ドーナツの向こう側には大好きなあなたの笑顔

雨森 千佳

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第一話

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 この町にある、とある小さなパン屋。
 特に人気があるのは、店主の焼く大きな丸パン。奥さんがそれで作った具だくさんのサンドイッチ。それから、娘の揚げるドーナツだ。

「あら、カイ君。いらっしゃい」
「おはようございます」

 開店一番、扉についた小さな鐘を鳴らして入ってきた人物に気付いて、この店の娘であるリーアの表情は彫像のように固まった。
 今年十八歳になる青年は、人の好さそうな笑みを浮かべて頭を下げた。褐色の髪が揺れる。

「今日もいつものでいいの?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと待っててね。ほら、リーア」

 母親に肘で小突かれて、リーアはのろのろと動き出した。
 母親がサンドイッチの仕上げをしている間に、紙袋を広げる。今朝揚げたばかりのドーナツを入れ、次に仕上がったサンドイッチを入れる。
 いつも同じ注文なので、お互い金額は分かりきっている。リーアが手のひらを出すと、カイは用意していた銅貨をその上に置いた。ほんの少し指先が触れてしまい、どきりとする。

「……ありがとうございました」

 固い声で決まり文句を言うと、カイの青い瞳は何か言いたげに揺れたが、結局何も言わずに店を出ていった。
 扉の鐘がまた音を鳴らす。

「こんなに朝早くから仕事だなんて、先生ってのは大変ね」
「うちだって朝早いじゃない」
「パン屋はそういうもんなの。それより、もうちょっと愛想良くできないの? 幼馴染でもお客様には変わりないんだから」
「……努力します」
「やれやれ。昔はあんなに仲良しだったのに」

 ぶつぶつと零しながらも、母親は次の作業へと取りかかっていった。
 深く追求されなかったことにほっとしつつ、リーアも仕事に戻る。
 次に仕込むドーナツのための小麦粉を量りつつ、リーアは先程の青年のことを思い出していた。

 カイといつ出会ったのか、リーアははっきり覚えていなかった。それほど幼い頃から、兄妹のように育ったのだ。
 カイの両親は仕事で家を留守にすることが多かったため、リーアの両親がパン屋を営む傍らで子供達の面倒を見ていた。リーアの両親としても、幼い娘の相手をしてくれるカイの存在はありがたかったようだ。

 カイはごく普通の少年だったが、一つだけ特別なところがあった。
 魔法が使えるのだ。

『ねぇ、カイ。あれやって!』

 リーアがそうやってねだると、カイはいつも、少しだけもったいぶった後に必ず希望を叶えてくれた。

『よし。じゃあ、ちゃんと捕まってろよ』

 リーアがぎゅっと抱きつくと、カイもリーアを抱きしめ返した。それから、二人の体をふわりと風が包み込む。
 カイの風の魔法は、二人を色んなところへ運んでくれた。屋根の上や、高い木の枝、短い間なら、そのまま空高く浮いていることも。
 秋になれば木の実をとったし、親に叱られて泣いていれば、屋根の上で慰めてくれた。
 母親の言葉どおり、幼い頃、二人はとても仲が良かったのだ。

(あ、発酵はもう十分かな)

 カイが来るより前に仕込んでおいた方を見ると、ドーナツはふっくらと膨れていた。それを一つ一つ油の中に落としていく。
 先程カイが買っていったのは、どっしりとしたケーキドーナツだ。ケーキドーナツは重たい種が油の中で辛うじて浮いている様子だったが、こちらのイーストドーナツはとても軽い。浮き輪のようにぷかぷか浮いているのを、くるりとひっくり返していく。片面が綺麗なきつね色に色付いていた。
 ふわふわと油の上を漂っているドーナツを見つめながら、リーアは初めてドーナツを作った時のことを思い出していた。初めて作ったのも、確かケーキドーナツだったのだ。

 リーアがドーナツを作りたいと思ったのは、大した理由からではなかった。
 隣国で流行っているというそれが、自分の家のパン屋に並んだら素敵だと思ったからだ。

『じゃーん』

 まだ温かいドーナツを見せびらかすと、カイはその青い瞳を丸くした。

『何それ』
『知らないの? ドーナツよ!』

 草むらの中にぽつんとある大きな岩によじ登り、リーアはカイの隣に腰を下ろした。
 持ってきた籠から一つドーナツを取り出し、彼に差し出す。
 まだ幼い少年は、膝に広げた本をそのままにドーナツを受け取った。

『穴が開いてる』
『だって、ドーナツだもん』
『ドーナツって、必ず穴が開いてるもんなのか?』

 幼いリーアは首をかしげた。
 言われてみれば、穴の開いていないドーナツもある気がする。
 じゃあ、ドーナツはどうしてドーナツと言うのだろう。揚げパンや揚げケーキとは違うのだろうか。

『穴が開いてる分、なんか損した気分』

 カイはまるで虫眼鏡のように、ドーナツの穴を覗いた。

『そんなことないよ! ドーナツの穴は特別なんだよ。きっと何かいいものが見える……かも?』
『へー、じゃあ、覗いてみろよ』

 自分で言ったでまかせに少しわくわくしながら、リーアは籠から自分の分のドーナツを取り出すと、その穴の向こう側を見た。
 草むらの向こう、よく木登りする木が見える。
 しかし、その景色も一瞬で消えてしまった。

『わ!』

 大声を出して、カイが突然ドーナツの前に身を乗り出してきたからだ。
 リーアは驚いて、手にしていたドーナツを落としそうになった。

『ごめんごめん。そんなに驚くと思わなかった』

 笑いながら謝ってくるカイに、リーアの心臓が一つ跳ねた。驚いたからではない。二つ年上のこの少年を、初めて兄ではなく男の子として意識したからだ。
 だが、リーアはカイと一緒に笑ってその気持ちを誤魔化した。
 黙っていれば、こうしてずっとそばにいられると思ったのだ。
 けれど実際には、その幸せな時間は長く続かなかった。
 十歳になった彼は、立派な魔導士になるために養成所に入った。
 毎日一緒にいた日々が一転、寮生活のため、カイとは中々会えなくなってしまった。
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