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第二話

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「リーア、そろそろ配達を頼むよ」
「はーい」

 父親に返事をすると、リーアは仕上げを終えたドーナツを陳列し、エプロンを脱いだ。
 束ねていた髪を下ろす。ちらりと視界に入った自分の髪を見て、昔カイが「小麦畑の色だ」と言ったのを思い出した。
 棚に貼り付けてある、今日の配達先に目を通す。路地裏の喫茶店に――魔導士養成所の文字もある。

 行きたくないのに。
 そう思いつつも、リーアは何も言わず、こっそり溜息を漏らした。
 仕事だと割り切るしかない。
 リーアは台車に焼き立てのパンを積み込んだ。香ばしい小麦の匂いに気持ちが和らいでいく。

「いってきます」

 石畳のでこぼこ道を、台車を押していく。
 一年ほど前からだろうか。リーアは一人で配達を任されるようになった。大事な商品を運ぶのだ。一応、半人前くらいには認めてくれているのだろう。
 昔は、配達する父親によくくっついていった。
 まだ子供だったリーアにとって、配達は冒険でもあったのだ。レストランの厨房に入ったり、喫茶店で「お手伝い偉いわね」なんてクッキーを一枚貰ったり、遊んでいたようなものだったが。
 カイが魔導士養成所に入ってからは、養成所への配達は毎回ついていったものだ。運がいいとカイに会えるからだ。大抵目が合うくらいだったが、カイは決まって笑顔で手を振ってくれた。振り返しながら、顔が熱くなった。まるで厨房に入っている時のように。

『パン屋さんだ』
『いい匂い』

 寮生活を送る魔導士養成所の子供達にとっても、たまに出くわす外部の人間は珍しかったのだろう。
 時々、父親とリーアに声をかけてくる子がいた。

『すごい量のパン! こんなに運ぶの大変そう』

 父親に続いて小さめの台車を転がしていると、生徒の一人が驚きの声を上げた。
 褒められているのだと思ったリーアは胸を張った。

『力持ちですから、大丈夫です』

 自信満々の様子が可笑しかったのだろう。それを聞いていた他の生徒がぷっとふき出した。

『その台車、魔法道具だろ? 軽くなってるのに、知らないで使ってるのかよ』
『もう! そんな言い方ないでしょ。この子魔導士じゃないんだから』

 たしなめられても笑いを堪えきれず、ふき出した生徒はまだ肩を震わせていた。
 カイの笑顔を見た時よりも頭に血がのぼってくる。ただし、とても気分の悪い恥ずかしさでだった。
 単純な話だが、リーアは魔導士というものが大嫌いになった。魔法が使えるのは確かにすごいことだが、魔導士だってパンを食べるのに。
 この日から、リーアは魔導士養成所への配達にはついていかなくなった。

 たった一人に馬鹿にされたからと魔導士全員を嫌いになるなんて、ひどい偏見だと今ではリーアも分かっている。
 だが、現在も何となく苦手意識はあるのだった。

「おはようございまーす」

 喫茶店の裏口から声をかけると、女店主がすぐに出てきてくれた。

「今日もご苦労様。ちょっと味見してくれない?」
「喜んで!」

 女店主は悪戯をする子供のような顔で笑うと、少し厨房に引っ込んですぐに戻ってきた。リーアの口元へとフォークを近付ける。彼女はわくわくしながら、それを口に含んだ。
 とろけるような食感と爽やかな甘さが、口の中に広がる。

「食感が面白いですね。少し酸味もあるし、軽くてたくさん食べられそう。ムースケーキですか?」
「そう、ヨーグルトなの。ちょっと物足りないから果物を合わせようと思ってるんだけど」
「いいですね。上に飾ったり、ソースにしてかけたり」
「お祭りの目玉にするなら、華やかにしたいわね」

 もうそんな時期かと、リーアは頭の中で暦を確かめた。

「リーアちゃんのお店は、もうお祭りのこと決めてるの?」
「父と母はいつもどおりだと思います。私はまだ考えてて……ここ数年変わり映えしないから、何か新しいことしたいなって」

 次の注文を受け、喫茶店を後にする。
 まだ口の中に残っている余韻を楽しみながら、リーアは祭りのことをそろそろ考えなければ、と思った。
 皆の財布の紐が緩む日だから、祭りの日はパン屋にとっても稼ぎ時だ。いつもと違い、店の前にテーブルを出して食べ歩きしやすいものを並べる。リーアも毎年ドーナツを並べていた。
 祭りの日は、養成所の生徒達も外出が許される。リーアの揚げたドーナツを買っていく子も多かった。
 そして、カイも毎年買ってくれていた。

『久しぶり、リーア』

 彼が養成所に入って初めての祭りの日、その声にリーアはぱっと顔を輝かせた。
 前の日からそわそわしていたのだ。養成所への配達に行かなくなったものだから、彼女達にしては随分長く会っていなかった。

『ねぇ、ドーナツ! ドーナツ買って! 私が作ったのよ』
『やっぱり穴が開いてる』
『それはもちろん。きれいな形でしょ?』
『うん、上達してる』

 その言葉が素直に嬉しかった。魔法が使えないのに、体が浮いてしまいそうに思えた。

『カイ君、見ーつけた!』

 突然腕に抱きつかれて、ドーナツを頬張ろうとしていたカイの口は空振りした。

『な、なんだよ急に』
『探したんだよー』

 女の子に腕を絡められて、カイの耳は赤くなっているように見えた。反対に、リーアの全身はすっと冷えていく。

『広場で大道芸やってるんだって。皆行ったし、カイ君も行こうよ』
『分かったから引っ張るなよ。リーア、またな』

 腕を引かれて慌ただしく去っていく様子に、再会の喜びは霧散してしまっていた。
 会えない時間の分だけ、向こうはリーアの知らない人達と楽しく過ごしているのだ。リーアだってもちろんそうだったが、それがなぜだか無性に腹立たしくて寂しくて悲しかった。
 自分も魔法が使えたらいいのに。少しだけリーアはそう思った。

 養成所にいる間、祭りの度に買いに来てくれるカイに、リーアはだんだん余所余所しくなってしまった。
 会えない時間が増えるごとに、どう接していいのか分からなくなってしまったのだ。
 一桁の年齢だった彼女も、少しずつ大人へと近づいていった。そして大人になればなるほど、二人の会話もなくなっていった。
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