、客観的に証明できるものじゃないでしょう?」
「でも、わかるんです。きっと比奈ちゃんにとってよくないことが起こる。それも、きわめて近い将来に」
「どうします? また家に乗り込みますか? この前みたいに」
 巧は半分からかうような口調だったが、それに答える芙由子は真剣そのものだった。
「必要とあれば。帰ったら、すぐに住所を調べてみます。あの女社長の家の」
「そうくると思った」
 巧が苦笑する。
「いいでしょう。手伝いますよ。どうせ乗りかかった船だし。芙由子さんひとりじゃ、危なっかしくて見ていられない」
「ごめんなさい…でも、ありがとう」
 しょんぼり肩を落としながらも、内心、芙由子は巧の申し出がうれしくてならなかった。
 聡明で行動力のある巧が一緒なら、きっと比奈を救い出せる。
 そう思えてならない。
「そうと決まったら、何か食べて帰りませんか。僕、もう腹が減って死にそうだ」
 明るい巧の声に、芙由子はつられてくすっと笑った。
「やっと笑顔になりましたね」
 目を細め、巧が芙由子を見つめてきた。
「そのほうがいいですよ。芙由子さんには、笑顔のほうが似合うから」
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